量子力学 — 目次 第XI部 相対論的量子力学 / 第62章

第62章Dirac 方程式 — 1 階の方程式とスピン 1/2

Schrödinger(シュレーディンガー)方程式は,電子の速さが光の速さ $c$ に比べて十分に遅いときにだけ正しい方程式である.時間については 1 階,空間については 2 階の微分を含むので,時間と空間を対等に扱う特殊相対性理論(AD 03「大学基礎物理学」第54章 54.7)とは相性が悪い.前章の Klein–Gordon 方程式は,エネルギーと運動量の関係 $E^2=p^2c^2+m^2c^4$ をそのまま演算子に置き換えて相対論と両立させたが,確率密度が負になりうること,そしてスピンを記述できないことという困難を残した.1928 年に Dirac(ディラック)は,困難の根が「時間について 2 階」という点にあると見抜き,時間についても空間についても 1 階の方程式を作ろうとした.その試みの結果は,きわめて実り多いものになった.係数が数ではなく $4\times4$ の行列になり,波動関数が 4 成分をもつ代わりに,確率密度 $\rho=\psi^\dagger\psi\ge0$ が保存し,しかも電子のスピン 1/2 が,仮定されるのではなく方程式の構造から自然に現れるのである.

この章では,Dirac 方程式を「なぜこの形でなければならないのか」から出発して組み立てる.まず,1 次式 $\hat{H}=c\,\bm{\alpha}\cdot\hat{\bm{p}}+\beta mc^2$ の二乗がエネルギーと運動量の関係を再現するための条件を求め,その条件を満たす係数が $4\times4$ の行列でなければならないことを証明する(62.1,62.2 節).次に,確率密度と確率の流れ,そして速度演算子が $\pm c$ という奇妙な固有値をもつことを調べる(62.3 節).さらに,Lorentz 変換に対して方程式の形が変わらない(共変である)ことを $\gamma$ 行列を使って示し,スピノルが「ベクトルとは違う」変換をすること,$2\pi$ 回転で符号が反転することを見る(62.4 節).自由粒子の解を具体的に書き下し(62.5 節),最後に,軌道角運動量 $\hat{\bm{L}}$ が保存せず,スピン $\hbar\bm{\Sigma}/2$ を加えた $\hat{\bm{J}}$ だけが保存することから,スピンが Dirac 方程式に「最初から含まれていた」ことを確かめる(62.6 節).水素原子の微細構造や $g=2$ は次章で,負エネルギー解の読み方は第64章で扱う.

材料との関わりも多い.加速電圧 $200\ \mathrm{kV}$ の透過電子顕微鏡の電子は光速の約 70 %($100$〜$300\ \mathrm{kV}$ で 55〜78 %)で走っており,Dirac の 4 成分の「小さい方」は無視できない大きさになる.インジウムアンチモン(InSb)のような狭ギャップ半導体のバンドは,Dirac 方程式と同じ形の分散 $E=\pm\sqrt{\Delta^2+\hbar^2v^2k^2}$ で近似でき,グラフェンの電子は質量ゼロの Dirac 方程式に従う.この章はそれらすべての出発点になる.

この章で学ぶこと
  • 時間について 2 階の Klein–Gordon 方程式がなぜ困難を抱えるのかを思い出し,時間も空間も 1 階の方程式 $i\hbar\,\partial_t\psi=(c\,\bm{\alpha}\cdot\hat{\bm{p}}+\beta mc^2)\psi$ を作る動機を説明できること
  • $(c\,\bm{\alpha}\cdot\hat{\bm{p}}+\beta mc^2)^2=p^2c^2+m^2c^4$ から反交換関係 $\{\alpha_i,\alpha_j\}=2\delta_{ij}$,$\{\alpha_i,\beta\}=0$,$\alpha_i^2=\beta^2=1$ を導き,トレースがゼロ・固有値が $\pm1$・次元が偶数・$2\times2$ では不可能・最小は $4\times4$,と証明できること
  • Dirac–Pauli 表示の $\alpha_i$,$\beta$ と 4 成分スピノル $\psi=(\psi_A,\psi_B)^{\mathsf T}$ のブロック形の方程式を書き,分散関係 $E=\pm\sqrt{p^2c^2+m^2c^4}$ を導けること
  • 連続の式 $\partial_t\rho+\nabla\cdot\bm{j}=0$($\rho=\psi^\dagger\psi$,$\bm{j}=c\,\psi^\dagger\bm{\alpha}\psi$)を導き,速度演算子 $c\,\bm{\alpha}$ の固有値が $\pm c$ であること,期待値が群速度 $pc^2/E$ に等しいことを示せること
  • $\gamma^\mu$ 行列と共変形 $(i\hbar\gamma^\mu\partial_\mu-mc)\psi=0$,Lorentz 変換(ブースト・回転)に対するスピノルの変換 $\mathcal{S}$,$2\pi$ 回転で $-1$ となることを説明できること
  • 静止系の 4 つの解と,運動量 $\bm{p}$ の平面波解 $u(\bm{p},s)$,$w(\bm{p},s)$ を求め,大成分・小成分の比,規格化,ヘリシティ,質量ゼロの極限,InSb の Dirac 型分散を扱えること
  • $[\hat{H},\hat{\bm{L}}]\ne0$ を示し,$\hat{\bm{J}}=\hat{\bm{L}}+\hbar\bm{\Sigma}/2$ が保存すること,$\bm{\Sigma}^2=3$ からスピン $s=\tfrac12$ が自然に出ることを説明できること
前提:Klein–Gordon 方程式とその困難(第61章,特に61.4),確率の連続の式(第9章 9.3),スピンと Pauli 行列(第23章 23.7),スピン $\tfrac12$ の回転と $4\pi$ 周期(第24章 24.9),角運動量の交換関係(第21章 21.3).数学は,行列の基本操作(大学数学 第8章 8.1),固有値と固有ベクトル・対角化(大学数学 第12章 12.1,12.3).物理は,Lorentz 変換(大学基礎物理学 第54章 54.7),ラピディティ(第56章 56.7),計量と内積(第57章 57.2),4 元勾配(第58章 58.2).
もとにしたノート:本章はノートにない内容を補った章である.関連するノート:望月泰英『物理学ノート 量子力学3』 p. 73(第XI部の章扉の見出し「相対論的量子力学」)と pp. 1–10(スピンと Pauli 行列).

62.1 Dirac の着想 — 時間も空間も 1 階にする

62.1.1 Klein–Gordon 方程式の困難 — 原因は「時間について 2 階」

前章(第61章)では,相対論のエネルギーと運動量の関係 $E^2=p^2c^2+m^2c^4$ の $E$ と $\bm{p}$ を演算子 $E\to i\hbar\,\partial_t$,$\bm{p}\to\hat{\bm{p}}=-i\hbar\nabla$ に置き換えて,Klein–Gordon 方程式

\begin{equation} \left(i\hbar\frac{\partial}{\partial t}\right)^{2}\psi=\left(\hat{\bm{p}}^{2}c^{2}+m^{2}c^{4}\right)\psi \qquad\text{すなわち}\qquad \left(\frac{1}{c^{2}}\frac{\partial^{2}}{\partial t^{2}}-\nabla^{2}+\frac{m^{2}c^{2}}{\hbar^{2}}\right)\psi=0 \label{eq:62-kg} \end{equation}

を得た.ここで $m$ は粒子の質量である(この章では質量を $m$ と書く.電子なら $m=m_{\mathrm e}=9.109\times10^{-31}\ \mathrm{kg}$).この方程式は $E^2=p^2c^2+m^2c^4$ を正しく再現し,Lorentz 変換に対して形を変えない.しかし次の困難があった.

1 つめの困難の原因ははっきりしている.方程式 \eqref{eq:62-kg} は時間について 2 階なので,時刻 $t=0$ に $\psi$ と $\partial_t\psi$ を独立に指定できる.その 2 つから作る $\rho$ の符号を,初期条件で自由に選べてしまうのである.これに対して Schrödinger 方程式は時間について 1 階である.

62.1.2 時間について 1 階なら確率は保存する

Schrödinger 型の方程式

\begin{equation} i\hbar\frac{\partial\psi}{\partial t}=\hat{H}\psi \qquad(\hat{H}^\dagger=\hat{H}) \label{eq:62-schr} \end{equation}

では,$\hat{H}$ がエルミートでさえあれば,確率の総量 $\braket{\psi}{\psi}=\int\psi^\dagger\psi\,\dd^3x$ は時間によらない.実際,$\dd\psi/\dd t=\hat{H}\psi/(i\hbar)$ とその複素共役から

$$ \frac{\dd}{\dd t}\braket{\psi}{\psi}=\frac{1}{i\hbar}\left(\mel{\psi}{\hat{H}}{\psi}-\mel{\psi}{\hat{H}^\dagger}{\psi}\right)=0 $$

となる($\psi^\dagger$ の時間微分は $\dd\psi/\dd t$ の共役をとるので符号が変わり,$\hat{H}^\dagger$ が現れる.エルミート性 $\hat{H}^\dagger=\hat{H}$ で 2 項が打ち消し合う).局所的には連続の式 $\partial_t\rho+\nabla\cdot\bm{j}=0$ が成り立ち(第9章 9.3),密度 $\rho=\psi^\dagger\psi=\abs{\psi}^2$ は $\psi$ だけで決まるので,いつでも $0$ 以上である.Dirac の着想は,「この良い性質を保ったまま,相対論的な方程式を作れないか」という問いから始まる.

問題は空間の微分である.Schrödinger 方程式の $\hat{H}=\hat{\bm{p}}^2/2m+V$ は,時間の微分が 1 階なのに空間の微分は 2 階で,時間と空間が対等になっていない.Lorentz 変換は時間座標 $ct$ と空間座標 $x$ を混ぜる(AD 03 第54章 54.5).微分演算子 $\partial_0=\dfrac{1}{c}\partial_t$ と $\partial_1=\partial_x$ も同じように混ざる(4 元勾配 $\partial_\mu=(\partial_0,\nabla)$.第58章 58.2).ラピディティ $\eta$ のブースト $x'^0=\cosh\eta\,x^0-\sinh\eta\,x^1$,$x'^1=-\sinh\eta\,x^0+\cosh\eta\,x^1$ に対し,連鎖律から

$$\partial_0=\cosh\eta\,\partial'_0-\sinh\eta\,\partial'_1,\qquad\partial_1=-\sinh\eta\,\partial'_0+\cosh\eta\,\partial'_1$$

である.これを 1 次元の Schrödinger 方程式 $i\hbar c\,\partial_0\psi=-\dfrac{\hbar^2}{2m}\partial_1^2\psi$ に代入すると,左辺は $\partial'_0$ と $\partial'_1$ の 1 階の組み合わせになるが,右辺は

$$\partial_1^2=\sinh^2\eta\,(\partial'_0)^2-2\sinh\eta\cosh\eta\,\partial'_0\partial'_1+\cosh^2\eta\,(\partial'_1)^2$$

となり,もとの方程式にはなかった $(\partial'_0)^2$(時間の 2 階微分)や $\partial'_0\partial'_1$ の項が現れる.Schrödinger 方程式は,Lorentz 変換のもとでは形を保たない(Galilei 変換のもとでは保たれる).これに対して,$\partial_0$ も $\partial_1$ も 1 階だけの方程式なら,変換後も 1 階の微分の 1 次結合が現れるだけで,同じ形にとどまりうる.したがって,時間の微分が 1 階しか現れない方程式が Lorentz 変換のもとで形を保つためには,空間の微分も 1 階でなければならない.Klein–Gordon 方程式がこの条件を満たしたのは,時間と空間の両方を 2 階にしたからである.

イメージ:平方根をとる

エネルギーと運動量の関係 $E^2=p^2c^2+m^2c^4$ から出発して,Klein–Gordon 方程式は「2 乗のまま」演算子にした.Dirac は逆に「平方根をとって」

$$E=\sqrt{p^2c^2+m^2c^4}\ \longrightarrow\ \hat{H}=c\,\alpha_x\hat{p}_x+c\,\alpha_y\hat{p}_y+c\,\alpha_z\hat{p}_z+\beta mc^2$$

のように,$\hat{\bm{p}}$ について 1 次の式にしようとした.平方根そのものは $\hat{\bm{p}}$ の非線形な関数(級数に展開すると無限階の微分になる)で,局所的な微分方程式にならない.しかし,$p^2c^2+m^2c^4$ を「ある 1 次式の二乗」として因数分解できれば,その 1 次式を $\hat{H}$ として採用できる.$p_x^2+p_y^2+p_z^2$ のような平方和は実数の範囲では 1 次式の二乗にならないが,後で見るように,係数を行列にすれば可能になる.

62.1.3 Dirac の仮定

そこで次の形を仮定する.$\hat{H}$ は $\hat{\bm{p}}$ について 1 次で,質量の項 $mc^2$ を含む:

\begin{equation} i\hbar\frac{\partial\psi}{\partial t}=\hat{H}\psi,\qquad \hat{H}=c\left(\alpha_x\hat{p}_x+\alpha_y\hat{p}_y+\alpha_z\hat{p}_z\right)+\beta mc^2=c\,\bm{\alpha}\cdot\hat{\bm{p}}+\beta mc^2 \label{eq:62-dirac} \end{equation}

これがDirac 方程式のハミルトニアン形である(Dirac 1928).$\alpha_x,\alpha_y,\alpha_z,\beta$ は,$\bm{x}$,$t$,$\bm{p}$ によらない定数である.定数でなければならない理由は,(i) 自由粒子の方程式が空間・時間の並進で不変なので,係数が $\bm{x}$,$t$ に依存しないこと,(ii) 方程式が $\psi$ について線形(重ね合わせの原理)で,$\hat{H}$ を $\hat{\bm{p}}$ について 1 次と仮定したので,係数が $\bm{p}$ にも依存しないことによる.また,$\hat{H}$ の各項は「$c\times$運動量」「$mc^2$」と,どちらもエネルギーの次元をもつので,$\alpha_i$,$\beta$ は無次元になる.$\hat{H}$ がエルミートであることから $\alpha_i^\dagger=\alpha_i$,$\beta^\dagger=\beta$ であることがわかる(62.2 節).これらが普通の数ではなく行列になる理由と,その大きさは次の節で明らかにする.

図62.1 Klein–Gordon 方程式と Dirac 方程式:2 乗のまま使うか,平方根をとるか 相対論のエネルギーと運動量の関係 E2 = p2c2 + m2c4 そのまま 演算子にする 平方根をとる (1 次式にする) Klein–Gordon 方程式 (iħ∂t)2ψ = (pˆ 2c2 + m2c4)ψ 時間について 2 階 確率密度 ρ が負になりうる (第61章) Dirac 方程式 iħ∂tψ = (cα·pˆ   + βmc2)ψ 時間も空間も 1 階 ρ = ψ† ψ ≥ 0(保存する) (この章) αx,αy,αz,β は数では足りない → 4×4 の行列.ψ は 4 成分 Ĥ² が p²c²+m²c⁴ に等しい ことを要求する (62.1,62.2 節)
図62.1 Klein–Gordon 方程式(左)と Dirac 方程式(右).どちらも $E^2=p^2c^2+m^2c^4$ から出発するが,前者は 2 乗の形のまま演算子にし(時間について 2 階),後者は平方根をとって 1 次式にする(時間も空間も 1 階).後者の係数 $\alpha_x,\alpha_y,\alpha_z,\beta$ は数では実現できず,$4\times4$ の行列になる(62.2 節).

注意:同じ文字 $\alpha$,$\beta$ が別の意味で使われる

この章の $\alpha_i$($i=x,y,z$)と $\beta$ は,Dirac が導入した行列(定数行列)である.次の量とは無関係なので,混同しないこと.

行列 $\alpha_x,\alpha_y,\alpha_z$ を成分とするベクトルは,太字 $\bm{\alpha}=(\alpha_x,\alpha_y,\alpha_z)$ と書く.$\bm{\alpha}\cdot\hat{\bm{p}}=\alpha_x\hat{p}_x+\alpha_y\hat{p}_y+\alpha_z\hat{p}_z$ は,行列 $\alpha_i$ に演算子 $\hat{p}_i$ を掛けて足したものである.

表62.1 第XI部で使う記号(この章)
記号意味備考
$m$粒子の質量電子なら $m=m_{\mathrm e}$
$\alpha_i,\ \beta$Dirac の係数行列($4\times4$)スピン関数・微細構造定数とは別
$\sigma_i$Pauli 行列($2\times2$)第23章 23.7
$\bm{\Sigma}$スピン行列($4\times4$).$\hat{\bm{S}}=\tfrac{\hbar}{2}\bm{\Sigma}$62.6 節
$\psi=(\psi_A,\psi_B)^{\mathsf T}$4 成分スピノル.上 2 成分 $\psi_A$(大成分),下 2 成分 $\psi_B$(小成分)62.2,62.5 節
$\chi_s$2 成分スピノル($s=\uparrow,\downarrow$)添字 $s=\uparrow,\downarrow$ はスピンの向きで,スピン量子数 $s=\tfrac12$ とは別.多電子系のスピン軌道 $\chi_i$ とも別
$\gamma^\mu$$\gamma$ 行列.$\gamma^0=\beta$,$\gamma^i=\beta\alpha_i$62.4 節
$\mathcal{S}$Lorentz 変換でスピノルに掛ける行列スピン $\hat{S}$ とは別
$E_p$$E_p=\sqrt{p^2c^2+m^2c^4}$($p=\abs{\bm{p}}$)62.5 節

計量は $(+,-,-,-)$,座標は $x^\mu=(ct,\bm{x})$ とし,AD 03 第VIII部と同じにする.微分は $\partial_\mu=\partial/\partial x^\mu=(\tfrac{1}{c}\partial_t,\nabla)$ である.この章では $\hbar$ と $c$ を省略せずに書く.

62.1.4 条件:$\hat{H}^2=p^2c^2+m^2c^4$

式 \eqref{eq:62-dirac} が相対論的な自由粒子を正しく記述するために,何を要求すべきだろうか.自由粒子の解は平面波 $\psi=u\,e^{i(\bm{p}\cdot\bm{x}-Et)/\hbar}$ であり,エネルギーと運動量は $E^2=p^2c^2+m^2c^4$ で結ばれていなければならない.$\hat{H}$ は時間を含まないので,式 \eqref{eq:62-schr} を 2 回使うと

$$ \left(i\hbar\frac{\partial}{\partial t}\right)^{2}\psi=i\hbar\frac{\partial}{\partial t}\bigl(\hat{H}\psi\bigr)=\hat{H}\left(i\hbar\frac{\partial\psi}{\partial t}\right)=\hat{H}^{2}\psi $$

となる.これが Klein–Gordon 方程式 \eqref{eq:62-kg} と同じ $\left(\hat{\bm{p}}^2c^2+m^2c^4\right)\psi$ に等しいためには,

\begin{equation} \hat{H}^{2}=\hat{\bm{p}}^{2}c^{2}+m^{2}c^{4}\qquad(\text{単位行列を掛けたものと理解する}) \label{eq:62-square} \end{equation}

が成り立てばよい.左辺を展開しよう.$\hat{p}_x,\hat{p}_y,\hat{p}_z$ は互いに可換で,定数行列 $\alpha_i$,$\beta$ とも可換である($\hat{p}_i$ は微分演算子で,行列の成分は数だから).一方,行列どうしは一般に可換ではないので,掛ける順序を保って展開する:

\begin{equation} \hat{H}^{2}=c^{2}\sum_{i,j}\alpha_i\alpha_j\,\hat{p}_i\hat{p}_j+mc^{3}\sum_i\left(\alpha_i\beta+\beta\alpha_i\right)\hat{p}_i+\beta^{2}m^{2}c^{4}. \label{eq:62-expand} \end{equation}

第 1 項では,$\hat{p}_i\hat{p}_j=\hat{p}_j\hat{p}_i$ なので,$(i,j)$ と $(j,i)$ の項をまとめて $i=j$ の項と $i\lt j$ の項に分けられる:$\sum_{i,j}\alpha_i\alpha_j\hat{p}_i\hat{p}_j=\sum_i\alpha_i^2\hat{p}_i^2+\sum_{i\lt j}(\alpha_i\alpha_j+\alpha_j\alpha_i)\hat{p}_i\hat{p}_j$.これを $\hat{\bm{p}}^2c^2+m^2c^4=c^2\sum_i\hat{p}_i^2+m^2c^4$ と比べると,運動量 $\hat{p}_i$ の値は任意なので,各項の係数が一致しなければならない.

これが $\alpha_i$,$\beta$ に課される条件である.ふつうの数では,$\alpha_x\alpha_y+\alpha_y\alpha_x=2\alpha_x\alpha_y=0$ となって $\alpha_x=0$ か $\alpha_y=0$ になり,$\alpha_i^2=1$ と矛盾する.条件を満たすには,掛ける順序で結果が変わる(非可換な)対象,つまり行列が必要になる.次の例題で,展開を具体的に確かめよう.

例題62.1 $\hat{H}^2$ の展開と $4\times4$ 行列による確認

(1) $\hat{H}=c(\alpha_x\hat{p}_x+\alpha_y\hat{p}_y+\alpha_z\hat{p}_z)+\beta mc^2$ の二乗を,$\hat{p}_x\hat{p}_y$ の係数と $\hat{p}_x$ の係数に注目して展開し,式 \eqref{eq:62-square} が任意の運動量で成り立つための $\alpha_i$,$\beta$ の条件を書け.(2) 次の節で作る $4\times4$ 行列 $\alpha_i=\begin{pmatrix}0&\sigma_i\\\sigma_i&0\end{pmatrix}$,$\beta=\begin{pmatrix}1&0\\0&-1\end{pmatrix}$ を使い,運動量 $\bm{p}=(0.3,\,-0.4,\,1.2)\,mc$ のとき,$\hat{H}$ を平面波の運動量の値で置き換えた行列 $H(\bm{p})=c\,\bm{\alpha}\cdot\bm{p}+\beta mc^2$ の二乗が $\bigl(\abs{\bm{p}}^2c^2+m^2c^4\bigr)$ の単位行列倍になることを確かめよ.

解答 (1) 積を展開する.$\hat{H}=A+B$,$A=c\sum_i\alpha_i\hat{p}_i$,$B=\beta mc^2$ とおくと $\hat{H}^2=A^2+AB+BA+B^2$ である.

$A^2$ は,$\hat{p}_x\hat{p}_y$ に関わる部分が $c^2(\alpha_x\alpha_y\hat{p}_x\hat{p}_y+\alpha_y\alpha_x\hat{p}_y\hat{p}_x)=c^2(\alpha_x\alpha_y+\alpha_y\alpha_x)\hat{p}_x\hat{p}_y$ になる($\hat{p}_y\hat{p}_x=\hat{p}_x\hat{p}_y$).したがって,$\hat{p}_x\hat{p}_y$ の係数は $c^2(\alpha_x\alpha_y+\alpha_y\alpha_x)$ であり,$\hat{\bm{p}}^2c^2$ には $\hat{p}_x\hat{p}_y$ の項がないので,これが $0$ でなければならない.

$AB+BA=mc^3\sum_i(\alpha_i\beta+\beta\alpha_i)\hat{p}_i$.$\hat{p}_x$ の係数は $mc^3(\alpha_x\beta+\beta\alpha_x)$ で,これも右辺にない項なので $0$ でなければならない.

$\hat{p}_x^2$ の係数は $c^2\alpha_x^2$ で,右辺の $c^2$ に等しくなければならないから $\alpha_x^2=1$,定数項は $\beta^2m^2c^4=m^2c^4$ から $\beta^2=1$.まとめると,条件は

$$\alpha_i^2=\beta^2=1,\qquad \alpha_i\alpha_j+\alpha_j\alpha_i=0\ (i\ne j),\qquad \alpha_i\beta+\beta\alpha_i=0.$$

(2) エネルギーは $mc^2$ を単位に,運動量は $mc$ を単位に測る(したがって $cp$ の単位も $mc^2$).$\tilde{\bm{p}}=\bm{p}/(mc)=(0.3,\,-0.4,\,1.2)$ とおくと,$\tilde{H}=H(\bm{p})/mc^2=\begin{pmatrix}1&\bm{\sigma}\cdot\tilde{\bm{p}}\\\bm{\sigma}\cdot\tilde{\bm{p}}&-1\end{pmatrix}$ である.ここで $\bm{\sigma}\cdot\tilde{\bm{p}}=\sigma_x\tilde{p}_x+\sigma_y\tilde{p}_y+\sigma_z\tilde{p}_z=\begin{pmatrix}\tilde{p}_z&\tilde{p}_x-i\tilde{p}_y\\\tilde{p}_x+i\tilde{p}_y&-\tilde{p}_z\end{pmatrix}=\begin{pmatrix}1.2&0.3+0.4i\\0.3-0.4i&-1.2\end{pmatrix}$.ブロックごとに二乗すると

$$\tilde{H}^2=\begin{pmatrix}1+(\bm{\sigma}\cdot\tilde{\bm{p}})^2&\bm{\sigma}\cdot\tilde{\bm{p}}-\bm{\sigma}\cdot\tilde{\bm{p}}\\\bm{\sigma}\cdot\tilde{\bm{p}}-\bm{\sigma}\cdot\tilde{\bm{p}}&(\bm{\sigma}\cdot\tilde{\bm{p}})^2+1\end{pmatrix}=\bigl(1+(\bm{\sigma}\cdot\tilde{\bm{p}})^2\bigr)\begin{pmatrix}1&0\\0&1\end{pmatrix}.$$

非対角ブロックは $1\cdot\bm{\sigma}\cdot\tilde{\bm{p}}+\bm{\sigma}\cdot\tilde{\bm{p}}\cdot(-1)=0$ で消える.$(\bm{\sigma}\cdot\tilde{\bm{p}})^2$ を成分で計算すると,(1,1) 成分は $1.2^2+(0.3+0.4i)(0.3-0.4i)=1.44+0.09+0.16=1.69$,(1,2) 成分は $1.2(0.3+0.4i)+(0.3+0.4i)(-1.2)=0$,(2,2) 成分は $(0.3-0.4i)(0.3+0.4i)+1.44=1.69$ なので $(\bm{\sigma}\cdot\tilde{\bm{p}})^2=1.69\cdot\mathbb{1}$($=\abs{\tilde{\bm{p}}}^2$:$0.09+0.16+1.44=1.69$).よって $\tilde{H}^2=(1+1.69)\,\mathbb{1}_4=2.69\,\mathbb{1}_4$,すなわち $H^2=\bigl(\abs{\bm{p}}^2c^2+m^2c^4\bigr)\mathbb{1}_4=2.69\,m^2c^4\,\mathbb{1}_4$ で,$(\abs{\bm{p}}^2c^2+m^2c^4)=(1.69+1)\,m^2c^4$ の単位行列倍になる.エネルギー固有値は $E=\pm\sqrt{2.69}\,mc^2=\pm1.640\,mc^2$ である.

歴史:Dirac とスピン

P. A. M. Dirac(ディラック)は 1928 年の論文 “The quantum theory of the electron”(Proc. R. Soc. A 117, 610)で,上の方程式を提案した.当時,電子のスピンは Uhlenbeck(ウーレンベック)と Goudsmit(ハウトスミット)(1925 年)の仮説として知られ,Pauli(パウリ)が 1927 年に 2 成分の波動関数と Pauli 行列でスピンを非相対論的な量子力学に「手で付け加える」方法を与えていた.Dirac の方程式は,スピンを仮定せずに,時間について 1 階で相対論と両立するという要求だけから,スピン 1/2 と磁気モーメント($g=2$,第63章)を導き,水素原子の微細構造の正しい公式(第63章)を与えた.負エネルギーの解は,のちの陽電子の予言(第64章)につながる.

62.2 $\alpha_i$ と $\beta$ の代数 — なぜ $4\times4$ の行列でなければならないか

62.2.1 反交換関係

前節の結論を,反交換子 $\acomm{A}{B}=AB+BA$ を使って整理する.

定理62.1 $\alpha_i$,$\beta$ の代数

式 \eqref{eq:62-dirac} の $\hat{H}$ が,任意の運動量に対して $\hat{H}^2=\hat{\bm{p}}^2c^2+m^2c^4$ を満たし,かつエルミートであるための必要十分条件は,定数行列 $\alpha_x,\alpha_y,\alpha_z,\beta$ が次を満たすことである($i,j=x,y,z$):

\begin{equation} \acomm{\alpha_i}{\alpha_j}=2\delta_{ij},\qquad \acomm{\alpha_i}{\beta}=0,\qquad \beta^2=1,\qquad \alpha_i^\dagger=\alpha_i,\quad\beta^\dagger=\beta. \label{eq:62-algebra} \end{equation}

ここで右辺の $2\delta_{ij}$ や $1$ は,単位行列に掛けたものと読む.

証明

62.1.4 節で,$\hat{H}^2$ を展開した結果から条件 $\alpha_i^2=1$,$\alpha_i\alpha_j+\alpha_j\alpha_i=0$($i\ne j$),$\alpha_i\beta+\beta\alpha_i=0$,$\beta^2=1$ を得た.最初の 2 つは $\acomm{\alpha_i}{\alpha_j}=2\delta_{ij}$ にまとめられる($i=j$ のとき左辺は $2\alpha_i^2$).逆に,これらの条件から式 \eqref{eq:62-expand} の右辺は $c^2\sum_i\hat{p}_i^2+m^2c^4$ になる.

エルミート性:$\hat{p}_i$ はエルミート演算子で,行列 $\alpha_i$ とは可換なので,$\hat{H}^\dagger=c\sum_i\alpha_i^\dagger\hat{p}_i+\beta^\dagger mc^2$ である.これが任意の $\hat{p}_i$ について $\hat{H}$ と一致するためには,各係数が一致して $\alpha_i^\dagger=\alpha_i$,$\beta^\dagger=\beta$ でなければならない.

(証明終わり)

この 4 つの行列は,4 個が互いに反交換し,それぞれ二乗が単位行列になる,という性質で特徴づけられる.数学では Clifford(クリフォード)代数とよばれる構造の一例である.62.4 節の $\gamma$ 行列は,この同じ代数を時空の 4 つの方向に対して書き直したものになる.

62.2.2 数では足りない — 行列の次元

すでに見たとおり,$1\times1$ の行列(ふつうの数)では条件を満たせない.では,どの大きさの行列なら満たせるのだろうか.次の定理が答える.

定理62.2 行列の次元

$N\times N$ 行列 $\alpha_x,\alpha_y,\alpha_z,\beta$ が式 \eqref{eq:62-algebra} を満たすとする.このとき,

  1. 4 つの行列の固有値は $+1$ か $-1$ だけである.
  2. 4 つの行列はすべて,トレースが $0$ である:$\tr\alpha_i=\tr\beta=0$.
  3. 次元 $N$ は偶数である.
  4. $N=2$ では,互いに反交換する 4 つの(二乗が $1$ の,エルミートな)行列は存在しない.したがって,条件を満たす最小の次元は $N=4$ である.

証明

(1) 固有値.$A$ を 4 つの行列のどれかとし,$A\bm{v}=\lambda\bm{v}$($\bm{v}\ne0$)とする.$A^2=1$ なので $\bm{v}=A^2\bm{v}=\lambda^2\bm{v}$,よって $\lambda^2=1$,$\lambda=\pm1$.

(2) トレース.$\alpha_i\beta=-\beta\alpha_i$ の両辺に右から $\beta$ を掛け,$\beta^2=1$ を使うと $\alpha_i=-\beta\alpha_i\beta$ となる.トレースをとり,トレースの巡回性 $\tr(XYZ)=\tr(ZXY)$ を使うと

$$\tr\alpha_i=-\tr(\beta\alpha_i\beta)=-\tr(\alpha_i\beta\beta)=-\tr\alpha_i\qquad\therefore\ \tr\alpha_i=0.$$

$\beta$ についても同様に,$\alpha_i\beta\alpha_i=-\beta\alpha_i\alpha_i=-\beta$ から $\beta=-\alpha_i\beta\alpha_i$ を得て $\tr\beta=-\tr(\alpha_i\beta\alpha_i)=-\tr(\beta\alpha_i^2)=-\tr\beta$,よって $\tr\beta=0$.

(3) 偶数次元.エルミート行列は対角化でき,トレースは固有値の和である(大学数学 第12章 12.3).(1) より固有値は $\pm1$ だから,$+1$ の個数を $n_+$,$-1$ の個数を $n_-$ とすると $\tr A=n_+-n_-$ である.(2) より $n_+=n_-$ なので,$N=n_++n_-=2n_+$ は偶数である.

(4) $N=2$ の不可能性.トレースが $0$ の $2\times2$ エルミート行列は,実数 $a_x,a_y,a_z$ を使って $\bm{a}\cdot\bm{\sigma}=a_x\sigma_x+a_y\sigma_y+a_z\sigma_z$ の形に書ける(一般の $2\times2$ エルミート行列は $a_0\mathbb{1}+\bm{a}\cdot\bm{\sigma}$ であり,トレースは $2a_0$).Pauli 行列の性質 $\sigma_i\sigma_j+\sigma_j\sigma_i=2\delta_{ij}$ から

$$\acomm{\bm{a}\cdot\bm{\sigma}}{\bm{b}\cdot\bm{\sigma}}=\sum_{i,j}a_ib_j\,\acomm{\sigma_i}{\sigma_j}=2\,(\bm{a}\cdot\bm{b})\,\mathbb{1}.$$

つまり,2 つの行列 $\bm{a}\cdot\bm{\sigma}$,$\bm{b}\cdot\bm{\sigma}$ が反交換するための条件は,実ベクトル $\bm{a}$,$\bm{b}$ が直交することであり,二乗が $1$ であるための条件は $\abs{\bm{a}}=1$ である.したがって,互いに反交換し二乗が $1$ の $2\times2$ 行列を 4 つ作ることは,3 次元空間に互いに直交する単位ベクトルを 4 本とることと同じであり,不可能である(3 次元では最大 3 本).実際,3 つまでは Pauli 行列 $\sigma_x,\sigma_y,\sigma_z$ がそうなっている.

以上から,$N$ は偶数で $N=2$ ではない.最小の候補は $N=4$ で,実際に作れることは次に示す.

(証明終わり)

考察:質量がゼロなら $2\times2$ で足りる — $4\times4$ は質量の代償

反交換する行列が 4 つ必要なのは,質量の項 $\beta mc^2$ があるためである.$m=0$ なら $\beta$ は要らず,$\hat{H}=c\,\bm{\alpha}\cdot\hat{\bm{p}}$ に必要なのは互いに反交換する 3 つの行列だけで,$\alpha_i=\pm\sigma_i$($2\times2$)で足りる(Weyl 方程式,62.5.4 節).質量の項を加えるには 4 つ目の反交換する行列 $\beta$ が要り,それには $4\times4$ が必要になる.つまり,4 成分は質量の代償である.質量ゼロの Dirac 方程式が 2 成分ずつの 2 つの方程式に分かれることは,これと矛盾しない.

数学の道具:Pauli 行列の代数

Pauli 行列は $\sigma_i\sigma_j=\delta_{ij}+i\sum_k\varepsilon_{ijk}\sigma_k$ を満たす(第23章 23.7).ここから,反交換子 $\acomm{\sigma_i}{\sigma_j}=2\delta_{ij}$,交換子 $\comm{\sigma_i}{\sigma_j}=2i\sum_k\varepsilon_{ijk}\sigma_k$,および任意の 3 次元ベクトル $\bm{a}$,$\bm{b}$ について

$$(\bm{\sigma}\cdot\bm{a})(\bm{\sigma}\cdot\bm{b})=\bm{a}\cdot\bm{b}+i\,\bm{\sigma}\cdot(\bm{a}\times\bm{b}),\qquad(\bm{\sigma}\cdot\bm{p})^2=\abs{\bm{p}}^2\,\mathbb{1}$$

が従う.最後の式はこの章で何度も使う.行列の積の計算は大学数学 第8章 8.1,固有値問題は第12章 12.1を見よ.

例題62.2 $2\times2$ での不可能性を直接確かめる

$\sigma_x,\sigma_y,\sigma_z$ のすべてと反交換する $2\times2$ 行列 $M=\begin{pmatrix}a&b\\c&d\end{pmatrix}$ は零行列しかないことを,成分を使って直接示せ.また,$N=3$ が不可能であることを示せ.

解答 $\sigma_z=\begin{pmatrix}1&0\\0&-1\end{pmatrix}$ について:$\sigma_zM=\begin{pmatrix}a&b\\-c&-d\end{pmatrix}$,$M\sigma_z=\begin{pmatrix}a&-b\\c&-d\end{pmatrix}$,和は $\begin{pmatrix}2a&0\\0&-2d\end{pmatrix}$ なので,反交換するなら $a=d=0$.このとき $M=\begin{pmatrix}0&b\\c&0\end{pmatrix}$.

$\sigma_x=\begin{pmatrix}0&1\\1&0\end{pmatrix}$ について:$\sigma_xM=\begin{pmatrix}c&0\\0&b\end{pmatrix}$,$M\sigma_x=\begin{pmatrix}b&0\\0&c\end{pmatrix}$,和は $(b+c)\mathbb{1}$ なので $c=-b$.

$\sigma_y=\begin{pmatrix}0&-i\\i&0\end{pmatrix}$ について:$\sigma_yM=\begin{pmatrix}-ic&0\\0&ib\end{pmatrix}$,$M\sigma_y=\begin{pmatrix}ib&0\\0&-ic\end{pmatrix}$,和は $i(b-c)\mathbb{1}$ なので $c=b$.

$c=-b$ と $c=b$ から $b=c=0$.よって $M=0$ であり,Pauli 行列の 3 つを使う限り 4 つ目は加えられない.一般の 3 つの組は $\bm{a}_k\cdot\bm{\sigma}$($\bm{a}_k$ は直交する単位ベクトル)の形で,定理62.2 (4) のとおり,その 3 つのすべてと反交換する 4 つ目は存在しない.

$N=3$:定理62.2 (2),(3) より,トレースが $0$ の行列の固有値は $+1$ と $-1$ が同数でなければならない.$N=3$ では固有値 $\pm1$ を合わせて 3 個なので,$n_+-n_-$ は奇数($\pm1$ か $\pm3$)となり,$0$ にできない.したがって $N=3$ も不可能で,最初に可能なのは $N=4$ である.

62.2.3 最小の実現:Dirac–Pauli 表示

定義62.1 Dirac–Pauli(標準)表示

$2\times2$ のブロックで書いた次の $4\times4$ 行列を,Dirac–Pauli 表示(Dirac の標準表示)の $\alpha_i$,$\beta$ とよぶ:

\begin{equation} \alpha_i=\begin{pmatrix}0&\sigma_i\\\sigma_i&0\end{pmatrix},\qquad \beta=\begin{pmatrix}\mathbb{1}&0\\0&-\mathbb{1}\end{pmatrix}=\begin{pmatrix}1&0&0&0\\0&1&0&0\\0&0&-1&0\\0&0&0&-1\end{pmatrix}. \label{eq:62-rep} \end{equation}

ここで $\sigma_i$ は Pauli 行列,$\mathbb{1}$ と $0$ は $2\times2$ の単位行列と零行列である.具体的に書くと,$\alpha_x=\begin{pmatrix}0&0&0&1\\0&0&1&0\\0&1&0&0\\1&0&0&0\end{pmatrix}$,$\alpha_y=\begin{pmatrix}0&0&0&-i\\0&0&i&0\\0&-i&0&0\\i&0&0&0\end{pmatrix}$,$\alpha_z=\begin{pmatrix}0&0&1&0\\0&0&0&-1\\1&0&0&0\\0&-1&0&0\end{pmatrix}$ である.

これが式 \eqref{eq:62-algebra} を満たすことを確かめよう.$2\times2$ のブロックを 1 つの要素のように扱い,ブロックどうしの積を計算する(順序を保つ).

例題62.3 ブロック計算による代数の確認

式 \eqref{eq:62-rep} の行列について,(1) $\alpha_x^2=1$,(2) $\alpha_x\alpha_y+\alpha_y\alpha_x=0$,(3) $\alpha_x\beta+\beta\alpha_x=0$,(4) $\alpha_i^\dagger=\alpha_i$,$\tr\alpha_i=0$ を,ブロック計算で示せ.

解答 (1) $\alpha_x^2=\begin{pmatrix}0&\sigma_x\\\sigma_x&0\end{pmatrix}\begin{pmatrix}0&\sigma_x\\\sigma_x&0\end{pmatrix}=\begin{pmatrix}\sigma_x^2&0\\0&\sigma_x^2\end{pmatrix}=\begin{pmatrix}\mathbb{1}&0\\0&\mathbb{1}\end{pmatrix}$($\sigma_x^2=\mathbb{1}$).

(2) $\alpha_x\alpha_y=\begin{pmatrix}\sigma_x\sigma_y&0\\0&\sigma_x\sigma_y\end{pmatrix}=\begin{pmatrix}i\sigma_z&0\\0&i\sigma_z\end{pmatrix}$($\sigma_x\sigma_y=i\sigma_z$),同様に $\alpha_y\alpha_x=\begin{pmatrix}\sigma_y\sigma_x&0\\0&\sigma_y\sigma_x\end{pmatrix}=\begin{pmatrix}-i\sigma_z&0\\0&-i\sigma_z\end{pmatrix}$($\sigma_y\sigma_x=-i\sigma_z$).和は $0$.

(3) $\alpha_x\beta=\begin{pmatrix}0&\sigma_x\\\sigma_x&0\end{pmatrix}\begin{pmatrix}\mathbb{1}&0\\0&-\mathbb{1}\end{pmatrix}=\begin{pmatrix}0&-\sigma_x\\\sigma_x&0\end{pmatrix}$,$\beta\alpha_x=\begin{pmatrix}\mathbb{1}&0\\0&-\mathbb{1}\end{pmatrix}\begin{pmatrix}0&\sigma_x\\\sigma_x&0\end{pmatrix}=\begin{pmatrix}0&\sigma_x\\-\sigma_x&0\end{pmatrix}$.和は $0$.

(4) ブロックの共役転置は,ブロックの位置を転置して各ブロックの共役転置をとる:$\begin{pmatrix}0&\sigma_i\\\sigma_i&0\end{pmatrix}^\dagger=\begin{pmatrix}0&\sigma_i^\dagger\\\sigma_i^\dagger&0\end{pmatrix}=\begin{pmatrix}0&\sigma_i\\\sigma_i&0\end{pmatrix}$($\sigma_i^\dagger=\sigma_i$).トレースは対角ブロックのトレースの和で,対角ブロックは $0$ だから $\tr\alpha_i=0$.$\beta$ のトレースは $\tr\mathbb{1}-\tr\mathbb{1}=2-2=0$.以上より,$\alpha_x^2=\alpha_y^2=\alpha_z^2=\beta^2=1$ も含めて,式 \eqref{eq:62-algebra} がすべて成り立つ.なお $\alpha_z$ の固有値は,$\alpha_z^2=1$ とトレース $0$ から $+1$ が 2 個,$-1$ が 2 個である(具体的に特性多項式を計算すると $(\lambda^2-1)^2=0$).

例題62.4 一般の向きの $\bm{n}\cdot\bm{\alpha}$ — 反交換する行列は 3 方向と $\beta$ まで

単位ベクトル $\bm{n}=(1,2,2)/3$,$\bm{m}=(2,1,-2)/3$ について,(1) $\bm{n}\cdot\bm{m}=0$,$\abs{\bm{n}}=\abs{\bm{m}}=1$ を確かめ,$\bm{l}=\bm{n}\times\bm{m}$ を求めよ.(2) $\alpha_n=\bm{n}\cdot\bm{\alpha}$,$\alpha_m=\bm{m}\cdot\bm{\alpha}$,$\alpha_l=\bm{l}\cdot\bm{\alpha}$ と $\beta$ の 4 つが,互いに反交換し,二乗が $1$ であることを示せ.(3) $2\times2$ では,$\sigma_n=\bm{n}\cdot\bm{\sigma}$,$\sigma_m$,$\sigma_l$ の 3 つで尽き,4 つ目が作れないことを,3 次元ベクトルの言葉で説明せよ.

解答 (1) $\bm{n}\cdot\bm{m}=(1\cdot2+2\cdot1+2\cdot(-2))/9=(2+2-4)/9=0$.$\abs{\bm{n}}^2=(1+4+4)/9=1$,$\abs{\bm{m}}^2=(4+1+4)/9=1$.外積は $\bm{l}=\dfrac{1}{9}\bigl(2\cdot(-2)-2\cdot1,\ 2\cdot2-1\cdot(-2),\ 1\cdot1-2\cdot2\bigr)=\dfrac{1}{9}(-6,\,6,\,-3)=\dfrac{1}{3}(-2,\,2,\,-1)$.$\abs{\bm{l}}^2=(4+4+1)/9=1$,$\bm{l}\cdot\bm{n}=(-2+4-2)/9=0$,$\bm{l}\cdot\bm{m}=(-4+2+2)/9=0$.3 本は互いに直交する単位ベクトルである.

(2) 実数ベクトル $\bm{a}$,$\bm{b}$ について,$\acomm{\alpha_i}{\alpha_j}=2\delta_{ij}$ を使うと,$\acomm{\bm{a}\cdot\bm{\alpha}}{\bm{b}\cdot\bm{\alpha}}=\sum_{i,j}a_ib_j\acomm{\alpha_i}{\alpha_j}=2\,(\bm{a}\cdot\bm{b})\,\mathbb{1}$ である.したがって,$\acomm{\alpha_n}{\alpha_m}=2\bm{n}\cdot\bm{m}=0$,$\acomm{\alpha_n}{\alpha_l}=2\bm{n}\cdot\bm{l}=0$,$\acomm{\alpha_m}{\alpha_l}=2\bm{m}\cdot\bm{l}=0$,$\alpha_n^2=\abs{\bm{n}}^2=1$($\alpha_m^2$,$\alpha_l^2$ も同様).$\beta$ とは $\acomm{\bm{a}\cdot\bm{\alpha}}{\beta}=\sum_ia_i\acomm{\alpha_i}{\beta}=0$ である.こうして $\alpha_n,\alpha_m,\alpha_l,\beta$ は互いに反交換し,二乗が $1$ のエルミート行列($4\times4$)になる.Dirac–Pauli 表示で $\alpha_n=\begin{pmatrix}0&\sigma_n\\\sigma_n&0\end{pmatrix}$,$\sigma_n=\dfrac13\begin{pmatrix}2&1-2i\\1+2i&-2\end{pmatrix}$ であり,たとえば $\sigma_n^2$ の (1,1) 成分は $\dfrac{1}{9}\bigl(4+(1-2i)(1+2i)\bigr)=\dfrac{4+5}{9}=1$,(1,2) 成分は $\dfrac{1}{9}\bigl(2(1-2i)-(1-2i)\cdot2\bigr)=0$ となって $\sigma_n^2=\mathbb{1}$ を満たす.

(3) $2\times2$ のトレースが $0$ のエルミート行列は $\bm{a}\cdot\bm{\sigma}$ の形で,反交換するための条件は $\bm{a}\perp\bm{b}$,二乗が $1$ であるための条件は $\abs{\bm{a}}=1$ だった(定理62.2 (4)).$\bm{n},\bm{m},\bm{l}$ は 3 次元空間の基底なので,これらすべてに直交する $0$ でないベクトルは存在せず,4 つ目の行列は作れない.$4\times4$ では,3 つの $\alpha$ に加えて,3 次元のベクトルでは表せない $\beta$ が 4 つ目として反交換する.

他の表示とユニタリ同値

式 \eqref{eq:62-algebra} を満たす $4\times4$ 行列の組は,Dirac–Pauli 表示だけではない.ユニタリ行列 $U$ で $\alpha_i'=U\alpha_iU^\dagger$,$\beta'=U\beta U^\dagger$ と変換しても,同じ代数を満たす.波動関数も $\psi'=U\psi$ と変換すれば方程式は同じ物理を表す.代表的なものに,質量ゼロの粒子を扱うのに便利な Weyl(カイラル)表示があり,演習62.2 で Dirac–Pauli 表示とのつながりを確かめる.素粒子物理学(AD 09)の付録(AD 09 付録C C.2)に 3 つの表示の一覧がある.4 つの行列の代数を満たす $4\times4$ 行列の組は,ユニタリ変換を除いて一意に定まることも知られている(本書では証明しない).なお,4 つの反交換する行列を作れる次元は $N=4,8,12,\dots$ と,実は 4 の倍数だけである.

62.2.4 4 成分スピノルとブロック形の方程式

行列が $4\times4$ なので,波動関数は 4 つの成分をもつ列ベクトルになる.

\begin{equation} \psi(\bm{x},t)=\begin{pmatrix}\psi_1\\\psi_2\\\psi_3\\\psi_4\end{pmatrix}=\begin{pmatrix}\psi_A\\\psi_B\end{pmatrix},\qquad \psi_A=\begin{pmatrix}\psi_1\\\psi_2\end{pmatrix},\quad\psi_B=\begin{pmatrix}\psi_3\\\psi_4\end{pmatrix}. \label{eq:62-spinor} \end{equation}

これを4 成分スピノル(spinor)とよぶ.各成分 $\psi_a(\bm{x},t)$ は位置と時間の複素関数である.「ベクトル」ではなく「スピノル」とよぶ理由は,Lorentz 変換(回転を含む)のもとで,普通の 4 元ベクトルとは違う変換を受けるからで,62.4 節で説明する.

式 \eqref{eq:62-dirac} にブロック形の \eqref{eq:62-rep} を代入する.$\bm{\alpha}\cdot\hat{\bm{p}}=\begin{pmatrix}0&\bm{\sigma}\cdot\hat{\bm{p}}\\\bm{\sigma}\cdot\hat{\bm{p}}&0\end{pmatrix}$($\bm{\sigma}\cdot\hat{\bm{p}}=\sigma_x\hat{p}_x+\sigma_y\hat{p}_y+\sigma_z\hat{p}_z=-i\hbar\,\bm{\sigma}\cdot\nabla$ は $2\times2$ の演算子行列)だから,

\begin{equation} i\hbar\frac{\partial}{\partial t}\begin{pmatrix}\psi_A\\\psi_B\end{pmatrix} =\begin{pmatrix}mc^2&c\,\bm{\sigma}\cdot\hat{\bm{p}}\\c\,\bm{\sigma}\cdot\hat{\bm{p}}&-mc^2\end{pmatrix}\begin{pmatrix}\psi_A\\\psi_B\end{pmatrix} \label{eq:62-block} \end{equation}

である.上下の成分に分けて書くと,

\begin{align} i\hbar\frac{\partial\psi_A}{\partial t}&=mc^2\,\psi_A+c\,(\bm{\sigma}\cdot\hat{\bm{p}})\,\psi_B, \label{eq:62-blockA}\\ i\hbar\frac{\partial\psi_B}{\partial t}&=c\,(\bm{\sigma}\cdot\hat{\bm{p}})\,\psi_A-mc^2\,\psi_B. \label{eq:62-blockB} \end{align}

質量の項 $\beta mc^2$ は対角ブロック($\psi_A$ には $+mc^2$,$\psi_B$ には $-mc^2$),運動量の項 $c\,\bm{\alpha}\cdot\hat{\bm{p}}$ は非対角ブロックで,$\psi_A$ と $\psi_B$ を結びつける.運動量がゼロなら 2 つは独立で,$\psi_A$ がエネルギー $+mc^2$,$\psi_B$ が $-mc^2$ をもつ.

平面波 $\psi=\begin{pmatrix}u_A\\u_B\end{pmatrix}e^{i(\bm{p}\cdot\bm{x}-Et)/\hbar}$ を代入すると,$i\hbar\partial_t\to E$,$\hat{\bm{p}}\to\bm{p}$ なので

\begin{equation} (E-mc^2)\,u_A=c\,(\bm{\sigma}\cdot\bm{p})\,u_B,\qquad (E+mc^2)\,u_B=c\,(\bm{\sigma}\cdot\bm{p})\,u_A. \label{eq:62-pw} \end{equation}

第 1 式に $E+mc^2$ を掛け,$c\,\bm{\sigma}\cdot\bm{p}$ が $E$ と可換であることを使って第 2 式を代入し,$(\bm{\sigma}\cdot\bm{p})^2=\abs{\bm{p}}^2$ を使うと

$$(E+mc^2)(E-mc^2)\,u_A=c\,(\bm{\sigma}\cdot\bm{p})\,\bigl[(E+mc^2)\,u_B\bigr]=c^2(\bm{\sigma}\cdot\bm{p})^2u_A=c^2p^2\,u_A$$

となる.すなわち $(E^2-m^2c^4-p^2c^2)\,u_A=0$ である.$u_A\ne0$ なら,次式が成り立つ:

\begin{equation} E=\pm E_p,\qquad E_p\equiv\sqrt{p^2c^2+m^2c^4} \label{eq:62-disp} \end{equation}

$u_A=0$ のときは第 1 式から $c\,\bm{\sigma}\cdot\bm{p}\,u_B=0$ となり,$\bm{p}\ne0$ なら $u_B=0$ で自明な解,$\bm{p}=0$ なら第 2 式から $E=-mc^2$ で,これは $E=-E_p$ に含まれる.4 成分すべてが Klein–Gordon 方程式を満たすことも,式 \eqref{eq:62-square} からの当然の帰結である.ここで,各運動量 $\bm{p}$ について,$E=+E_p$ の独立な解が 2 つ,$E=-E_p$ の独立な解が 2 つある($u_A$ を自由に選べる自由度は 2 成分分,$u_B$ はそれで決まる,など.62.5 節で具体的に作る).4 成分は,「スピンの 2 通り」と「エネルギーの符号の 2 通り」の積 $2\times2=4$ に対応する.前者はこの章の最後(62.6 節)で,後者は第64章で正面から扱う.

62.3 連続の式と正の確率密度 — 速度演算子 $c\,\bm{\alpha}$

62.3.1 確率密度と確率の流れ

Dirac 方程式が期待どおり「確率として読める密度」を与えることを確かめよう.記号を簡単にするため,$x^1,x^2,x^3$ を $x,y,z$ の意味で使い,$\partial_k=\partial/\partial x^k$($k=1,2,3$)と書く.すると $\hat{p}_k=-i\hbar\,\partial_k$ で,式 \eqref{eq:62-dirac} は

\begin{equation} i\hbar\frac{\partial\psi}{\partial t}=-i\hbar c\sum_{k=1}^{3}\alpha_k\,\partial_k\psi+mc^2\beta\,\psi \label{eq:62-dirac-x} \end{equation}

と書ける.ここでも $\psi$ は 4 成分の列ベクトルである.以下,$\psi^\dagger=(\psi_1^*,\psi_2^*,\psi_3^*,\psi_4^*)$ は共役転置の行ベクトルとする.

定理62.3 Dirac 方程式の連続の式

Dirac 方程式の解 $\psi$ について,

\begin{equation} \rho=\psi^\dagger\psi=\sum_{a=1}^{4}\abs{\psi_a}^2\ \ge\ 0,\qquad \bm{j}=c\,\psi^\dagger\bm{\alpha}\,\psi\quad\left(j_k=c\,\psi^\dagger\alpha_k\psi\right) \label{eq:62-rhoj} \end{equation}

は連続の式

\begin{equation} \frac{\partial\rho}{\partial t}+\nabla\cdot\bm{j}=0 \label{eq:62-cont} \end{equation}

を満たす.したがって $\int\rho\,\dd^3x=\int\psi^\dagger\psi\,\dd^3x$ は時間によらず,$\rho$ を確率密度,$\bm{j}$ を確率の流れの密度と解釈できる.

導出

[i] 共役方程式をつくる.式 \eqref{eq:62-dirac-x} の共役転置をとる.$\alpha_k^\dagger=\alpha_k$,$\beta^\dagger=\beta$ であり(定理62.1),$\partial_k$ と $\partial_t$ は実の演算子だから共役をとっても変わらない.$i$ は $-i$ になり,行列の積の共役転置は順序が逆になる($(AB)^\dagger=B^\dagger A^\dagger$)ので,たとえば $(\alpha_k\,\partial_k\psi)^\dagger=(\partial_k\psi^\dagger)\,\alpha_k$ となる:

\begin{equation} -i\hbar\frac{\partial\psi^\dagger}{\partial t}=+i\hbar c\sum_k(\partial_k\psi^\dagger)\,\alpha_k+mc^2\,\psi^\dagger\beta. \label{eq:62-dirac-conj} \end{equation}

[ii] 掛けて引く.式 \eqref{eq:62-dirac-x} に左から $\psi^\dagger$ を,式 \eqref{eq:62-dirac-conj} に右から $\psi$ を掛ける:

\begin{align*} i\hbar\,\psi^\dagger\frac{\partial\psi}{\partial t}&=-i\hbar c\sum_k\psi^\dagger\alpha_k\,\partial_k\psi+mc^2\,\psi^\dagger\beta\psi,\\ -i\hbar\frac{\partial\psi^\dagger}{\partial t}\,\psi&=+i\hbar c\sum_k(\partial_k\psi^\dagger)\,\alpha_k\psi+mc^2\,\psi^\dagger\beta\psi. \end{align*}

上の式から下の式を引くと,質量の項 $mc^2\psi^\dagger\beta\psi$ は両辺で同じなので消える($\beta$ がエルミートだから共役方程式にも同じ項が現れた):

$$ i\hbar\left(\psi^\dagger\frac{\partial\psi}{\partial t}+\frac{\partial\psi^\dagger}{\partial t}\psi\right) =-i\hbar c\sum_k\Bigl(\psi^\dagger\alpha_k\,\partial_k\psi+(\partial_k\psi^\dagger)\,\alpha_k\psi\Bigr). $$

左辺のかっこの中は $\partial_t(\psi^\dagger\psi)$,右辺の和の中は,積の微分則と $\alpha_k$ が定数行列であることから $\partial_k(\psi^\dagger\alpha_k\psi)$ である.両辺を $i\hbar$ で割ると

$$ \frac{\partial}{\partial t}\left(\psi^\dagger\psi\right)+\sum_k\partial_k\left(c\,\psi^\dagger\alpha_k\psi\right)=0 $$

となり,式 \eqref{eq:62-cont} が得られる.全空間で積分して,発散定理で右辺を無限遠の面積分にし,$\psi$ が遠方で十分速く $0$ になるなら $\dfrac{\dd}{\dd t}\displaystyle\int\rho\,\dd^3x=-\oint\bm{j}\cdot\dd\bm{S}=0$.

(導出終わり)

次元の確認:$\int\rho\,\dd^3x=1$ なので $\rho$ の次元は $\mathrm{m^{-3}}$ である.$\bm{j}=c\,\psi^\dagger\bm{\alpha}\psi$ は $\mathrm{m\,s^{-1}}\times\mathrm{m^{-3}}=\mathrm{m^{-2}\,s^{-1}}$(単位面積・単位時間あたりの確率)で,連続の式 $\partial_t\rho+\nabla\cdot\bm{j}=0$ の各項は,どれも $\mathrm{m^{-3}\,s^{-1}}$ にそろう.

考察:Klein–Gordon 方程式との違い

Klein–Gordon 方程式の保存密度は $\psi$ と $\partial_t\psi$ を含み,正とは限らなかった.Dirac 方程式の $\rho=\psi^\dagger\psi$ は,$\psi$ だけで決まる 4 つの成分の絶対値の二乗和なので,どんな解でも非負である.困難の 1 つめが解消された.代償は,波動関数が 4 成分になり,$\alpha_i$,$\beta$ が行列になったことである.

確率の流れ $\bm{j}$ も調べておこう.Dirac–Pauli 表示では $\psi^\dagger\alpha_k\psi=\psi_A^\dagger\sigma_k\psi_B+\psi_B^\dagger\sigma_k\psi_A=2\Real(\psi_A^\dagger\sigma_k\psi_B)$ であり,流れは大成分 $\psi_A$ と小成分 $\psi_B$ の干渉項で書かれる(大・小の意味は 62.5 節).非相対論の極限では,小成分が大成分で書かれ(62.5 節),この流れは軌道の流れとスピンの流れの和

$$\bm{j}\ \to\ \frac{\hbar}{2im}\left[\psi_A^\dagger\nabla\psi_A-(\nabla\psi_A^\dagger)\psi_A\right]+\frac{\hbar}{2m}\,\nabla\times\left(\psi_A^\dagger\bm{\sigma}\,\psi_A\right)$$

になる(小成分を消去して確かめられる.Gordon 分解とよばれる).右辺の第 2 項が,スピンに伴う流れである.

なお,$\rho$ は Lorentz 不変なスカラーではなく,4 元ベクトル $j^\mu=(c\rho,\bm{j})$ の時間成分である(62.4 節).静止系での密度を $\rho_0$ とすると,速さ $v$ で運動する系では $\rho=\gamma_{\mathrm L}\rho_0$ になる(Lorentz 因子 $\gamma_{\mathrm L}=1/\sqrt{1-v^2/c^2}$.$\gamma^\mu$ 行列と区別する.粒子を含む長さが $1/\gamma_{\mathrm L}$ に縮み,同じ 1 個ぶんの確率が小さな体積に入るため).

62.3.2 速度演算子 — 固有値は $\pm c$

粒子の速度は,位置演算子の時間微分で定義される.Heisenberg の運動方程式(第50章 50.2)$\dfrac{\dd\hat{A}}{\dd t}=\dfrac{i}{\hbar}\comm{\hat{H}}{\hat{A}}$($\hat{A}$ が時間を陽に含まない場合)を位置 $\hat{x}_k$ に適用すると,速度演算子 $\hat{v}_k$ が得られる.$\beta$ は位置と可換で,$\comm{\hat{p}_j}{\hat{x}_k}=-i\hbar\,\delta_{jk}$ だから,

\begin{equation} \hat{v}_k=\frac{\dd\hat{x}_k}{\dd t}=\frac{i}{\hbar}\comm{\hat{H}}{\hat{x}_k} =\frac{i}{\hbar}\,c\sum_j\alpha_j\,\comm{\hat{p}_j}{\hat{x}_k} =\frac{i}{\hbar}\,c\,\alpha_k\,(-i\hbar)=c\,\alpha_k. \label{eq:62-velocity} \end{equation}

すなわち,速度演算子は$c$ に行列 $\alpha_k$ を掛けたものである.確率の流れの式 \eqref{eq:62-rhoj} は「密度 $\times$ 速度」$\bm{j}=\psi^\dagger(c\bm{\alpha})\psi$ の形をしており,この読み方と整合している.

ところが,定理62.2 (1) より $\alpha_x$ の固有値は $+1$ と $-1$ のどちらかである.したがって,$x$ 方向の速度を測定して得られる値は,いつでも $+c$ か $-c$ のどちらかになる.ほかの値(たとえば $0.6c$)は決して得られない.$y$,$z$ 方向も同様である.

注意:速度の測定値が $\pm c$ だけとは?

古典的にはおかしく聞こえる結論だが,矛盾ではない.理由は 2 つある.

速度演算子が時間とともに急速に振動する効果は Zitterbewegung(「ふるえ運動」)とよばれ,その角振動数は $2E/\hbar$(電子で約 $10^{21}\ \mathrm{s^{-1}}$)である(第64章).その時間平均が,次に示す古典的な速度(群速度)になる.

測定の物理も考えておこう.位置を 2 回測って速度を求めるには,測定の間隔 $\Delta t$ をある程度短くする必要がある.$\Delta t$ を $\hbar/2mc^2\approx6\times10^{-22}\ \mathrm{s}$ 程度より短くすると,不確定性関係によりエネルギーの不確定さが正エネルギーと負エネルギーの状態の間隔 $2mc^2$ に達し,両方の状態の干渉(Zitterbewegung)が見えてくる.そのとき得られる値は $\pm c$ に近い.通常の観測は,これよりはるかに長い時間にわたる平均を見ており,平均は $pc^2/E$ になる.

62.3.3 速度の期待値は群速度 $pc^2/E$

エネルギー固有状態である平面波 $\psi=u(\bm{p})\,e^{i\bm{p}\cdot\bm{x}/\hbar}e^{-iEt/\hbar}$ で,速度演算子 $c\,\bm{\alpha}$ の期待値を求める.$\hat{H}\psi=E\psi$ を満たす規格化された($u^\dagger u=1$)列ベクトル $u(\bm{p})$ は,運動量 $\bm{p}$ の行列 $H(\bm{p})=c\,\bm{\alpha}\cdot\bm{p}+\beta mc^2$ の固有ベクトル $H(\bm{p})\,u(\bm{p})=E(\bm{p})\,u(\bm{p})$ である.このとき次の関係が成り立つ.

公式62.1 Hellmann–Feynman(ヘルマン–ファインマン)の定理(運動量による微分)

\begin{equation} \expval{ c\,\alpha_k}=u^\dagger(c\,\alpha_k)\,u=\frac{\partial E(\bm{p})}{\partial p_k}. \label{eq:62-hf} \end{equation}

証明

$E(\bm{p})=u^\dagger H(\bm{p})\,u$ を $p_k$ で微分する.$H(\bm{p})$ は $p_k$ について 1 次で,$\partial H/\partial p_k=c\,\alpha_k$ である.積の微分則より

$$\frac{\partial E}{\partial p_k}=\left(\partial_{p_k}u^\dagger\right)Hu+u^\dagger\,(c\,\alpha_k)\,u+u^\dagger H\left(\partial_{p_k}u\right).$$

固有値方程式 $Hu=Eu$ と,$H$ のエルミート性から得られる $u^\dagger H=Eu^\dagger$ を使うと,第 1 項は $E\,(\partial_{p_k}u^\dagger)u$,第 3 項は $E\,u^\dagger(\partial_{p_k}u)$ となり,この 2 つの和は $E\,\partial_{p_k}(u^\dagger u)=E\,\partial_{p_k}(1)=0$.残りが式 \eqref{eq:62-hf} である.

(証明終わり)

正エネルギーの解 $E=+E_p=\sqrt{p^2c^2+m^2c^4}$ では $\partial E/\partial p_k=p_kc^2/E_p$ なので,

\begin{equation} \expval{ c\,\bm{\alpha}}=\frac{\bm{p}\,c^2}{E_p}=\frac{\bm{p}}{\gamma_{\mathrm L}m}\qquad(E_p=\gamma_{\mathrm L}mc^2). \label{eq:62-vexp} \end{equation}

これは相対論的な粒子の速度 $\bm{v}=\bm{p}c^2/E$(AD 03 第57章 57.5)であり,波束の群速度 $\partial E/\partial\bm{p}$ にも等しい(次元は $\partial E/\partial p=\mathrm{J}/(\mathrm{kg\,m\,s^{-1}})=\mathrm{m\,s^{-1}}$ で,速度になる).$\abs{\expval{\bm{v}}}\lt c$ で,$p\to\infty$ で $c$ に近づく.負エネルギーの解 $E=-E_p$ では $\partial E/\partial p_k=-p_kc^2/E_p$ となり,平面波の「速度」は運動量と逆向きになる(図62.2.この意味は第64章).

速度の期待値を運動量の関数として描いたグラフ.横軸は運動量 p を mc で割った値,縦軸は速度演算子の期待値を c で割った値.正エネルギー解(青)では p c を E で割った値として 0 から 1 に単調に近づき,p が mc のとき 0.707 になる.負エネルギー解(赤)は符号が反対.灰色の点線は非相対論の p を m で割った値で,p が mc を超えると c を超えてしまう.橙色の破線は速度演算子の固有値 +c と −c を表し,測定値はこの 2 つのどちらかになる
図62.2 平面波状態での速度演算子の期待値 $\expval{\hat{v}_z}/c=\pm pc/E_p$(青:$E=+E_p$,赤:$E=-E_p$).橙の破線は速度演算子 $c\,\alpha_z$ の固有値 $\pm c$(1 回ごとの測定値はこのどちらか).灰色の点線は非相対論の $v=p/m$ で,$p\gt mc$ では $c$ を超える.

例題62.5 運動量 $p=mc$ の電子の速度の期待値

$z$ 方向に運動量 $p=mc$ をもつ電子の正エネルギー平面波 $u=(0.9239,\,0,\,0.3827,\,0)^{\mathsf T}$(Dirac–Pauli 表示.62.5 節で導く)について,(1) $H(\bm{p})\,u=E\,u$ を成分で確かめてエネルギー $E$ と運動エネルギー $T=E-mc^2$ を求めよ.(2) $u^\dagger(c\,\alpha_z)\,u$ を直接計算し,式 \eqref{eq:62-vexp} の $pc^2/E$ と比べよ.(3) $\hat{v}_z$ の測定で $+c$ と $-c$ が得られる確率を求めよ.

解答 エネルギーの単位を $mc^2$,運動量の単位を $mc$ にとる.$H=\begin{pmatrix}1&\sigma_z\\\sigma_z&-1\end{pmatrix}$($\bm{\sigma}\cdot\bm{p}=\sigma_z$ で $p=1$).$u=(a,0,b,0)^{\mathsf T}$,$a=0.9239$,$b=0.3827$ とおく.

(1) $\sigma_z(b,0)^{\mathsf T}=(b,0)^{\mathsf T}$,$\sigma_z(a,0)^{\mathsf T}=(a,0)^{\mathsf T}$ より,$Hu=\bigl(a+b,\,0,\,a-b,\,0\bigr)^{\mathsf T}=(1.3066,\,0,\,0.5412,\,0)^{\mathsf T}$.これが $E\,u=E\,(0.9239,0,0.3827,0)^{\mathsf T}$ に等しいので,$E=1.3066/0.9239=1.4142=\sqrt2$,下の成分でも $0.5412/0.3827=1.4142$.$E=\sqrt2\,mc^2$ である.これは $E_p=\sqrt{p^2c^2+m^2c^4}=\sqrt{2}\,mc^2$ と一致する.電子の $mc^2=510.999\ \mathrm{keV}$ を使うと $E=722.66\ \mathrm{keV}$,運動エネルギーは $T=(\sqrt2-1)\,mc^2=211.66\ \mathrm{keV}$.

(2) $\alpha_zu=\begin{pmatrix}0&\sigma_z\\\sigma_z&0\end{pmatrix}\begin{pmatrix}a\\0\\b\\0\end{pmatrix}=\begin{pmatrix}b\\0\\a\\0\end{pmatrix}$ だから,$u^\dagger\alpha_zu=ab+ba=2ab=2\times0.9239\times0.3827=0.7071$.したがって $\expval{ c\,\alpha_z}=0.7071\,c=c/\sqrt2$.一方 $pc^2/E=(mc)c^2/(\sqrt2\,mc^2)=c/\sqrt2$ であり,Hellmann–Feynman の結果と一致する($0.7071\,c=2.120\times10^8\ \mathrm{m/s}$).なお $\expval{\alpha_x}=\expval{\alpha_y}=0$:$\alpha_xu=(0,b,0,a)^{\mathsf T}$ と $u$ は直交する.

(3) $\alpha_z$ の固有値 $\pm1$ への射影演算子は $P_\pm=(1\pm\alpha_z)/2$ で,確率は $P(\pm c)=u^\dagger P_\pm u=(1\pm0.7071)/2$.よって $P(+c)=0.854$,$P(-c)=0.146$.期待値は $c\,(0.854-0.146)=0.707\,c$ で,(2) と一致する.1 回ごとの測定値は $\pm c$ のどちらかだが,平均は $0.707\,c$ であり,これが粒子の「速さ」として観測される量である.

62.4 共変形 — $\gamma$ 行列と Lorentz 共変性

Dirac が 1 階の方程式を求めたのは,時間と空間を対等に扱い,Lorentz 変換で形が変わらない方程式を作るためだった.ここまでの式 \eqref{eq:62-dirac} は,時間の微分だけが $\partial_t$ として特別扱いされたハミルトニアン形である.この節では,時間と空間の微分を同じ形に並べた共変形に書き直し,実際に Lorentz 変換で形が保たれることを示す.

62.4.1 $\gamma$ 行列と共変形

式 \eqref{eq:62-dirac-x} の両辺に左から $\beta/c$ を掛けよう.$x^0=ct$,$\partial_0=\dfrac{1}{c}\partial_t$ を使うと,左辺は $i\hbar\,\beta\,\partial_0\psi$ になる.右辺は,$\beta^2=1$ を使って

$$ i\hbar\,\beta\,\partial_0\psi=-i\hbar\sum_k\beta\alpha_k\,\partial_k\psi+mc\,\psi $$

となる.ここで新しい行列を次のように定義する.

定義62.2 $\gamma$ 行列

\begin{equation} \gamma^0\equiv\beta,\qquad\gamma^k\equiv\beta\alpha_k\quad(k=1,2,3). \label{eq:62-gamma} \end{equation}

上付きの添字 $\mu=0,1,2,3$ は 4 元ベクトルの添字で,$\gamma^\mu$ は 4 つの $4\times4$ 行列の組である.

これを使うと,上の式は $i\hbar\,\gamma^0\partial_0\psi+i\hbar\sum_k\gamma^k\partial_k\psi-mc\,\psi=0$ となり,Einstein の縮約(同じ添字が上下に現れたら和をとる)を使ってまとめると次の形になる.

\begin{equation} \left(i\hbar\,\gamma^\mu\partial_\mu-mc\right)\psi=0,\qquad\partial_\mu=\frac{\partial}{\partial x^\mu}=\left(\frac{1}{c}\frac{\partial}{\partial t},\ \nabla\right) \label{eq:62-cov} \end{equation}

これが Dirac 方程式の共変形(covariant form)である.$\hbar=c=1$ の自然単位系では $(i\gamma^\mu\partial_\mu-m)\psi=0$,$\gamma^\mu\partial_\mu$ を「$\partial$ にスラッシュを重ねた記号」で略記する流儀もある.素粒子物理学(AD 09 第9章 9.2)の Dirac 方程式は,この方程式そのものである.

定理62.4 $\gamma$ 行列の代数

Dirac–Pauli 表示の(任意の表示でも)$\gamma^\mu$ は,計量 $g^{\mu\nu}=\mathrm{diag}(1,-1,-1,-1)$(AD 03 第57章 57.2)を使って

\begin{equation} \acomm{\gamma^\mu}{\gamma^\nu}=2g^{\mu\nu},\qquad\left(\gamma^0\right)^\dagger=\gamma^0,\qquad\left(\gamma^k\right)^\dagger=-\gamma^k \label{eq:62-clifford} \end{equation}

を満たす.

証明

$(\gamma^0)^2=\beta^2=1=g^{00}$.$(\gamma^k)^2=\beta\alpha_k\beta\alpha_k=-\beta\beta\alpha_k\alpha_k=-1=g^{kk}$($\alpha_k\beta=-\beta\alpha_k$ を 1 回使った).$\acomm{\gamma^0}{\gamma^k}=\beta\beta\alpha_k+\beta\alpha_k\beta=\alpha_k-\beta\beta\alpha_k=\alpha_k-\alpha_k=0$.$k\ne l$ のとき $\acomm{\gamma^k}{\gamma^l}=\beta\alpha_k\beta\alpha_l+\beta\alpha_l\beta\alpha_k=-(\alpha_k\alpha_l+\alpha_l\alpha_k)=-2\delta_{kl}=0$.まとめて $\acomm{\gamma^\mu}{\gamma^\nu}=2g^{\mu\nu}$.共役:$(\gamma^0)^\dagger=\beta^\dagger=\beta$,$(\gamma^k)^\dagger=(\beta\alpha_k)^\dagger=\alpha_k\beta=-\beta\alpha_k=-\gamma^k$.

(証明終わり)

この代数から,Dirac 方程式の各成分が Klein–Gordon 方程式を満たすことが,共変な形で一行で示せる.共変形 \eqref{eq:62-cov} に左から $\left(i\hbar\gamma^\nu\partial_\nu+mc\right)$ を掛けると,$mc$ との交差項が打ち消し合って

$$\left(i\hbar\gamma^\mu\partial_\mu+mc\right)\left(i\hbar\gamma^\nu\partial_\nu-mc\right)=-\hbar^2\gamma^\mu\gamma^\nu\partial_\mu\partial_\nu-m^2c^2=-\hbar^2g^{\mu\nu}\partial_\mu\partial_\nu-m^2c^2=-\hbar^2\left(\Box+\frac{m^2c^2}{\hbar^2}\right)$$

となる.ここで $\partial_\mu\partial_\nu$ が $\mu,\nu$ について対称なので $\gamma^\mu\gamma^\nu\partial_\mu\partial_\nu=\tfrac12\acomm{\gamma^\mu}{\gamma^\nu}\partial_\mu\partial_\nu=g^{\mu\nu}\partial_\mu\partial_\nu$(定理62.4),$\Box\equiv g^{\mu\nu}\partial_\mu\partial_\nu=\dfrac{1}{c^2}\partial_t^2-\nabla^2$ は d'Alembert(ダランベール)演算子である.したがって $\left(i\hbar\gamma^\mu\partial_\mu-mc\right)\psi=0$ なら $\left(\Box+m^2c^2/\hbar^2\right)\psi=0$ となり,式 \eqref{eq:62-kg} と一致する.$\acomm{\gamma^\mu}{\gamma^\nu}=2g^{\mu\nu}$ は,「1 階の方程式の二乗が Klein–Gordon 方程式になる」ための条件そのものである.

$\alpha_i$,$\beta$ の代数(定理62.1)が,4 次元時空の計量 $g^{\mu\nu}$ を反映した代数に書き直されたことになる.Dirac–Pauli 表示での具体形は,

\begin{equation} \gamma^0=\begin{pmatrix}\mathbb{1}&0\\0&-\mathbb{1}\end{pmatrix},\qquad \gamma^i=\begin{pmatrix}0&\sigma_i\\-\sigma_i&0\end{pmatrix},\qquad \gamma^5\equiv i\gamma^0\gamma^1\gamma^2\gamma^3=\begin{pmatrix}0&\mathbb{1}\\\mathbb{1}&0\end{pmatrix} \label{eq:62-gamma-rep} \end{equation}

である.$\gamma^5$ は 4 つの $\gamma^\mu$ すべてと反交換し,$(\gamma^5)^2=1$ で,カイラリティ(chirality,掌性)を測る行列である(質量ゼロの場合は 62.5.4 節,詳しくは AD 09 第9章 9.5).

例題62.6 $\gamma$ 行列の実際と,共変形への書き換え

(1) Dirac–Pauli 表示で $\gamma^0,\gamma^1,\gamma^2,\gamma^3$ を $4\times4$ の行列として書き,$\acomm{\gamma^\mu}{\gamma^\nu}=2g^{\mu\nu}$ を $(\mu,\nu)=(0,1),(1,1),(2,2)$ で確かめ,さらに $\gamma^5$ の式 \eqref{eq:62-gamma-rep} を確かめよ.(2) ハミルトニアン形から共変形への書き換えを 1 行ずつ示せ.

解答 (1) $\gamma^0=\beta=\mathrm{diag}(1,1,-1,-1)$.$\gamma^i=\beta\alpha_i=\begin{pmatrix}\mathbb{1}&0\\0&-\mathbb{1}\end{pmatrix}\begin{pmatrix}0&\sigma_i\\\sigma_i&0\end{pmatrix}=\begin{pmatrix}0&\sigma_i\\-\sigma_i&0\end{pmatrix}$ だから,成分で書くと

$$\gamma^1=\begin{pmatrix}0&0&0&1\\0&0&1&0\\0&-1&0&0\\-1&0&0&0\end{pmatrix},\ \ \gamma^2=\begin{pmatrix}0&0&0&-i\\0&0&i&0\\0&i&0&0\\-i&0&0&0\end{pmatrix},\ \ \gamma^3=\begin{pmatrix}0&0&1&0\\0&0&0&-1\\-1&0&0&0\\0&1&0&0\end{pmatrix}.$$

$(0,1)$:$\gamma^0\gamma^1=\begin{pmatrix}0&\sigma_x\\\sigma_x&0\end{pmatrix}$,$\gamma^1\gamma^0=\begin{pmatrix}0&-\sigma_x\\-\sigma_x&0\end{pmatrix}$,和は $0=2g^{01}$.$(1,1)$:$(\gamma^1)^2=\begin{pmatrix}0&\sigma_x\\-\sigma_x&0\end{pmatrix}^2=\begin{pmatrix}-\sigma_x^2&0\\0&-\sigma_x^2\end{pmatrix}=-\mathbb{1}_4$ だから $\acomm{\gamma^1}{\gamma^1}=-2=2g^{11}$.$(2,2)$:同様に $(\gamma^2)^2=-\sigma_y^2\oplus(-\sigma_y^2)=-\mathbb{1}_4$ で $\acomm{\gamma^2}{\gamma^2}=-2=2g^{22}$.($(0,0)$ は $(\gamma^0)^2=\mathbb{1}_4$ で $2g^{00}=2$.)

$\gamma^5$:$\gamma^1\gamma^2=\begin{pmatrix}0&\sigma_x\\-\sigma_x&0\end{pmatrix}\begin{pmatrix}0&\sigma_y\\-\sigma_y&0\end{pmatrix}=\begin{pmatrix}-\sigma_x\sigma_y&0\\0&-\sigma_x\sigma_y\end{pmatrix}=\begin{pmatrix}-i\sigma_z&0\\0&-i\sigma_z\end{pmatrix}$.これに $\gamma^3$ を右から掛けると $\begin{pmatrix}-i\sigma_z&0\\0&-i\sigma_z\end{pmatrix}\begin{pmatrix}0&\sigma_z\\-\sigma_z&0\end{pmatrix}=\begin{pmatrix}0&-i\\i&0\end{pmatrix}$($\sigma_z^2=\mathbb{1}$).$\gamma^0$ を左から掛けると $\begin{pmatrix}\mathbb{1}&0\\0&-\mathbb{1}\end{pmatrix}\begin{pmatrix}0&-i\\i&0\end{pmatrix}=\begin{pmatrix}0&-i\\-i&0\end{pmatrix}$,$i$ 倍して $\gamma^5=\begin{pmatrix}0&1\\1&0\end{pmatrix}$.

(2) 式 \eqref{eq:62-dirac-x}:$i\hbar\,\partial_t\psi=-i\hbar c\sum_k\alpha_k\partial_k\psi+mc^2\beta\psi$.(a) 左から $\beta/c$ を掛ける:$i\hbar\,\beta\,\tfrac1c\partial_t\psi=-i\hbar\sum_k\beta\alpha_k\partial_k\psi+mc\,\beta^2\psi$.(b) $\beta^2=1$,$\tfrac1c\partial_t=\partial_0$,$\gamma^0=\beta$,$\gamma^k=\beta\alpha_k$ を代入:$i\hbar\,\gamma^0\partial_0\psi=-i\hbar\sum_k\gamma^k\partial_k\psi+mc\,\psi$.(c) 右辺の第 1 項を左辺に移す:$i\hbar\left(\gamma^0\partial_0+\sum_k\gamma^k\partial_k\right)\psi-mc\,\psi=0$.(d) 縮約記法でまとめる:$(i\hbar\gamma^\mu\partial_\mu-mc)\psi=0$.

62.4.2 ψ̄ と 4 元電流

ハミルトニアン形で導いた確率の流れは,共変な形に書き換えられる.Dirac 共役(Dirac adjoint)を

\begin{equation} \bar{\psi}\equiv\psi^\dagger\gamma^0 \label{eq:62-psibar} \end{equation}

と定義し,4 つの量

\begin{equation} j^\mu\equiv c\,\bar{\psi}\gamma^\mu\psi \label{eq:62-jmu} \end{equation}

を考える.$\gamma^0\gamma^0=1$ と $\gamma^0\gamma^k=\beta\beta\alpha_k=\alpha_k$ から,

$$j^0=c\,\psi^\dagger\gamma^0\gamma^0\psi=c\,\psi^\dagger\psi=c\rho,\qquad j^k=c\,\psi^\dagger\gamma^0\gamma^k\psi=c\,\psi^\dagger\alpha_k\psi,$$

つまり $j^\mu=(c\rho,\bm{j})$ であり,連続の式 \eqref{eq:62-cont} は $\partial_\mu j^\mu=\partial_0(c\rho)+\nabla\cdot\bm{j}=\partial_t\rho+\nabla\cdot\bm{j}=0$ と書ける.(共変形から直接 $\partial_\mu j^\mu=0$ を導くことは演習62.5 で行う.)確率密度は $\bar{\psi}\psi$ ではなく $\psi^\dagger\psi$ である点に注意しよう.両者の違いは 62.4.4 節で述べる.

62.4.3 Lorentz 共変性 — スピノルの変換

座標系 $S$ と,$S$ に対して $x$ 方向に速さ $v$ で動く座標系 $S'$ を考える.座標は $x'^\mu=\Lambda^\mu{}_\nu x^\nu$ で結ばれる(AD 03 第54章 54.7).相対性原理は,$S$ で Dirac 方程式が成り立つなら $S'$ でも同じ形の方程式が成り立つことを要求する.$\gamma^\mu$ は定数行列で,どの座標系でも同じものを使う.$S'$ の波動関数 $\psi'(x')$ は,$S$ の波動関数 $\psi(x)$ から,4 成分の間の線形変換

\begin{equation} \psi'(x')=\mathcal{S}(\Lambda)\,\psi(x) \label{eq:62-spinor-trans} \end{equation}

で得られると仮定しよう.$\mathcal{S}$ は $4\times4$ の行列で,$\Lambda$ に依存する.どのような条件が必要だろうか.

導出:$\mathcal{S}$ が満たすべき条件

$S$ での方程式は $(i\hbar\gamma^\nu\partial_\nu-mc)\psi(x)=0$ である.座標変換から,連鎖律により $\partial_\nu=\dfrac{\partial x'^\mu}{\partial x^\nu}\partial'_\mu=\Lambda^\mu{}_\nu\,\partial'_\mu$.また $\psi=\mathcal{S}^{-1}\psi'$.これらを代入して左から $\mathcal{S}$ を掛けると

$$i\hbar\,\bigl(\mathcal{S}\gamma^\nu\mathcal{S}^{-1}\bigr)\,\Lambda^\mu{}_\nu\,\partial'_\mu\psi'-mc\,\psi'=0$$

となる.これが $S'$ での Dirac 方程式 $(i\hbar\gamma^\mu\partial'_\mu-mc)\psi'=0$ と同じ形であるためには,任意の $\mu$ について $\Lambda^\mu{}_\nu\,\mathcal{S}\gamma^\nu\mathcal{S}^{-1}=\gamma^\mu$ であればよい.この式に左から $\mathcal{S}^{-1}$,右から $\mathcal{S}$ を掛けると

\begin{equation} \mathcal{S}^{-1}\gamma^\mu\mathcal{S}=\Lambda^\mu{}_\nu\,\gamma^\nu \label{eq:62-S-cond} \end{equation}

を得る.この条件を満たす行列 $\mathcal{S}$ が存在することが,Dirac 方程式が Lorentz 共変であることの意味である.

(導出終わり)

$\gamma^\mu$ が Lorentz 変換で 4 元ベクトルのように混ざる(式 \eqref{eq:62-S-cond})一方,$\psi$ は 4 元ベクトルのように $\Lambda$ で変換するのではなく,別の行列 $\mathcal{S}$ で変換する.これが「スピノル」の意味である.ラピディティ $\eta$($\tanh\eta=v/c$,$\gamma_{\mathrm L}=\cosh\eta$,$\gamma_{\mathrm L}v/c=\sinh\eta$.AD 03 第56章 56.7.ここでは Lorentz 因子を $\gamma_{\mathrm L}$ と書いて,$\gamma^\mu$ 行列と区別する)で,$x$ 方向のブーストは

$$ \Lambda=\begin{pmatrix}\cosh\eta&-\sinh\eta&0&0\\-\sinh\eta&\cosh\eta&0&0\\0&0&1&0\\0&0&0&1\end{pmatrix} $$

で,$x'^0=\cosh\eta\,x^0-\sinh\eta\,x^1$ などを表す.すなわち $\Lambda^0{}_0=\Lambda^1{}_1=\cosh\eta$,$\Lambda^0{}_1=\Lambda^1{}_0=-\sinh\eta$ である.

定理62.5 ブースト行列

$x$ 方向のブースト(ラピディティ $\eta$)に対し,式 \eqref{eq:62-S-cond} を満たす $\mathcal{S}$ は

\begin{equation} \mathcal{S}=\cosh\frac{\eta}{2}-\alpha_x\sinh\frac{\eta}{2}=\exp\left(-\frac{\eta}{2}\,\alpha_x\right) \label{eq:62-boost} \end{equation}

である.ここで $\cosh\dfrac{\eta}{2}=\sqrt{\dfrac{\gamma_{\mathrm L}+1}{2}}$,$\sinh\dfrac{\eta}{2}=\sqrt{\dfrac{\gamma_{\mathrm L}-1}{2}}$(半角の公式).

証明

$\alpha_x^2=1$ なので,$\exp(-\tfrac{\eta}{2}\alpha_x)=\sum_n\dfrac{(-\eta/2)^n}{n!}\alpha_x^n$ の偶数次の項は $\cosh\dfrac{\eta}{2}$,奇数次の項は $-\alpha_x\sinh\dfrac{\eta}{2}$ にまとまる.逆行列は $\mathcal{S}^{-1}=\cosh\dfrac{\eta}{2}+\alpha_x\sinh\dfrac{\eta}{2}$ で,$\mathcal{S}^{-2}=\cosh^2\dfrac{\eta}{2}+\sinh^2\dfrac{\eta}{2}+2\alpha_x\cosh\dfrac{\eta}{2}\sinh\dfrac{\eta}{2}=\cosh\eta+\alpha_x\sinh\eta$.

$\gamma^0=\beta$ と $\gamma^1=\beta\alpha_x$ は $\alpha_x$ と反交換する($\gamma^0\alpha_x=\beta\alpha_x=-\alpha_x\beta$,$\gamma^1\alpha_x=\beta$ で $\alpha_x\gamma^1=\alpha_x\beta\alpha_x=-\beta$)ので,$\gamma^\mu\mathcal{S}=\mathcal{S}^{-1}\gamma^\mu$($\mu=0,1$).したがって

$$\mathcal{S}^{-1}\gamma^0\mathcal{S}=\mathcal{S}^{-2}\gamma^0=\cosh\eta\,\gamma^0+\sinh\eta\,\alpha_x\gamma^0=\cosh\eta\,\gamma^0-\sinh\eta\,\gamma^1.$$

($\alpha_x\gamma^0=\alpha_x\beta=-\beta\alpha_x=-\gamma^1$ を使った.)同様に $\mathcal{S}^{-1}\gamma^1\mathcal{S}=\mathcal{S}^{-2}\gamma^1=\cosh\eta\,\gamma^1+\sinh\eta\,\alpha_x\gamma^1=\cosh\eta\,\gamma^1-\sinh\eta\,\gamma^0$($\alpha_x\gamma^1=-\beta=-\gamma^0$).これは $\Lambda^0{}_\nu\gamma^\nu=\cosh\eta\,\gamma^0-\sinh\eta\,\gamma^1$,$\Lambda^1{}_\nu\gamma^\nu=-\sinh\eta\,\gamma^0+\cosh\eta\,\gamma^1$ に一致する.$\gamma^2=\beta\alpha_y$ は $\alpha_x\gamma^2=\alpha_x\beta\alpha_y=-\beta\alpha_x\alpha_y=\beta\alpha_y\alpha_x=\gamma^2\alpha_x$ と $\alpha_x$ と可換なので $\mathcal{S}^{-1}\gamma^2\mathcal{S}=\gamma^2$,$\gamma^3$ も同様で,$\Lambda^2{}_\nu\gamma^\nu=\gamma^2$,$\Lambda^3{}_\nu\gamma^\nu=\gamma^3$ と一致する.よって式 \eqref{eq:62-S-cond} が全ての $\mu$ で成り立つ.

(証明終わり)

例題62.7 $v=0.6c$ のブースト — 静止スピノルから運動するスピノルへ

粒子が $S$ で静止していて,スピノルが $\psi_0=(1,0,0,0)^{\mathsf T}$(スピン上向き,エネルギー $+mc^2$)であるとする.$S$ に対して $+x$ 方向に $v=0.6c$ で動く座標系 $S'$ でのスピノルを,式 \eqref{eq:62-boost} で求めよ.$S'$ での運動量 $p'$ と比べて,62.5 節の $u(\bm{p},\uparrow)$ と一致することを確かめよ.

解答 $v=0.6c$ から $\gamma_{\mathrm L}=1/\sqrt{1-0.36}=1.25$,$\tanh\eta=0.6$ から $\eta=\operatorname{artanh}0.6=\tfrac12\ln\dfrac{1+0.6}{1-0.6}=\tfrac12\ln4=\ln2=0.6931$.$\cosh\dfrac{\eta}{2}=\sqrt{\dfrac{1.25+1}{2}}=\sqrt{1.125}=1.0607$,$\sinh\dfrac{\eta}{2}=\sqrt{\dfrac{1.25-1}{2}}=\sqrt{0.125}=0.3536$.$\alpha_x\psi_0=\begin{pmatrix}0&\sigma_x\\\sigma_x&0\end{pmatrix}\begin{pmatrix}1\\0\\0\\0\end{pmatrix}=\begin{pmatrix}0\\0\\\sigma_x(1,0)^{\mathsf T}\end{pmatrix}=(0,0,0,1)^{\mathsf T}$ だから

$$\mathcal{S}\psi_0=1.0607\begin{pmatrix}1\\0\\0\\0\end{pmatrix}-0.3536\begin{pmatrix}0\\0\\0\\1\end{pmatrix}=\begin{pmatrix}1.0607\\0\\0\\-0.3536\end{pmatrix}.$$

この大きさは $\psi'^\dagger\psi'=1.0607^2+0.3536^2=1.125+0.125=1.25=\gamma_{\mathrm L}$ で,確率密度が $\gamma_{\mathrm L}$ 倍になる($\rho$ が 4 元電流の時間成分であるため.$S'$ から見ると粒子を含む長さが $1/\gamma_{\mathrm L}$ に縮むから).規格化 $u^\dagger u=1$ のために $\sqrt{\gamma_{\mathrm L}}=1.1180$ で割ると,$(0.9487,\,0,\,0,\,-0.3162)^{\mathsf T}$.

一方,$S'$ から見た粒子の速度は $-0.6c$($-x$ 方向),運動量は $\bm{p}'=-\gamma_{\mathrm L}mv\,\bm{e}_x=-0.75\,mc\,\bm{e}_x$,$E'=\gamma_{\mathrm L}mc^2=1.25\,mc^2$.62.5 節の $u(\bm{p},\uparrow)=\sqrt{\dfrac{E+mc^2}{2E}}\begin{pmatrix}\chi_\uparrow\\\dfrac{c\,\bm{\sigma}\cdot\bm{p}}{E+mc^2}\chi_\uparrow\end{pmatrix}$ に代入する.$\sqrt{\dfrac{2.25}{2.5}}=0.9487$,$c\,\bm{\sigma}\cdot\bm{p}\,\chi_\uparrow=-0.75\,mc^2\sigma_x(1,0)^{\mathsf T}=(0,\,-0.75\,mc^2)^{\mathsf T}$,$E+mc^2=2.25\,mc^2$ なので小成分は $0.9487\times(0,-0.75/2.25)=(0,-0.3162)$.よって $u=(0.9487,0,0,-0.3162)^{\mathsf T}$ で,上の結果と一致する.すなわち,静止スピノルにブースト行列を作用させると,同じ運動量をもつ正エネルギーの平面波スピノルが得られる.

ここでは $x$ 方向のブーストだけを扱ったが,一般の向きのブーストは,$\alpha_x$ を $\bm{n}\cdot\bm{\alpha}$($\bm{n}$ はブーストの向きの単位ベクトル)に置き換えればよい.回転も,62.4.5 節の $\Sigma_z$ を回転軸の向きの $\bm{n}\cdot\bm{\Sigma}$ に置き換えればよい.任意の固有 Lorentz 変換(ブーストと回転の積で書けるもの)に対しては,$\mathcal{S}$ もそれらの行列の積になる.空間反転 $\bm{x}\to-\bm{x}$ では,$\psi'(t,-\bm{x})=\gamma^0\psi(t,\bm{x})$(位相因子を除く)とすれば共変性が保たれる.本書では,これ以上は詳しく扱わない.

62.4.4 双一次量 — $\bar{\psi}\psi$ はスカラー,$\bar{\psi}\gamma^\mu\psi$ はベクトル

ブースト行列(エルミート:$\mathcal{S}^\dagger=\mathcal{S}$)は $\gamma^0\mathcal{S}^\dagger\gamma^0=\gamma^0\left(\cosh\tfrac{\eta}{2}-\alpha_x\sinh\tfrac{\eta}{2}\right)\gamma^0=\cosh\tfrac{\eta}{2}+\alpha_x\sinh\tfrac{\eta}{2}=\mathcal{S}^{-1}$ を満たす($\gamma^0\alpha_x\gamma^0=-\alpha_x$).この性質は回転でも成り立ち,次のことが言える:

$$ \bar{\psi}'=\psi'^\dagger\gamma^0=\psi^\dagger\mathcal{S}^\dagger\gamma^0=\psi^\dagger\gamma^0\,\mathcal{S}^{-1}=\bar{\psi}\,\mathcal{S}^{-1}. $$

よって $\bar{\psi}'\psi'=\bar{\psi}\,\mathcal{S}^{-1}\mathcal{S}\,\psi=\bar{\psi}\psi$(スカラー:変換で不変).また式 \eqref{eq:62-S-cond} から $\bar{\psi}'\gamma^\mu\psi'=\bar{\psi}\,\mathcal{S}^{-1}\gamma^\mu\mathcal{S}\,\psi=\Lambda^\mu{}_\nu\,\bar{\psi}\gamma^\nu\psi$(4 元ベクトル).したがって,$j^\mu=c\,\bar{\psi}\gamma^\mu\psi$ が 4 元ベクトルで,その時間成分 $c\,\psi^\dagger\psi$ は Lorentz 不変ではない.一方,$\bar{\psi}\psi=\abs{\psi_A}^2-\abs{\psi_B}^2$ は不変である(62.5 節で $\bar{u}u=mc^2/E$ を計算する).確率密度として使う量は $\psi^\dagger\psi$ であって $\bar{\psi}\psi$ ではない.双一次量の一覧(擬スカラー,軸性ベクトル,テンソルなど)は AD 09 第9章 9.5 で扱う.

62.4.5 回転とスピノルの符号反転

回転も Lorentz 変換の一種である.たとえば,$z$ 軸のまわりに,点の座標を右ねじの向きに角 $\theta$ だけ回す変換 $x'=x\cos\theta-y\sin\theta$,$y'=x\sin\theta+y\cos\theta$($z$ は不変)に対して,式 \eqref{eq:62-S-cond} を満たす行列は

\begin{equation} \mathcal{S}(\theta)=\exp\left(-\frac{i\theta}{2}\Sigma_z\right)=\cos\frac{\theta}{2}-i\,\Sigma_z\sin\frac{\theta}{2},\qquad \Sigma_z\equiv-i\,\alpha_x\alpha_y=\begin{pmatrix}\sigma_z&0\\0&\sigma_z\end{pmatrix} \label{eq:62-rot} \end{equation}

である.$\Sigma_z^2=1$ から第 2 の等号が従う(ブーストと同じ理屈).$\Sigma_z$ の値は,$\alpha_x\alpha_y=\mathrm{diag}(\sigma_x\sigma_y,\sigma_x\sigma_y)=i\,\mathrm{diag}(\sigma_z,\sigma_z)$ から確かめられる.式 \eqref{eq:62-S-cond} は,$\Sigma_z$ が $\gamma^0$,$\gamma^3$ と可換で,$\comm{\Sigma_z}{\gamma^1}=2i\gamma^2$,$\comm{\Sigma_z}{\gamma^2}=-2i\gamma^1$(ブロックごとに $\comm{\sigma_z}{\sigma_x}=2i\sigma_y$,$\comm{\sigma_z}{\sigma_y}=-2i\sigma_x$ を使う)であることから,$\mathcal{S}^{-1}\gamma^1\mathcal{S}=\cos\theta\,\gamma^1-\sin\theta\,\gamma^2$,$\mathcal{S}^{-1}\gamma^2\mathcal{S}=\sin\theta\,\gamma^1+\cos\theta\,\gamma^2$ となって確かめられる.ここで登場した 4×4 の行列 $\Sigma_k=-\tfrac{i}{2}\sum_{i,j}\varepsilon_{kij}\alpha_i\alpha_j$($\Sigma_x=-i\alpha_y\alpha_z$,$\Sigma_y=-i\alpha_z\alpha_x$,$\Sigma_z=-i\alpha_x\alpha_y$)は,Dirac–Pauli 表示では $\bm{\Sigma}=\mathrm{diag}(\bm{\sigma},\bm{\sigma})$ で,62.6 節でスピンの演算子 $\hat{\bm{S}}=\tfrac{\hbar}{2}\bm{\Sigma}$ として現れる.

式 \eqref{eq:62-rot} で $\theta=2\pi$ とすると,$\cos\pi=-1$,$\sin\pi=0$ なので

\begin{equation} \mathcal{S}(2\pi)=-\mathbb{1},\qquad\mathcal{S}(4\pi)=+\mathbb{1}. \label{eq:62-2pi} \end{equation}

つまり,系を $360^\circ$ 回転させると,空間のベクトルは元に戻るのに,スピノルは符号が反転する.元に戻るのは $720^\circ$ 回転したときである(図62.3).符号だけなら確率密度 $\abs{\psi}^2$ には効かないので,1 つの電子だけを見ている限り観測にはかからない.しかし,2 つの状態の重ね合わせ(干渉)では相対位相として効く.中性子干渉計の実験で,磁場中でスピンを $2\pi$ 回すと干渉縞の符号が変わることが確かめられている(1970 年代).スピノルのこの性質は,スピン $\tfrac12$ の回転演算子の $4\pi$ 周期(第24章 24.9)と同じもので,SU(2) と SO(3) の違い(リー群シミュレーター ②で 0°→720° の回転を再生できる)に対応する.

図62.3 回転角 θ に対するベクトルとスピノルの位相 空間のベクトル(回転角 θ だけ回す) スピノルの位相 e−iθ/2 θ = 0 θ = π/2 θ = π θ = 3π/2 θ = 2π θ = 4π 1 e−iπ/4 −i e−3iπ/4 −1 +1 360° で 符号が反転 720° で 元に戻る
図62.3 回転角 $\theta$ に対する,空間のベクトル(上段,黒)とスピノルの位相因子 $e^{-i\theta/2}$(下段,青).ベクトルは $\theta=2\pi$ で元に戻るが,スピノルの位相は $\theta=2\pi$ で $-1$(赤),$\theta=4\pi$ で $+1$ に戻る.回転の向きは,上段は反時計まわり,下段は時計まわりの角度 $\theta/2$.

62.5 自由粒子の解 — 静止系と運動系

ここまでは方程式の構造を調べてきた.この節では,自由粒子の解を具体的に書き下し,4 成分が何を表しているのかを見る.

62.5.1 静止系($\bm{p}=0$)の 4 つの解

運動量がゼロの状態を考える.$\hat{\bm{p}}\to0$ とすると $\hat{H}=\beta mc^2=mc^2\,\mathrm{diag}(1,1,-1,-1)$ で,ブロック方程式 \eqref{eq:62-blockA},\eqref{eq:62-blockB} は $\psi_A$ と $\psi_B$ に分かれる.$\psi=u\,e^{-iEt/\hbar}$ とおくと $\beta mc^2u=Eu$ で,固有ベクトルは 4 つの基本ベクトルそのものである:

\begin{equation} \begin{aligned} E=+mc^2:&\quad u^{(1)}=\begin{pmatrix}1\\0\\0\\0\end{pmatrix},\quad u^{(2)}=\begin{pmatrix}0\\1\\0\\0\end{pmatrix},\\ E=-mc^2:&\quad u^{(3)}=\begin{pmatrix}0\\0\\1\\0\end{pmatrix},\quad u^{(4)}=\begin{pmatrix}0\\0\\0\\1\end{pmatrix}. \end{aligned} \label{eq:62-rest} \end{equation}

$E=+mc^2$ の解の時間依存性は $e^{-imc^2t/\hbar}$,$E=-mc^2$ の解は $e^{+imc^2t/\hbar}$ である.正エネルギーが 2 つ,負エネルギーが 2 つで,この 2 つずつは「スピンが上向きか下向きか」で区別される.実際,$4\times4$ のスピン行列 $\Sigma_z=\mathrm{diag}(1,-1,1,-1)$ は $\beta$ と可換で,$u^{(1)}$ から $u^{(4)}$ はそれぞれ $\Sigma_z=+1,-1,+1,-1$ の固有ベクトルである.つまり,$\hat{S}_z=\tfrac{\hbar}{2}\Sigma_z$ の値は $+\tfrac{\hbar}{2},-\tfrac{\hbar}{2},+\tfrac{\hbar}{2},-\tfrac{\hbar}{2}$ となる(なぜ $\tfrac{\hbar}{2}\Sigma$ がスピンなのかは 62.6 節).負エネルギーの状態の $\Sigma_z=\pm1$ も演算子の固有値であり,その空孔として現れる陽電子のスピンの向きは逆になる(第64章).図62.4 にまとめた.正エネルギーと負エネルギーの間には $2mc^2$(電子で $1.022\ \mathrm{MeV}$)の隔たりがある.

図62.4 静止系の 4 状態と,4×4 行列のブロック構造 (a) 静止系(p = 0)の 4 状態 E 0 E = +mc2 E = −mc2 ψ1 ψ2 ψ3 ψ4 Σz = +1(↑) Σz = −1(↓) 2mc2 (b) ブロックで見た Dirac 方程式 mc2 cσ·pˆ  cσ·pˆ  −mc2 ψA ψB 4 成分 4×4 を 2×2 のブロックで 対角ブロック:質量の項(βmc2) 非対角ブロック:運動量の項(cα·pˆ ) p = 0 では ψA と ψB が分かれる p ≠ 0 では混ざる(62.5 節)
図62.4 (a) 静止系の 4 つの状態.上の 2 つ($\psi_1,\psi_2$)がエネルギー $+mc^2$ で $\Sigma_z=+1,-1$(スピン上向き・下向き),下の 2 つ($\psi_3,\psi_4$)が $-mc^2$ で $\Sigma_z=+1,-1$.負エネルギーの状態の $\Sigma_z$ は演算子の固有値で,空孔として現れる陽電子のスピンは逆向きになる(第64章).(b) $4\times4$ の $\hat{H}$ を $2\times2$ のブロックで書いたもの.対角ブロックが質量の項($\pm mc^2$),非対角ブロックが運動量の項 $c\,\bm{\sigma}\cdot\hat{\bm{p}}$ で,上 2 成分 $\psi_A$ と下 2 成分 $\psi_B$ を結びつける.

例題62.8 静止系の 4 解と $\Sigma_z$

(1) $\hat{H}=\beta mc^2$ の固有値と固有ベクトルを求めよ.(2) $\hat{H}$ と $\Sigma_z=\mathrm{diag}(\sigma_z,\sigma_z)$ の同時固有ベクトルを求め,スピンの向きと対応づけよ.(3) スピンが $x$ 方向を向いた状態($\Sigma_x=+1$)で $E=+mc^2$ のものを書け.(4) 運動量があるとき $\Sigma_z$ は $\hat{H}$ と可換でなくなる.なぜか.

解答 (1) $\hat{H}=mc^2\,\mathrm{diag}(1,1,-1,-1)$ は対角行列なので,特性方程式は $(\lambda-mc^2)^2(\lambda+mc^2)^2=0$.固有値は $+mc^2$(2 重縮退)と $-mc^2$(2 重縮退)で,固有ベクトルは式 \eqref{eq:62-rest} の $u^{(1)},\dots,u^{(4)}$ である.

(2) $\Sigma_z=\mathrm{diag}(1,-1,1,-1)$ もこれらを固有ベクトルとし,固有値は $u^{(1)}$:$+1$,$u^{(2)}$:$-1$,$u^{(3)}$:$+1$,$u^{(4)}$:$-1$.したがって,$(E,\ \Sigma_z)$ の組は $u^{(1)}$:$(+mc^2,+1)$,$u^{(2)}$:$(+mc^2,-1)$,$u^{(3)}$:$(-mc^2,+1)$,$u^{(4)}$:$(-mc^2,-1)$ で,縮退していた 2 つの解がスピンの向きで区別される.$\hat{S}_z=\tfrac{\hbar}{2}\Sigma_z$ なので,$\Sigma_z=\pm1$ はスピン $S_z=\pm\tfrac{\hbar}{2}$ である.

(3) $\Sigma_x=\mathrm{diag}(\sigma_x,\sigma_x)$ の固有値 $+1$ の固有ベクトルのうち,$E=+mc^2$ のもの(上 2 成分だけ):$\sigma_x(1,1)^{\mathsf T}=(1,1)^{\mathsf T}$ より,$\dfrac{1}{\sqrt2}(1,1,0,0)^{\mathsf T}=\dfrac{1}{\sqrt2}\bigl(u^{(1)}+u^{(2)}\bigr)$.正エネルギー解の線形結合なので,やはりエネルギーは $+mc^2$ である(縮退した固有ベクトルの線形結合は固有ベクトル).

(4) $\bm{p}\ne0$ では $\hat{H}$ に $c\,\bm{\alpha}\cdot\bm{p}$ が加わる.$\alpha_i$ は $\Sigma_z$ と可換でなく($\comm{\alpha_i}{\Sigma_j}=2i\sum_k\varepsilon_{ijk}\alpha_k$.62.5.4 節),たとえば $\comm{\hat{H}}{\Sigma_z}=2ic\,(\alpha_xp_y-\alpha_yp_x)\ne0$ となる(62.6 節).つまり,運動しているとスピンの $z$ 成分は保存量ではなくなる.代わりに,運動量の向きへの射影 $\bm{\Sigma}\cdot\bm{p}/\abs{\bm{p}}$(ヘリシティ)が保存量になる(62.5.4 節).

62.5.2 運動量 $\bm{p}$ の平面波解

一般の運動量 $\bm{p}$ では,式 \eqref{eq:62-pw},\eqref{eq:62-disp} を使って $u_A$ と $u_B$ の関係を決める.

定理62.6 自由粒子の平面波解

Dirac 方程式の平面波解 $\psi=u\,e^{i(\bm{p}\cdot\bm{x}-Et)/\hbar}$ で,エネルギー $E=+E_p$ の解は,2 成分スピノル $\chi_s$($\chi_\uparrow=(1,0)^{\mathsf T}$,$\chi_\downarrow=(0,1)^{\mathsf T}$)を使って

\begin{equation} u(\bm{p},s)=\sqrt{\frac{E_p+mc^2}{2E_p}}\begin{pmatrix}\chi_s\\[1mm]\dfrac{c\,\bm{\sigma}\cdot\bm{p}}{E_p+mc^2}\,\chi_s\end{pmatrix}\qquad(s=\uparrow,\downarrow),\qquad u^\dagger u=1, \label{eq:62-u} \end{equation}

エネルギー $E=-E_p$ の解は

\begin{equation} w(\bm{p},s)=\sqrt{\frac{E_p+mc^2}{2E_p}}\begin{pmatrix}-\dfrac{c\,\bm{\sigma}\cdot\bm{p}}{E_p+mc^2}\,\chi_s\\[1mm]\chi_s\end{pmatrix}\qquad(s=\uparrow,\downarrow),\qquad w^\dagger w=1 \label{eq:62-w} \end{equation}

である.$u(\bm{p},\uparrow)$,$u(\bm{p},\downarrow)$,$w(\bm{p},\uparrow)$,$w(\bm{p},\downarrow)$ は互いに直交する 4 つの規格化されたベクトルで,4 成分の空間の基底をなす.

導出

正エネルギー.式 \eqref{eq:62-pw} の第 2 式 $(E+mc^2)u_B=c\,(\bm{\sigma}\cdot\bm{p})u_A$ から,$E=+E_p$($E_p+mc^2>0$)のとき $u_B=\dfrac{c\,\bm{\sigma}\cdot\bm{p}}{E_p+mc^2}u_A$.$u_A$ には 2 成分の任意のスピノルを選べる.独立な選び方は 2 つで,$u_A=N_p\chi_\uparrow$,$N_p\chi_\downarrow$ とおく.第 1 式 $(E_p-mc^2)u_A=c\,(\bm{\sigma}\cdot\bm{p})u_B$ に代入して確かめる:右辺は $\dfrac{c^2(\bm{\sigma}\cdot\bm{p})^2}{E_p+mc^2}u_A=\dfrac{c^2p^2}{E_p+mc^2}u_A$.ここで $c^2p^2=E_p^2-m^2c^4=(E_p-mc^2)(E_p+mc^2)$ なので,右辺 $=(E_p-mc^2)u_A$ となり,第 1 式は満たされている.

規格化.$u^\dagger u=N_p^2\left[\chi^\dagger\chi+\dfrac{c^2\chi^\dagger(\bm{\sigma}\cdot\bm{p})^2\chi}{(E_p+mc^2)^2}\right]=N_p^2\left[1+\dfrac{c^2p^2}{(E_p+mc^2)^2}\right]=N_p^2\left[1+\dfrac{E_p-mc^2}{E_p+mc^2}\right]=N_p^2\,\dfrac{2E_p}{E_p+mc^2}$($\chi^\dagger\chi=1$,$(\bm{\sigma}\cdot\bm{p})^2=p^2$ を使った).$=1$ より $N_p=\sqrt{\dfrac{E_p+mc^2}{2E_p}}$,式 \eqref{eq:62-u} を得る.

負エネルギー.$E=-E_p$ では $E+mc^2=mc^2-E_p$ がゼロになりうる($p=0$)ので,式 \eqref{eq:62-pw} の第 1 式 $(E-mc^2)u_A=c\,(\bm{\sigma}\cdot\bm{p})u_B$ を使う.$E-mc^2=-(E_p+mc^2)\ne0$ なので $u_A=-\dfrac{c\,\bm{\sigma}\cdot\bm{p}}{E_p+mc^2}u_B$.今度は $u_B$ を自由に選び,$u_B=N_p\chi_s$ とおく.規格化は上と同じ計算で $N_p=\sqrt{(E_p+mc^2)/2E_p}$,式 \eqref{eq:62-w} が得られる.

直交性.4 つのベクトルは $H(\bm{p})=c\,\bm{\alpha}\cdot\bm{p}+\beta mc^2$(エルミート行列)の固有ベクトルで,固有値は $+E_p$ が 2 個,$-E_p$ が 2 個.エルミート行列の異なる固有値の固有ベクトルは直交し,同じ固有値の $u(\bm{p},\uparrow)$,$u(\bm{p},\downarrow)$ は $\chi_\uparrow^\dagger\chi_\downarrow=0$,$\chi_\uparrow^\dagger(\bm{\sigma}\cdot\bm{p})^2\chi_\downarrow=p^2\chi_\uparrow^\dagger\chi_\downarrow=0$ から直交する.$w$ も同様.

(導出終わり)

$\bm{p}\to0$ では $E_p\to mc^2$,$u(\bm{0},s)=(\chi_s,0)^{\mathsf T}$,$w(\bm{0},s)=(0,\chi_s)^{\mathsf T}$ となって式 \eqref{eq:62-rest} に一致する.時間依存まで含めた平面波は $u(\bm{p},s)\,e^{i(\bm{p}\cdot\bm{x}-E_pt)/\hbar}$,$w(\bm{p},s)\,e^{i(\bm{p}\cdot\bm{x}+E_pt)/\hbar}$ である.波動関数としての規格化は,運動量が連続値をとるので,$(2\pi\hbar)^{-3/2}$ を掛ける連続規格化である(本書の非相対論的な量子力学と同じ.第10章 10.6).すなわち $\psi_{\bm{p}}(\bm{x})=(2\pi\hbar)^{-3/2}\,u(\bm{p},s)\,e^{i\bm{p}\cdot\bm{x}/\hbar}$ のとき,

$$\int\psi_{\bm{p}}^\dagger\psi_{\bm{p}'}\,\dd^3x=u^\dagger(\bm{p},s)\,u(\bm{p},s)\,\delta^3(\bm{p}-\bm{p}')=\delta^3(\bm{p}-\bm{p}')$$

である($\int e^{i(\bm{p}'-\bm{p})\cdot\bm{x}/\hbar}\dd^3x=(2\pi\hbar)^3\delta^3(\bm{p}'-\bm{p})$ と $u^\dagger u=1$ を使った).

イメージ:$w$ は「負エネルギー」の電子

負エネルギーの解 $w(\bm{p},s)$ は,エネルギーが $-E_p$ で,空間依存性が $e^{i\bm{p}\cdot\bm{x}/\hbar}$ の平面波である.運動量が $\bm{p}$ の状態にいる電子が,エネルギーが負($-\sqrt{p^2c^2+m^2c^4}$)だという奇妙な解になっている.負エネルギーの電子は,限りなく低いエネルギーへ落ち込めてしまうので,物理的には受け入れがたい.この解を「捨てる」ことはできない.4 つの基底のうち 2 つを捨てると完全系にならず,外場のもとでは,$u$ だけの状態にも $w$ の成分が混ざってくるからである(第64章).解決は,負エネルギーの状態がすべて電子で満たされているとする Dirac の海と,「穴」としての陽電子である(第64章).

例題62.9 運動量 $p=mc$($z$ 方向)の電子の解

電子が $z$ 方向に運動量 $p=mc$ をもつとする.(1) $E_p$,運動エネルギー $T$,(2) $u(\bm{p},\uparrow)$ と $u(\bm{p},\downarrow)$,(3) $w(\bm{p},\uparrow)$ を求め,(4) $(H-E)u=0$ を確かめよ.

解答 (1) $E_p=\sqrt{1+1}\,mc^2=\sqrt2\,mc^2=722.66\ \mathrm{keV}$($mc^2=510.999\ \mathrm{keV}$),$T=E_p-mc^2=(\sqrt2-1)\,mc^2=211.66\ \mathrm{keV}$.

(2) 規格化因子 $N_p=\sqrt{\dfrac{\sqrt2+1}{2\sqrt2}}=\sqrt{0.85355}=0.9239$.$\bm{\sigma}\cdot\bm{p}=p\,\sigma_z$,$\dfrac{c\,p}{E_p+mc^2}=\dfrac{1}{\sqrt2+1}=\sqrt2-1=0.4142$ だから,

$$u(\bm{p},\uparrow)=0.9239\begin{pmatrix}1\\0\\0.4142\\0\end{pmatrix}=\begin{pmatrix}0.9239\\0\\0.3827\\0\end{pmatrix},\qquad u(\bm{p},\downarrow)=0.9239\begin{pmatrix}0\\1\\0\\-0.4142\end{pmatrix}=\begin{pmatrix}0\\0.9239\\0\\-0.3827\end{pmatrix}.$$

($\sigma_z\chi_\downarrow=-\chi_\downarrow$ なので小成分は符号が逆.)

(3) $w(\bm{p},\uparrow)=0.9239\begin{pmatrix}-0.4142\,\sigma_z\chi_\uparrow\\\chi_\uparrow\end{pmatrix}=\begin{pmatrix}-0.3827\\0\\0.9239\\0\end{pmatrix}$.エネルギー $-\sqrt2\,mc^2$.

(4) $mc^2=1$,$p=1$(単位 $mc$)で,$H=\begin{pmatrix}1&\sigma_z\\\sigma_z&-1\end{pmatrix}$.$u=(a,0,b,0)^{\mathsf T}$($a=0.9239$,$b=0.3827$)に作用させると,例題62.5 のとおり $Hu=(a+b,0,a-b,0)^{\mathsf T}=(1.3066,0,0.5412,0)^{\mathsf T}$ で,$E\,u=1.4142\,(0.9239,0,0.3827,0)^{\mathsf T}=(1.3066,0,0.5412,0)^{\mathsf T}$ と一致する.大成分と小成分の比は $b/a=0.4142=1/(\sqrt2+1)$,小成分の重みは $b^2=0.1464=(E-mc^2)/2E$(次小節)である.$w(\bm{p},\uparrow)$ も $H\,w=(-0.3827+0.9239,\,0,\,-0.3827-0.9239,\,0)^{\mathsf T}=(0.5412,0,-1.3066,0)^{\mathsf T}=-\sqrt2\,(-0.3827,0,0.9239,0)^{\mathsf T}$ を満たす.

62.5.3 大成分と小成分 — 規格化の断り

正エネルギー解 \eqref{eq:62-u} で,上 2 成分 $u_A=N_p\chi_s$ と下 2 成分 $u_B=N_p\,c\,\bm{\sigma}\cdot\bm{p}\,\chi_s/(E_p+mc^2)$ の大きさを比べよう.$\abs{\bm{\sigma}\cdot\bm{p}\,\chi_s}=p$ なので

\begin{equation} \frac{\abs{u_B}}{\abs{u_A}}=\frac{pc}{E_p+mc^2}=\tanh\frac{\eta}{2}\ \approx\ \frac{p}{2mc}\approx\frac{v}{2c}\qquad(v\ll c), \label{eq:62-ratio} \end{equation}

である.2 つめの等号は,$pc=mc^2\sinh\eta$,$E_p=mc^2\cosh\eta$ と $\sinh\eta/(\cosh\eta+1)=\tanh(\eta/2)$ による.上 2 成分を大成分(large component),下 2 成分を小成分(small component)とよぶ.また,各成分の重み(確率)は

\begin{equation} \abs{u_A}^2=\frac{E_p+mc^2}{2E_p},\qquad\abs{u_B}^2=\frac{E_p-mc^2}{2E_p}\qquad\left(\abs{u_A}^2+\abs{u_B}^2=1\right) \label{eq:62-weights} \end{equation}

である($\abs{u_B}^2=N_p^2c^2p^2/(E_p+mc^2)^2=\dfrac{E_p+mc^2}{2E_p}\cdot\dfrac{E_p-mc^2}{E_p+mc^2}$).$p\to0$ では $\abs{u_B}^2\to0$,$p\to\infty$ では $1/2$ に近づく(図62.5).負エネルギー解 $w$ では,大小が逆になる:$w_B$ が大成分,$w_A$ が小成分である.

表62.2 電子の運動エネルギー $T$ と,正エネルギー解の大小成分($mc^2=510.999\ \mathrm{keV}$)
$T$$p/mc$$v/c$$\abs{u_B}/\abs{u_A}$小成分の重み $\dfrac{E_p-mc^2}{2E_p}$
$10\ \mathrm{keV}$$0.199$$0.195$$0.098$$0.0096$(約 1 %)
$100\ \mathrm{keV}$$0.656$$0.548$$0.299$$0.082$
$200\ \mathrm{keV}$$0.967$$0.695$$0.405$$0.141$
$211.66\ \mathrm{keV}$($p=mc$)$1$$0.707$$0.414$$0.146$
$300\ \mathrm{keV}$$1.232$$0.777$$0.476$$0.185$
$1\ \mathrm{MeV}$$2.783$$0.941$$0.703$$0.331$
上段は Dirac 方程式の分散関係のグラフ.横軸は運動量 p を mc で割った値,縦軸はエネルギー E を mc の 2 乗で割った値.青の上の枝が E がプラスの解,赤の下の枝が E がマイナスの解で,2 つの枝の間に幅 2mc の 2 乗(電子で 1.022 MeV)の禁制帯がある.破線は p が小さいときの放物線近似,点線は質量ゼロの場合の E が pc に等しい直線.下段は正エネルギー解の大成分(青)と小成分(赤)の重みを p を mc で割った値の関数として描いたもので,p が 0 のとき大成分が 1,小成分が 0,p が大きくなると両方が 1/2 に近づき,p が mc のとき大成分 0.854,小成分 0.146
図62.5 上:Dirac 方程式の分散関係 $E=\pm\sqrt{p^2c^2+m^2c^4}$.上の枝(青)が正エネルギー,下の枝(赤)が負エネルギーで,各枝は 2 重に縮退している(スピン 2 通り).破線は $E=\pm(mc^2+p^2/2m)$(非相対論の近似),点線は質量ゼロの場合の $E=\pm pc$.下:正エネルギー解の大成分(青)と小成分(赤)の重み.$p=mc$ で小成分は $0.146$.

注意:スピノルの規格化 — $u^\dagger u=1$ と $\bar{u}u=2m$

この章のスピノルは,非相対論の量子力学と同じ規格化 $u^\dagger u=1$(確率密度 $\rho=\psi^\dagger\psi$ が $1$,つまり 1 個の粒子が単位体積にいる)を採用した.このとき,Dirac 共役のスカラー積は,式 \eqref{eq:62-weights} から

\begin{equation} \bar{u}u=u^\dagger\gamma^0u=\abs{u_A}^2-\abs{u_B}^2=\frac{E_p+mc^2}{2E_p}-\frac{E_p-mc^2}{2E_p}=\frac{mc^2}{E_p} \label{eq:62-ubaru} \end{equation}

となり,$1$ ではない.素粒子物理学(AD 09)では,Lorentz 不変な規格化 $\bar{u}u=2m$($\hbar=c=1$ で,同時に $u^\dagger u=2E$)を使う.これは本書の $u$ に $\sqrt{2E_p}$ を掛けたもの $u_{\mathrm{AD09}}=\sqrt{2E_p}\,u$ で,実際 $\bar{u}_{\mathrm{AD09}}u_{\mathrm{AD09}}=2E_p\cdot\dfrac{mc^2}{E_p}=2mc^2$ である($c=1$ で $2m$).この規格化は,状態の内積が $\langle\bm{p}|\bm{p}'\rangle=2E_p(2\pi)^3\delta^3(\bm{p}-\bm{p}')$ となる相対論的な規格化と組になっている.どちらも同じ物理を表し,本書では非相対論との接続のしやすさから $u^\dagger u=1$ を使う.

例題62.10 200 kV の透過電子顕微鏡の電子の大成分と小成分

加速電圧 $200\ \mathrm{kV}$ の透過電子顕微鏡(TEM)の電子(運動エネルギー $T=200\ \mathrm{keV}$)の正エネルギー平面波解について,大小成分の比と重み,$\bar{u}u$ を求めよ.全エネルギー,運動量,速さ,波長は第61章の例題61.2 で求めた値を使ってよい.

解答 第61章の例題61.2 より,$mc^2=510.999\ \mathrm{keV}$ として $E=mc^2+T=711.0\ \mathrm{keV}$,$\gamma_{\mathrm L}=E/mc^2=1.3914$,$pc=\sqrt{T(T+2mc^2)}=494.4\ \mathrm{keV}$,$v/c=pc/E=0.6953$,$\lambda=2.508\ \mathrm{pm}$ である.

大小成分の比は式 \eqref{eq:62-ratio}:$\dfrac{pc}{E+mc^2}=\dfrac{494.4}{1222.0}=0.4046$,小成分の重みは式 \eqref{eq:62-weights}:$\dfrac{E-mc^2}{2E}=\dfrac{200}{1422.0}=0.1406$(大成分は $0.8594$).$\bar{u}u=mc^2/E=0.7187$ で,Lorentz 因子の逆数 $1/\gamma_{\mathrm L}=0.7187$ に等しい.すなわち,$200\ \mathrm{kV}$ の電子は速さが光の約 70 % で,4 成分のスピノルの約 14 % が「小成分」に入っている.

62.5.4 ヘリシティ — 質量ゼロの極限

運動量 $\bm{p}$ の平面波では,スピンの $z$ 成分 $\Sigma_z$ は保存しないが,運動の向きへの射影は保存する.運動量の向きの単位ベクトルを $\bm{n}=\bm{p}/\abs{\bm{p}}$ として,ヘリシティ(helicity)の演算子 $\bm{\Sigma}\cdot\hat{\bm{p}}/\abs{\hat{\bm{p}}}$ を考える.運動量が $\bm{p}$ の平面波に作用するときは,これは行列 $\bm{\Sigma}\cdot\bm{n}$ として働く.まず,Dirac–Pauli 表示で $\alpha_i=\begin{pmatrix}0&\sigma_i\\\sigma_i&0\end{pmatrix}$,$\Sigma_j=\begin{pmatrix}\sigma_j&0\\0&\sigma_j\end{pmatrix}$ だから

\begin{equation} \comm{\alpha_i}{\Sigma_j}=\begin{pmatrix}0&\comm{\sigma_i}{\sigma_j}\\\comm{\sigma_i}{\sigma_j}&0\end{pmatrix}=2i\sum_k\varepsilon_{ijk}\begin{pmatrix}0&\sigma_k\\\sigma_k&0\end{pmatrix}=2i\sum_k\varepsilon_{ijk}\,\alpha_k,\qquad\comm{\beta}{\Sigma_j}=0 \label{eq:62-alpha-Sigma} \end{equation}

である($\comm{\sigma_i}{\sigma_j}=2i\sum_k\varepsilon_{ijk}\sigma_k$ を使った.$\beta$ と $\Sigma_j$ はどちらもブロック対角で,$\beta=\mathrm{diag}(\mathbb{1},-\mathbb{1})$ は $\Sigma_j=\mathrm{diag}(\sigma_j,\sigma_j)$ と可換).これを使うと,運動量が $\bm{p}$ の状態で,行列 $H(\bm{p})=c\,\bm{\alpha}\cdot\bm{p}+\beta mc^2$ と $\bm{\Sigma}\cdot\bm{p}$ の交換子は

$$ \comm{H(\bm{p})}{\bm{\Sigma}\cdot\bm{p}}=c\sum_{i,j}p_ip_j\comm{\alpha_i}{\Sigma_j}=2ic\sum_{i,j,k}\varepsilon_{ijk}\,p_ip_j\,\alpha_k=0 $$

となる($p_ip_j$ は $i,j$ の入れ替えで対称,$\varepsilon_{ijk}$ は反対称だから和は $0$).したがって,$H(\bm{p})$ と $\bm{\Sigma}\cdot\bm{n}$ は同時に対角化できる.$\bm{\Sigma}\cdot\bm{n}$ の固有値は $\pm1$(二乗は $(\bm{\sigma}\cdot\bm{n})^2=1$)で,これをヘリシティ $\lambda=\pm1$ とよぶ(de Broglie 波長の $\lambda$ とは別).$\hat{S}_{\bm{n}}=\tfrac{\hbar}{2}\bm{\Sigma}\cdot\bm{n}$ の固有値は $\pm\tfrac{\hbar}{2}$ で,$+$ は「スピンが進行方向を向く」(右巻き),$-$ は「進行方向と逆向き」(左巻き)である.

ヘリシティは,$m\ne0$ では Lorentz 不変ではない.粒子より速く進む座標系に移ると,粒子の運動の向きが逆になるのにスピンの向きは変わらないので,ヘリシティの符号が変わる.$m=0$ では粒子は $c$ で走り,追い越す座標系がないので,ヘリシティは座標系によらず,次に見るようにカイラリティと一致する.

固有スピノルは,2 成分スピノル $\chi_\pm(\bm{n})$($\bm{\sigma}\cdot\bm{n}\,\chi_\pm=\pm\chi_\pm$)を式 \eqref{eq:62-u} に入れるだけで得られる.$\bm{n}$ の極角を $\theta$,方位角を $\varphi$ とすると,$\chi_+=\begin{pmatrix}\cos\frac{\theta}{2}\\e^{i\varphi}\sin\frac{\theta}{2}\end{pmatrix}$,$\chi_-=\begin{pmatrix}-e^{-i\varphi}\sin\frac{\theta}{2}\\\cos\frac{\theta}{2}\end{pmatrix}$ である(第24章 24.9 の任意の向きのスピン).$c\,\bm{\sigma}\cdot\bm{p}\,\chi_\pm=\pm pc\,\chi_\pm$ なので,

\begin{equation} u(\bm{p},\pm)=\sqrt{\frac{E_p+mc^2}{2E_p}}\begin{pmatrix}\chi_\pm\\[1mm]\pm\dfrac{pc}{E_p+mc^2}\,\chi_\pm\end{pmatrix},\qquad\bm{\Sigma}\cdot\bm{n}\;u(\bm{p},\pm)=\pm\,u(\bm{p},\pm). \label{eq:62-helicity} \end{equation}

実際,$\bm{\Sigma}\cdot\bm{n}=\mathrm{diag}(\bm{\sigma}\cdot\bm{n},\bm{\sigma}\cdot\bm{n})$ は上下の両ブロックに同じ $\chi_\pm$ があるので,固有値 $\pm1$ を与える.

質量がゼロ($m=0$)の場合は,$E_p=pc$ で $\abs{u_B}/\abs{u_A}=pc/(pc)=1$,式 \eqref{eq:62-helicity} は

\begin{equation} u(\bm{p},\pm)\Big|_{m=0}=\frac{1}{\sqrt2}\begin{pmatrix}\chi_\pm\\\pm\chi_\pm\end{pmatrix} \label{eq:62-massless} \end{equation}

となり,大成分と小成分が同じ大きさになる.さらに,$H=c\,\bm{\alpha}\cdot\bm{p}$ は,$\psi_A$ と $\psi_B$ の和と差を $\xi_\pm=(\psi_A\pm\psi_B)/\sqrt2$ と組み替えると,$i\hbar\,\partial_t\xi_+=c\,\bm{\sigma}\cdot\hat{\bm{p}}\,\xi_+$,$i\hbar\,\partial_t\xi_-=-c\,\bm{\sigma}\cdot\hat{\bm{p}}\,\xi_-$ のように,2 成分ずつの別々の方程式に分かれる($\hat{H}(\psi_A,\psi_B)^{\mathsf T}=c\,(\bm{\sigma}\cdot\hat{\bm{p}}\,\psi_B,\ \bm{\sigma}\cdot\hat{\bm{p}}\,\psi_A)^{\mathsf T}$ の和と差をとる).エネルギーは $E=\pm c\abs{\bm{p}}$ で,これが Weyl(ワイル)方程式である.$\xi_\pm$ は $\gamma^5$ の固有値 $\pm1$(カイラリティ)をもつ状態でもあり,質量ゼロの正エネルギーでは,ヘリシティとカイラリティが一致する(AD 09 第9章 9.5).グラフェンの電子は,この質量ゼロの Dirac 方程式と同じ形の分散をもつ(第65章).

例題62.11 ヘリシティの保存と固有スピノル

(1) 質量ありの電子($p=mc$)が $x$ 方向に進むとき,ヘリシティ $\lambda=+1$ の正エネルギー解 $u(\bm{p},+)$ を求め,$(H-E)u=0$ と $\bm{\Sigma}\cdot\bm{n}\,u=u$ を確かめよ.(2) この状態での $\Sigma_z$ の期待値を求めよ.(3) 質量ゼロの極限での $u$ を求めよ.

解答 (1) $\bm{n}=\bm{e}_x$($\theta=\pi/2$,$\varphi=0$)で $\chi_+=\dfrac{1}{\sqrt2}(1,1)^{\mathsf T}$($\sigma_x\chi_+=\chi_+$).$N_p=0.9239$,$\dfrac{pc}{E_p+mc^2}=0.4142$ で,式 \eqref{eq:62-helicity} から

$$u(\bm{p},+)=0.9239\begin{pmatrix}\chi_+\\0.4142\,\chi_+\end{pmatrix}=\begin{pmatrix}0.6533\\0.6533\\0.2706\\0.2706\end{pmatrix}.$$

$H=\begin{pmatrix}1&\sigma_x\\\sigma_x&-1\end{pmatrix}$($mc^2=1$,$p=1$).$u=(a,a,b,b)^{\mathsf T}$($a=0.6533$,$b=0.2706$)に対して $\sigma_x(b,b)^{\mathsf T}=(b,b)^{\mathsf T}$,$\sigma_x(a,a)^{\mathsf T}=(a,a)^{\mathsf T}$ だから $Hu=(a+b,\,a+b,\,a-b,\,a-b)^{\mathsf T}=(0.9239,0.9239,0.3827,0.3827)^{\mathsf T}$.一方 $\sqrt2\,u=1.4142\,(0.6533,0.6533,0.2706,0.2706)^{\mathsf T}=(0.9239,0.9239,0.3827,0.3827)^{\mathsf T}$ で一致する.ヘリシティは $\bm{\Sigma}\cdot\bm{n}=\Sigma_x=\mathrm{diag}(\sigma_x,\sigma_x)$ で,$\Sigma_xu=(\sigma_x(a,a),\sigma_x(b,b))=(a,a,b,b)=u$,固有値 $+1$.

(2) $\Sigma_z=\mathrm{diag}(1,-1,1,-1)$ なので,$u^\dagger\Sigma_zu=a^2-a^2+b^2-b^2=0$.この状態では,スピンの $z$ 成分を測ると $+\hbar/2$ と $-\hbar/2$ が等確率で現れる(スピンは運動の向き $x$ を向いている).

(3) $m\to0$ では $pc/(E_p+mc^2)\to1$,$N_p\to1/\sqrt2$ で,$u(\bm{p},+)=\dfrac{1}{\sqrt2}\begin{pmatrix}\chi_+\\\chi_+\end{pmatrix}=\dfrac{1}{2}(1,1,1,1)^{\mathsf T}=(0.5,0.5,0.5,0.5)^{\mathsf T}$.ヘリシティ $-$ の解は $\dfrac{1}{\sqrt2}(\chi_-;-\chi_-)$ で,$\chi_-=\dfrac{1}{\sqrt2}(-1,1)^{\mathsf T}$ から $\dfrac12(-1,1,1,-1)^{\mathsf T}$.

62.5.5 材料への窓 — 狭ギャップ半導体の Dirac 型分散

応用:InSb のバンドは Dirac 方程式に似ている

インジウムアンチモン(InSb)やインジウムヒ素(InAs)のように,バンドギャップ $E_g$ が小さい半導体では,伝導帯と価電子帯だけを取り出した 2 バンド模型(Kane(ケイン),1957)が有効で,その分散は

\begin{equation} E(\bm{k})=\pm\sqrt{\Delta^2+\hbar^2v^2k^2},\qquad\Delta=\frac{E_g}{2} \label{eq:62-kane} \end{equation}

と書ける.これは,Dirac 方程式の分散 $E=\pm\sqrt{p^2c^2+m^2c^4}$ で,$c\to v$(結晶中の電子の代表的な速さ),$mc^2\to\Delta$(バンドの中点からギャップの半分),$\bm{p}\to\hbar\bm{k}$ と置き換えたものである.2 つのバンドの包絡波動関数は 2 成分(実際にはスピンを加えて 4 成分)の「スピノル」で,$\hat{H}=\begin{pmatrix}\Delta&\hbar v\,\bm{\sigma}\cdot\bm{k}\\\hbar v\,\bm{\sigma}\cdot\bm{k}&-\Delta\end{pmatrix}$ という Dirac ハミルトニアンと同じ形の行列になる($\bm{\sigma}$ は軌道の自由度の Pauli 行列で,「擬スピン」とよばれることがある).電子の質量 $m$ に当たるものが $m^*=\Delta/v^2$ で,$\hbar k$ が小さいときは $E\approx\Delta+\hbar^2k^2/2m^*$,$m^*=\Delta/v^2$ の放物線バンドになる.すなわち,「バンドギャップの小さい半導体ほど有効質量が小さい」という経験則が,Dirac 方程式の $m=mc^2/c^2$ と同じ関係から出てくる.実際の結晶では,もっと多くのバンドが関与し,上の式は理想化である.しかし,分散曲線の形(放物線から直線への移り変わり)は InSb でよく成り立つ.

例題62.12 InSb を Dirac 型分散で表す

InSb の(室温の代表的な)バンドギャップ $E_g=0.17\ \mathrm{eV}$,伝導帯底の有効質量 $m^*=0.014\,m_{\mathrm e}$ を使う.(1) 式 \eqref{eq:62-kane} の $\Delta$ と速さ $v$ を,$m^*=\Delta/v^2$ から求めよ.$c$ との比も示せ.(2) $\Delta/\hbar v$ を求めよ.(3) 伝導帯底からの運動エネルギー $T=E-\Delta$ が $\Delta/2$ のとき,放物線近似 $T_p=\hbar^2k^2/2m^*$ はどれだけ過大評価か.また,放物線近似が 10 % ずれる $T$ はいくらか.(4) 真空中の電子($\Delta=mc^2$)とのスケール比を求めよ.

解答 (1) $\Delta=E_g/2=0.085\ \mathrm{eV}=0.085\times1.6022\times10^{-19}\ \mathrm{J}=1.3618\times10^{-20}\ \mathrm{J}$.$m^*=0.014\times9.1094\times10^{-31}\ \mathrm{kg}=1.2753\times10^{-32}\ \mathrm{kg}$.$v^2=\Delta/m^*=1.0678\times10^{12}\ \mathrm{m^2/s^2}$,$v=1.033\times10^6\ \mathrm{m/s}$(約 $1.03\times10^6\ \mathrm{m/s}$).$c/v=2.9979\times10^8/1.0334\times10^6=290$,すなわち $v\approx c/290$.グラフェンの Fermi 速度 $v_{\mathrm F}\approx10^6\ \mathrm{m/s}$(第65章)と同程度である.

(2) $\Delta/\hbar v=1.3618\times10^{-20}/(1.0546\times10^{-34}\times1.0334\times10^6)\ \mathrm{m^{-1}}=1.25\times10^8\ \mathrm{m^{-1}}=0.125\ \mathrm{nm^{-1}}$.これが,分散が放物線から直線に移り変わる波数の目安である(これより小さい $k$ では放物線,大きい $k$ では $E\approx\hbar vk$).

(3) $x\equiv(\hbar vk/\Delta)^2$ とおくと,$E=\Delta\sqrt{1+x}$,$T=\Delta(\sqrt{1+x}-1)$,放物線近似は $T_p=\hbar^2k^2/2m^*=\hbar^2k^2v^2/2\Delta=\Delta x/2$.$T=\Delta/2$ なら $\sqrt{1+x}=1.5$,$x=1.25$ で,$T_p=0.625\,\Delta$.$T=0.5\,\Delta=42.5\ \mathrm{meV}$ に対して $T_p=0.625\,\Delta=53.1\ \mathrm{meV}$ なので,25 % の過大評価である(そのときの $k=\sqrt{1.25}\times0.125\ \mathrm{nm^{-1}}=0.140\ \mathrm{nm^{-1}}$).10 % ずれる場合は $T_p/T-1=\dfrac{x/2}{\sqrt{1+x}-1}-1=0.1$ で,$\sqrt{1+x}=s$ とおくと $\dfrac{(s^2-1)/2}{s-1}=\dfrac{s+1}{2}=1.1$,$s=1.2$,$x=0.44$,$T=0.2\,\Delta=17\ \mathrm{meV}$.すなわち,伝導帯底から $17\ \mathrm{meV}$ を超えて電子を励起すると,放物線バンドの近似(一定の有効質量)は 10 % 以上ずれる(非放物線性).展開すると $E\approx\Delta+T_p-T_p^2/2\Delta$ である.

(4) 真空中の電子は $\Delta=mc^2=0.511\ \mathrm{MeV}$,$v=c$ なので,エネルギーのスケールの比は $0.511\ \mathrm{MeV}/0.085\ \mathrm{eV}=6.0\times10^6$,ギャップ($2\Delta$)は $1.022\ \mathrm{MeV}$ と $0.17\ \mathrm{eV}$ で同じ比である.波数のスケール $\Delta/\hbar v$ の比は,$mc/\hbar=2.59\times10^{12}\ \mathrm{m^{-1}}$ と $1.25\times10^8\ \mathrm{m^{-1}}$ で $2.1\times10^4$.エネルギーと波数を $\Delta$,$\Delta/\hbar v$ で無次元化すれば,同じ曲線になる(図62.6).

左は InSb の Dirac 型分散 E がプラスマイナスで Δ の 2 乗 + ħv k の 2 乗の平方根を,波数 k を nm の −1 乗で表した横軸に対して描いたグラフ.青が伝導帯,赤が価電子帯で,間に幅 0.17 eV のギャップがある.破線は放物線近似,点線は E が ± ħ v k に等しい直線.右は同じ分散を E を Δ で,ħ v k を Δ で割って無次元化したグラフで,真空中の電子(Δ が mc の 2 乗で 0.511 MeV,v が c)と InSb(Δ が 0.085 eV,v が c の 290 分の 1)が同じ曲線になることを示す
図62.6 Dirac 型分散 $E=\pm\sqrt{\Delta^2+\hbar^2v^2k^2}$.左:InSb($E_g=0.17\ \mathrm{eV}$,$v=1.03\times10^6\ \mathrm{m/s}$).青が伝導帯,赤が価電子帯,破線が放物線近似 $E=\pm(\Delta+\hbar^2k^2/2m^*)$,点線が $E=\pm\hbar vk$.右:$E$ と $\hbar vk$ を $\Delta$ で割った無次元の形.真空中の電子($\Delta=mc^2$,$v=c$)も同じ曲線になる(図62.5 上段と同じ形).

62.6 スピンが自然に現れる — $\hat{\bm{J}}=\hat{\bm{L}}+\hbar\bm{\Sigma}/2$ の保存

Dirac 方程式は,スピンの存在を仮定せずに作られた.それにもかかわらず,電子のスピン $\tfrac12$ は方程式の中に「最初から入っている」.それを見るには,角運動量を調べればよい.空間に特別な向きのない自由粒子(あるいは中心力場の中の粒子)では,回転対称性のために,何らかの角運動量が保存されるはずである(第21章 21.3).

62.6.1 軌道角運動量は保存しない

軌道角運動量 $\hat{\bm{L}}=\hat{\bm{x}}\times\hat{\bm{p}}$($\hat{L}_k=\sum_{a,b}\varepsilon_{kab}\hat{x}_a\hat{p}_b$)と $\hat{H}$ の交換子を計算しよう.Schrödinger 方程式の自由粒子 $\hat{H}=\hat{\bm{p}}^2/2m$ や Klein–Gordon 方程式では,$\hat{H}$ は $\hat{\bm{p}}^2$ だけに依存するので $\hat{\bm{L}}$ と可換だった.Dirac の $\hat{H}$ は $\hat{\bm{p}}$ の 1 次式で,しかも行列 $\alpha_j$ を含むので,様子が違う.

定理62.7 $\hat{\bm{L}}$ は保存しない

\begin{equation} \comm{\hat{H}}{\hat{\bm{L}}}=-i\hbar c\,\bm{\alpha}\times\hat{\bm{p}}\ \ne\ 0,\qquad\text{成分で}\quad\comm{\hat{H}}{\hat{L}_k}=-i\hbar c\sum_{i,j}\varepsilon_{kij}\,\alpha_i\hat{p}_j. \label{eq:62-HL} \end{equation}

証明

$\beta$ は定数行列で,$\hat{L}_k$ は座標と微分だけの演算子だから,$\comm{\beta mc^2}{\hat{L}_k}=0$.残るのは $c\sum_j\alpha_j\comm{\hat{p}_j}{\hat{L}_k}$ である.$\hat{p}_j$ どうしは可換で,$\comm{\hat{p}_j}{\hat{x}_a}=-i\hbar\,\delta_{ja}$ だから,

$$ \comm{\hat{p}_j}{\hat{L}_k}=\sum_{a,b}\varepsilon_{kab}\,\comm{\hat{p}_j}{\hat{x}_a}\,\hat{p}_b=-i\hbar\sum_b\varepsilon_{kjb}\,\hat{p}_b. $$

よって $\comm{\hat{H}}{\hat{L}_k}=c\sum_j\alpha_j\left(-i\hbar\sum_b\varepsilon_{kjb}\hat{p}_b\right)=-i\hbar c\sum_{j,b}\varepsilon_{kjb}\,\alpha_j\hat{p}_b$.外積の成分 $(\bm{a}\times\bm{b})_k=\sum_{j,b}\varepsilon_{kjb}a_jb_b$ を使うと,これは $-i\hbar c\,(\bm{\alpha}\times\hat{\bm{p}})_k$ である.

(証明終わり)

右辺 $\bm{\alpha}\times\hat{\bm{p}}$ はゼロではない.たとえば $z$ 成分は $\alpha_x\hat{p}_y-\alpha_y\hat{p}_x$ である.運動量 $\bm{p}$ と,速度演算子 $c\,\bm{\alpha}$(62.3 節)が平行でないために現れる.古典力学では,自由粒子の速度は運動量に平行で,$\dd\bm{L}/\dd t=\bm{v}\times\bm{p}=0$ である.Dirac の理論では $c\,\bm{\alpha}$ が $\bm{p}$ に平行ではないので(速度演算子が $\pm c$ を行き来する),軌道角運動量だけでは保存しない.回転対称なハミルトニアンなのに角運動量が保存しない,という矛盾は,「軌道角運動量だけでは全角運動量の全体でない」と解釈するしかない.足りない部分を探そう.

62.6.2 スピン行列 $\bm{\Sigma}$

定義62.3 スピン行列 $\bm{\Sigma}$

\begin{equation} \Sigma_k\equiv-\frac{i}{2}\sum_{i,j}\varepsilon_{kij}\,\alpha_i\alpha_j\qquad\left(\Sigma_x=-i\alpha_y\alpha_z,\ \ \Sigma_y=-i\alpha_z\alpha_x,\ \ \Sigma_z=-i\alpha_x\alpha_y\right). \label{eq:62-Sigma-def} \end{equation}

Dirac–Pauli 表示では,$\bm{\Sigma}=\begin{pmatrix}\bm{\sigma}&0\\0&\bm{\sigma}\end{pmatrix}$ すなわち $\Sigma_k=\mathrm{diag}(\sigma_k,\sigma_k)$ である.

この表示での値は,たとえば $\alpha_x\alpha_y=\mathrm{diag}(\sigma_x\sigma_y,\sigma_x\sigma_y)=i\,\mathrm{diag}(\sigma_z,\sigma_z)$ から $-i\alpha_x\alpha_y=\mathrm{diag}(\sigma_z,\sigma_z)=\Sigma_z$ と確かめられる(62.4 節の回転の行列に現れたものである).$\Sigma_k$ の性質を挙げる.

最後の関係を使うと,$\hat{H}$ との交換子が計算できる.$\comm{\beta mc^2}{\Sigma_k}=0$ で,$\hat{p}_j$ は行列と可換だから

\begin{equation} \comm{\hat{H}}{\Sigma_k}=c\sum_j\hat{p}_j\comm{\alpha_j}{\Sigma_k}=2ic\sum_{j,l}\varepsilon_{jkl}\,\alpha_l\hat{p}_j=2ic\,(\bm{\alpha}\times\hat{\bm{p}})_k. \label{eq:62-HSigma} \end{equation}

最後の等号では $\varepsilon_{jkl}=\varepsilon_{klj}$(巡回)と $(\bm{a}\times\bm{b})_k=\sum\varepsilon_{klj}a_lb_j$ を使った.$\hat{H}$ は $\bm{\Sigma}$ とも可換でない.しかし,式 \eqref{eq:62-HL} と \eqref{eq:62-HSigma} の右辺は,同じ $\bm{\alpha}\times\hat{\bm{p}}$ に比例している.

62.6.3 全角運動量 $\hat{\bm{J}}=\hat{\bm{L}}+\hbar\bm{\Sigma}/2$ が保存する

定理62.8 全角運動量の保存

\begin{equation} \hat{\bm{J}}=\hat{\bm{L}}+\hat{\bm{S}},\qquad\hat{\bm{S}}\equiv\frac{\hbar}{2}\bm{\Sigma},\qquad\comm{\hat{H}}{\hat{\bm{J}}}=0. \label{eq:62-J} \end{equation}

さらに,$\hat{\bm{S}}$ は角運動量の交換関係 $\comm{\hat{S}_i}{\hat{S}_j}=i\hbar\sum_k\varepsilon_{ijk}\hat{S}_k$ を満たし,$\hat{\bm{S}}^2=\tfrac{3}{4}\hbar^2=s(s+1)\hbar^2$,すなわち $s=\tfrac12$ で,$\hat{S}_z$ の固有値は $\pm\tfrac{\hbar}{2}$ である.

証明

式 \eqref{eq:62-HL} と \eqref{eq:62-HSigma} から

$$\comm{\hat{H}}{\hat{J}_k}=\comm{\hat{H}}{\hat{L}_k}+\frac{\hbar}{2}\comm{\hat{H}}{\Sigma_k}=-i\hbar c\,(\bm{\alpha}\times\hat{\bm{p}})_k+\frac{\hbar}{2}\cdot2ic\,(\bm{\alpha}\times\hat{\bm{p}})_k=0.$$

交換関係:$\comm{\hat{S}_i}{\hat{S}_j}=\dfrac{\hbar^2}{4}\comm{\Sigma_i}{\Sigma_j}=\dfrac{\hbar^2}{4}\,2i\sum_k\varepsilon_{ijk}\Sigma_k=i\hbar\sum_k\varepsilon_{ijk}\,\dfrac{\hbar}{2}\Sigma_k$.二乗:$\hat{\bm{S}}^2=\dfrac{\hbar^2}{4}\left(\Sigma_x^2+\Sigma_y^2+\Sigma_z^2\right)=\dfrac{\hbar^2}{4}\cdot3$(各 $\Sigma_k^2=\mathbb{1}$).$s(s+1)=\tfrac34$ を解いて $s=\tfrac12$($s\ge0$).$\hat{S}_z=\tfrac{\hbar}{2}\Sigma_z$ の固有値は $\Sigma_z=\pm1$ から $\pm\tfrac{\hbar}{2}$.

(証明終わり)

したがって,Dirac 方程式の保存する角運動量は軌道だけではなく,軌道角運動量 $\hat{\bm{L}}$ にスピン $\hat{\bm{S}}=\tfrac{\hbar}{2}\bm{\Sigma}$ を加えた $\hat{\bm{J}}$ である.$\hat{\bm{S}}$ は,スピン $\tfrac12$ の角運動量演算子(第23章の $\hat{S}_i=\tfrac{\hbar}{2}\sigma_i$)の $4\times4$ 版で,$\hat{\bm{L}}$ とは独立な変数(スピノルの添字)に作用するので $\comm{\hat{L}_i}{\hat{S}_j}=0$ が成り立つ.$\hat{J}_i$ の交換関係 $\comm{\hat{J}_i}{\hat{J}_j}=i\hbar\sum_k\varepsilon_{ijk}\hat{J}_k$ は $\hat{L}$ と $\hat{S}$ のそれぞれの関係から従う.全角運動量の量子数 $j$ は,軌道が整数 $l$,スピンが $\tfrac12$ なので,$j=l\pm\tfrac12$ の半整数になる(第25章 25.1 の合成則).

図62.7 J = L + ħΣ/2 のベクトル模型(自由電子) J = L + ħΣ/2(一定) L(軌道) ħΣ/2(スピン) 歳差 自由電子でも L は保存しない スピンも保存しない 和だけが保存する dL/dt = cα × pˆ  d(ħΣ/2)/dt = −cα × pˆ 
図62.7 自由電子の角運動量のベクトル模型.全角運動量 $\hat{\bm{J}}=\hat{\bm{L}}+\hbar\bm{\Sigma}/2$(茶)は保存し,方向が一定である.軌道角運動量 $\hat{\bm{L}}$(青)とスピン $\hbar\bm{\Sigma}/2$(緑)は,それぞれ単独では保存せず,$\hat{\bm{J}}$ のまわりを歳差運動して,互いに角運動量をやり取りする.破線は先端の軌跡,薄い点線は別の時刻の $\hat{\bm{L}}$ とスピン.これは模式図であり,実際には $\hat{\bm{L}}$ やスピンの大きさも変化しうる.

Heisenberg の運動方程式(第50章 50.2)で見ると,やり取りの様子がわかる:

\begin{equation} \frac{\dd\hat{\bm{L}}}{\dd t}=\frac{i}{\hbar}\comm{\hat{H}}{\hat{\bm{L}}}=c\,\bm{\alpha}\times\hat{\bm{p}},\qquad \frac{\dd\hat{\bm{S}}}{\dd t}=\frac{i}{\hbar}\comm{\hat{H}}{\hat{\bm{S}}}=-c\,\bm{\alpha}\times\hat{\bm{p}}. \label{eq:62-dLdt} \end{equation}

軌道角運動量が増えた分だけスピンが減り,和 $\hat{\bm{J}}$ は変わらない.右辺の $c\,\bm{\alpha}\times\hat{\bm{p}}=\hat{\bm{v}}\times\hat{\bm{p}}$ は,速度演算子と運動量の外積であり,古典力学では $\dd\bm{L}/\dd t=\bm{v}\times\bm{p}=0$ となって消えていた項である.量子力学ではこの項が消えず,それがスピンと軌道の結合の源になる.

例題62.13 $\comm{\hat{H}}{\hat{L}_z}$,$\comm{\hat{H}}{\Sigma_z}$ を手計算で求め,$\hat{J}_z$ の保存を示す

(1) $\comm{\hat{H}}{\hat{L}_z}=-i\hbar c\,(\alpha_x\hat{p}_y-\alpha_y\hat{p}_x)$ を,$\hat{L}_z=\hat{x}\hat{p}_y-\hat{y}\hat{p}_x$ と $\comm{\hat{p}_x}{\hat{x}}=-i\hbar$ から導け.(2) $\comm{\hat{H}}{\Sigma_z}=2ic\,(\alpha_x\hat{p}_y-\alpha_y\hat{p}_x)$ を,Dirac–Pauli 表示で導け.(3) $\hat{J}_z=\hat{L}_z+\tfrac{\hbar}{2}\Sigma_z$ が保存することを示せ.

解答 (1) $\hat{H}=c(\alpha_x\hat{p}_x+\alpha_y\hat{p}_y+\alpha_z\hat{p}_z)+\beta mc^2$ で,$\beta$ と $\alpha_i$ は $\hat{L}_z$ と可換.各 $\hat{p}_j$ との交換子を計算する.$\comm{\hat{p}_x}{\hat{L}_z}=\comm{\hat{p}_x}{\hat{x}}\hat{p}_y-\comm{\hat{p}_x}{\hat{y}}\hat{p}_x=-i\hbar\hat{p}_y-0$,$\comm{\hat{p}_y}{\hat{L}_z}=\comm{\hat{p}_y}{\hat{x}}\hat{p}_y-\comm{\hat{p}_y}{\hat{y}}\hat{p}_x=0-(-i\hbar)\hat{p}_x=i\hbar\hat{p}_x$,$\comm{\hat{p}_z}{\hat{L}_z}=0$.したがって

$$\comm{\hat{H}}{\hat{L}_z}=c\left(\alpha_x(-i\hbar\hat{p}_y)+\alpha_y(i\hbar\hat{p}_x)\right)=-i\hbar c\,(\alpha_x\hat{p}_y-\alpha_y\hat{p}_x).$$

(2) $\Sigma_z=\mathrm{diag}(\sigma_z,\sigma_z)$.$\alpha_x=\begin{pmatrix}0&\sigma_x\\\sigma_x&0\end{pmatrix}$ との交換子は $\comm{\alpha_x}{\Sigma_z}=\begin{pmatrix}0&\comm{\sigma_x}{\sigma_z}\\\comm{\sigma_x}{\sigma_z}&0\end{pmatrix}$ で,$\comm{\sigma_x}{\sigma_z}=-2i\sigma_y$ だから $=-2i\alpha_y$.同様に $\comm{\sigma_y}{\sigma_z}=2i\sigma_x$ から $\comm{\alpha_y}{\Sigma_z}=2i\alpha_x$,$\comm{\alpha_z}{\Sigma_z}=0$($\comm{\sigma_z}{\sigma_z}=0$),$\comm{\beta}{\Sigma_z}=0$.よって

$$\comm{\hat{H}}{\Sigma_z}=c\left(\hat{p}_x(-2i\alpha_y)+\hat{p}_y(2i\alpha_x)\right)=2ic\,(\alpha_x\hat{p}_y-\alpha_y\hat{p}_x).$$

(3) $\comm{\hat{H}}{\hat{J}_z}=\comm{\hat{H}}{\hat{L}_z}+\dfrac{\hbar}{2}\comm{\hat{H}}{\Sigma_z}=-i\hbar c\,(\alpha_x\hat{p}_y-\alpha_y\hat{p}_x)+\dfrac{\hbar}{2}\cdot2ic\,(\alpha_x\hat{p}_y-\alpha_y\hat{p}_x)=0$.$\hat{L}_z$ も $\Sigma_z$ も単独では保存しないが,和は保存する.$x,y$ 成分も同様で,$\hat{\bm{J}}$ のすべての成分が保存する.

例題62.14 運動する電子ではスピンの $z$ 成分が保存しない

$x$ 方向に運動量 $p=mc$ をもつ電子を考える.(1) 正エネルギー平面波 $u(\bm{p},\uparrow)$ で $\expval{\Sigma_z}$ を求めよ.(2) 初期状態を $\psi(0)=(1,0,0,0)^{\mathsf T}e^{ipx/\hbar}$(静止していれば $\Sigma_z=+1$ の状態)として,$\expval{\Sigma_z}(t)$ を求めよ.(3) $\dd\expval{\Sigma_z}/\dd t=\dfrac{i}{\hbar}\expval{\comm{\hat{H}}{\Sigma_z}}$ を $\expval{\alpha_y}$ で書き,(2) の結果と一致することを確かめよ.

解答 エネルギーは $mc^2$ を単位に,運動量は $mc$ を単位に,時間は $\hbar/mc^2$ を単位に測る.$x$ 方向の運動量なので $\bm{\sigma}\cdot\bm{p}\to\sigma_x$ で,$H=\begin{pmatrix}1&\sigma_x\\\sigma_x&-1\end{pmatrix}$.

(1) 式 \eqref{eq:62-u} で $\chi_\uparrow=(1,0)^{\mathsf T}$,$\sigma_x\chi_\uparrow=(0,1)^{\mathsf T}$ なので,$u(\bm{p},\uparrow)=N_p\,(1,\,0,\,0,\,a)^{\mathsf T}$,$N_p=0.9239$,$a=pc/(E_p+mc^2)=\sqrt2-1=0.4142$.$\Sigma_z=\mathrm{diag}(1,-1,1,-1)$ なので,第 1 成分が $+1$,第 4 成分が $-1$ を与えて

$$\expval{\Sigma_z}=N_p^2\,(1-a^2)=0.8536\times(1-0.1716)=0.7071.$$

一般には $N_p^2=(E_p+mc^2)/2E_p$,$N_p^2a^2=(E_p-mc^2)/2E_p$ なので $\expval{\Sigma_z}=mc^2/E_p=1/\gamma_{\mathrm L}$($\gamma_{\mathrm L}=\sqrt2$)である.静止しているときの値 $1$ から,運動量に垂直な方向のスピンの期待値がずれている.

(2) $H^2=(1+p^2)\mathbb{1}=2\,\mathbb{1}_4$ なので,$\omega=\sqrt2$ として $e^{-iHt}=\cos\omega t-\dfrac{i\sin\omega t}{\omega}H$ である($H^2=\omega^2$ のときの指数関数の展開).$H\psi_0=(1,0,0,1)^{\mathsf T}$(下のブロックに $\sigma_x(1,0)^{\mathsf T}=(0,1)^{\mathsf T}$ が現れる)なので,$s=\dfrac{\sin\omega t}{\sqrt2}$ として

$$\psi(t)=\begin{pmatrix}\cos\omega t-is\\0\\0\\-is\end{pmatrix}.$$

規格化は $\cos^2\omega t+s^2+s^2=\cos^2\omega t+\sin^2\omega t=1$ で保たれる.$\expval{\Sigma_z}=\abs{\psi_1}^2-\abs{\psi_4}^2=(\cos^2\omega t+s^2)-s^2=\cos^2\omega t$,すなわち

$$\expval{\Sigma_z}(t)=\cos^2\!\left(\frac{\sqrt2\,mc^2\,t}{\hbar}\right).$$

$t=0$ の $1$ から,$\sqrt2\,mc^2t/\hbar=\pi/2$($t=1.11\,\hbar/mc^2=1.43\times10^{-21}\ \mathrm{s}$)で $0$ まで減り,その後は振動する(時間平均は $1/2$).角振動数 $2\sqrt2\,mc^2/\hbar=2E_p/\hbar$ は,62.3 節の Zitterbewegung と同じである.

(3) 式 \eqref{eq:62-HSigma} より $\comm{\hat{H}}{\Sigma_z}=2ic\,(\alpha_x\hat{p}_y-\alpha_y\hat{p}_x)$.$\bm{p}=(p,0,0)$ では $=-2icp\,\alpha_y$ なので,$\dfrac{\dd\expval{\Sigma_z}}{\dd t}=\dfrac{i}{\hbar}\left(-2icp\right)\expval{\alpha_y}=\dfrac{2cp}{\hbar}\expval{\alpha_y}$,上の単位では $2\expval{\alpha_y}$ である.$\alpha_y\psi$ の上ブロックは $\sigma_y\psi_B=(-i\psi_4,0)^{\mathsf T}$,下ブロックは $\sigma_y\psi_A=(0,\,i\psi_1)^{\mathsf T}$ なので $\expval{\alpha_y}=-i\psi_1^*\psi_4+i\psi_4^*\psi_1=2\,\mathrm{Im}(\psi_1^*\psi_4)$.$\psi_1^*\psi_4=(\cos\omega t+is)(-is)=s^2-is\cos\omega t$ から $\expval{\alpha_y}=-2s\cos\omega t=-\dfrac{\sin2\omega t}{\sqrt2}$.したがって $2\expval{\alpha_y}=-\sqrt2\sin2\omega t$.一方,(2) の結果を微分すると $\dfrac{\dd}{\dd t}\cos^2\omega t=-\omega\sin2\omega t=-\sqrt2\sin2\omega t$ で,両者は一致する.$\Sigma_z$ の変化は,速度演算子 $c\,\alpha_y$ の期待値(運動量に垂直な「ふるえ」の成分)によって引き起こされている.

62.6.4 スピンは「仮定」ではなく「帰結」

考察:なぜスピンが「自動的に」出るのか

非相対論の量子力学では,スピンは実験から要請された新しい自由度だった(第23章).Pauli(1927)は 2 成分の波動関数と Pauli 行列を,電子のスピンを表すために「手で付け加えた」.Dirac 方程式では,次の論理でスピンが出てくる.

  1. Lorentz 共変で,時間について 1 階(確率が保存する)であることを要求すると,$\alpha_i$,$\beta$ が反交換する行列になり,波動関数が複数の成分をもつスピノルになる(62.2 節).
  2. この方程式は回転対称なので,何らかの角運動量が保存するはずだが,軌道角運動量 $\hat{\bm{L}}$ は保存しない(式 \eqref{eq:62-HL}).
  3. 保存するのは $\hat{\bm{L}}+\hat{\bm{S}}$ で,$\hat{\bm{S}}=\tfrac{\hbar}{2}\bm{\Sigma}$ の大きさが $s=\tfrac12$ に固定される(定理62.8).

すなわち,「スピンがあるから行列が要る」のではなく,「1 階で相対論的だから行列が要り,行列があるからスピン $\tfrac12$ が出る」という順序である.Klein–Gordon 方程式では $\hat{H}$ が $\hat{\bm{L}}$ と可換なので軌道角運動量だけが保存し,スピン 0 の粒子を表すことになる.また,4 成分は,スピン 2 通り $\times$ エネルギーの符号 2 通りの自由度を含んでいる(62.5 節).

この先の内容を予告しておく.電磁場の中の電子(最小結合)では,小成分を消去すると,電子の磁気モーメントが $g=2$ の Pauli 方程式が出てくる.さらに中心力場(水素原子)では,$\hat{\bm{L}}^2$ も保存しなくなり,保存量は $\hat{\bm{J}}^2$($j=l\pm\tfrac12$),$\hat{J}_z$($m_j$)と,$l$ に対応する量(Dirac の量子数 $\kappa$)になる.これらは第63章で導く.回転に対するスピノルの符号反転($2\pi$ 回転で $-1$)は,多電子系のスピンと統計の関係(マテリアル計算科学(AD 05)第7章 7.10)にもつながる.固体中でのスピン軌道相互作用 $\lambda\,\hat{\bm{L}}\cdot\hat{\bm{S}}$ と磁性は,固体物理学(AD 06)第20章で扱われる.

関連シミュレーター:相対論的量子力学シミュレーター ①(Schrödinger・Klein–Gordon・Dirac の分散関係と,Dirac スピノルの大成分・小成分の重み),同 導出ページ(第 3 節)(因数分解が $4\times4$ の行列を要求し,スピンと反粒子が出てくる導出),リー群シミュレーター ②(SU(2) と SO(3).$2\pi$ 回転で符号が反転する様子).

62.7 まとめと演習

62.7.1 まとめ

表62.3 Schrödinger 方程式・Klein–Gordon 方程式・Dirac 方程式の比較(自由粒子)
項目SchrödingerKlein–GordonDirac
出発点$E=\dfrac{p^2}{2m}$$E^2=p^2c^2+m^2c^4$(2 乗のまま)$E=c\,\bm{\alpha}\cdot\bm{p}+\beta mc^2$(平方根)
時間の微分1 階2 階1 階
空間の微分2 階2 階1 階
対称性GalileiLorentzLorentz($\psi'=\mathcal{S}\psi$)
波動関数の成分1(スピンなし)1(スカラー)4(スピノル)
分散関係$E=p^2/2m$$E=\pm E_p$$E=\pm E_p$(各 2 重)
保存する密度$\abs{\psi}^2\ge0$$\propto\psi^*\partial_t\psi-\psi\partial_t\psi^*$(符号不定)$\psi^\dagger\psi\ge0$
スピン後から付加(Pauli)$0$$\tfrac12$(自動的)
電磁場との結合最小結合最小結合最小結合($g=2$ が出る.第63章)
\begin{equation} i\hbar\frac{\partial\psi}{\partial t}=\left(c\,\bm{\alpha}\cdot\hat{\bm{p}}+\beta mc^2\right)\psi,\qquad \acomm{\alpha_i}{\alpha_j}=2\delta_{ij},\quad\acomm{\alpha_i}{\beta}=0,\quad\alpha_i^2=\beta^2=1 \label{eq:62-key1} \end{equation}
\begin{equation} \rho=\psi^\dagger\psi,\qquad\bm{j}=c\,\psi^\dagger\bm{\alpha}\psi,\qquad \left(i\hbar\gamma^\mu\partial_\mu-mc\right)\psi=0,\qquad\gamma^0=\beta,\ \ \gamma^i=\beta\alpha_i \label{eq:62-key2} \end{equation}
\begin{equation} u(\bm{p},s)=\sqrt{\frac{E_p+mc^2}{2E_p}}\begin{pmatrix}\chi_s\\\dfrac{c\,\bm{\sigma}\cdot\bm{p}}{E_p+mc^2}\chi_s\end{pmatrix},\qquad \hat{\bm{J}}=\hat{\bm{L}}+\frac{\hbar}{2}\bm{\Sigma},\quad\comm{\hat{H}}{\hat{\bm{J}}}=0 \label{eq:62-key3} \end{equation}

次章(第63章)では,電磁場の中の Dirac 方程式から,非相対論の極限で Pauli 方程式($g=2$)とスピン軌道相互作用を導き,水素原子の微細構造を求める.第64章では負エネルギー解の読み方(Dirac の海と陽電子),第65章では場の量子論と素粒子物理学(AD 09)への橋渡しをする.

62.7.2 演習問題

演習62.1 $\alpha_x\alpha_y\alpha_z$ と行列の次元の制限

(1) 関係式 \eqref{eq:62-algebra} だけから,$\Gamma\equiv\alpha_x\alpha_y\alpha_z$ が $\Gamma^2=-1$ を満たし,各 $\alpha_i$ と可換で,$\beta$ と反交換することを示せ.また Dirac–Pauli 表示で $\Gamma$ を求め,$\gamma^5=i\gamma^0\gamma^1\gamma^2\gamma^3$ が $-i\Gamma$ に等しいことを確かめよ.(2) 定理62.2 の「$N$ は偶数」に加えて,$N=6$ の $6\times6$ 行列では関係式 \eqref{eq:62-algebra} を満たす 4 つの行列が存在しないことを示せ(したがって $N$ は 4 の倍数である).

ヒント:(1) $\alpha_x$ を右へ動かすたびに符号が変わる.$\gamma^1\gamma^2\gamma^3=\beta\alpha_x\beta\alpha_y\beta\alpha_z$.(2) $\beta$ の固有値 $+1$ の固有空間(次元 $N/2=3$)の上で,$\beta$ と可換な $K_y=\alpha_x\alpha_y$,$K_z=\alpha_x\alpha_z$ を考え,$K_y^2=K_z^2=-1$,$K_yK_z+K_zK_y=0$ を示して,行列式をとる.

演習62.2 Weyl(カイラル)表示

$\beta'=\begin{pmatrix}0&\mathbb{1}\\\mathbb{1}&0\end{pmatrix}$,$\alpha_i'=\begin{pmatrix}-\sigma_i&0\\0&\sigma_i\end{pmatrix}$ が式 \eqref{eq:62-algebra} を満たすことを示せ.また,ユニタリ行列 $U=\dfrac{1}{\sqrt2}\begin{pmatrix}\mathbb{1}&-\mathbb{1}\\\mathbb{1}&\mathbb{1}\end{pmatrix}$ で $\beta'=U\beta U^\dagger$,$\alpha_i'=U\alpha_iU^\dagger$ となることを示せ.

ヒント:ブロック計算.$U^\dagger=\dfrac{1}{\sqrt2}\begin{pmatrix}\mathbb{1}&\mathbb{1}\\-\mathbb{1}&\mathbb{1}\end{pmatrix}$.

演習62.3 ブロック形で連続の式を導く

ブロック方程式 \eqref{eq:62-blockA},\eqref{eq:62-blockB} から,$\rho=\psi_A^\dagger\psi_A+\psi_B^\dagger\psi_B$,$j_k=c\,(\psi_A^\dagger\sigma_k\psi_B+\psi_B^\dagger\sigma_k\psi_A)$ が連続の式 $\partial_t\rho+\nabla\cdot\bm{j}=0$ を満たすことを示せ.このとき $j_k=c\,\psi^\dagger\alpha_k\psi$ となることも確かめよ.

ヒント:$\psi_A^\dagger\psi_A$ と $\psi_B^\dagger\psi_B$ の時間微分を別々に計算すると,$mc^2$ の項はそれぞれの中で消える.

演習62.4 任意の向きのヘリシティ固有スピノル

運動量 $\bm{p}=(p\sin\theta,\,0,\,p\cos\theta)$,$p=mc$ の電子について,ヘリシティ $\pm$ の正エネルギー解 $u(\bm{p},\pm)$ を求めよ.$\theta=0$ の結果(例題62.9)と比べ,$\theta=60^\circ$ の数値を求めて $(H-E)u=0$ を確かめよ.

ヒント:$\chi_+=(\cos\frac{\theta}{2},\sin\frac{\theta}{2})^{\mathsf T}$,$\chi_-=(-\sin\frac{\theta}{2},\cos\frac{\theta}{2})^{\mathsf T}$.式 \eqref{eq:62-helicity}.

演習62.5 $\bar{\psi}$ の方程式と $j^\mu$ の保存

共変形 \eqref{eq:62-cov} の共役転置をとり,$\gamma^{\mu\dagger}=\gamma^0\gamma^\mu\gamma^0$ を使って $\bar{\psi}$ の満たす方程式 $i\hbar\,\partial_\mu\bar{\psi}\,\gamma^\mu+mc\,\bar{\psi}=0$ を導け.これを使って $\partial_\mu\bigl(\bar{\psi}\gamma^\mu\psi\bigr)=0$ を示せ.

ヒント:$\gamma^{\mu\dagger}=\gamma^0\gamma^\mu\gamma^0$ は,$\mu=0$ では $\gamma^0$,$\mu=k$ では $-\gamma^k$ となる(定理62.4).右から $\gamma^0$ を掛ける.

演習62.6 $v=0.8c$ のブースト

静止スピノル $(1,0,0,0)^{\mathsf T}$ を,$+x$ 方向に $v=0.8c$ で動く座標系に移すブースト行列 $\mathcal{S}$ を求め,作用させた結果を $\sqrt{\gamma_{\mathrm L}}$ で割って,$u(\bm{p},\uparrow)$($\bm{p}=-\tfrac43\,mc\,\bm{e}_x$)と一致することを確かめよ.

ヒント:$\gamma_{\mathrm L}=5/3$,$\cosh\frac{\eta}{2}=\sqrt{(\gamma_{\mathrm L}+1)/2}$,$\sinh\frac{\eta}{2}=\sqrt{(\gamma_{\mathrm L}-1)/2}$.

演習62.7 $\hat{J}_x$,$\hat{J}_y$ の保存と $j$ の値

(1) $\comm{\hat{H}}{\hat{L}_x}$,$\comm{\hat{H}}{\Sigma_x}$,$\comm{\hat{H}}{\hat{L}_y}$,$\comm{\hat{H}}{\Sigma_y}$ を求め,$\hat{J}_x$,$\hat{J}_y$ が保存することを示せ.(2) $\hat{\bm{J}}^2=j(j+1)\hbar^2$ の $j$ が,軌道の量子数 $l$ が整数のとき半整数になることを,$l=0,1$ の場合に具体的に調べよ.

ヒント:(1) 式 \eqref{eq:62-HL},\eqref{eq:62-HSigma} の成分.(2) $\hat{\bm{J}}^2=\hat{\bm{L}}^2+\hbar\,\hat{\bm{L}}\cdot\bm{\Sigma}+\tfrac34\hbar^2$.$\bm{\Sigma}=\mathrm{diag}(\bm{\sigma},\bm{\sigma})$ なので $\bm{\sigma}\cdot\hat{\bm{L}}$ の固有値を調べればよい.$\hat{\bm{L}}\times\hat{\bm{L}}=i\hbar\hat{\bm{L}}$ と $\sigma_i\sigma_j=\delta_{ij}+i\sum_k\varepsilon_{ijk}\sigma_k$ から $(\bm{\sigma}\cdot\hat{\bm{L}})^2$ を $\hat{\bm{L}}^2$ と $\bm{\sigma}\cdot\hat{\bm{L}}$ で表す.

演習62.8 InAs の Dirac 型分散

InAs の室温の代表値 $E_g=0.354\ \mathrm{eV}$,$m^*=0.023\,m_{\mathrm e}$(文献により $0.023$〜$0.026\,m_{\mathrm e}$ 程度)を使い,Dirac 型分散 $E=\pm\sqrt{\Delta^2+\hbar^2v^2k^2}$ の $\Delta$,$v$($c$ との比)を求めよ.また,伝導帯底からの運動エネルギー $T=\Delta/2$ のとき,放物線近似 $T_p=\hbar^2k^2/2m^*$ はどれだけ過大評価か,$10$ % ずれる $T$ はいくらかを,InSb(例題62.12)と比べよ.

ヒント:$m^*=\Delta/v^2$.$x=(\hbar vk/\Delta)^2$ として $T=\Delta(\sqrt{1+x}-1)$,$T_p=\Delta x/2$.

62.7.3 参考文献

  1. 望月泰英『物理学ノート 量子力学3』(手書き講義ノート).本章はノートにない内容を補った章である.関連するノート:p. 73(章扉の見出し)と pp. 1–10(スピンと Pauli 行列).
  2. P. A. M. Dirac, The quantum theory of the electron, Proc. R. Soc. Lond. A 117, 610 (1928).
  3. J. D. Bjorken & S. D. Drell, Relativistic Quantum Mechanics, McGraw-Hill (1964).
  4. J. J. Sakurai & J. Napolitano, Modern Quantum Mechanics, 3rd ed., Cambridge University Press (2020).
  5. J. J. Sakurai, Advanced Quantum Mechanics, Addison-Wesley (1967).
  6. L. I. Schiff, Quantum Mechanics, 3rd ed., McGraw-Hill (1968).
  7. 朝永振一郎『量子力学 II』みすず書房.
  8. E. O. Kane, Band structure of indium antimonide, J. Phys. Chem. Solids 1, 249 (1957)(狭ギャップ半導体の 2 バンド模型).