第7章多電子原子とスピン — Slater行列式の登場
第5章と第6章では,水素原子の1s軌道をGauss関数の和で近似し(STO-3G),変分原理を使って近似解と厳密解を比較した.そこで扱ったのは電子が1個の系である.第3章・第4章では変分原理と摂動論を学び,ヘリウム原子のように電子が2個ある系の全電子波動関数を $\psi(\rr_1,\rr_2)=\phi_1(\rr_1)\phi_2(\rr_2)$ という「積」の形に書いて計算を進めてきた.この積の形は変数分離法から自然に出てくるもので,計算もしやすい.ところが,この形は本質的に間違っている.電子は互いに区別できない粒子であり,2つの電子を入れ替えたときに全電子波動関数の符号が反転しなければならないという,きわめて強い制約を負っているからである.本章では,この制約を満たす波動関数の書き方——Slater行列式——にたどりつくまでを,スピンという新しい自由度の導入から始めて丁寧に追う.途中,スピン角運動量演算子(Pauli行列),交換関係と不確定性関係,Pauliの排他原理の確率論的な意味,一重項と三重項,項記号(term symbol)とHundの規則という,多電子系を扱ううえで避けて通れない道具立てをすべて手に入れる.本章で導入するSlater行列式は,第9章の交換エネルギー,第10章の分子計算,第11章以降の化学結合論のすべての土台となる.
- 同種粒子の識別不可能性から $\psi(\xx_1,\xx_2)=\pm\psi(\xx_2,\xx_1)$ が要求されること,Fermi粒子とBose粒子の区別
- スピン座標 $\sigma$ とスピン波動関数 $\bm{\alpha},\bm{\beta}$,そして $\mathbb{S}_z$ の固有値問題からそれらが出てくること
- スピン角運動量演算子 $\hat{s}_x,\hat{s}_y,\hat{s}_z$(Pauli行列 $\times\,\hbar/2$)と $\hat{s}^2=\tfrac{3}{4}\hbar^2\mathbb{I}$ の行列計算
- 交換関係 $[\hat{x},\hat{p}]=i\hbar$,$[\hat{p},\hat{E}]=0$,$[\hat{s}_x,\hat{s}_y]=i\hbar\hat{s}_z$,$[\hat{s}^2,\hat{s}_z]=0$ の完全な計算と,同時決定可能性・不確定性関係との関係
- Slater行列式 $\psi(\xx_1,\cdots,\xx_N)=\frac{1}{\sqrt{N!}}\det[\phi_j(\xx_i)]$ の構造と,規格化・反対称性・Pauliの排他原理の確認
- 一重項(singlet)と三重項(triplet),スピン多重度 $2S+1$,そして「1電子準位の差で励起エネルギーを見積もってはいけない」という重大な注意
- 項記号 $^{2S+1}L_J$,$p^2$ 配置の15個の微視状態の数え上げ,Hundの規則
- 発展:Dirac方程式と4成分スピノル,スピンと統計の関係,Cooper対とBose–Einstein凝縮
7.1 Hartree積では足りない
7.1.1 これまで使ってきた「積の形」を振り返る
第2章で水素原子のSchrödinger方程式を変数分離法で解いたとき,われわれは「変数が分かれるなら解も積に分かれる」という論法を使った.同じ論法をヘリウム原子に適用すると,電子1と電子2の1電子波動関数をそれぞれ $\phi_1,\phi_2$ として
$$ \begin{equation} \psi(r_1,\theta_1,\varphi_1,\;r_2,\theta_2,\varphi_2) =\phi_1(r_1,\theta_1,\varphi_1)\,\phi_2(r_2,\theta_2,\varphi_2) \equiv \phi_1(\bm{r}_1)\,\phi_2(\bm{r}_2) \label{eq:7-hartree-product} \end{equation} $$という形が得られる.ここで $\bm{r}_1$ は電子1の空間座標 $(r_1,\theta_1,\varphi_1)$ をまとめて書いたものである.式 \eqref{eq:7-hartree-product} の形の波動関数をHartree積(Hartree product)と呼ぶ.第3章の変分原理でも第4章の摂動論でも,われわれはこの形を出発点にしてきた.
たとえば第6章と同じ流儀でヘリウム原子を扱うなら,SI単位系でのハミルトニアンは
$$ \begin{equation} \Ham=\underbrace{-\frac{\hbar^2}{2m}\nabla_1^2-\frac{2\ee^2}{4\pi\eps}\frac{1}{r_1}}_{\text{電子1の運動+核引力}} \;\underbrace{-\frac{\hbar^2}{2m}\nabla_2^2-\frac{2\ee^2}{4\pi\eps}\frac{1}{r_2}}_{\text{電子2の運動+核引力}} \;+\;\underbrace{\frac{\ee^2}{4\pi\eps}\frac{1}{\abs{\bm{r}_1-\bm{r}_2}}}_{\text{電子間反発}} \label{eq:7-he-hamiltonian} \end{equation} $$であり(核電荷は $Z=2$ なので分子に $2\ee^2$ が立つ),試行関数として第5章のSTO-1G型のGauss関数を2つ掛けたもの
$$ \begin{equation} \psi_t(\bm{r}_1,\bm{r}_2)=\phi_{1s}(\bm{r}_1)\phi_{1s}(\bm{r}_2)=N\,e^{-\alpha\left(r_1^2+r_2^2\right)} \label{eq:7-he-trial} \end{equation} $$を使う.あとは $\braket{\psi_t|\Ham|\psi_t}/\braket{\psi_t|\psi_t}$ を $\alpha$ について最小化すればよい,というのが変分法の筋書きであった.
導出:He原子の変分計算はどんな積分になるか
式 \eqref{eq:7-he-hamiltonian} と \eqref{eq:7-he-trial} を使うと,分子(エネルギー期待値の分子)は次の6重積分になる.
$$ \begin{align} \braket{\psi_t|\Ham|\psi_t} &=\int_0^{2\pi}\!\!\int_0^{\pi}\!\!\int_0^{\infty} r_2^2\sin\theta_2\,\dd r_2\,\dd\theta_2\,\dd\varphi_2 \int_0^{2\pi}\!\!\int_0^{\pi}\!\!\int_0^{\infty} r_1^2\sin\theta_1\,\dd r_1\,\dd\theta_1\,\dd\varphi_1 \notag\\ &\qquad \times\; N e^{-\alpha(r_1^2+r_2^2)} \left[ -\frac{\hbar^2\nabla_1^2}{2m}-\frac{2\ee^2}{4\pi\eps}\frac{1}{r_1} -\frac{\hbar^2\nabla_2^2}{2m}-\frac{2\ee^2}{4\pi\eps}\frac{1}{r_2} +\frac{\ee^2}{4\pi\eps}\frac{1}{\abs{\bm{r}_1-\bm{r}_2}} \right] N e^{-\alpha(r_1^2+r_2^2)} . \label{eq:7-he-integral} \end{align} $$手順としては,まず $\bm{r}_2$ を定数とみなして $\bm{r}_1$ について積分し,そのあと $\bm{r}_2$ で積分する.運動エネルギー項と核引力項は第6章で計算した1電子の場合とまったく同じ形なので既知である.しかし最後の電子間反発項 $1/\abs{\bm{r}_1-\bm{r}_2}$ の積分は手強い.まじめにやると複素積分・留数定理・誤差関数 $\mathrm{erf}(x)$ を導入する必要があり,学部の演習でこなす分量ではない.第9章で交換エネルギーを扱うときにこの積分の構造(Coulomb積分 $U$ と交換積分 $J$)をあらためて整理し,実際の数値は第10章でPySCFに計算させる.ここでは「積分の形はこう立つ」ということだけを押さえておけばよい.なお,STO-1Gと決め打ちするなら $\alpha=0.27095$(第5章で求めた値,$a_0^{-2}$ 単位)を代入するだけでもそれなりの値が出る.
7.1.2 積の形に欠けている「規則」
さて,ここからが本章の出発点である.実は式 \eqref{eq:7-hartree-product} のHartree積は,これでは完璧ではない.もっと言えば,電子のような粒子に対しては使ってはいけない形をしている.理由は「電子には番号を付けられない」からである.
なぜ?:電子に「1番」「2番」と名前を付けてよいのか
式 \eqref{eq:7-hartree-product} は「電子1が軌道 $\phi_1$ に,電子2が軌道 $\phi_2$ に入っている」と読める.しかし,われわれは電子にペンキで印を付けたわけではない.2個の電子はまったく同じ質量・電荷・スピンをもち,原理的に区別できない(識別不可能性, indistinguishability).だとすれば「どちらが1番か」という問いには物理的な意味がなく,波動関数の作り方にもその事情が反映されていなければならない.ところが式 \eqref{eq:7-hartree-product} は,$\phi_1\neq\phi_2$ のとき $\phi_1(\bm{r}_2)\phi_2(\bm{r}_1)$ とは別物である.つまりHartree積は,番号の付け替えという「やってはいけない区別」をしてしまっているのである.
この事情を数式にしよう.2電子の座標を入れ替える操作を交換演算子(exchange operator) $\hat{P}_{12}$ と書く:
$$ \begin{equation} \hat{P}_{12}\,\psi(\xx_1,\xx_2)\equiv\psi(\xx_2,\xx_1). \label{eq:7-exchange-op} \end{equation} $$ここで $\xx_i$ は,あとで述べるスピン座標も込めた座標である(いまは空間座標だけと思ってよい).2回入れ替えれば元に戻るから,
$$ \hat{P}_{12}^2=\hat{I}\qquad(\hat{I}\text{ は恒等演算子}) $$である.いま $\psi$ が $\hat{P}_{12}$ の固有関数で固有値 $\lambda$ をもつとすると,$\hat{P}_{12}^2\psi=\lambda^2\psi=\psi$ より $\lambda^2=1$,すなわち
$$ \begin{equation} \lambda=+1\quad\text{または}\quad\lambda=-1 \label{eq:7-exchange-eigen} \end{equation} $$の二通りしかない.別の言い方をすれば,識別不可能な2粒子では確率密度が入れ替えで変わってはならないので $\abs{\psi(\xx_1,\xx_2)}^2=\abs{\psi(\xx_2,\xx_1)}^2$,したがって $\psi(\xx_2,\xx_1)=e^{i\theta}\psi(\xx_1,\xx_2)$ と書ける.もう一度入れ替えて $e^{2i\theta}=1$,ゆえに $e^{i\theta}=\pm1$ となり,同じ結論に達する.自然界はこの二択のうち,粒子の種類に応じてどちらか一方だけを選ぶ.
7.2 Fermi粒子とBose粒子
7.2.1 二つの符号,二種類の粒子
定義:Fermi粒子とBose粒子
同種2粒子の全波動関数が,粒子の入れ替えに対して符号を反転するもの
$$ \begin{equation} \psi(\xx_1,\xx_2)=-\psi(\xx_2,\xx_1) \label{eq:7-antisym} \end{equation} $$をFermi粒子(Fermion, フェルミ粒子)といい,波動関数は反対称(antisymmetric)であるという.逆に,符号を変えないもの
$$ \begin{equation} \psi(\xx_1,\xx_2)=+\psi(\xx_2,\xx_1) \label{eq:7-sym} \end{equation} $$をBose粒子(Boson, ボース粒子)といい,波動関数は対称(symmetric)であるという.
Fermi粒子の代表例は電子・陽子・中性子であり,これらは物質を構成する粒子である.Bose粒子の代表例はフォトン(光子)・フォノン(格子振動の量子)であり,これらは力を伝える粒子である.マテリアル計算科学で主役を張るのは電子なので,本書ではもっぱら式 \eqref{eq:7-antisym} の反対称性が問題になる.
そして実は,式 \eqref{eq:7-antisym} こそがPauliの排他原理の正体である.「1つの軌道に電子は2個まで」「同じ量子数の組をもつ電子は存在できない」という高校以来おなじみの規則は,この反対称性から自動的に出てくる.7.6節で実際に確かめる.
7.2.2 なぜ性質がこれほど違うのか
符号がプラスかマイナスかというだけの違いが,物質の姿を決定的に変える.Bose粒子は同じ1粒子状態にいくらでも詰め込める.極低温では全粒子が最低エネルギー状態に落ち込み,これがBose–Einstein凝縮(BEC)である.一方Fermi粒子は,後で見るように同じ状態を2つ以上占めることが原理的に禁じられるので,低温でも下から順に一段ずつ積み上がり,いちばん上の占有準位がFermi準位 $E_{\mathrm{F}}$ になる.金属の電気伝導も,原子の周期表も,白色矮星が自重で潰れないのも,すべてこの「積み上がり」の帰結である.
数学ノート:$N$ 粒子系での書き方
粒子が3個以上ある場合,反対称性は「任意の2個を入れ替えると符号が反転する」という形で要求される.すなわち任意の $i\neq j$ について
$$\psi(\cdots,\xx_i,\cdots,\xx_j,\cdots)=-\psi(\cdots,\xx_j,\cdots,\xx_i,\cdots).$$3個以上の入れ替えを続けて行う場合は,それを2個ずつの入れ替え(互換, transposition)に分解し,互換の回数が偶数なら $+$,奇数なら $-$ となる.この「符号 $=(-1)^{\text{互換の回数}}$」という規則は,線形代数で行列式を定義するときに出てくる置換の符号 $\mathrm{sgn}(P)$ とまったく同じである.7.6節でSlater行列式が登場する伏線がここにある.
7.3 スピン座標とスピン波動関数
7.3.1 座標にもう1つ自由度を足す
電子の状態を指定するには,位置 $(x,y,z)$ だけでは足りない.スピン(spin)という内部自由度があり,これを表す座標 $\sigma$ を一緒に書く必要がある.そこで空間座標とスピン座標をまとめて
$$ \begin{equation} \xx=(\rr,\sigma)=(r,\theta,\varphi,\sigma) \label{eq:7-x-def} \end{equation} $$と書く.これが7.1節から使っている $\xx$ の正体である.ヘリウム原子の2電子波動関数も,Hartree積のレベルではたとえば
$$ \psi(\xx_1,\xx_2)=\phi_1(\bm{r}_1)\bm{\alpha}(\sigma_1)\,\phi_2(\bm{r}_2)\bm{\beta}(\sigma_2) $$のように書かれる(この形もまだ反対称性を満たしていないので不完全である.7.6節で直す).空間部分 $\phi(\rr)$ とスピン部分 $\bm{\alpha}(\sigma)$ や $\bm{\beta}(\sigma)$ の積をスピン軌道(spin orbital)と呼び,本書では $\chi$ で表す:
$$ \begin{equation} \chi(\xx)=\phi(\rr)\,\bm{\alpha}(\sigma)\quad\text{または}\quad \chi(\xx)=\phi(\rr)\,\bm{\beta}(\sigma). \label{eq:7-spinorbital} \end{equation} $$7.3.2 $\mathbb{S}_z$ の固有値問題からスピン関数を求める
スピン波動関数 $\bm{\alpha},\bm{\beta}$ がどこから来るのかを,第2章2.9節の続きとして復習しておこう.スピンの $z$ 成分を表す(無次元の)行列
$$ \begin{equation} \mathbb{S}_z=\begin{pmatrix}1/2 & 0\\ 0 & -1/2\end{pmatrix} \label{eq:7-Sz-matrix} \end{equation} $$の固有値問題を解けばよい.
例題7.1 スピン行列の固有値と固有ベクトル
行列 $\mathbb{S}_z=\begin{pmatrix}1/2 & 0\\ 0 & -1/2\end{pmatrix}$ について,固有値と固有ベクトルを求めよ.ただし固有ベクトルのノルム(大きさ)は1であるとする.
解答. $\mathbb{S}_z\vec{z}=\lambda\vec{z}$ を満たす $\lambda$ と $\vec{z}$ を求める.$\vec{z}=\begin{pmatrix}a\\ b\end{pmatrix}$ とおくと,$\mathbb{S}_z\vec{z}-\lambda\vec{z}=\bm{0}$ すなわち
$$ \begin{pmatrix}1/2-\lambda & 0\\ 0 & -1/2-\lambda\end{pmatrix} \begin{pmatrix}a\\ b\end{pmatrix}=\begin{pmatrix}0\\ 0\end{pmatrix} $$である.$\vec{z}\neq\bm{0}$ という自明でない解をもつためには,係数行列の行列式がゼロでなければならない(そうでなければ逆行列が存在し,$\vec{z}=\bm{0}$ しか解がなくなる).したがって
$$ \left(\frac{1}{2}-\lambda\right)\left(-\frac{1}{2}-\lambda\right)-0\cdot0=0 \;\;\Longrightarrow\;\; \lambda^2-\frac{1}{4}=0 \;\;\Longrightarrow\;\; \lambda=\pm\frac{1}{2}. $$[1] $\lambda=+1/2$ の場合.上式に代入すると
$$ \begin{pmatrix}0 & 0\\ 0 & -1\end{pmatrix}\begin{pmatrix}a\\ b\end{pmatrix}=\begin{pmatrix}0\\0\end{pmatrix} \;\;\Longrightarrow\;\; -b=0 \;\;\Longrightarrow\;\; b=0. $$$a$ は任意なので,ノルムの条件 $\abs{a}^2+\abs{b}^2=1$ から $a=1$(位相は自由なので実数にとる).よって
$$ \begin{equation} \vec{z}=\bm{\alpha}=\begin{pmatrix}1\\ 0\end{pmatrix}\qquad(\text{up spin 波動関数}). \label{eq:7-alpha} \end{equation} $$[2] $\lambda=-1/2$ の場合.同様に
$$ \begin{pmatrix}1 & 0\\ 0 & 0\end{pmatrix}\begin{pmatrix}a\\ b\end{pmatrix}=\begin{pmatrix}0\\0\end{pmatrix} \;\;\Longrightarrow\;\; a=0,\quad b=1 $$となり
$$ \begin{equation} \vec{z}=\bm{\beta}=\begin{pmatrix}0\\ 1\end{pmatrix}\qquad(\text{down spin 波動関数}). \label{eq:7-beta} \end{equation} $$以上より,固有値 $\pm1/2$ に対応する規格化された固有ベクトルが $\bm{\alpha},\bm{\beta}$ である.$\blacksquare$
スピン波動関数は2次元の縦ベクトルにすぎない.したがって内積(ブラケット)の計算は行列の掛け算そのものであり,
$$ \begin{equation} \braket{\bm{\alpha}|\bm{\alpha}}=\begin{pmatrix}1&0\end{pmatrix}\begin{pmatrix}1\\0\end{pmatrix}=1,\quad \braket{\bm{\beta}|\bm{\beta}}=\begin{pmatrix}0&1\end{pmatrix}\begin{pmatrix}0\\1\end{pmatrix}=1,\quad \braket{\bm{\alpha}|\bm{\beta}}=\begin{pmatrix}1&0\end{pmatrix}\begin{pmatrix}0\\1\end{pmatrix}=0 \label{eq:7-spin-ortho} \end{equation} $$となる.つまり $\bm{\alpha}$ と $\bm{\beta}$ は規格直交系をなす.この「1, 1, 0」という3つの値が,7.6節の規格化の計算で決定的な役割を果たす.
数学ノート:「スピン座標での積分 $\int\dd\sigma$」とは何か
本書ではしばしば $\int \bm{\alpha}^*(\sigma)\bm{\beta}(\sigma)\,\dd\sigma$ のような書き方をする.空間座標と形式をそろえるための記法だが,スピン座標 $\sigma$ は連続変数ではなく $\sigma=+\tfrac12,-\tfrac12$ の2値しかとらない.したがってこの「積分」は実際には和である:
$$\int f(\sigma)\,\dd\sigma \equiv \sum_{\sigma=\pm 1/2} f(\sigma).$$$\bm{\alpha}(\sigma)$ は $\sigma=+\tfrac12$ で1,$\sigma=-\tfrac12$ で0を返す関数,$\bm{\beta}(\sigma)$ はその逆と約束すれば,
$$\int\bm{\alpha}^*(\sigma)\bm{\alpha}(\sigma)\dd\sigma=1\cdot1+0\cdot0=1,\qquad \int\bm{\alpha}^*(\sigma)\bm{\beta}(\sigma)\dd\sigma=1\cdot0+0\cdot1=0$$となり,式 \eqref{eq:7-spin-ortho} と完全に一致する.ベクトル表記と関数表記は同じものの二通りの書き方にすぎない.
7.3.3 量子化軸を変えると基底が変わる
ここまで,$z$ 軸方向のスピンの向きで状態を分類してきた.この基準となる軸を量子化軸(quantization axis)という.量子化軸を $x$ 軸や $y$ 軸にとると,スピン波動関数の基底は別のベクトルになる.具体的には(7.4節の $\hat{s}_x,\hat{s}_y$ の固有値問題を解けば得られる)
$$ \begin{equation} x\text{軸}:\; \bm{\alpha}=\frac{1}{\sqrt2}\begin{pmatrix}1\\ 1\end{pmatrix},\;\; \bm{\beta}=\frac{1}{\sqrt2}\begin{pmatrix}1\\ -1\end{pmatrix}; \qquad y\text{軸}:\; \bm{\alpha}=\frac{1}{\sqrt2}\begin{pmatrix}1\\ i\end{pmatrix},\;\; \bm{\beta}=\frac{1}{\sqrt2}\begin{pmatrix}1\\ -i\end{pmatrix} \label{eq:7-xy-basis} \end{equation} $$である.どれも規格直交系になっていることは各自で確かめられる(演習7.2).
注意:「up spin」は絶対的な向きではない
「アップスピン」「ダウンスピン」という言い方は,あくまで選んだ量子化軸に対しての相対的な呼び名である.$z$ 軸のアップスピン $\bm{\alpha}=(1,0)^{\mathsf T}$ は,$x$ 軸を量子化軸にすれば $\frac{1}{\sqrt2}\left[\frac{1}{\sqrt2}\binom{1}{1}+\frac{1}{\sqrt2}\binom{1}{-1}\right]$ …と展開され,$x$ 方向のアップとダウンが50%ずつ混ざった状態になる.「$z$ 方向のスピンが確定していれば $x$ 方向は確定しない」というこの事情は,次節・次々節の交換関係から必然的に出てくる.磁場をかけたときのように系に特別な方向があれば,その方向を量子化軸に選ぶのが自然である.
7.4 スピン角運動量演算子
7.4.1 Pauli行列に $\hbar/2$ を掛ける
式 \eqref{eq:7-Sz-matrix} の $\mathbb{S}_z$ は無次元の行列であった.角運動量の次元をもたせるには $\hbar$ を掛ければよい.こうして得られる
$$ \begin{equation} \hat{s}_x=\frac{\hbar}{2}\begin{pmatrix}0&1\\ 1&0\end{pmatrix},\qquad \hat{s}_y=\frac{\hbar}{2}\begin{pmatrix}0&-i\\ i&0\end{pmatrix},\qquad \hat{s}_z=\frac{\hbar}{2}\begin{pmatrix}1&0\\ 0&-1\end{pmatrix} \label{eq:7-spin-operators} \end{equation} $$がスピン角運動量演算子(spin angular momentum operator)である.括弧の中の3つの行列をPauli行列(Pauli matrices)といい,$\sigma_x,\sigma_y,\sigma_z$ と書くのが慣例である.すなわち $\hat{s}_k=\tfrac{\hbar}{2}\sigma_k$ である.
注意:記号 $\sigma$ の二重の意味
本章ではスピン座標を $\sigma$,Pauli行列を $\sigma_x,\sigma_y,\sigma_z$ と書く.どちらも $\sigma$ だが,添字の有無で区別できる.他書では座標を $\omega$ や $s$ と書くこともある.混乱を避けるため,本書では以後,Pauli行列を単独で使うことは避け,常に $\hat{s}_k$ の形で書く.
演算子は行列,状態は縦ベクトルなので,「演算子を波動関数に作用させる」は「行列とベクトルの積」である.実際にやってみよう.
$$ \begin{align} \hat{s}_z\bm{\alpha}&=\frac{\hbar}{2}\begin{pmatrix}1&0\\ 0&-1\end{pmatrix}\begin{pmatrix}1\\ 0\end{pmatrix} =\frac{\hbar}{2}\begin{pmatrix}1\cdot1+0\cdot0\\ 0\cdot1+(-1)\cdot0\end{pmatrix} =\frac{\hbar}{2}\begin{pmatrix}1\\ 0\end{pmatrix}=+\frac{\hbar}{2}\bm{\alpha}, \label{eq:7-sz-alpha}\\[4pt] \hat{s}_z\bm{\beta}&=\frac{\hbar}{2}\begin{pmatrix}1&0\\ 0&-1\end{pmatrix}\begin{pmatrix}0\\ 1\end{pmatrix} =\frac{\hbar}{2}\begin{pmatrix}0\\ -1\end{pmatrix}=-\frac{\hbar}{2}\bm{\beta}. \label{eq:7-sz-beta} \end{align} $$つまり $\bm{\alpha},\bm{\beta}$ は $\hat{s}_z$ の固有ベクトルであり,固有値はそれぞれ $+\hbar/2$,$-\hbar/2$ である.これが「電子のスピンは $\pm\hbar/2$ の2値しかとらない」という意味である.スピン磁気量子数 $m_s=\pm1/2$ を使えば固有値は $m_s\hbar$ と書ける.
7.4.2 全スピン角運動量の大きさ $\hat{s}^2$
ずっと $z$ 方向のアップ・ダウンばかり出てくるが,$x,y$ 方向のスピン角運動量は考えなくてよいのだろうか.この疑問に答える第一歩として,3成分の二乗和
$$ \begin{equation} \hat{s}^2=\hat{s}_x^2+\hat{s}_y^2+\hat{s}_z^2 \label{eq:7-s2-def} \end{equation} $$を計算してみよう.これは全スピン角運動量の大きさの二乗を表す演算子である.行列を実際に掛けるだけなので,恐れることはない.
$$ \begin{align} \hat{s}_x^2&=\frac{\hbar^2}{4}\begin{pmatrix}0&1\\ 1&0\end{pmatrix}\begin{pmatrix}0&1\\ 1&0\end{pmatrix} =\frac{\hbar^2}{4}\begin{pmatrix}0\cdot0+1\cdot1 & 0\cdot1+1\cdot0\\ 1\cdot0+0\cdot1 & 1\cdot1+0\cdot0\end{pmatrix} =\frac{\hbar^2}{4}\begin{pmatrix}1&0\\ 0&1\end{pmatrix}, \label{eq:7-sx2}\\[4pt] \hat{s}_y^2&=\frac{\hbar^2}{4}\begin{pmatrix}0&-i\\ i&0\end{pmatrix}\begin{pmatrix}0&-i\\ i&0\end{pmatrix} =\frac{\hbar^2}{4}\begin{pmatrix}(-i)(i) & 0\\ 0 & (i)(-i)\end{pmatrix} =\frac{\hbar^2}{4}\begin{pmatrix}1&0\\ 0&1\end{pmatrix}, \label{eq:7-sy2}\\[4pt] \hat{s}_z^2&=\frac{\hbar^2}{4}\begin{pmatrix}1&0\\ 0&-1\end{pmatrix}\begin{pmatrix}1&0\\ 0&-1\end{pmatrix} =\frac{\hbar^2}{4}\begin{pmatrix}1&0\\ 0&1\end{pmatrix}. \label{eq:7-sz2} \end{align} $$ここで $(-i)(i)=-i^2=+1$,$(i)(-i)=+1$ を使った.3つを足し合わせると
となる.ここで $\mathbb{I}$ は $2\times2$ の単位行列である.$\hat{s}^2$ は単位行列の定数倍——これは非常に重要な結果である.どんなスピン状態 $\bm{\chi}$ に作用させても $\hat{s}^2\bm{\chi}=\tfrac{3}{4}\hbar^2\bm{\chi}$ となるから,電子のスピンの大きさは状態によらず一定で,
$$ \begin{equation} \abs{\bm{s}}=\sqrt{\frac{3}{4}\hbar^2}=\frac{\sqrt3}{2}\hbar\approx 0.866\,\hbar \label{eq:7-s-magnitude} \end{equation} $$である.一般に角運動量の大きさは量子数 $s$ を使って $\sqrt{s(s+1)}\,\hbar$ と書けるが,電子では $s=1/2$ なので
$$ \sqrt{s(s+1)}\,\hbar=\sqrt{\frac{1}{2}\cdot\frac{3}{2}}\,\hbar=\sqrt{\frac{3}{4}}\,\hbar=\frac{\sqrt3}{2}\hbar $$となり,式 \eqref{eq:7-s-magnitude} と一致する.この $s=1/2$ という半整数の値こそが,電子がFermi粒子である理由である(7.10節).
物理的意味:大きさが $\tfrac{\sqrt3}{2}\hbar$ なのに $z$ 成分は $\tfrac{\hbar}{2}$ までしか取れない
$\tfrac{\sqrt3}{2}\hbar\approx0.866\hbar$ と $\tfrac{\hbar}{2}=0.5\hbar$ を比べると,$z$ 成分は全体の大きさよりずっと小さい.古典的なベクトルなら,$z$ 軸に完全に平行に向ければ $z$ 成分 $=$ 大きさになるはずである.ところが量子力学ではそれが許されない.もし $s_z$ が最大値 $\tfrac{\sqrt3}{2}\hbar$ をとれるなら,そのとき $s_x=s_y=0$ が確定してしまい,3成分すべてが同時に決まることになる.これは次節で示す交換関係 $[\hat{s}_x,\hat{s}_y]=i\hbar\hat{s}_z\neq0$ に反する.スピンベクトルは $z$ 軸のまわりの円錐面上のどこかにいるが,どこにいるかは決められない——これが図7.3の描像である.
例題7.2 $\bm{\alpha}$ は $\hat{s}_x$ の固有ベクトルか
(1) $\hat{s}_x\bm{\alpha}$ を計算し,$\bm{\alpha}$ が $\hat{s}_x$ の固有ベクトルでないことを示せ.(2) $\bm{\alpha}$ の状態における $s_x$ の期待値 $\braket{s_x}$ と,ゆらぎ $\Delta s_x=\sqrt{\braket{s_x^2}-\braket{s_x}^2}$ を求めよ.
解答.(1)
$$ \hat{s}_x\bm{\alpha}=\frac{\hbar}{2}\begin{pmatrix}0&1\\ 1&0\end{pmatrix}\begin{pmatrix}1\\ 0\end{pmatrix} =\frac{\hbar}{2}\begin{pmatrix}0\cdot1+1\cdot0\\ 1\cdot1+0\cdot0\end{pmatrix} =\frac{\hbar}{2}\begin{pmatrix}0\\ 1\end{pmatrix}=\frac{\hbar}{2}\bm{\beta}. $$結果は $\bm{\alpha}$ の定数倍ではなく $\bm{\beta}$ になった.したがって $\bm{\alpha}$ は $\hat{s}_x$ の固有ベクトルではない.$\hat{s}_x$ は「アップとダウンをひっくり返す」演算子である.
(2) 期待値は $\braket{s_x}=\bm{\alpha}^{\dagger}\hat{s}_x\bm{\alpha}$ で計算する.上の結果を使うと
$$ \braket{s_x}=\begin{pmatrix}1&0\end{pmatrix}\cdot\frac{\hbar}{2}\begin{pmatrix}0\\1\end{pmatrix} =\frac{\hbar}{2}\,(1\cdot0+0\cdot1)=0. $$次に $\braket{s_x^2}$ は,式 \eqref{eq:7-sx2} より $\hat{s}_x^2=\tfrac{\hbar^2}{4}\mathbb{I}$ なので
$$ \braket{s_x^2}=\bm{\alpha}^{\dagger}\frac{\hbar^2}{4}\mathbb{I}\,\bm{\alpha}=\frac{\hbar^2}{4}\braket{\bm{\alpha}|\bm{\alpha}}=\frac{\hbar^2}{4}. $$したがって
$$\Delta s_x=\sqrt{\frac{\hbar^2}{4}-0}=\frac{\hbar}{2}.$$まったく同様に $\braket{s_y}=0,\ \Delta s_y=\hbar/2$ である.$z$ 方向のスピンが $+\hbar/2$ に確定している状態では,$x$ 成分も $y$ 成分も平均はゼロだがゆらぎは最大値 $\hbar/2$ をもつ.これがまさに図7.3の「円錐面上のどこかにいる」という描像の定量的な表現である.$\blacksquare$
7.5 交換関係と同時決定可能性
7.5.1 不確定性と交換関係
第2章で,物理量 $q$ のゆらぎ(不確定性)が
$$ \begin{equation} \Delta q=\sqrt{\braket{q^2}-\braket{q}^2} \label{eq:7-uncertainty-def} \end{equation} $$で定義されることを学んだ.そして位置 $x$ と運動量 $p$ については,両者を同時に精密には決められないという不確定性原理(uncertainty principle)
$$ \begin{equation} \Delta x\,\Delta p\ \ge\ \frac{\hbar}{2} \label{eq:7-uncertainty} \end{equation} $$があった.この不等式はどこから来るのか.実は交換関係(commutation relation)という量に由来する.2つの物理量 $q,p$ の交換関係は,それぞれの演算子を使って次のように定義される.
定義:交換関係(交換子)
$$ \begin{equation} [\hat{q},\hat{p}]\equiv\hat{q}\hat{p}-\hat{p}\hat{q}. \label{eq:7-comm-def} \end{equation} $$これを $\hat{q}$ と $\hat{p}$ の交換子(commutator)と呼ぶ.演算子は一般に掛ける順序を変えると結果が変わるので,この差はゼロとは限らない.ゼロでないとき「$\hat{q}$ と $\hat{p}$ は交換しない」という.
一般に,任意の2つの物理量について次の不等式(Robertsonの不等式)が成り立つ:
$$ \begin{equation} (\Delta q)^2(\Delta p)^2\ \ge\ \frac{\abs{\braket{[\hat{q},\hat{p}]}}^2}{4}. \label{eq:7-robertson} \end{equation} $$この右辺がゼロでなければ,$\Delta q$ と $\Delta p$ を同時にいくらでも小さくすることはできない.逆に交換子がゼロなら右辺はゼロとなり,原理的には両方を同時に確定できる.したがって次の言い換えが成り立つ.
「サラッと言っているが,これはめちゃくちゃ重要である」——量子力学において,どの物理量とどの物理量を同時に量子数として指定できるかは,すべてこの交換子の計算で決まる.周期表の $(n,\ell,m,m_s)$ という4つの量子数がセットで使えるのも,対応する演算子が互いに交換するからである.
7.5.2 位置と運動量:$[\hat{x},\hat{p}]=i\hbar$
運動量演算子は $\hat{p}=\dfrac{\hbar}{i}\dfrac{\partial}{\partial x}$,位置演算子は「$x$ を掛ける」という操作である.交換子を平面波 $\psi=e^{ikx}$ に作用させて計算してみよう.演算子の計算は,必ず何か関数に作用させた形で行うのが安全である.
$$ \begin{align} [\hat{x},\hat{p}]\psi &=(\hat{x}\hat{p}-\hat{p}\hat{x})e^{ikx} =\left(x\,\frac{\hbar}{i}\frac{\partial}{\partial x}-\frac{\hbar}{i}\frac{\partial}{\partial x}\,x\right)e^{ikx}\notag\\[4pt] &=\frac{\hbar}{i}\left(x\frac{\partial}{\partial x}e^{ikx}-\frac{\partial}{\partial x}\left(x\,e^{ikx}\right)\right)\notag\\[4pt] &=\frac{\hbar}{i}\Bigl(x\cdot ik\,e^{ikx}-\bigl(e^{ikx}+x\cdot ik\,e^{ikx}\bigr)\Bigr) \qquad(\text{積の微分法を第2項に適用})\notag\\[4pt] &=\frac{\hbar}{i}\Bigl(\underline{x\,ik\,e^{ikx}}-e^{ikx}-\underline{x\,ik\,e^{ikx}}\Bigr) =\frac{\hbar}{i}\left(-e^{ikx}\right) =i\hbar\,e^{ikx}=i\hbar\,\psi . \label{eq:7-comm-xp} \end{align} $$最後に $-\dfrac{1}{i}=-\dfrac{1}{i}\cdot\dfrac{i}{i}=-\dfrac{i}{i^2}=-\dfrac{i}{-1}=i$ を使った.下線を引いた2項がきれいに打ち消し合い,残るのは第2項の微分から出た $e^{ikx}$ だけである.$\psi$ は任意にとれるので,演算子の等式として
を得る.これを式 \eqref{eq:7-robertson} に入れると $\braket{[\hat{x},\hat{p}]}=i\hbar$ なので $\abs{i\hbar}^2=\hbar^2$ となり
$$ (\Delta x)^2(\Delta p)^2\ge\frac{\hbar^2}{4} \;\;\Longrightarrow\;\; \Delta x\,\Delta p\ge\frac{\hbar}{2} $$と,不確定性関係 \eqref{eq:7-uncertainty} がきちんと出てくる.位置と運動量は同時決定不可能である.
数学ノート:任意の関数で確かめる
平面波でなく任意の(微分可能な)関数 $f(x)$ で計算しても同じ結論になる.
$$ [\hat{x},\hat{p}]f=\frac{\hbar}{i}\left(x f'(x)-\frac{\dd}{\dd x}\bigl(xf(x)\bigr)\right) =\frac{\hbar}{i}\bigl(xf'-f-xf'\bigr)=-\frac{\hbar}{i}f=i\hbar f . $$ポイントは $\dfrac{\dd}{\dd x}(xf)=f+xf'$ という積の微分だけである.交換子がゼロにならないのは,$\hat{p}$ が微分演算子であるために「$x$ を掛けてから微分する」と「微分してから $x$ を掛ける」で余分な項 $f$ が生じるからである.
7.5.3 運動量とエネルギー:$[\hat{p},\hat{E}]=0$
今度は運動量とエネルギーを調べる.エネルギー演算子は $\hat{E}=\dfrac{-\hbar}{i}\dfrac{\partial}{\partial t}=i\hbar\dfrac{\partial}{\partial t}$ である($-1/i=i$ に注意).自由粒子の平面波 $\psi=e^{i(kx-\omega t)}$ に作用させる.まず個々の演算子の作用は
$$ \hat{p}\psi=\frac{\hbar}{i}\frac{\partial}{\partial x}e^{i(kx-\omega t)}=\frac{\hbar}{i}(ik)\psi=\hbar k\,\psi,\qquad \hat{E}\psi=\frac{-\hbar}{i}\frac{\partial}{\partial t}e^{i(kx-\omega t)}=\frac{-\hbar}{i}(-i\omega)\psi=\hbar\omega\,\psi $$である.つまり $\psi$ は両方の演算子の固有関数で,固有値はそれぞれ $\hbar k$(de Broglieの関係)と $\hbar\omega$(Planck–Einsteinの関係)である.したがって
$$ \begin{align} [\hat{p},\hat{E}]\psi&=(\hat{p}\hat{E}-\hat{E}\hat{p})\psi =\hat{p}(\hbar\omega\,\psi)-\hat{E}(\hbar k\,\psi)\notag\\ &=\hbar\omega\,(\hat{p}\psi)-\hbar k\,(\hat{E}\psi) \qquad(\hbar\omega,\hbar k\ \text{は定数なので演算子の外に出せる})\notag\\ &=\hbar\omega\cdot\hbar k\,\psi-\hbar k\cdot\hbar\omega\,\psi=0 . \label{eq:7-comm-pE} \end{align} $$よって $[\hat{p},\hat{E}]=0$ であり,運動量とエネルギーは同時決定可能である.自由電子に「運動量 $\hbar k$ とエネルギー $\hbar^2k^2/2m$ を同時にもつ」と言えるのはこのためで,第14章のバンド構造 $E(\bm{k})$ を描けるのも,突き詰めればこの交換関係のおかげである.
7.5.4 スピンの交換関係
いよいよ本題である.「なぜ $z$ 軸のスピンばかり議論するのか」——結論を先に言えば,$z$ 軸のスピン角運動量が決まると,$x,y$ 軸のスピン角運動量は決まらないからである.3成分すべてを同時に指定することはそもそもできないので,どれか1つ($z$ 軸を選ぶのが慣例)だけを量子数として使う.これを行列の掛け算で確かめよう.
まず $[\hat{s}_x,\hat{s}_y]$ を計算する.式 \eqref{eq:7-spin-operators} より
$$ \hat{s}_x\hat{s}_y=\frac{\hbar^2}{4}\begin{pmatrix}0&1\\ 1&0\end{pmatrix}\begin{pmatrix}0&-i\\ i&0\end{pmatrix} =\frac{\hbar^2}{4}\begin{pmatrix}0\cdot0+1\cdot i & 0\cdot(-i)+1\cdot0\\ 1\cdot 0+0\cdot i & 1\cdot(-i)+0\cdot 0\end{pmatrix} =\frac{\hbar^2}{4}\begin{pmatrix}i&0\\ 0&-i\end{pmatrix}, $$ $$ \hat{s}_y\hat{s}_x=\frac{\hbar^2}{4}\begin{pmatrix}0&-i\\ i&0\end{pmatrix}\begin{pmatrix}0&1\\ 1&0\end{pmatrix} =\frac{\hbar^2}{4}\begin{pmatrix}-i&0\\ 0&i\end{pmatrix} $$であるから,
$$ \begin{equation} [\hat{s}_x,\hat{s}_y]=\frac{\hbar^2}{4}\begin{pmatrix}i&0\\ 0&-i\end{pmatrix}-\frac{\hbar^2}{4}\begin{pmatrix}-i&0\\ 0&i\end{pmatrix} =\frac{\hbar^2}{4}\begin{pmatrix}2i&0\\ 0&-2i\end{pmatrix} =i\hbar\cdot\frac{\hbar}{2}\begin{pmatrix}1&0\\ 0&-1\end{pmatrix}=i\hbar\,\hat{s}_z . \label{eq:7-comm-sxsy} \end{equation} $$同じ要領で残り2つも計算する.
$$ \hat{s}_y\hat{s}_z=\frac{\hbar^2}{4}\begin{pmatrix}0&-i\\ i&0\end{pmatrix}\begin{pmatrix}1&0\\ 0&-1\end{pmatrix}=\frac{\hbar^2}{4}\begin{pmatrix}0&i\\ i&0\end{pmatrix},\qquad \hat{s}_z\hat{s}_y=\frac{\hbar^2}{4}\begin{pmatrix}1&0\\ 0&-1\end{pmatrix}\begin{pmatrix}0&-i\\ i&0\end{pmatrix}=\frac{\hbar^2}{4}\begin{pmatrix}0&-i\\ -i&0\end{pmatrix} $$ $$ \begin{equation} \Longrightarrow\;[\hat{s}_y,\hat{s}_z]=\frac{\hbar^2}{4}\begin{pmatrix}0&2i\\ 2i&0\end{pmatrix} =i\hbar\cdot\frac{\hbar}{2}\begin{pmatrix}0&1\\ 1&0\end{pmatrix}=i\hbar\,\hat{s}_x . \label{eq:7-comm-sysz} \end{equation} $$ $$ \hat{s}_z\hat{s}_x=\frac{\hbar^2}{4}\begin{pmatrix}1&0\\ 0&-1\end{pmatrix}\begin{pmatrix}0&1\\ 1&0\end{pmatrix}=\frac{\hbar^2}{4}\begin{pmatrix}0&1\\ -1&0\end{pmatrix},\qquad \hat{s}_x\hat{s}_z=\frac{\hbar^2}{4}\begin{pmatrix}0&1\\ 1&0\end{pmatrix}\begin{pmatrix}1&0\\ 0&-1\end{pmatrix}=\frac{\hbar^2}{4}\begin{pmatrix}0&-1\\ 1&0\end{pmatrix} $$ $$ \begin{equation} \Longrightarrow\;[\hat{s}_z,\hat{s}_x]=\frac{\hbar^2}{4}\begin{pmatrix}0&2\\ -2&0\end{pmatrix} =i\hbar\cdot\frac{\hbar}{2}\begin{pmatrix}0&-i\\ i&0\end{pmatrix}=i\hbar\,\hat{s}_y . \label{eq:7-comm-szsx} \end{equation} $$最後の式で $i\hbar\cdot\tfrac{\hbar}{2}\begin{pmatrix}0&-i\\ i&0\end{pmatrix}=\tfrac{\hbar^2}{2}\begin{pmatrix}0&-i\cdot i\\ i\cdot i&0\end{pmatrix}=\tfrac{\hbar^2}{2}\begin{pmatrix}0&1\\ -1&0\end{pmatrix}$ となることを確認しておこう.3式をまとめると
である($x\to y\to z\to x$ と巡回している美しい形になっていることに注目).いずれもゼロでないから,スピンの $x,y,z$ 成分は互いに同時決定できない.
7.5.5 $\hat{s}^2$ とは同時に決められる
では,全スピン角運動量 $\hat{s}^2$ と各軸成分 $\hat{s}_x,\hat{s}_y,\hat{s}_z$ は同時に決定できるだろうか.これは式 \eqref{eq:7-s2} を使えば一瞬である.$\hat{s}^2=\tfrac34\hbar^2\mathbb{I}$ は単位行列の定数倍だから,どんな行列 $\hat{A}$ とも
$$ \begin{equation} [\hat{s}^2,\hat{A}]=\frac{3}{4}\hbar^2\left(\mathbb{I}\hat{A}-\hat{A}\mathbb{I}\right)=\frac{3}{4}\hbar^2\left(\hat{A}-\hat{A}\right)=\mathbb{O} \label{eq:7-comm-s2} \end{equation} $$となる($\mathbb{O}$ は零行列).したがって
$$ [\hat{s}^2,\hat{s}_x]=[\hat{s}^2,\hat{s}_y]=[\hat{s}^2,\hat{s}_z]=\mathbb{O} $$である.念のため $[\hat{s}^2,\hat{s}_z]$ を成分で書き下しておくと
$$ \hat{s}^2\hat{s}_z=\frac{3\hbar^2}{4}\cdot\frac{\hbar}{2}\begin{pmatrix}1&0\\ 0&-1\end{pmatrix} =\frac{3\hbar^3}{8}\begin{pmatrix}1&0\\ 0&-1\end{pmatrix} =\hat{s}_z\hat{s}^2 \;\;\Longrightarrow\;\;[\hat{s}^2,\hat{s}_z]=\mathbb{O} $$となり,確かにゼロである.結論として,「スピンの大きさ $\hat{s}^2$」と「そのうち1つの成分(慣例として $\hat{s}_z$)」の2つは同時に確定できる.これが図7.3の描像であり,電子の状態を $(s,m_s)=(\tfrac12,\pm\tfrac12)$ という2つの量子数で指定する理由である.多電子系でも事情は同じで,7.8節以降で使う全スピン量子数 $S$ とその $z$ 成分 $M_S$ の組は,まさにこの $(\hat{S}^2,\hat{S}_z)$ の同時固有状態のラベルである.
注意:「同時決定不可能」は「測定できない」ではない
$\Delta x\,\Delta p\ge\hbar/2$ は,「位置を測ると運動量が壊れる」という測定装置の不出来を言っているのではない.同じ状態にある系をたくさん用意して,片方では $x$ を,もう片方では $p$ を測ると,両者のばらつきの積が必ず $\hbar/2$ 以上になるという,状態そのものの性質である.同様に,電子の $s_x$ を測ればちゃんと $\pm\hbar/2$ という値が出る.ただしそのときには $s_z$ の値が定まらなくなる,というだけである.
例題7.3 スピンにおける不確定性関係を確かめる
$z$ 方向アップスピン状態 $\bm{\alpha}$ について,$\Delta s_x\,\Delta s_y$ を計算し,Robertsonの不等式 \eqref{eq:7-robertson} の等号が成立することを示せ.
解答. 例題7.2より $\Delta s_x=\Delta s_y=\hbar/2$ であるから,左辺は
$$(\Delta s_x)^2(\Delta s_y)^2=\frac{\hbar^2}{4}\cdot\frac{\hbar^2}{4}=\frac{\hbar^4}{16}.$$右辺は,式 \eqref{eq:7-comm-sxsy} より $[\hat{s}_x,\hat{s}_y]=i\hbar\hat{s}_z$ なので,$\bm{\alpha}$ 状態での期待値は
$$\braket{[\hat{s}_x,\hat{s}_y]}=i\hbar\braket{s_z}=i\hbar\cdot\frac{\hbar}{2}=\frac{i\hbar^2}{2} \;\;\Longrightarrow\;\; \frac{\abs{\braket{[\hat{s}_x,\hat{s}_y]}}^2}{4}=\frac{1}{4}\left(\frac{\hbar^2}{2}\right)^2=\frac{\hbar^4}{16}.$$左辺と右辺が一致したので等号が成立する.$\bm{\alpha}$ は不確定性関係の下限を達成する最小不確定状態である.$\blacksquare$
7.6 Slater行列式
7.6.1 反対称性を自動的に満たす書き方
準備が整った.あらためて課題を書くと,「$N$ 個のスピン軌道 $\chi_1,\chi_2,\cdots,\chi_N$ を使って,任意の2電子の入れ替えで符号が反転する $N$ 電子波動関数を作れ」である.答えは行列式である.
定義:Slater行列式
$N$ 個の電子からなる原子・分子の全電子波動関数を
と書く近似をHartree–Fock近似(Hartree–Fock approximation)といい,右辺の行列式をSlater行列式(Slater determinant)と呼ぶ.ここで $\phi_j$ は $j$ 番目のスピン軌道(空間部分 $\times$ スピン部分)である.
読み方の約束が2つある.
- 行は電子の番号 $\xx_1,\xx_2,\cdots,\xx_N$ に対応する.
- 列は量子数(どのスピン軌道か)$\phi_1,\phi_2,\cdots,\phi_N$ に対応する.$\phi$ の添字は「電子1,電子2」という番号ではなく,量子数のラベルである.ここを取り違えると以後の議論がすべて混乱する.
なぜ?:どうして行列式が答えなのか
線形代数で学んだ行列式の性質を思い出そう.(i) 2つの行を入れ替えると行列式の符号が反転する.(ii) 2つの列(または行)が完全に同じなら行列式はゼロになる.Slater行列式では行が電子に対応しているから,(i) はそのまま「電子を2つ入れ替えると波動関数の符号が反転する」——つまりFermi粒子の条件 \eqref{eq:7-antisym} である.そして (ii) は「同じスピン軌道を2回使うと波動関数がゼロになる」——つまりPauliの排他原理である.行列式という道具は,われわれが欲しい2つの性質をはじめから両方持っている.だからSlaterはこれを選んだのである(文献[5]).
数学ノート:規格化因子 $1/\sqrt{N!}$ の由来
$N\times N$ の行列式を展開すると,$N!$ 個の項が並ぶ(たとえば $2\times2$ なら2項,$3\times3$ なら6項).スピン軌道 $\{\phi_j\}$ が規格直交系 $\braket{\phi_i|\phi_j}=\delta_{ij}$ であれば,展開した $N!$ 個の項は互いに直交し,それぞれのノルムが1になる.したがって行列式そのもののノルムの二乗は $N!$ となる.これを1にするために $1/\sqrt{N!}$ を掛けるのである.$N=2$ なら $1/\sqrt{2!}=1/\sqrt2$,$N=3$ なら $1/\sqrt{3!}=1/\sqrt6$ である.
7.6.2 ヘリウム原子の基底状態:$2\times2$ の行列式
いよいよ具体例である.ヘリウム原子の基底状態は,1s軌道にアップスピンとダウンスピンの電子が1個ずつ入った状態である.したがって使うスピン軌道は
$$ \chi_1(\xx)=\phi_{1s}(\rr)\,\bm{\alpha}(\sigma),\qquad \chi_2(\xx)=\phi_{1s}(\rr)\,\bm{\beta}(\sigma) $$の2つである.式 \eqref{eq:7-slater-general} に $N=2$ を入れると
$$ \begin{align} \psi(\xx_1,\xx_2) &=\frac{1}{\sqrt{2}} \begin{vmatrix} \phi_{1s}(\bm{r}_1)\bm{\alpha}(\sigma_1) & \phi_{1s}(\bm{r}_1)\bm{\beta}(\sigma_1)\\ \phi_{1s}(\bm{r}_2)\bm{\alpha}(\sigma_2) & \phi_{1s}(\bm{r}_2)\bm{\beta}(\sigma_2) \end{vmatrix}\notag\\[6pt] &=\frac{1}{\sqrt2}\Bigl[ \phi_{1s}(\bm{r}_1)\bm{\alpha}(\sigma_1)\cdot\phi_{1s}(\bm{r}_2)\bm{\beta}(\sigma_2) -\phi_{1s}(\bm{r}_1)\bm{\beta}(\sigma_1)\cdot\phi_{1s}(\bm{r}_2)\bm{\alpha}(\sigma_2) \Bigr]\notag\\[6pt] &=\underbrace{\phi_{1s}(\bm{r}_1)\phi_{1s}(\bm{r}_2)}_{\text{空間部分:対称}}\cdot \underbrace{\frac{1}{\sqrt2}\Bigl(\bm{\alpha}(\sigma_1)\bm{\beta}(\sigma_2)-\bm{\beta}(\sigma_1)\bm{\alpha}(\sigma_2)\Bigr)}_{\text{スピン部分:反対称}} . \label{eq:7-he-ground} \end{align} $$2行目から3行目では,両方の項に共通する $\phi_{1s}(\bm{r}_1)\phi_{1s}(\bm{r}_2)$ をくくり出した.この形はきわめて示唆的である.
- 空間部分 $\phi_{1s}(\bm{r}_1)\phi_{1s}(\bm{r}_2)$ は,$\bm{r}_1\leftrightarrow\bm{r}_2$ の入れ替えで変わらない.すなわち対称である.2つの電子が同じ1s軌道にいる(同じエネルギー)ことに対応する.
- スピン部分 $\frac{1}{\sqrt2}(\bm{\alpha}\bm{\beta}-\bm{\beta}\bm{\alpha})$ は,$\sigma_1\leftrightarrow\sigma_2$ の入れ替えで符号が反転する.すなわち反対称である.2つの電子のスピンが逆向きであることに対応する.
全体としては「対称 $\times$ 反対称 $=$ 反対称」となり,Fermi粒子の条件が満たされる.
7.6.3 入れ替えて符号を確かめる
本当に反対称になっているか,実際に電子1と電子2の座標を入れ替えて確かめよう.行列式の第1行と第2行を入れ替えると
$$ \begin{align} \psi(\xx_2,\xx_1) &=\frac{1}{\sqrt{2}} \begin{vmatrix} \phi_{1s}(\bm{r}_2)\bm{\alpha}(\sigma_2) & \phi_{1s}(\bm{r}_2)\bm{\beta}(\sigma_2)\\ \phi_{1s}(\bm{r}_1)\bm{\alpha}(\sigma_1) & \phi_{1s}(\bm{r}_1)\bm{\beta}(\sigma_1) \end{vmatrix}\notag\\[6pt] &=\frac{1}{\sqrt2}\Bigl[ \phi_{1s}(\bm{r}_2)\bm{\alpha}(\sigma_2)\cdot\phi_{1s}(\bm{r}_1)\bm{\beta}(\sigma_1) -\phi_{1s}(\bm{r}_2)\bm{\beta}(\sigma_2)\cdot\phi_{1s}(\bm{r}_1)\bm{\alpha}(\sigma_1) \Bigr]\notag\\[6pt] &=\phi_{1s}(\bm{r}_1)\phi_{1s}(\bm{r}_2)\cdot\frac{1}{\sqrt2}\Bigl(\bm{\beta}(\sigma_1)\bm{\alpha}(\sigma_2)-\bm{\alpha}(\sigma_1)\bm{\beta}(\sigma_2)\Bigr)\notag\\[6pt] &=-\,\phi_{1s}(\bm{r}_1)\phi_{1s}(\bm{r}_2)\cdot\frac{1}{\sqrt2}\Bigl(\bm{\alpha}(\sigma_1)\bm{\beta}(\sigma_2)-\bm{\beta}(\sigma_1)\bm{\alpha}(\sigma_2)\Bigr) =-\psi(\xx_1,\xx_2). \label{eq:7-he-swap} \end{align} $$最後から2行目で,括弧の中の2項の順序を入れ替えて全体に $-1$ をくくり出した.確かに $\psi(\xx_1,\xx_2)=-\psi(\xx_2,\xx_1)$ すなわち反対称性(Pauliの排他原理)を満たしている.
7.6.4 規格化の確認
次に $\braket{\psi|\psi}=1$ を確かめる.この計算はスピン積分の練習として非常に良い.式 \eqref{eq:7-he-ground} を使うと
$$ \braket{\psi|\psi}=\iint\psi^*\psi\;\dd\xx_1\dd\xx_2 =\frac{1}{2}\iint\bigl(\phi_{1s}(\bm{r}_1)\phi_{1s}(\bm{r}_2)\bigr)^2\dd\bm{r}_1\dd\bm{r}_2\times(\text{スピン部分}) $$となる.ここで $\phi_{1s}$ は実関数とした.スピン部分は,$(\bm{\alpha}\bm{\beta}-\bm{\beta}\bm{\alpha})^*(\bm{\alpha}\bm{\beta}-\bm{\beta}\bm{\alpha})$ を展開すると,$(A-B)^*(A-B)=A^*A+B^*B-A^*B-B^*A$ の形の4項になる:
$$ \begin{align} (\text{スピン部分}) &=\iint\bm{\alpha}^*(\sigma_1)\bm{\alpha}(\sigma_1)\,\bm{\beta}^*(\sigma_2)\bm{\beta}(\sigma_2)\,\dd\sigma_1\dd\sigma_2 \;+\iint\bm{\beta}^*(\sigma_1)\bm{\beta}(\sigma_1)\,\bm{\alpha}^*(\sigma_2)\bm{\alpha}(\sigma_2)\,\dd\sigma_1\dd\sigma_2\notag\\ &\;-\iint\bm{\alpha}^*(\sigma_1)\bm{\beta}(\sigma_1)\,\bm{\beta}^*(\sigma_2)\bm{\alpha}(\sigma_2)\,\dd\sigma_1\dd\sigma_2 \;-\iint\bm{\beta}^*(\sigma_1)\bm{\alpha}(\sigma_1)\,\bm{\alpha}^*(\sigma_2)\bm{\beta}(\sigma_2)\,\dd\sigma_1\dd\sigma_2 . \label{eq:7-spin-norm} \end{align} $$各項は電子1と電子2のスピン積分の積に分解できるので,式 \eqref{eq:7-spin-ortho} の $\braket{\bm{\alpha}|\bm{\alpha}}=\braket{\bm{\beta}|\bm{\beta}}=1$,$\braket{\bm{\alpha}|\bm{\beta}}=\braket{\bm{\beta}|\bm{\alpha}}=0$ を代入するだけでよい.
$$ \begin{align} \text{第1項}&=\braket{\bm{\alpha}|\bm{\alpha}}\braket{\bm{\beta}|\bm{\beta}}=1\cdot1=1, & \text{第2項}&=\braket{\bm{\beta}|\bm{\beta}}\braket{\bm{\alpha}|\bm{\alpha}}=1\cdot1=1,\notag\\ \text{第3項}&=\braket{\bm{\alpha}|\bm{\beta}}\braket{\bm{\beta}|\bm{\alpha}}=0\cdot0=0, & \text{第4項}&=\braket{\bm{\beta}|\bm{\alpha}}\braket{\bm{\alpha}|\bm{\beta}}=0\cdot0=0 .\notag \end{align} $$したがって(スピン部分)$=1+1-0-0=2$ である.1, 1, 0, 0 という4つの値が出るのがポイントである.以上より
$$ \begin{equation} \braket{\psi|\psi}=\frac{1}{2}\iint\bigl(\phi_{1s}(\bm{r}_1)\phi_{1s}(\bm{r}_2)\bigr)^2\dd\bm{r}_1\dd\bm{r}_2\times2 =\iint\bigl(\phi_{1s}(\bm{r}_1)\phi_{1s}(\bm{r}_2)\bigr)^2\dd\bm{r}_1\dd\bm{r}_2 \label{eq:7-norm-he} \end{equation} $$となり,$\phi_{1s}$ が規格化されていれば右辺は $1\times1=1$ である.結局,スピンの部分はきれいに1になって消え,空間の波動関数の積分だけが残る.これは第6章までのHe原子の変分計算で,スピンを一切考えずに済んでいた理由でもある.式 \eqref{eq:7-he-integral} の脇に「積分するとスピン波動関数の部分は消える(1になる)」と書いた意味がこれである.
7.6.5 同じスピン軌道を2つ使うとどうなるか — Pauliの排他原理
今度は禁じ手を試してみよう.「電子1も電子2も1s軌道にアップスピンで入る」という状況,つまりスピン軌道を両方 $\phi_{1s}\bm{\alpha}$ にとる場合である.式 \eqref{eq:7-slater-general} は形式的には書ける:
$$ \begin{align} \psi(\xx_1,\xx_2) &=\frac{1}{\sqrt2} \begin{vmatrix} \phi_{1s}(\bm{r}_1)\bm{\alpha}(\sigma_1) & \phi_{1s}(\bm{r}_1)\bm{\alpha}(\sigma_1)\\ \phi_{1s}(\bm{r}_2)\bm{\alpha}(\sigma_2) & \phi_{1s}(\bm{r}_2)\bm{\alpha}(\sigma_2) \end{vmatrix}\notag\\[6pt] &=\phi_{1s}(\bm{r}_1)\phi_{1s}(\bm{r}_2)\cdot\frac{1}{\sqrt2}\Bigl(\bm{\alpha}(\sigma_1)\bm{\alpha}(\sigma_2)-\bm{\alpha}(\sigma_1)\bm{\alpha}(\sigma_2)\Bigr). \label{eq:7-pauli-zero-setup} \end{align} $$括弧の中を見れば,同じものを引き算しているので明らかにゼロである.しかしこれを「明らかだから」で済ませず,規格化の計算を最後まで実行してみよう.式 \eqref{eq:7-spin-norm} と同じ4項が現れるが,今度はすべてのスピン積分が $\braket{\bm{\alpha}|\bm{\alpha}}\braket{\bm{\alpha}|\bm{\alpha}}=1\cdot1=1$ になる:
$$ \begin{align} \braket{\psi|\psi}&=\frac{1}{2}\iint\bigl(\phi_{1s}(\bm{r}_1)\phi_{1s}(\bm{r}_2)\bigr)^2\dd\bm{r}_1\dd\bm{r}_2 \times\Bigl[\underbrace{1}_{+}+\underbrace{1}_{+}-\underbrace{1}_{-}-\underbrace{1}_{-}\Bigr]\notag\\ &=\frac{1}{2}\iint\bigl(\phi_{1s}(\bm{r}_1)\phi_{1s}(\bm{r}_2)\bigr)^2\dd\bm{r}_1\dd\bm{r}_2\times 0=0 . \label{eq:7-pauli-zero} \end{align} $$ノルムがゼロということは,そのような状態は存在しないということである.空間座標を積分すれば系の粒子数(ここでは規格化された全確率)が出るはずなのに,それがゼロになってしまった.すなわち:
定理:Pauliの排他原理
2つの電子がまったく同じスピン軌道(同じ空間軌道かつ同じスピン)を占めるような状態は存在しない.より一般に,$N$ 電子系で2つのスピン軌道が一致すれば,Slater行列式は2つの列が等しくなるので恒等的にゼロになる.
したがって,1つの空間軌道(たとえば1s)には $\bm{\alpha}$ と $\bm{\beta}$ の高々2個までしか電子を入れられない.これが「1軌道に電子は2個まで」という規則の正体である.
例題7.4 リチウム原子のSlater行列式
Li原子の基底状態の電子配置は $1s^2 2s^1$ である.全電子波動関数をSlater行列式で書き下し,展開すると何項になるか答えよ.
解答. 使うスピン軌道は $\chi_1=\phi_{1s}\bm{\alpha}$,$\chi_2=\phi_{1s}\bm{\beta}$,$\chi_3=\phi_{2s}\bm{\alpha}$ の3つである($2s$ のスピンは $\bm{\beta}$ でもよいが,ここでは $\bm{\alpha}$ にとる).$N=3$ なので規格化因子は $1/\sqrt{3!}=1/\sqrt6$ であり,
$$ \psi(\xx_1,\xx_2,\xx_3)=\frac{1}{\sqrt6} \begin{vmatrix} \phi_{1s}(\bm{r}_1)\bm{\alpha}(\sigma_1) & \phi_{1s}(\bm{r}_1)\bm{\beta}(\sigma_1) & \phi_{2s}(\bm{r}_1)\bm{\alpha}(\sigma_1)\\ \phi_{1s}(\bm{r}_2)\bm{\alpha}(\sigma_2) & \phi_{1s}(\bm{r}_2)\bm{\beta}(\sigma_2) & \phi_{2s}(\bm{r}_2)\bm{\alpha}(\sigma_2)\\ \phi_{1s}(\bm{r}_3)\bm{\alpha}(\sigma_3) & \phi_{1s}(\bm{r}_3)\bm{\beta}(\sigma_3) & \phi_{2s}(\bm{r}_3)\bm{\alpha}(\sigma_3) \end{vmatrix}. $$$3\times3$ の行列式を展開すると $3!=6$ 項になる.電子が10個の Ne 原子では $10!=3\,628\,800$ 項,電子が26個の Fe 原子では $26!\approx4\times10^{26}$ 項である.「全部書くと長いし,面倒だからなぁ」——だから行列式という1つの記号にまとめて書くのである.計算機に解かせるときも,この構造(行列式)を利用すると項をいちいち展開せずに済み,計算量が劇的に減る.この事情は第9章で交換エネルギーを扱うときにはっきりする.$\blacksquare$
7.7 Pauliの排他原理をもう一度考える
前節では「行列式がゼロになるから排他原理」という数学的な導出を見た.ここでは,なぜHartree積では駄目なのかを確率論の言葉で捉え直しておこう.この見方は,第9章の交換エネルギーや電子相関を理解する際の土台になる.
7.7.1 Hartree積は「独立事象の積」である
Hartree積 $\psi(\bm{r}_1,\bm{r}_2)=\phi_1(\bm{r}_1)\phi_2(\bm{r}_2)$ を採用すると,電子が微小空間 $\dd^3\bm{r}_1$ と $\dd^3\bm{r}_2$ の中に同時に入っている確率は
$$ \begin{equation} \psi^*(\bm{r}_1,\bm{r}_2)\psi(\bm{r}_1,\bm{r}_2)\,\dd^3\bm{r}_1\dd^3\bm{r}_2 =\underbrace{\abs{\phi_1(\bm{r}_1)}^2\dd^3\bm{r}_1}_{\text{電子1を }\dd^3\bm{r}_1\text{ に見出す確率}} \times \underbrace{\abs{\phi_2(\bm{r}_2)}^2\dd^3\bm{r}_2}_{\text{電子2を }\dd^3\bm{r}_2\text{ に見出す確率}} \label{eq:7-hartree-prob} \end{equation} $$となる.ここで $\dd^3\bm{r}_1=r_1^2\sin\theta_1\,\dd r_1\dd\theta_1\dd\varphi_1$ である(極座標の体積要素.毎回全部書くと長いので $\dd^3\bm{r}$ と略記する.微小な直方体の箱をイメージしてもよい).
式 \eqref{eq:7-hartree-prob} の右辺は,2つの確率の単純な掛け算になっている.確率論では,2つの事象 $A,B$ が独立(independent)であるとき,かつそのときに限り $P(A\cap B)=P(A)P(B)$ が成り立つ.したがってHartree積は,「電子1と電子2は互いにまったく相互作用しない」と宣言していることになる.
物理的意味:スペードのエースを引く確率
分かりやすい例で考えよう.よく切ったトランプ52枚から1枚引いて,それがスペードのエースである確率は $\dfrac{1}{52}$ である.これは
$$P(\text{スペード})\times P(\text{エース})=\frac{13}{52}\times\frac{4}{52}=\frac{1}{4}\times\frac{1}{13}=\frac{1}{52}$$と,単純な掛け算で得られる.なぜならスートが何であるかとランクが何であるかは独立だからである(スペードだからといってエースが出やすくなったりしない).Hartree積は,電子の存在確率がこのトランプと同じくらい素直に「独立」であると仮定している.
7.7.2 暖かいジャガイモと冷たいリンゴ
しかし現実の電子は独立ではない.電子1と電子2は互いにCoulomb反発するのだから,同じ場所に同時に存在するのはエネルギー的に不利であり,一方が右にいれば他方は左にいる,という相関(correlation)が生じるはずである.相関がある場合,単純な確率の掛け算は成り立たない.
なぜ?:暖かいジャガイモと冷たいリンゴ
同じ箱の中に,暖かいジャガイモが2つと冷たいリンゴが2つ入っているとしよう.この箱から目をつぶって1つ取り出したとき,「暖かいもの」を取り出す確率はいくらか.答えは,暖かいものは2つ,全部で4つだから $\dfrac{1}{2}$ である.
ところが「独立だ」と思い込んで掛け算すると
$$\frac{1}{2}\;(\text{暖 or 冷})\times\frac{1}{2}\;(\text{ジャガイモ or リンゴ})=\frac{1}{4}$$となり,正しい答え $\tfrac12$ とは合わない.原因は明らかで,この箱の中では「暖かい」と「ジャガイモ」が相関している(暖かいものは必ずジャガイモであり,冷たいものは必ずリンゴである)からである.トランプのスートとランクのようには独立でない.
電子1と電子2も,まさにこれと同じである.Coulomb反発によって互いの位置が相関しているので,単純な確率の掛け算では存在確率を精度よく表現できない.Hartree積が「完璧ではない」と言った理由の1つがこれである.
ここで,電子間の相関には性質の異なる2種類があることを整理しておこう.
| 種類 | 原因 | 働く相手 | Slater行列式で表せるか |
|---|---|---|---|
| 交換相関(Fermi相関) | 波動関数の反対称性(Pauli) | 同じスピンの電子どうし | 表せる(行列式1個で十分) |
| Coulomb相関(電子相関) | 電子間Coulomb反発 | スピンによらずすべての電子 | 表せない(行列式1個では不足) |
Slater行列式 \eqref{eq:7-slater-general} を1つ使うHartree–Fock近似は,上の表の1行目の相関だけを正しく取り込む.同じスピンをもつ2電子は,反対称性のために同じ場所に来られなくなる(この「近づけない穴」をFermi孔(Fermi hole)と呼ぶ).これはCoulomb反発を入れる前から,波動関数の形だけから生じる効果である.第9章では,この効果がエネルギーとして交換エネルギーという形で現れることを見る.
一方,逆向きスピンの2電子どうしの避け合いはSlater行列式1個では表現できない.この不足分が電子相関エネルギー(electron correlation energy)と呼ばれるもので,より精密な計算手法(配置間相互作用,摂動論,密度汎関数法など)が必要になる.第4章で学んだ摂動論はその1つの処方箋である.
注意:「Pauliの排他原理」という言葉の二重の使われ方
初等的な化学では,Pauliの排他原理は「同じ軌道に同じスピンの電子は2個入れない」という禁止則として教わる.一方,本章で見たように,より根本的には「Fermi粒子の波動関数は入れ替えに対して反対称」という対称性の要請である.前者は後者の帰結の1つにすぎない.反対称性の要請はもっと強い内容をもっており,たとえば「同じスピンの電子は互いに近づきにくい」というFermi孔の存在も同じ原理から出てくる.本書では以後,必要に応じて「排他原理」「反対称性」を使い分ける.
7.8 一重項と三重項
7.8.1 ヘリウムの励起状態には4つのSlater行列式がある
Hartree–Fock近似とスピン波動関数が手に入ったので,化学・物理のあらゆる場面で顔を出すスピン多重度(spin multiplicity)を導入しよう.舞台はヘリウム原子の励起状態,電子配置 $1s^1 2s^1$ である.
1s軌道と2s軌道に1個ずつ電子が入るとき,各電子のスピンの向きは $\bm{\alpha}$ か $\bm{\beta}$ の2通りずつあるので,合計 $2\times2=4$ 個のSlater行列式が書ける.順に見ていこう.
(a) 1sがアップ,2sがダウン.
$$ \begin{align} \psi_a(\xx_1,\xx_2)&=\frac{1}{\sqrt2} \begin{vmatrix} \phi_{1s}(\bm{r}_1)\bm{\alpha}(\sigma_1) & \phi_{2s}(\bm{r}_1)\bm{\beta}(\sigma_1)\\ \phi_{1s}(\bm{r}_2)\bm{\alpha}(\sigma_2) & \phi_{2s}(\bm{r}_2)\bm{\beta}(\sigma_2) \end{vmatrix}\notag\\ &=\frac{1}{\sqrt2}\Bigl(\phi_{1s}(\bm{r}_1)\phi_{2s}(\bm{r}_2)\,\bm{\alpha}(\sigma_1)\bm{\beta}(\sigma_2) -\phi_{2s}(\bm{r}_1)\phi_{1s}(\bm{r}_2)\,\bm{\beta}(\sigma_1)\bm{\alpha}(\sigma_2)\Bigr). \label{eq:7-he-exc-a} \end{align} $$(b) 1sがダウン,2sがアップ.
$$ \begin{equation} \psi_b(\xx_1,\xx_2)=\frac{1}{\sqrt2}\Bigl(\phi_{1s}(\bm{r}_1)\phi_{2s}(\bm{r}_2)\,\bm{\beta}(\sigma_1)\bm{\alpha}(\sigma_2) -\phi_{2s}(\bm{r}_1)\phi_{1s}(\bm{r}_2)\,\bm{\alpha}(\sigma_1)\bm{\beta}(\sigma_2)\Bigr). \label{eq:7-he-exc-b} \end{equation} $$(c) 両方アップ.
$$ \begin{align} \psi_c(\xx_1,\xx_2)&=\frac{1}{\sqrt2} \begin{vmatrix} \phi_{1s}(\bm{r}_1)\bm{\alpha}(\sigma_1) & \phi_{2s}(\bm{r}_1)\bm{\alpha}(\sigma_1)\\ \phi_{1s}(\bm{r}_2)\bm{\alpha}(\sigma_2) & \phi_{2s}(\bm{r}_2)\bm{\alpha}(\sigma_2) \end{vmatrix}\notag\\ &=\Bigl[\frac{1}{\sqrt2}\bigl(\phi_{1s}(\bm{r}_1)\phi_{2s}(\bm{r}_2)-\phi_{2s}(\bm{r}_1)\phi_{1s}(\bm{r}_2)\bigr)\Bigr]\bm{\alpha}(\sigma_1)\bm{\alpha}(\sigma_2). \label{eq:7-he-exc-c} \end{align} $$(d) 両方ダウン.
$$ \begin{equation} \psi_d(\xx_1,\xx_2)=\Bigl[\frac{1}{\sqrt2}\bigl(\phi_{1s}(\bm{r}_1)\phi_{2s}(\bm{r}_2)-\phi_{2s}(\bm{r}_1)\phi_{1s}(\bm{r}_2)\bigr)\Bigr]\bm{\beta}(\sigma_1)\bm{\beta}(\sigma_2). \label{eq:7-he-exc-d} \end{equation} $$(c) と (d) はきれいに「空間部分 $\times$ スピン部分」に分離した.空間部分が反対称,スピン部分が対称であり,積は反対称になっている.ところが (a) と (b) は分離していない.実はこの2つは同じ物理状態を別々に切り出したもので,そのまま使うと $\hat{S}^2$ の固有関数になっていない.そこで線形結合をとる:
$$ \begin{align} \frac{1}{\sqrt2}\left(\psi_a-\psi_b\right) &=\frac{1}{2}\Bigl(\phi_{1s}(\bm{r}_1)\phi_{2s}(\bm{r}_2)+\phi_{2s}(\bm{r}_1)\phi_{1s}(\bm{r}_2)\Bigr)\Bigl(\bm{\alpha}(\sigma_1)\bm{\beta}(\sigma_2)-\bm{\beta}(\sigma_1)\bm{\alpha}(\sigma_2)\Bigr)\notag\\ &=\underbrace{\frac{1}{\sqrt2}\Bigl(\phi_{1s}(\bm{r}_1)\phi_{2s}(\bm{r}_2)+\phi_{2s}(\bm{r}_1)\phi_{1s}(\bm{r}_2)\Bigr)}_{\text{空間:対称}}\cdot \underbrace{\frac{1}{\sqrt2}\Bigl(\bm{\alpha}(\sigma_1)\bm{\beta}(\sigma_2)-\bm{\beta}(\sigma_1)\bm{\alpha}(\sigma_2)\Bigr)}_{\text{スピン:反対称}}, \label{eq:7-singlet-state}\\[8pt] \frac{1}{\sqrt2}\left(\psi_a+\psi_b\right) &=\frac{1}{2}\Bigl(\phi_{1s}(\bm{r}_1)\phi_{2s}(\bm{r}_2)-\phi_{2s}(\bm{r}_1)\phi_{1s}(\bm{r}_2)\Bigr)\Bigl(\bm{\alpha}(\sigma_1)\bm{\beta}(\sigma_2)+\bm{\beta}(\sigma_1)\bm{\alpha}(\sigma_2)\Bigr)\notag\\ &=\underbrace{\frac{1}{\sqrt2}\Bigl(\phi_{1s}(\bm{r}_1)\phi_{2s}(\bm{r}_2)-\phi_{2s}(\bm{r}_1)\phi_{1s}(\bm{r}_2)\Bigr)}_{\text{空間:反対称}}\cdot \underbrace{\frac{1}{\sqrt2}\Bigl(\bm{\alpha}(\sigma_1)\bm{\beta}(\sigma_2)+\bm{\beta}(\sigma_1)\bm{\alpha}(\sigma_2)\Bigr)}_{\text{スピン:対称}} . \label{eq:7-triplet-zero} \end{align} $$これで4つすべてが「空間 $\times$ スピン」に分離し,しかもスピン部分が対称か反対称かできれいに2群に分かれた.
定義:一重項と三重項のスピン波動関数
一重項(singlet, シングレット)—— スピン部分が反対称.1個だけ:
$$ \begin{equation} \Theta_{\text{singlet}}=\frac{1}{\sqrt2}\Bigl(\bm{\alpha}(\sigma_1)\bm{\beta}(\sigma_2)-\bm{\beta}(\sigma_1)\bm{\alpha}(\sigma_2)\Bigr) \label{eq:7-singlet} \end{equation} $$三重項(triplet, トリプレット)—— スピン部分が対称.3個ある:
$$ \begin{equation} \Theta_{\text{triplet}}= \begin{cases} \bm{\alpha}(\sigma_1)\bm{\alpha}(\sigma_2) & (M_S=+1)\\[4pt] \dfrac{1}{\sqrt2}\Bigl(\bm{\alpha}(\sigma_1)\bm{\beta}(\sigma_2)+\bm{\beta}(\sigma_1)\bm{\alpha}(\sigma_2)\Bigr) & (M_S=0)\\[6pt] \bm{\beta}(\sigma_1)\bm{\beta}(\sigma_2) & (M_S=-1) \end{cases} \label{eq:7-triplet} \end{equation} $$全体が反対称でなければならないので,一重項では空間部分が対称,三重項では空間部分が反対称になる.
なぜ?:ヘリウムの基底状態には三重項がないのか
ある.ないのは「$1s^2$ 配置の三重項」である.基底状態 $1s^2$ では2つの電子が同じ1s軌道にいるから,空間部分 $\phi_{1s}(\bm{r}_1)\phi_{1s}(\bm{r}_2)$ は必然的に対称になる(1つしか使える空間軌道がないので,反対称な組み合わせを作ろうとすると $\phi_{1s}\phi_{1s}-\phi_{1s}\phi_{1s}=0$ になってしまう).全体を反対称にするには,スピン部分が反対称でなければならない.したがって $1s^2$ 配置は一重項しかありえない.
ところが電子の1つが2sに励起すれば,1sと2sという互いに直交する2つの空間軌道が使えるので,反対称な空間部分 $\phi_{1s}\phi_{2s}-\phi_{2s}\phi_{1s}$ が作れる.こうなると三重項(スピン対称)が許される.同じ理屈で,p軌道やd軌道のように互いに直交する縮退状態が複数ある場合($\braket{\phi_{2p_x}|\phi_{2p_z}}=0$,$\braket{\phi_{3d_{xy}}|\phi_{3d_{yz}}}=0$ など)にも三重項が取りうる.炭素原子の $2p^2$ が典型例である(7.9節).
7.8.2 なぜ「一重」「三重」と呼ぶのか — スピン多重度
合計のスピン角運動量(の量子数)$S$ を,各電子のスピンの大きさの和として
$$ \begin{equation} S=\sum_i \abs{s_i} \label{eq:7-total-S} \end{equation} $$で定義する(和は電子軌道について).すると
- 一重項:1つの軌道にアップとダウンが共存しているので,$S=\abs{1/2-1/2}=0$.このとき $2S+1=1$.
- 三重項:$S=\abs{1/2}+\abs{-1/2}=1$.このとき $2S+1=3$.
この $2S+1$ をスピン多重度(spin multiplicity)と呼ぶ.値が1なら一重項(singlet),3なら三重項(triplet),2なら二重項(doublet)である.$2S+1$ は,$M_S=S,S-1,\cdots,-S$ という $z$ 成分のとりうる値の個数に等しい.三重項が3個の状態(式 \eqref{eq:7-triplet} の3行)をもつのは,まさにこの $M_S=+1,0,-1$ に対応している.
注意:$M_S=0$ の三重項が $S=1$ なのはなぜか
三重項の $\frac{1}{\sqrt2}(\bm{\alpha}\bm{\beta}+\bm{\beta}\bm{\alpha})$ という状態では,アップスピンとダウンスピンがそれぞれの軌道にあるので,$z$ 成分の合計は $M_S=\tfrac12-\tfrac12=0$ である.それなのになぜ $S=1$ なのか.ここが最初につまずくところである.
ポイントは,$S$ は「$z$ 成分の合計」ではなく「合成されたスピンベクトルの大きさ」だということである.式 \eqref{eq:7-total-S} を大きさの和として書いたのはそのためで,一重項は $S=\abs{1/2-1/2}=0$,三重項は $S=\abs{1/2}+\abs{-1/2}=1$ となる.図7.3の円錐図でいえば,一重項では2本のベクトルが正反対を向いて打ち消し合い,三重項では2本が(円錐面上のどこかで)合成されて大きさ $\sqrt{1\cdot2}\,\hbar=\sqrt2\hbar$ のベクトルを作っている.三重項の $M_S=0$ 状態は,その合成ベクトルがたまたま $z$ 軸に垂直を向いている状態である.厳密には,この状態が $\hat{S}^2$ の固有値 $S(S+1)\hbar^2=2\hbar^2$ をもつことを直接確かめられる(演習7.3).
スピン多重度2の二重項は,不対電子が1個の場合である.Li, Na, K などのアルカリ金属原子($ns^1$),F, Cl, Br などのハロゲン原子($np^5$,正孔が1つ)がこれに該当する.ラジカルもふつう二重項である.
7.8.3 三重項のほうが安定になる — Hundの第1規則の芽
同じ電子配置($1s^12s^1$)から一重項と三重項の両方が出てきたが,エネルギーは同じではない.実験値を見よう.ヘリウム原子の基底状態($1s^2$,$^1S_0$)を基準にすると,
| 状態 | スピン多重度 | 基底状態からのエネルギー |
|---|---|---|
| $1s2s\ {}^3S_1$(三重項) | 3 | 19.820 eV |
| $1s2s\ {}^1S_0$(一重項) | 1 | 20.616 eV |
三重項のほうが 0.796 eV 低い.なぜか.三重項では空間部分が反対称 $\phi_{1s}(\bm{r}_1)\phi_{2s}(\bm{r}_2)-\phi_{2s}(\bm{r}_1)\phi_{1s}(\bm{r}_2)$ なので,$\bm{r}_1=\bm{r}_2$ とおくと恒等的にゼロになる.つまり2つの電子は同じ場所に来られない(Fermi孔).その結果,電子間のCoulomb反発が実効的に弱まり,エネルギーが下がるのである.この安定化を定量化したものが交換エネルギーであり,第9章で交換積分 $J$ として厳密に扱う.
例題7.5 一重項・三重項の規格直交性
式 \eqref{eq:7-singlet} の一重項スピン関数 $\Theta_{\text{singlet}}$ と,式 \eqref{eq:7-triplet} の $M_S=0$ の三重項スピン関数 $\Theta_{\text{triplet}}^{(0)}=\frac{1}{\sqrt2}(\bm{\alpha}\bm{\beta}+\bm{\beta}\bm{\alpha})$ が,それぞれ規格化されており,かつ互いに直交することを示せ.
解答. 略記として $\braket{\bm{\alpha}|\bm{\alpha}}=\braket{\bm{\beta}|\bm{\beta}}=1$,$\braket{\bm{\alpha}|\bm{\beta}}=\braket{\bm{\beta}|\bm{\alpha}}=0$ を使う.2電子のスピン積分は,電子1と電子2について別々に行えばよい.
まず一重項の規格化:
$$ \braket{\Theta_{\text{s}}|\Theta_{\text{s}}}=\frac12\Bigl[ \underbrace{\braket{\bm{\alpha}|\bm{\alpha}}\braket{\bm{\beta}|\bm{\beta}}}_{=1} -\underbrace{\braket{\bm{\alpha}|\bm{\beta}}\braket{\bm{\beta}|\bm{\alpha}}}_{=0} -\underbrace{\braket{\bm{\beta}|\bm{\alpha}}\braket{\bm{\alpha}|\bm{\beta}}}_{=0} +\underbrace{\braket{\bm{\beta}|\bm{\beta}}\braket{\bm{\alpha}|\bm{\alpha}}}_{=1} \Bigr]=\frac12(1+1)=1 . $$三重項($M_S=0$)も符号が変わるだけで同じ:
$$ \braket{\Theta_{\text{t}}^{(0)}|\Theta_{\text{t}}^{(0)}}=\frac12\bigl[1+0+0+1\bigr]=1 . $$直交性は,交差項を計算する:
$$ \braket{\Theta_{\text{s}}|\Theta_{\text{t}}^{(0)}}=\frac12\Bigl[ \underbrace{\braket{\bm{\alpha}|\bm{\alpha}}\braket{\bm{\beta}|\bm{\beta}}}_{=1} +\underbrace{\braket{\bm{\alpha}|\bm{\beta}}\braket{\bm{\beta}|\bm{\alpha}}}_{=0} -\underbrace{\braket{\bm{\beta}|\bm{\alpha}}\braket{\bm{\alpha}|\bm{\beta}}}_{=0} -\underbrace{\braket{\bm{\beta}|\bm{\beta}}\braket{\bm{\alpha}|\bm{\alpha}}}_{=1} \Bigr]=\frac12(1-1)=0 . $$よって一重項と三重項は直交する.エネルギー固有状態が互いに直交するという一般則(第3章)と整合している.$\blacksquare$
7.8.4 励起エネルギーを1電子準位の差で見積もってはいけない
ここで,計算科学を学ぶ者が必ず一度は引っかかる落とし穴を扱う.題材はベリリウム原子($1s^22s^2$)の $2s\to2p$ 励起である.PySCF(付録B参照)で3通りの見積もりを比べてみよう.
python3 calc_pyscf.py --xyz XYZ_Be.xyz --spin 0 --basis 6-31g
python3 calc_pyscf.py --xyz XYZ_Be.xyz --spin 2 --basis 6-31g --method rohf
コード7.1 Be原子の基底状態(閉殻,RHF)と,$2s\to2p$ 励起状態(三重項,ROHF)の計算
見積もり1:1電子準位(軌道エネルギー)の差.基底状態の計算結果を見ると,占有されている2s軌道の軌道エネルギーは $-8.199$ eV,空の2p軌道は $+2.243$ eV であった.素朴に考えれば,電子を2sから2pに持ち上げるのに必要なエネルギーは
$$ \begin{equation} \Delta E_{\text{軌道差}}=\epsilon_{2p}-\epsilon_{2s}=2.243-(-8.199)=10.442\ \mathrm{eV} \label{eq:7-be-orbital} \end{equation} $$である.
見積もり2:$\Delta$SCF(全エネルギーの差).励起状態の電子配置 $1s^22s^12p^1$ を仮定してSCF計算を最後まで回し直し,全エネルギーどうしを引き算する:
$$ \begin{equation} \Delta E_{\Delta\mathrm{SCF}}=E(1s^22s^12p^1)-E(1s^22s^2)=-394.743-(-396.381)=1.638\ \mathrm{eV} \label{eq:7-be-dscf} \end{equation} $$実験値:2.73 eV($2s^2\,{}^1S_0\to 2s2p\,{}^3P^{\mathrm o}$,NIST).
| 方法 | 値 | 実験値との比 |
|---|---|---|
| 1電子準位の差 $\epsilon_{2p}-\epsilon_{2s}$ | 10.44 eV | 約 3.8 倍 |
| $\Delta$SCF(全エネルギー差) | 1.64 eV | 約 0.6 倍 |
| 実験値 | 2.73 eV | — |
注意:1電子準位の差で励起エネルギーを見積もってはいけない
表7.3を見れば一目瞭然である.軌道エネルギーの差 10.44 eV は,実験値 2.73 eV の4倍近い過大評価になっている.理由は次の通りである.
- 電子間反発が変わる.基底状態の軌道エネルギー $\epsilon_{2p}$ は「2s軌道に2個の電子が詰まっている場」の中で空の2p軌道が感じるエネルギーである.実際に電子が2pに移れば,感じる場そのものが変わってしまう(これを軌道緩和, orbital relaxation という).
- 軌道の形が変わる.励起後の系で改めてSCFを回すと,すべての軌道が最適化し直される.
- 分子・固体では原子位置まで変わる.励起状態では結合の強さが変わるため,平衡核配置がずれる.
したがって,励起エネルギーが欲しければ,少なくとも励起状態の電子配置を指定してSCF計算をやり直す($\Delta$SCF)必要がある.それでも表7.3のように1 eV程度は外れる.一般に,励起電子状態の高精度な計算は基底状態よりはるかに難しいことを心に留めておいてほしい.この教訓は,第10章で分子軌道エネルギーを読むときにも,第14章でバンドギャップを議論するときにも繰り返し登場する.
7.8.5 Franck–Condonの原理
上の注意の3番目,「励起状態では原子位置が変わる」という点に少し立ち入っておこう.分子が光を吸収して電子励起するとき,電子の運動は原子核の運動に比べて圧倒的に速い(質量比が $m/M\sim10^{-4}$ 以下.第8章のBorn–Oppenheimer近似の根拠でもある).したがって電子遷移が起こる一瞬の間,原子核は動けない.これをFranck–Condonの原理(Franck–Condon principle)という.
図7.6のように,基底状態と励起状態のポテンシャル曲線の極小位置がずれている場合,基底状態の平衡核間距離 $R_0$ から真上に(垂直に)遷移が起こる.その結果,励起状態のポテンシャル曲線上では底ではなく壁の高い所に到達し,余ったエネルギーは振動励起になる.だから吸収スペクトルは1本の線ではなく,複数の振動準位への遷移からなる幅をもった構造になる.そして,吸収の中心(垂直励起エネルギー)は,励起状態の底のエネルギー(断熱励起エネルギー)よりも必ず高い.
7.9 項記号(term symbol)
7.9.1 炭素原子の電子の詰め方
水素・ヘリウムを超えて電子数が増えると,「どこにどう詰めるか」という問題が本格的になる.炭素原子($1s^22s^22p^2$)を例にとろう.2p軌道は $2p_x,2p_y,2p_z$ の3本が縮退しているので,そこに電子2個を入れる方法は何通りもある.
- 1本の2p軌道にアップとダウンで対にして入れる(いわゆる低スピン配置).この場合,2つの電子が同じ空間軌道に入るので電子間反発は大きい.
- 2本の別の2p軌道にスピンを平行に揃えて入れる(高スピン配置).電子どうしが離れるので反発が小さく,さらにスピンが同じで空間波動関数が異なる状態のあいだには交換相互作用が働いて安定化する.
7.8.3項で見たヘリウムの三重項と同じ理屈で,後者が有利になる.これが高校化学で「フントの規則」として習った内容の中身である.ただし「どちらが安定か」を本当に決めるには,電子間反発と交換相互作用を定量的に比較しなければならない.そこで登場するのが項記号である.
7.9.2 項記号の定義
定義:項記号(term symbol)
多電子状態は,次の3つの量子数の組で分類され,
という記号で表される.これを項記号(term symbol)という.
- 左上の $2S+1$:スピン多重度.$S$ は全スピン角運動量量子数.
- 中央の $L$:全軌道角運動量量子数(無次元).$L=0,1,2,3,4,\cdots$ をそれぞれ $S,P,D,F,G,\cdots$ という大文字で書く(1電子の $s,p,d,f$ の小文字に対応).
- 右下の $J$:全角運動量量子数(無次元).$\bm{J}=\bm{L}+\bm{S}$ の合成で,$J=L+S,\ L+S-1,\ \cdots,\ \abs{L-S}$ の値をとる.
下付きの $J$ は日常的にはあまり見かけないが,エネルギーの大小関係(微細構造)を知るうえで必要な情報である.
注意:$L=0$ の項記号 $S$ とスピン量子数 $S$ は別物
${}^1S_0$ の「$S$」は $L=0$ を表す記号であり,左上の $2S+1$ の中にいる「$S$」はスピン量子数である.同じ文字を使う不便な慣習だが,位置(中央か左上の指数の中か)で区別できる.混乱したら「中央の文字は $L$ のこと」と唱えるとよい.
7.9.3 $p^2$ 配置:15通りの数え上げ
炭素原子の $2p^2$ に話を戻す.p軌道は方位量子数 $\ell=1$ なので磁気量子数 $m_\ell=-1,0,+1$ の3本があり,各々にアップとダウンの2通りのスピンが入る.したがって「箱」は $3\times2=6$ 個ある.ここに区別のつかない電子2個を入れる方法は,6個の箱から2個を選ぶ組み合わせなので
$$ \begin{equation} {}_6C_2=\frac{6\cdot5}{2}=15\ \text{通り} \label{eq:7-p2-count} \end{equation} $$である.この15個の状態を微視状態(microstate)と呼ぶ.それぞれについて
$$ M_L=\sum_i m_{\ell,i},\qquad M_S=\sum_i m_{s,i} $$を計算して分類する.$M_L$ は軌道角運動量の総磁気量子数,$M_S$ はスピン角運動量の総磁気量子数である.
数学ノート:$m_\ell$ と $m_s$ の範囲
第2章で学んだ通り,磁気量子数は $\abs{m_\ell}\le\ell$ という制約を受ける.したがって
- s軌道($\ell=0$):$m_\ell=0$ の1本
- p軌道($\ell=1$):$m_\ell=0,\pm1$ の3本
- d軌道($\ell=2$):$m_\ell=0,\pm1,\pm2$ の5本
スピンについても同様で,スピン方位量子数 $s=1/2$ に対して $\abs{m_s}\le s$ より $m_s=\pm1/2$ の2通りである.
15個をすべて書き出したものが表7.4である.$(+1{\uparrow})$ は「$m_\ell=+1$ の軌道にアップスピンの電子」を意味する.
| No. | 占有スピン軌道 | $M_L$ | $M_S$ | 帰属 |
|---|---|---|---|---|
| 1 | $(+1{\uparrow})(+1{\downarrow})$ | $+2$ | $0$ | $^1D$ |
| 2 | $(+1{\uparrow})(0{\uparrow})$ | $+1$ | $+1$ | $^3P$ |
| 3 | $(+1{\uparrow})(0{\downarrow})$ | $+1$ | $0$ | $^3P$ / $^1D$ |
| 4 | $(+1{\downarrow})(0{\uparrow})$ | $+1$ | $0$ | $^3P$ / $^1D$ |
| 5 | $(+1{\downarrow})(0{\downarrow})$ | $+1$ | $-1$ | $^3P$ |
| 6 | $(+1{\uparrow})(-1{\uparrow})$ | $0$ | $+1$ | $^3P$ |
| 7 | $(+1{\uparrow})(-1{\downarrow})$ | $0$ | $0$ | $^3P$ / $^1D$ / $^1S$ |
| 8 | $(+1{\downarrow})(-1{\uparrow})$ | $0$ | $0$ | $^3P$ / $^1D$ / $^1S$ |
| 9 | $(+1{\downarrow})(-1{\downarrow})$ | $0$ | $-1$ | $^3P$ |
| 10 | $(0{\uparrow})(0{\downarrow})$ | $0$ | $0$ | $^3P$ / $^1D$ / $^1S$ |
| 11 | $(0{\uparrow})(-1{\uparrow})$ | $-1$ | $+1$ | $^3P$ |
| 12 | $(0{\uparrow})(-1{\downarrow})$ | $-1$ | $0$ | $^3P$ / $^1D$ |
| 13 | $(0{\downarrow})(-1{\uparrow})$ | $-1$ | $0$ | $^3P$ / $^1D$ |
| 14 | $(0{\downarrow})(-1{\downarrow})$ | $-1$ | $-1$ | $^3P$ |
| 15 | $(-1{\uparrow})(-1{\downarrow})$ | $-2$ | $0$ | $^1D$ |
注意すべきは,$(+1{\uparrow})(+1{\uparrow})$ のように同じスピン軌道を2回使う組はPauliの排他原理により禁止されている(7.6.5項)ので,はじめから15通りの中に入っていないことである.もしスピンを無視して単純に $3\times3=9$,あるいは $6\times6=36$ などと数えると合わない.
7.9.4 表から項を取り出す
図7.7の格子から項を取り出す手順は次の通りである.「いちばん外側の枠から順にはがす」とイメージすればよい.
- 最大の $M_L$ を探す.表7.4より $M_L^{\max}=+2$ で,そのときの $M_S$ は $0$ だけである.したがって $L=2$,$S=0$ の項,すなわち $^1D$ が存在する.この項は $M_L=+2,+1,0,-1,-2$ の5状態($M_S=0$)を消費する.$2L+1=5$ 個である.
- 残りから同じことを繰り返す.$^1D$ の5個を取り除くと,残りの最大は $M_L=+1$ で,そこには $M_S=+1,0,-1$ がそろっている.したがって $L=1$,$S=1$ の項 $^3P$ が存在する.この項は $(2L+1)(2S+1)=3\times3=9$ 個を消費する.
- 最後に残るのは1個.$M_L=0,M_S=0$ が1つ残る.これは $L=0$,$S=0$ すなわち $^1S$ である.$1\times1=1$ 個.
合計 $5+9+1=15$ となり,確かに過不足なく分類できた.次に $J$ を決める.$J=L+S,\cdots,\abs{L-S}$ より
| 項 | $L$ | $S$ | $J$ のとりうる値 | 項記号 | 状態数 |
|---|---|---|---|---|---|
| $^3P$ | 1 | 1 | $2,1,0$ | $^3P_0,\ ^3P_1,\ ^3P_2$ | $1+3+5=9$ |
| $^1D$ | 2 | 0 | $2$ | $^1D_2$ | $5$ |
| $^1S$ | 0 | 0 | $0$ | $^1S_0$ | $1$ |
例題7.6 $M_L=+1,\ M_S=0$ の微視状態を書き出す
表7.4のうち,$M_L=+1$,$M_S=0$ となる微視状態をすべて挙げ,なぜ2個なのかを説明せよ.
解答. $M_S=0$ なので,2電子のスピンは一方がアップ,他方がダウンでなければならない.$M_L=+1$ なので $m_\ell$ の和が $+1$,すなわち $(m_\ell)=(+1,0)$ の組である($(+2,-1)$ などはp軌道には存在しない).したがって
- No.3:$(+1{\uparrow})(0{\downarrow})$
- No.4:$(+1{\downarrow})(0{\uparrow})$
の2個である.$m_\ell=+1$ の電子がアップかダウンかで2通り,というだけである.この2個のうち1個が $^3P$($M_S=0$ 成分),もう1個が $^1D$ に属する.ただし「No.3が $^3P$ でNo.4が $^1D$」のようにきれいに1対1で対応するわけではなく,実際には2つの微視状態の線形結合が $^3P$ と $^1D$ の状態になる.7.8.1項でヘリウムの $\psi_a,\psi_b$ を足し引きして一重項・三重項を作ったのとまったく同じ事情である.$\blacksquare$
例題7.7 $d^2$ 配置の微視状態数
遷移金属イオンで重要な $d^2$ 配置(たとえば Ti$^{2+}$,V$^{3+}$)の微視状態数を求めよ.
解答. d軌道は $\ell=2$ なので $m_\ell=0,\pm1,\pm2$ の5本,スピンを含めた箱は $5\times2=10$ 個.ここに2電子を入れる方法は
$$ {}_{10}C_2=\frac{10\cdot9}{2}=45\ \text{通り} .$$同様の手続きで分類すると $^3F$(21個),$^3P$(9個),$^1G$(9個),$^1D$(5個),$^1S$(1個)となり,$21+9+9+5+1=45$ で合う.Hundの規則から基底項は $^3F$,$d$ 殻は半充填未満なので $J$ 最小の $^3F_2$ が基底状態である.$\blacksquare$
7.9.5 Hundの規則
15個の微視状態は,電子間反発とスピン–軌道相互作用によってエネルギーが分裂する.どの項が最も安定かを与える経験則がHundの規則(Hund's rules)である.
定理(経験則):Hundの規則
同一の電子配置から生じる複数の項のうち,基底状態は次の順に優先される.
- スピン多重度 $2S+1$ が最大の項が最も安定.(交換相互作用による安定化)
- $S$ が同じ項が複数あるときは,$L$ が最大の項が安定.(電子が同じ向きに回っていると出会いにくく,反発が小さい)
- $L,S$ が同じ項の中では,殻が半充填未満なら $J$ 最小,半充填より多いなら $J$ 最大が安定.(スピン–軌道相互作用の符号による)
注意:規則の順序に注意 — $p^2$ ではたまたま結果が変わらない
Hundの規則を「1. スピン多重度,2. $J$,3. $L$」の順で覚えている資料を見かけることがあるが,標準的な順序は「1. $S$ 最大 → 2. $L$ 最大 → 3. $J$」である.規則2と規則3を入れ替えても,$p^2$ 配置では最終的な順序が変わらないため,間違いに気づきにくい.
理由を確かめよう.$p^2$ から出る項は $^3P,{}^1D,{}^1S$ の3つで,$S$ が同じ項は $^1D$ と $^1S$ の組だけである.規則1でまず $^3P$ が最安定に決まる.残る $^1D$($L=2$)と $^1S$($L=0$)は規則2で $^1D$ が下になる.一方,$J$ で比べても $^1D_2$($J=2$)と $^1S_0$($J=0$)は…と考えると $J$ 最小の $^1S_0$ が下に来てしまい,実験と合わない.つまり「$J$ を先に見る」流儀は $^1D$ と $^1S$ の順序を誤る.ただし $^3P$ の3本($^3P_0,{}^3P_1,{}^3P_2$)の内部順序は規則3が担当するので,そこだけを見れば「$J$ 最小が優先」に見える.規則3は同じ $(L,S)$ をもつ項の内部順序を決める規則であって,異なる項どうしを比較する規則ではない——ここを取り違えないでほしい.
以上より,$p^2$ 配置(炭素原子)のエネルギー順序は
となる.実験値(NIST)と照らし合わせると次の通りで,規則は見事に当たっている.
| 項記号 | エネルギー (cm$^{-1}$) | エネルギー (eV) |
|---|---|---|
| $^3P_0$(基底状態) | 0 | 0 |
| $^3P_1$ | 16.4 | 0.0020 |
| $^3P_2$ | 43.4 | 0.0054 |
| $^1D_2$ | 10192.7 | 1.264 |
| $^1S_0$ | 21648.0 | 2.684 |
$^3P$ の内部分裂(微細構造)は $0.005$ eV 程度ときわめて小さいのに対し,$^3P\to{}^1D$ の分裂は $1.26$ eV と200倍以上大きい.前者はスピン–軌道相互作用(相対論効果,7.10節),後者は電子間反発と交換相互作用によるものであり,そもそも起源が違う.軽い元素では前者は無視できるほど小さいが,重い元素(たとえば5d遷移金属や希土類)では無視できなくなる.
7.9.6 PySCFで確かめる:炭素原子の低スピンと高スピン
Hundの規則が本当に成り立つのか,計算で確かめてみよう.PySCF(付録B)を使い,炭素原子について不対電子数の異なる2つの配置を計算する.
python3 calc_pyscf.py --xyz XYZ_C.xyz --spin 2 --basis 6-31g
python3 calc_pyscf.py --xyz XYZ_C.xyz --spin 4 --basis 6-31g
コード7.2 炭素原子の2つのスピン状態の比較(--spin は $2S$ の値,すなわち不対電子の数を指定する)
--spin 2 は $2S=2$ すなわち $S=1$(不対電子2個,多重度3),$1s^22s^22p^2$ 配置に対応する.--spin 4 は $2S=4$ すなわち $S=2$(不対電子4個,多重度5)であり,こちらは2s電子を1個2pに昇位させた $1s^22s^12p^3$ 配置になる.結果は
| 指定 | 電子配置 | 多重度 $2S+1$ | $\braket{S^2}$ | 全エネルギー |
|---|---|---|---|---|
--spin 2(低スピン) | $1s^22s^22p^2$ | 3 | 2.00 | $-1025.266$ eV |
--spin 4(高スピン) | $1s^22s^12p^3$ | 5 | 6.00 | $-1022.807$ eV |
差は $-1025.266-(-1022.807)=-2.459$ eV であり,不対電子が2個の配置のほうが 2.46 eV 安定である.手法をROHF(制限開殻Hartree–Fock)に変えても結論は変わらない.「スピン多重度が大きいほど安定」というHundの第1規則は,あくまで同じ電子配置から生じる項どうしの比較であって,$2s\to2p$ の昇位というコストを払ってまで多重度を上げるのが得だという意味ではない,という点に注意してほしい.
物理的意味:CH$_4$ をつくる炭素は一瞬「高スピン」になる
基底状態の炭素は $1s^22s^22p^2$ で不対電子は2個しかない.それなのにメタン CH$_4$ では4本のC–H結合ができる.なぜか.$2s$ 電子の1個を $2p$ に昇位させて $1s^22s^12p^3$(不対電子4個,高スピン)にすれば,4本の手が出せるからである.上の計算によれば,この昇位には 2.46 eV(実際にはもっと大きい)を要する.しかし,$sp^3$ 混成軌道によって4本の強いC–H結合ができれば,そのエネルギー利得が昇位のコストを大きく上回る.つまり結合をつくる瞬間だけ高スピン配置を経由するのである.混成軌道の詳細は第11章・第12章で扱う.
同じ「高スピン/低スピン」の対比は,遷移金属酸化物の物性を左右する中心的な概念でもある.$d$ 電子が結晶場分裂したときに,Hundの規則(高スピン)を優先するか,分裂による安定化(低スピン)を優先するかで,その物質が金属になるか絶縁体になるか,磁性を示すかどうかが変わる.エピタキシャル歪みでこのバランスを傾かせて金属–絶縁体転移を制御する研究例もある(文献[10]).
例題7.8 二重項の例と項記号
Na原子($1s^22s^22p^63s^1$)と Cl原子($[\mathrm{Ne}]3s^23p^5$)の基底状態の項記号を求めよ.
解答. Na: 閉殻部分は $L=0,S=0$ を与えるので無視でき,$3s^1$ の1電子だけを考えればよい.$\ell=0$ より $L=0$($S$ 項),$S=1/2$ より多重度 $2S+1=2$,$J=\abs{L\pm S}=1/2$.よって $^2S_{1/2}$ である.
Cl: $3p^5$ は「p殻(定員6)に電子が5個」であるから,正孔(ホール)が1個の状態と考えるとよい.正孔1個は $p^1$ と同じ角運動量をもつので $L=1$($P$ 項),$S=1/2$,多重度2.$J=L+S,\abs{L-S}=3/2,1/2$ の2通り.p殻は半充填(3個)より多いのでHundの規則3より $J$ 最大が安定,したがって基底状態は $^2P_{3/2}$ である.同様に F は $^2P_{3/2}$,Li・K は $^2S_{1/2}$ である.いずれもスピン多重度2,すなわち二重項である.$\blacksquare$
7.10 発展:Dirac方程式とスピノル,そして超伝導
本節は発展的な内容であり,試験に出るような計算はない.しかし「スピンとは何か」「なぜFermi粒子とBose粒子があるのか」という本章の根本的な問いに,素粒子物理学の側から答えを与えてくれる.第12章の対称性の議論や,固体物理の最先端の話題ともつながるので,通読しておいてほしい.
7.10.1 Schrödinger方程式は相対性理論と相性が悪い
エネルギー演算子 $\hat{E}=\dfrac{-\hbar}{i}\dfrac{\partial}{\partial t}$ を使うと,Schrödinger方程式は
$$ \begin{equation} \left[\frac{-\hbar^2}{2m}\left(\frac{\partial^2}{\partial x^2}+\frac{\partial^2}{\partial y^2}+\frac{\partial^2}{\partial z^2}\right)+V\right]\psi=\frac{-\hbar}{i}\frac{\partial}{\partial t}\psi \label{eq:7-schrodinger-time} \end{equation} $$と書ける.ここで偏微分の階数に注目してほしい.空間については2階微分,時間については1階微分である.
ところがEinsteinの相対性理論(Schrödinger方程式より前に発表された)によれば,時間と空間は独立ではなく,
$$ \begin{equation} s^2=c^2t^2-x^2-y^2-z^2 \label{eq:7-minkowski} \end{equation} $$という組み合わせ(世界間隔)が慣性系によらず一定になる,という形で「相関」している.時間と空間を対等に扱うべきなのに,式 \eqref{eq:7-schrodinger-time} は微分の階数が違う.これではLorentz対称性(Lorentz symmetry)が満たされない——Diracはここに疑問をもった.
7.10.2 Klein–Gordon方程式とその問題点
相対性理論では,エネルギー $E$,運動量 $p$,質量 $m$ のあいだに
$$ \begin{equation} E^2=p^2c^2+m^2c^4 \label{eq:7-rel-energy} \end{equation} $$という関係がある($c$ は光速).有名な $E=mc^2$ は,この式で $p=0$ とした場合,すなわち静止した質点のエネルギー(質量由来)である.原子核分裂で消えるわずかな質量が膨大なエネルギーになるのは,$c^2$ という巨大な係数のおかげである.
そこで式 \eqref{eq:7-rel-energy} の $E$ と $p$ を演算子に置き換えて固有値方程式にしてみると,
$$ \begin{equation} \left(\frac{-\hbar}{i}\frac{\partial}{\partial t}\right)^2\psi =c^2\left(\frac{\hbar}{i}\frac{\partial}{\partial x}\right)^2\psi+m^2c^4\psi \quad\Longleftrightarrow\quad -\hbar^2\frac{\partial^2\psi}{\partial t^2}=-\hbar^2c^2\frac{\partial^2\psi}{\partial x^2}+m^2c^4\psi \label{eq:7-klein-gordon} \end{equation} $$となる.これをKlein–Gordon方程式(Klein–Gordon equation)という.時間も空間も同じ2階微分になり,Lorentz対称性は満たされた.
ところが新たな困難が生じる.この方程式では時間について2階微分なので,初期条件として $\psi$ と $\partial\psi/\partial t$ を独立に与えることができる.その結果,保存する「密度」として自然に出てくる量
$$ \rho=\frac{i\hbar}{2mc^2}\left(\psi^*\frac{\partial\psi}{\partial t}-\psi\frac{\partial\psi^*}{\partial t}\right) $$が負の値をとりうる.これはMax Bornの「$\abs{\psi}^2$ は存在確率である」という解釈と真っ向から矛盾する.確率が負というのは意味をなさない.
数学ノート:講義での表現との対応
講義スライドでは「粒子密度を意味する $\psi^*\psi=\abs{\psi}^2\lt0$ になる」と書かれていたが,正確には $\abs{\psi}^2$ そのものが負になるのではなく,Klein–Gordon方程式で保存量として現れる密度が負になりうるということである.$\abs{\psi}^2$ は定義上つねに非負だが,それはKlein–Gordon方程式のもとでは保存しない(連続の式を満たさない)ので,確率密度として使えないのである.言いたいことは同じ——Bornの確率解釈が破綻する——である.
7.10.3 Dirac方程式と4成分スピノル
そこでDiracは,「時間について1階微分のまま,空間についても1階微分にすれば,両者を対等に扱えるのではないか」と考えた.式 \eqref{eq:7-rel-energy} の平方根 $E=\sqrt{p^2c^2+m^2c^4}$ を,$E=c\bm{\alpha}\cdot\bm{p}+\beta mc^2$ という1次式で書こうというのである.こうして得られる
がDirac方程式(Dirac equation)である.運動量演算子はナブラ(微分演算子ベクトル)を使って
$$ \bm{p}=\frac{\hbar}{i}\bm{\nabla}=\frac{\hbar}{i}\left(\frac{\partial}{\partial x}\bm{e}_x+\frac{\partial}{\partial y}\bm{e}_y+\frac{\partial}{\partial z}\bm{e}_z\right) $$と書けるので,代入すると
$$ \frac{-\hbar}{i}\frac{\partial\psi}{\partial t}=\left(c\,\frac{\hbar}{i}\,\bm{\alpha}\cdot\bm{\nabla}+\beta mc^2\right)\psi $$となる.
数学ノート:$\bm{\alpha}$ と $\beta$ の正体
ここで $\bm{\alpha}=(\alpha_x,\alpha_y,\alpha_z)$ と $\beta$ は,単なる数(スカラー)やふつうのベクトルではない.式 \eqref{eq:7-dirac} の両辺を2乗して式 \eqref{eq:7-rel-energy} を再現するには,これらが
$$\alpha_i\alpha_j+\alpha_j\alpha_i=2\delta_{ij},\qquad \alpha_i\beta+\beta\alpha_i=0,\qquad \beta^2=1$$という関係(交換ではなく反交換関係)を満たさねばならない.数どうしなら $ab+ba=2ab$ なので,$i\neq j$ で $\alpha_i\alpha_j+\alpha_j\alpha_i=0$ を満たすことはできない.すなわち $\bm{\alpha},\beta$ は行列でなければならない.しかも,これら4つが互いに反交換するためには最低でも $4\times4$ の行列が必要であることが示せる.Pauli行列は $2\times2$ で3つしかないので足りないのである.
$\bm{\alpha},\beta$ が $4\times4$ 行列である以上,それが作用する波動関数 $\psi$ はスカラーではなく4成分の縦ベクトルでなければならない.この4成分の量をスピノル(spinor)と呼ぶ.そして4つの成分の意味は次の通りである.
- 第1・第2成分:粒子(電子)のアップスピン波動関数とダウンスピン波動関数
- 第3・第4成分:反粒子(陽電子)のアップスピン波動関数とダウンスピン波動関数
ここに出てくるアップ・ダウンが,7.3節で導入した $\bm{\alpha},\bm{\beta}$ そのものである.スピンは,相対論的な量子力学を作ろうとすると自動的に出てくる.Schrödinger方程式では「実験がそう言うから」と後付けで導入せざるをえなかったスピンが,Dirac方程式では理論の必然として現れるのである.
さらに衝撃的なのは,方程式が反粒子の存在を予言してしまうことである.電子が存在するなら,その「対」となる陽電子(陽子ではない)がなければならない.実際,陽電子は1932年にAndersonによって宇宙線の中に発見された.粒子はどうやら「対」で存在するらしい——固体物理でおなじみの「電子と正孔(ホール)」も,この対の思想の系譜にある.なぜ自然界に陽電子がほとんどないのか,なぜ電子は負の電荷をもつのか,といった問いは,量子色力学や宇宙論の領域に踏み込む深い問題である.
7.10.4 スピンと統計:$2\pi$ 回転で符号が反転する
ここまで来ると,7.2節の「Fermi粒子とBose粒子」の起源が説明できる.
定理:スピン統計定理(spin–statistics theorem)
Fermi粒子とは,スピン角運動量が $\tfrac12\hbar,\tfrac32\hbar,\tfrac52\hbar,\cdots$ のように $\hbar$ の半整数倍になる粒子である.物質を構成する粒子(電子,陽子,中性子,クォーク,ニュートリノ)がこれにあたる.
Bose粒子とは,スピン角運動量が $0,\hbar,2\hbar,3\hbar,\cdots$ のように $\hbar$ の整数倍になる粒子である.力を伝える粒子(フォトン,グルーオン,ウィークボソン)や,集団励起の量子(フォノン)がこれにあたる.
そして,半整数スピンの粒子は必ず反対称な波動関数(Fermi統計)をもち,整数スピンの粒子は必ず対称な波動関数(Bose統計)をもつ.
この定理の証明には場の量子論が必要なので本書では立ち入らないが,その「気配」は簡単な計算で感じることができる.$z$ 軸まわりに角度 $\theta$ だけ回転させる演算子は,スピン $1/2$ の系では
$$ \hat{R}_z(\theta)=\exp\left(-\frac{i\theta\hat{s}_z}{\hbar}\right) =\exp\left(-\frac{i\theta}{2}\begin{pmatrix}1&0\\0&-1\end{pmatrix}\right) =\begin{pmatrix}e^{-i\theta/2}&0\\ 0& e^{+i\theta/2}\end{pmatrix} $$である(対角行列の指数関数は,各対角成分の指数関数).ここで $\theta=2\pi$,すなわち一周回してみると
$$ \begin{equation} \hat{R}_z(2\pi)=\begin{pmatrix}e^{-i\pi}&0\\ 0& e^{+i\pi}\end{pmatrix} =\begin{pmatrix}-1&0\\ 0&-1\end{pmatrix}=-\mathbb{I} . \label{eq:7-2pi-rotation} \end{equation} $$一周回すと符号が反転してしまう.元に戻るには $\theta=4\pi$,つまり二周しなければならない:
$$ \hat{R}_z(4\pi)=\begin{pmatrix}e^{-2\pi i}&0\\ 0& e^{+2\pi i}\end{pmatrix}=\begin{pmatrix}1&0\\ 0&1\end{pmatrix}=\mathbb{I}. $$結晶学で扱う通常の回転対称性では $2\pi$ 回転で元に戻るのが当たり前だが,スピンはそうではない.肌感覚では理解しづらいところである.
物理的意味:磁気点群と二重群
この「$2\pi$ で戻らない」という事情は,物質の対称性を分類するときに実際に効いてくる.スピンを考えない場合は,第12章で学ぶ通常の点群・空間群で結晶の対称性を記述すればよい.しかしスピン(あるいは磁気モーメント)を考慮する場合には,時間反転操作を含む磁気点群・磁気空間群や,$2\pi$ 回転と $4\pi$ 回転を別の要素として区別する二重群(double group)を使わなければならない.スピン軌道相互作用が強い重元素の化合物や,トポロジカル物質,反強磁性スピントロニクスなどは,まさにこの枠組みで議論されている最先端の分野である.
7.10.5 超伝導:FermionがBosonのように振る舞う
最後に,本章の内容が現代の物質科学の最前線とどうつながるかを見ておこう.超伝導(superconductivity)である.
電子は間違いなくFermi粒子である.したがって同じ状態を2つ以上占めることはできない.ところが超伝導状態では,2つの電子がCooper対(Cooper pair)と呼ばれる束縛状態を作る.対を組む2つの電子はスピンが逆向き($S_z=+\hbar/2$ と $S_z=-\hbar/2$)なので,対全体のスピン角運動量の合計は
$$ \frac{\hbar}{2}+\left(-\frac{\hbar}{2}\right)=0 $$すなわち $\hbar$ の整数倍(ゼロ倍)になる.スピン統計定理によれば,これはBose粒子の条件である.つまりCooper対はBosonのように振る舞う.Bosonなら同じ状態にいくらでも入れるので,多数のCooper対がひとつの巨視的な量子状態に凝縮する(Bose–Einstein凝縮).全員が同じ状態にいるので散乱で1つだけ弾き出されることがなく,電子はサラサラと流れる——電気抵抗がゼロになるのである.「物質を構成する粒子が,力を伝える粒子っぽく振る舞うと電気抵抗が消える」というのは,なんとも面白い話である.
では何が2つの電子を結びつけるのか.同符号の電荷どうしは反発するのだから,何か別の「のり」が要る.
- 格子振動(フォノン)による対形成:BCS機構.電子が通り過ぎると,正に帯電した原子核(イオン)がわずかに引き寄せられ,局所的に正電荷が濃い領域ができる.そこへ第2の電子が引き寄せられる.つまり格子のゆがみを介した間接的な引力である.Bardeen–Cooper–Schrieffer(BCS)によって1957年に解明された(文献[8]).合金系の超伝導体に多い.ただしこの引力は弱く,熱ゆらぎで簡単に対が壊れてしまう.常温超伝導の実現が難しい理由のひとつであり,高い転移温度を得るのに超高圧が必要になることが多い.
- 反強磁性スピンゆらぎによる対形成.銅酸化物高温超伝導体や鉄系超伝導体では,反強磁性絶縁体にホールをドープすると超伝導が現れる.この場合の「のり」はスピンのゆらぎだと考えられているが,機構はいまだ完全には解明されていない.常圧下でも高い温度で超伝導が発現するという,応用上きわめて重要な性質をもつ.
また,電子密度を変えていくと,対が大きく重なり合った状態(BCS極限)から,小さな対が個別に存在する状態(BEC極限)へと連続的に移り変わる.この中間領域をBCS–BECクロスオーバーと呼び,対が形成される空間領域は俗に「超伝導の泡」とも呼ばれる.
7.11 まとめと演習
7.11.1 この章のまとめ
- Hartree積は不完全である.$\psi=\phi_1(\bm{r}_1)\phi_2(\bm{r}_2)$ は電子に番号を付けてしまっており,識別不可能性に反する.同種粒子の入れ替えでは,波動関数は符号が変わらない($+$)か反転する($-$)かのどちらかでなければならない(式 \eqref{eq:7-exchange-eigen}).
- Fermi粒子とBose粒子.$\psi(\xx_1,\xx_2)=-\psi(\xx_2,\xx_1)$ を満たすのがFermi粒子(電子・陽子,物質を構成する粒子),$+\psi(\xx_2,\xx_1)$ を満たすのがBose粒子(フォトン・フォノン,力を伝える粒子)である.
- スピン座標とスピン波動関数.電子の座標は $\xx=(\rr,\sigma)$.$\mathbb{S}_z$ の固有値問題から $\bm{\alpha}=(1,0)^{\mathsf T}$,$\bm{\beta}=(0,1)^{\mathsf T}$ が得られ,$\braket{\bm{\alpha}|\bm{\alpha}}=\braket{\bm{\beta}|\bm{\beta}}=1$,$\braket{\bm{\alpha}|\bm{\beta}}=0$ が成り立つ.量子化軸を変えると基底が変わる(式 \eqref{eq:7-xy-basis}).
- スピン角運動量演算子.$\hat{s}_k=\tfrac{\hbar}{2}\sigma_k$(Pauli行列).$\hat{s}^2=\tfrac34\hbar^2\mathbb{I}$ より,電子のスピンの大きさは $\tfrac{\sqrt3}{2}\hbar$,これは $\sqrt{s(s+1)}\hbar$ で $s=1/2$ とした値に等しい.
- 交換関係.$[\hat{q},\hat{p}]=\hat{q}\hat{p}-\hat{p}\hat{q}$.$[\hat{x},\hat{p}]=i\hbar\neq0$ から不確定性関係 $\Delta x\Delta p\ge\hbar/2$ が出る.$[\hat{p},\hat{E}]=0$ なので運動量とエネルギーは同時決定可能.$[\hat{s}_x,\hat{s}_y]=i\hbar\hat{s}_z$ 等より3成分は同時決定不可能だが,$[\hat{s}^2,\hat{s}_z]=0$ なので大きさと $z$ 成分は同時に決められる.だから $z$ 軸のスピンだけを量子数に使う.
- Slater行列式.式 \eqref{eq:7-slater-general}.行が電子,列が量子数.行列式の性質から,反対称性とPauliの排他原理が自動的に満たされる.He基底状態では空間部分が対称・スピン部分が反対称になり,規格化ではスピン積分が $1,1,0,0$ となって空間積分だけが残る.同じスピン軌道を2つ使うと行列式はゼロになる.
- Pauliの排他原理の確率論的意味.Hartree積は独立事象の積(スペードのエース)を仮定している.しかし実際の電子はCoulomb反発によって相関している(暖かいジャガイモと冷たいリンゴ).Slater行列式1個は同スピン間の相関(Fermi孔)だけを取り込み,逆スピン間の相関(電子相関)は取り残す.
- 一重項と三重項.スピン部分が反対称なら一重項($S=0$,$2S+1=1$),対称なら三重項($S=1$,$2S+1=3$).三重項は空間部分が反対称になるので電子が近づけず,交換相互作用で安定化する.不対電子1個なら二重項(Li, Na, F, Cl など).
- 励起エネルギーの見積もり.Be原子で,1電子準位の差 10.44 eV,$\Delta$SCF 1.64 eV,実験値 2.73 eV.1電子準位の差で励起エネルギーを見積もってはいけない.励起により電子間反発・軌道の形・原子位置が変わるからである(Franck–Condonの原理).
- 項記号.$^{2S+1}L_J$.$p^2$ 配置には ${}_6C_2=15$ 個の微視状態があり,$^3P$(9個),$^1D$(5個),$^1S$(1個)に分類される.Hundの規則(1. $S$ 最大,2. $S$ が同じなら $L$ 最大,3. 半充填未満なら $J$ 最小)から,$^3P_0\lt{}^3P_1\lt{}^3P_2\lt{}^1D_2\lt{}^1S_0$.
- 発展.Klein–Gordon方程式は確率解釈が破綻するため,Diracは1階微分の方程式を作り,その解として4成分スピノル(粒子と反粒子の up/down)を得た.スピンが半整数ならFermi粒子,整数ならBose粒子である.スピノルは $2\pi$ 回転で符号が反転し $4\pi$ で戻る.超伝導では2電子がCooper対を組み,合計スピンが0(整数倍)になってBosonのように振る舞い,Bose–Einstein凝縮する.
次章(第8章)では,ここまで「原子核は止まっている」と暗黙に仮定してきたことを正面から扱う.Born–Oppenheimer近似である.そして第9章では,本章で導入したSlater行列式を使って全エネルギーを実際に計算し,交換エネルギーという形で交換相互作用を定量化する.本章はその両方への入口であった.
7.11.2 演習問題
演習7.1 Bose粒子の波動関数
2個のBose粒子が1粒子状態 $\phi_1,\phi_2$ を占めるとき,対称性 $\psi(\xx_1,\xx_2)=+\psi(\xx_2,\xx_1)$ を満たす規格化された波動関数を書き下せ.さらに $\phi_1=\phi_2$ とおくとどうなるかを調べ,「Bose粒子は同じ状態に何個でも入れる」ことを確認せよ.
ヒント:行列式(引き算)ではなくパーマネント(足し算)を使う.すなわち $\psi=\frac{1}{\sqrt2}\left[\phi_1(\xx_1)\phi_2(\xx_2)+\phi_2(\xx_1)\phi_1(\xx_2)\right]$ とせよ.$\phi_1=\phi_2=\phi$ とおくと $\psi=\frac{2}{\sqrt2}\phi(\xx_1)\phi(\xx_2)=\sqrt2\,\phi(\xx_1)\phi(\xx_2)$ となり,ゼロにならない(規格化因子は $\phi_1=\phi_2$ の場合には $1/\sqrt2$ ではなく1にとり直す必要がある.理由を考えてみよ).Fermi粒子の場合(式 \eqref{eq:7-pauli-zero-setup})と対比すること.
演習7.2 量子化軸を $x$ 軸にとる
$\hat{s}_x=\dfrac{\hbar}{2}\begin{pmatrix}0&1\\ 1&0\end{pmatrix}$ の固有値問題を解き,固有値と規格化された固有ベクトルを求めよ.結果が式 \eqref{eq:7-xy-basis} の $x$ 軸の組と一致することを確かめ,さらに2つの固有ベクトルが直交することを示せ.
ヒント:例題7.1と同じ手順である.$\det\!\left(\hat{s}_x-\lambda\mathbb{I}\right)=\lambda^2-\hbar^2/4=0$ より $\lambda=\pm\hbar/2$.$\lambda=+\hbar/2$ のとき,連立方程式は $-a+b=0$ すなわち $a=b$ となるので,規格化条件 $\abs{a}^2+\abs{b}^2=1$ から $a=b=1/\sqrt2$.$\lambda=-\hbar/2$ では $a=-b$ となる.$y$ 軸についても同様に $\hat{s}_y$ で試してみるとよい(こちらは複素数が出る).
演習7.3 三重項の $M_S=0$ 状態が本当に $S=1$ であること
2電子系の全スピン角運動量演算子を $\hat{\bm{S}}=\hat{\bm{s}}_1+\hat{\bm{s}}_2$ とする.$\hat{S}^2=\hat{s}_1^2+\hat{s}_2^2+2\left(\hat{s}_{1x}\hat{s}_{2x}+\hat{s}_{1y}\hat{s}_{2y}+\hat{s}_{1z}\hat{s}_{2z}\right)$ を使って,
(1) 三重項の $\Theta_{\text{t}}^{(0)}=\frac{1}{\sqrt2}(\bm{\alpha}\bm{\beta}+\bm{\beta}\bm{\alpha})$ が $\hat{S}^2$ の固有値 $2\hbar^2$ をもつこと,
(2) 一重項の $\Theta_{\text{s}}=\frac{1}{\sqrt2}(\bm{\alpha}\bm{\beta}-\bm{\beta}\bm{\alpha})$ が固有値 $0$ をもつことを示せ.
また,これが $S(S+1)\hbar^2$ で $S=1$ および $S=0$ とした値に一致することを確認せよ.
ヒント:まず1電子の演算子の作用を用意する:$\hat{s}_x\bm{\alpha}=\frac{\hbar}{2}\bm{\beta}$,$\hat{s}_x\bm{\beta}=\frac{\hbar}{2}\bm{\alpha}$,$\hat{s}_y\bm{\alpha}=\frac{i\hbar}{2}\bm{\beta}$,$\hat{s}_y\bm{\beta}=-\frac{i\hbar}{2}\bm{\alpha}$,$\hat{s}_z\bm{\alpha}=\frac{\hbar}{2}\bm{\alpha}$,$\hat{s}_z\bm{\beta}=-\frac{\hbar}{2}\bm{\beta}$.また $\hat{s}_1^2=\hat{s}_2^2=\frac34\hbar^2$(式 \eqref{eq:7-s2}).三重項の場合,$x$ 項と $y$ 項がそれぞれ $+\frac{\hbar^2}{4}\Theta$,$z$ 項が $-\frac{\hbar^2}{4}\Theta$ を与えるので,$2\left(\frac{\hbar^2}{4}+\frac{\hbar^2}{4}-\frac{\hbar^2}{4}\right)=\frac{\hbar^2}{2}$,これに $\frac34\hbar^2\times2=\frac32\hbar^2$ を足して $2\hbar^2$ になる.一重項では $x,y$ 項の符号が反転するので $-\frac32\hbar^2$ となり,和がゼロになる.
演習7.4 窒素原子($p^3$)の項記号
窒素原子($1s^22s^22p^3$)について,(1) $2p^3$ 配置の微視状態の総数を求めよ.(2) 生じる項が $^4S$,$^2D$,$^2P$ の3つであることを,状態数の合計が (1) と一致することから確かめよ.(3) Hundの規則を使って基底状態の項記号を決定せよ.
ヒント:(1) 箱は6個,電子は3個なので ${}_6C_3=\frac{6\cdot5\cdot4}{3\cdot2\cdot1}=20$.(2) $^4S$($L=0,S=3/2$)は $(2L+1)(2S+1)=1\times4=4$ 個,$^2D$($L=2,S=1/2$)は $5\times2=10$ 個,$^2P$($L=1,S=1/2$)は $3\times2=6$ 個.合計 $4+10+6=20$ で一致する.(3) 規則1より $S$ 最大の $^4S$($S=3/2$,多重度4)が基底.$L=0,S=3/2$ より $J=3/2$ のみ.よって $^4S_{3/2}$.p殻はちょうど半充填なので規則3の出番はない($J$ が1通りしかない).窒素が化学的に安定で三重結合をつくりやすいのは,この半充填の安定性と関係している.
演習7.5 3つの励起エネルギーの何が違うのか
表7.3のBe原子の3つの値(10.44 eV,1.64 eV,2.73 eV)について,次の問いに答えよ.(1) なぜ1電子準位の差は実験値より大幅に大きくなるのか,2つ以上の理由を挙げて説明せよ.(2) $\Delta$SCF が実験値より小さくなる理由として考えられるものを述べよ.(3) この教訓を,第10章で分子軌道エネルギーを読むときにどう活かすべきか,自分の言葉で書け.
ヒント:(1) 軌道緩和(励起後にすべての軌道が最適化し直される)と,電子間反発の変化を考える.基底状態の $\epsilon_{2p}$ は「2s軌道に2電子が詰まった場」を感じている値であり,実際に電子が移ればその場が変わる.(2) $\Delta$SCF はHartree–Fock法の範囲内なので,電子相関エネルギー(表7.1の2行目)が基底状態と励起状態で異なる分だけ誤差が残る.また基底関数(6-31G)の質も効く.(3) 「軌道エネルギーの差は遷移エネルギーの目安にすぎない」「定量が必要なら状態ごとに計算し直す」といった趣旨が書けていればよい.
演習7.6 $2\pi$ 回転でスピノルの符号が反転する
回転演算子 $\hat{R}_z(\theta)=\exp\left(-i\theta\hat{s}_z/\hbar\right)$ について,(1) $\theta=\pi/2$,$\pi$,$2\pi$,$4\pi$ の場合の行列を書き下せ.(2) $\bm{\alpha}$ に作用させたとき,いつ元の状態に戻るかを述べよ.(3) 通常の空間回転(たとえば $p_x$ 軌道の回転)では $2\pi$ で必ず元に戻るのに,スピノルではそうならない.この違いが物質の対称性の記述にどう影響するかを,7.10.4項を参考に述べよ.
ヒント:(1) $\hat{s}_z$ は対角行列なので $\exp$ も対角成分ごとに計算できる:$\hat{R}_z(\theta)=\mathrm{diag}\left(e^{-i\theta/2},e^{+i\theta/2}\right)$.$\theta=\pi$ なら $\mathrm{diag}(-i,+i)$,$\theta=2\pi$ なら $-\mathbb{I}$,$\theta=4\pi$ なら $\mathbb{I}$.(2) $4\pi$ 回転ではじめて元に戻る.ただし $2\pi$ 回転で得られる $-\bm{\alpha}$ は全体位相が違うだけなので,観測量(確率 $\abs{\psi}^2$)は変わらないことにも注意せよ.位相の差は,他の状態と干渉させたときに初めて観測できる.(3) 二重群・磁気点群のキーワードで説明する.
7.11.3 参考文献
- 原田 義也『量子化学(上巻)』裳華房(2007). — 第7章・第8章にスピンとSlater行列式,項記号が日本語で丁寧に書かれている.本章の水準の次に読むべき定番.
- A. Szabo, N. S. Ostlund(大野公男・阪井健男・望月祐志 訳)『新しい量子化学 — 電子構造の理論入門(上)』東京大学出版会(1987). 原著:Modern Quantum Chemistry: Introduction to Advanced Electronic Structure Theory, Dover (1996). — 第2章にSlater行列式とスピン軌道の扱いが体系的にまとめられている.第9章の交換エネルギーの議論でも再登場する.
- 今野 豊彦『物質の対称性と群論』共立出版(2001). — 第6章に $p^2$ 配置の15個の微視状態と項記号の導出がある.本章の図7.7・表7.4はこの議論に基づく.二重群の解説もある.
- P. Atkins, J. de Paula, Atkins' Physical Chemistry, 11th ed., Oxford University Press (2018). — スピンの円錐描像(図7.3),一重項・三重項,Hundの規則の物理化学的な扱い.
- J. C. Slater, "The Theory of Complex Spectra", Phys. Rev. 34, 1293 (1929). — Slater行列式の原論文.
- W. Pauli, "Über den Zusammenhang des Abschlusses der Elektronengruppen im Atom mit der Komplexstruktur der Spektren", Z. Phys. 31, 765 (1925). — 排他原理の原論文.Pauliは1945年にノーベル物理学賞を受賞した.
- P. A. M. Dirac, "The Quantum Theory of the Electron", Proc. R. Soc. Lond. A 117, 610 (1928). — Dirac方程式の原論文.
- J. Bardeen, L. N. Cooper, J. R. Schrieffer, "Theory of Superconductivity", Phys. Rev. 108, 1175 (1957). — BCS理論の原論文.
- Q. Sun et al., "PySCF: the Python-based simulations of chemistry framework", WIREs Comput. Mol. Sci. 8, e1340 (2018). — 本章の炭素・ベリリウムの数値計算に用いたプログラム.使い方は付録Bを参照.
- Y. Mochizuki et al., "Theoretical exploration of the metal-insulator transition in epitaxially strained SrVO$_3$ films", Phys. Rev. Materials 2, 125001 (2018). — 遷移金属酸化物における $d$ 電子のスピン状態と金属–絶縁体転移の関係を第一原理計算で調べた例.
- C. Kittel『固体物理学入門(下)』第8版,丸善(2005). — 第10章に超伝導とCooper対,BCS理論の入門的解説がある.
- NIST Atomic Spectra Database, National Institute of Standards and Technology. — 表7.2・表7.6の原子スペクトル実験値の出典.原子の項記号と準位エネルギーを調べたいときの標準的なデータベース.