第19章分子の振動 — 調和振動子の応用
塩化水素 HCl の気体に,波長が 3.5 μm 付近(波数でいえば $2900\ \mathrm{cm^{-1}}$ 付近)の赤外線を当てると,光はほかの波長よりもはるかによく吸収される.窒素 $\mathrm{N_2}$ や酸素 $\mathrm{O_2}$ の気体にはこの吸収がない.吸収された光のエネルギーは,分子の 2 つの原子が互いに近づいたり離れたりする振動を 1 段階だけ強く励起するのに使われている.分子の赤外線吸収スペクトルは,結合の種類を見分ける「指紋」として,材料の分析(ガラスの中の Si–O 結合,高分子の C=O 結合,表面に吸着した分子など)で日常的に使われている.この章では,第13章で解いた調和振動子が,この分子の振動のもっとも簡単で,もっとも成功した模型であることを示す.
古典力学(AD 03 の単振動,第7章 7.1節)では,ばねの先の質量 $m$ の振動数は $\omega=\sqrt{k_0/m}$ で,エネルギーは振幅しだいでどんな値でもとれた.量子力学では,エネルギーは $\varepsilon_n=(n+\tfrac12)\hbar\omega$(分子全体の並進を除いた振動のエネルギーを,全エネルギー $E$ と区別して $\varepsilon_n$ と書く)のとびとびの値になり,準位の間隔は $\hbar\omega=h\nu$ でつねに等しい.そのために,赤外線の吸収は(ほぼ)1 本の線として現れ,その位置(波数)から,結合の硬さ(ばね定数 $k_0$)が数字で読める.この章では,(i) 2 つの原子を 1 つの粒子に置き換える換算質量と,「分子のポテンシャルの谷の底は放物線」という調和近似(harmonic approximation),(ii) 波数からばね定数を求める公式 $k_0=(2\pi c\tilde{\nu})^2\mu$ と,8 種類の 2 原子分子の表,(iii) 水素を重水素に置き換えたときに振動数が $1/\sqrt{2}$ に近い割合で下がる同位体効果(isotope effect)と零点エネルギー,(iv) 第13章で求めた調和振動子の運動量表示の結果を,分子振動の数値(HCl の $\Delta x$,$\Delta p$)に結びつけること,(v) 分子の振動が室温では「凍結」している理由と Einstein の比熱,を順に学ぶ.
この章で出てくる分子の話は,多原子分子($3N-6$ 個の基準振動)や固体(フォノン,第60章)にそのままつながる.また,分子がなぜ調和振動子から少しずれるのかは,次章の Morse ポテンシャル(第20章)で扱う.
- 2 原子分子の運動を,重心の運動と,換算質量 $\mu=\dfrac{m_1m_2}{m_1+m_2}$ をもつ粒子の相対運動に分離できること(式変形の各行を自分で追えること)
- 安定な平衡点のまわりの Taylor 展開から $V(r)\approx\tfrac12k_0(r-r_{\mathrm e})^2$,$k_0=V''(r_{\mathrm e})$ を導き,準位 $\varepsilon_n=(n+\tfrac12)\hbar\omega$($\omega=\sqrt{k_0/\mu}$)と $\Delta E=\hbar\omega=h\nu$ を説明できること
- 波数 $\tilde{\nu}\ [\mathrm{cm^{-1}}]$,振動数,エネルギー,波長を換算し,赤外の吸収波数からばね定数 $k_0=(2\pi c\tilde{\nu})^2\mu$ を計算できること($\mathrm{H_2}$,HD,HF,HCl,HBr,HI,CO,NO の表)
- 赤外吸収の選択則 $\Delta n=\pm1$ と「双極子モーメントが変わる振動だけが赤外で見える」ことの予告
- 同位体置換(H→D,$^{35}\mathrm{Cl}\to{}^{37}\mathrm{Cl}$)による振動数の変化を予言し,零点エネルギーの差から解離エネルギーの差と速度論的同位体効果を見積もれること
- 第13章で求めた $\psi_0$,$\psi_1$ の運動量表示と $\phi_n=(-i)^n\psi_n$ の結果を,分子振動の数値(HCl の位置と運動量の広がり)に結びつけ,その意味を分子振動の言葉で説明できること
- 振動のエネルギー準位が離散的なため,室温で振動が「凍結」していることを,$\theta_{\mathrm{vib}}$ と Boltzmann 因子,Einstein 関数で説明できること
もとにしたノート:望月泰英『物理学ノート 量子力学2』 pp. 20–21.
19.1 2 原子分子は「ばねでつながれた 2 つの球」— 換算質量と調和近似
19.1.1 分子の振動を量子力学で扱う
塩化水素 HCl は,水素原子 H と塩素原子 Cl が 1 本の結合でつながった分子である.結合の長さ(核間距離 $r$.2 つの原子核の間の距離)は,ほぼ一定の値 $r_{\mathrm e}$ のまわりで絶えず伸び縮みしている.この伸び縮みが分子の振動で,そのエネルギーがとびとびの値をとること,そして赤外線が振動の準位間の遷移で吸収されることを,第13章の調和振動子の結果から理解しよう.
まず,何がこの伸び縮みを支配しているのかを整理しておく.分子の中では,原子核は電子に比べて桁違いに重い(陽子 1 個の質量は電子の約 1836 倍).そのため電子は,原子核が少し動くたびに,その配置に合わせて瞬時に最もエネルギーの低い状態を組み直すと考えてよい.核間距離を $r$ に固定したときの,電子のエネルギーと原子核どうしの Coulomb 反発エネルギーの和を $r$ の関数として描いたものが,核間ポテンシャル $V(r)$ である.原子核は,この $V(r)$ の中を動く粒子として扱われる(Born–Oppenheimer 近似.詳しくは第33章で扱う).$V(r)$ の形は,近づきすぎると原子核どうし(と内側の電子どうし)の反発で急激に上昇し,遠ざかると結合が切れて 2 個の原子になるので一定の値に近づく.その中間の $r_{\mathrm e}$ で最小になる.この谷の形が,分子の振動のすべてを決める(図19.2).
以下では,分子の回転(第21章,第22章)は考えずに,結合の軸に沿った 2 つの原子の運動だけを調べる.軸を $z$ 軸にとり,質量 $m_1$ の原子 1 の位置を $z_1$,質量 $m_2$ の原子 2 の位置を $z_2$($z_2\gt z_1$)とする.核間距離は $r=z_2-z_1$ である.
19.1.2 2 つの原子を 1 つの粒子に置き換える — 換算質量
2 個の原子の運動は,2 つの座標 $z_1$,$z_2$ の関数として記述しなければならない.ところが,ポテンシャルは核間距離 $z_2-z_1$ だけで決まるので,座標を取り替えれば,問題は 1 個の粒子の問題に帰着する.古典力学(AD 03,第2章 2.4節)で見た「重心の運動と相対運動の分離」を量子力学でもう一度行おう.
古典力学で確認しておく.原子 2 が原子 1 から受ける力は $-\dfrac{\partial V}{\partial z_2}=-V'(r)$,原子 1 が受ける力は $-\dfrac{\partial V}{\partial z_1}=+V'(r)$ である($V$ は $z_2-z_1$ の関数なので,$z_1$ で微分すると符号が変わる).運動方程式は $m_1\ddot{z}_1=V'(r)$,$m_2\ddot{z}_2=-V'(r)$ で,第 2 式を $m_2$ で,第 1 式を $m_1$ で割って引くと,
$$ \ddot{z}_2-\ddot{z}_1=-V'(r)\left(\frac{1}{m_2}+\frac{1}{m_1}\right)\qquad\Longrightarrow\qquad \mu\,\ddot{r}=-V'(r),\quad \frac{1}{\mu}=\frac{1}{m_1}+\frac{1}{m_2} $$となり,核間距離 $r$ は,質量 $\mu$ の 1 個の粒子がポテンシャル $V(r)$ の中で動く運動方程式に従う.量子力学でも同じことが起こる.
定義19.1 換算質量
質量 $m_1$,$m_2$ の 2 つの粒子に対して,
\begin{equation} \mu\equiv\frac{m_1m_2}{m_1+m_2}\qquad\left(\text{同じことだが}\quad\frac{1}{\mu}=\frac{1}{m_1}+\frac{1}{m_2}\right) \label{eq:19-mu} \end{equation}を換算質量(reduced mass)という.全質量は $M=m_1+m_2$ と書く.
注意:$\mu$ の別の意味との区別
本書では,$\mu$ は文脈によって別の量も表す.磁気モーメントの $\mu$(電子の $\mu_{\mathrm B}$ など,第26章),化学ポテンシャルの $\mu$(AD 03 の量子統計)である.この章の $\mu$ は,特に断らない限り換算質量である.なお,水素原子の電子と陽子の運動にも同じ形の換算質量が現れた(第5章 5.3節).
定理19.1 2 原子分子の運動の分離
ポテンシャル $V(z_2-z_1)$ の中を動く質量 $m_1$,$m_2$ の 2 つの粒子の Hamilton 演算子
\begin{equation} \hat{H}=-\frac{\hbar^2}{2m_1}\frac{\partial^2}{\partial z_1^2}-\frac{\hbar^2}{2m_2}\frac{\partial^2}{\partial z_2^2}+V(z_2-z_1) \label{eq:19-H12} \end{equation}は,重心の座標 $Z=\dfrac{m_1z_1+m_2z_2}{M}$ と相対座標 $r=z_2-z_1$ を使うと,
\begin{equation} \hat{H}=\left[-\frac{\hbar^2}{2M}\frac{\partial^2}{\partial Z^2}\right]+\left[-\frac{\hbar^2}{2\mu}\frac{\partial^2}{\partial r^2}+V(r)\right] \label{eq:19-Hsep} \end{equation}となる.第 1 項は質量 $M$ の自由粒子(分子全体の並進運動),第 2 項は換算質量 $\mu$ の 1 個の粒子が $V(r)$ の中を動くときの Hamilton 演算子である.
導出
変数 $(z_1,z_2)$ から $(Z,r)$ への変換の偏微分係数は,$\dfrac{\partial Z}{\partial z_1}=\dfrac{m_1}{M}$,$\dfrac{\partial Z}{\partial z_2}=\dfrac{m_2}{M}$,$\dfrac{\partial r}{\partial z_1}=-1$,$\dfrac{\partial r}{\partial z_2}=+1$ である.連鎖律により
$$ \frac{\partial}{\partial z_1}=\frac{m_1}{M}\frac{\partial}{\partial Z}-\frac{\partial}{\partial r},\qquad \frac{\partial}{\partial z_2}=\frac{m_2}{M}\frac{\partial}{\partial Z}+\frac{\partial}{\partial r} $$となる.これを 2 回作用させると($\partial_Z\partial_r=\partial_r\partial_Z$ を使う),
$$ \frac{\partial^2}{\partial z_1^2}=\left(\frac{m_1}{M}\right)^2\frac{\partial^2}{\partial Z^2}-\frac{2m_1}{M}\frac{\partial^2}{\partial Z\,\partial r}+\frac{\partial^2}{\partial r^2},\qquad \frac{\partial^2}{\partial z_2^2}=\left(\frac{m_2}{M}\right)^2\frac{\partial^2}{\partial Z^2}+\frac{2m_2}{M}\frac{\partial^2}{\partial Z\,\partial r}+\frac{\partial^2}{\partial r^2} $$である.これを $-\dfrac{\hbar^2}{2m_1}\dfrac{\partial^2}{\partial z_1^2}-\dfrac{\hbar^2}{2m_2}\dfrac{\partial^2}{\partial z_2^2}$ に代入し,項ごとに整理する.
- $\dfrac{\partial^2}{\partial Z^2}$ の係数:$-\dfrac{\hbar^2}{2m_1}\dfrac{m_1^2}{M^2}-\dfrac{\hbar^2}{2m_2}\dfrac{m_2^2}{M^2}=-\dfrac{\hbar^2}{2}\dfrac{m_1+m_2}{M^2}=-\dfrac{\hbar^2}{2M}$.
- $\dfrac{\partial^2}{\partial Z\,\partial r}$ の係数(交差項):$-\dfrac{\hbar^2}{2m_1}\left(-\dfrac{2m_1}{M}\right)-\dfrac{\hbar^2}{2m_2}\left(\dfrac{2m_2}{M}\right)=\dfrac{\hbar^2}{M}-\dfrac{\hbar^2}{M}=0$.重心と相対座標を選んだので,交差項が消える.
- $\dfrac{\partial^2}{\partial r^2}$ の係数:$-\dfrac{\hbar^2}{2}\left(\dfrac{1}{m_1}+\dfrac{1}{m_2}\right)=-\dfrac{\hbar^2}{2\mu}$.
ポテンシャル項は $V(z_2-z_1)=V(r)$ なので,式 \eqref{eq:19-Hsep} を得る.
2 つの項は別々の変数だけを含む($\partial_Z$ は $r$ に,$\partial_r$ は $Z$ に作用しない)ので,Schrödinger 方程式 $\hat{H}\Psi=E\Psi$ は変数分離できる.$\Psi(Z,r)=\Theta(Z)\,\chi(r)$ とおくと,第 1 項から $\Theta=e^{iKZ}$,エネルギー $\dfrac{\hbar^2K^2}{2M}$(分子全体が波数 $K$ で自由に動くときの並進エネルギー)が,第 2 項から相対運動の方程式
\begin{equation} \left[-\frac{\hbar^2}{2\mu}\frac{\dd^2}{\dd r^2}+V(r)\right]\chi(r)=\varepsilon\,\chi(r) \label{eq:19-rel} \end{equation}が得られ,全エネルギーは $E=\dfrac{\hbar^2K^2}{2M}+\varepsilon$ である.振動を決めるのは式 \eqref{eq:19-rel} だけである.
(導出終わり)
イメージ:換算質量は「動く原子の質量」
重心 $Z$ を固定した目で見ると,$z_1=Z-\dfrac{m_2}{M}r$,$z_2=Z+\dfrac{m_1}{M}r$ である.核間距離が $\Delta r$ だけ変わる(重心は動かない)とき,原子 1 は $\dfrac{m_2}{M}\Delta r$,原子 2 は $\dfrac{m_1}{M}\Delta r$ だけ,互いに逆向きに動く.軽いほうの原子がたくさん動き,重いほうの原子はわずかしか動かない.換算質量は,2 つの質量の「調和平均の半分」で,つねに軽いほうの質量より小さい:$\mu\lt\min(m_1,m_2)$.同じ質量なら $\mu=m/2$(水素分子 $\mathrm{H_2}$ では水素原子の質量の半分),$m_2\gg m_1$ なら $\mu\approx m_1$(軽い原子が重い原子のまわりを動く)である.
例題19.1 $\mathrm{H^{35}Cl}$ の換算質量
水素原子の質量を $m_{\mathrm H}=1.00783\ \mathrm{u}$,塩素 $^{35}\mathrm{Cl}$ の質量を $m_{\mathrm{Cl}}=34.96885\ \mathrm{u}$ とする($1\ \mathrm{u}=1.660\,539\times10^{-27}\ \mathrm{kg}$ は原子質量単位).$\mathrm{H^{35}Cl}$ の換算質量 $\mu$ を $\mathrm{u}$ と $\mathrm{kg}$ で求め,$m_{\mathrm H}$ との比を求めよ.
解答 式 \eqref{eq:19-mu} に代入する.分子は $1.00783\times34.96885=35.2427$,分母は $1.00783+34.96885=35.97668$ なので,
$$ \mu=\frac{35.2427}{35.97668}\ \mathrm{u}=0.97959\ \mathrm{u}=0.97959\times1.660539\times10^{-27}\ \mathrm{kg}=1.6267\times10^{-27}\ \mathrm{kg}. $$$m_{\mathrm H}$ との比は $\mu/m_{\mathrm H}=0.97959/1.00783=0.972$,すなわち換算質量は水素原子の質量より約 $2.8\ \%$ 小さいだけである.塩素原子は水素原子の約 35 倍重いので,HCl の振動は,「ほぼ動かない Cl に対して,H だけが振動する」と見てよい.
例題19.2 HCl の伸縮で H と Cl はどれだけ動くか
HCl の結合が,重心を動かさずに $10\ \mathrm{pm}$($1\ \mathrm{pm}=10^{-12}\ \mathrm{m}$)だけ伸びた.H 原子と Cl 原子はそれぞれ何 pm 動いたか.また,振動の運動エネルギーのうち H 原子が担う割合はいくらか.
解答 全質量は $M=1.00783+34.96885=35.97668\ \mathrm{u}$ である.前の囲みの式で $\Delta r=10\ \mathrm{pm}$ とおくと,H(原子 1)は $\dfrac{m_{\mathrm{Cl}}}{M}\Delta r=\dfrac{34.96885}{35.97668}\times10\ \mathrm{pm}=9.72\ \mathrm{pm}$,Cl(原子 2)は $\dfrac{m_{\mathrm H}}{M}\Delta r=\dfrac{1.00783}{35.97668}\times10\ \mathrm{pm}=0.28\ \mathrm{pm}$ だけ,逆向きに動く(和は $10\ \mathrm{pm}$).速さは動く距離に比例するので,運動エネルギー $\tfrac12m_iv_i^2$ の比は $m_{\mathrm H}\left(\dfrac{m_{\mathrm{Cl}}}{M}\right)^2:m_{\mathrm{Cl}}\left(\dfrac{m_{\mathrm H}}{M}\right)^2=m_{\mathrm{Cl}}:m_{\mathrm H}$ となり,H が担う割合は $\dfrac{m_{\mathrm{Cl}}}{m_{\mathrm H}+m_{\mathrm{Cl}}}=0.972$,すなわち $97\ \%$ である.これは換算質量が $m_{\mathrm H}$ に近いことの別の表現である.
19.1.3 ポテンシャルの谷の底は放物線 — 調和近似
相対運動の方程式 \eqref{eq:19-rel} を解くには $V(r)$ の具体的な形が必要だが,実は,ほとんどの場合に必要なのは谷の底の近くの形だけである.低いエネルギー状態の分子は,谷の底 $r_{\mathrm e}$ のまわりの狭い範囲でしか動かないからである.谷の底の近くを放物線で置き換えるこの近似を調和近似(harmonic approximation)という.
定理19.2 調和近似(谷の底は放物線)
核間ポテンシャル $V(r)$ が $r=r_{\mathrm e}$ で極小になるとき,伸び $x=r-r_{\mathrm e}$($=z_2-z_1-r_{\mathrm e}$)が小さければ,
\begin{equation} V(r)\approx V(r_{\mathrm e})+\frac12k_0\,x^2,\qquad k_0\equiv V''(r_{\mathrm e})\gt0 \label{eq:19-k0} \end{equation}と近似できる.エネルギーの原点を $V(r_{\mathrm e})=0$ にとれば $V\approx\tfrac12k_0(r-r_{\mathrm e})^2$ である.$k_0$ をばね定数(力の定数)といい,単位は $\mathrm{N/m}$($=\mathrm{J/m^2}$)である.
導出
$r_{\mathrm e}$ のまわりで Taylor 展開する(大学基礎物理学 第4章 4.6):
$$ V(r)=V(r_{\mathrm e})+V'(r_{\mathrm e})\,x+\frac12V''(r_{\mathrm e})\,x^2+\frac16V'''(r_{\mathrm e})\,x^3+\cdots\qquad(x=r-r_{\mathrm e}) $$$r_{\mathrm e}$ は $V$ が極小になる点(安定なつり合いの位置)なので,力 $-V'(r_{\mathrm e})$ は $0$ であり,1 次の項は消える.極小なので $V''(r_{\mathrm e})\gt0$ で,これを $k_0$ とおく.$x$ が小さければ 3 次以上の項は 2 次の項より小さいので落とすと,式 \eqref{eq:19-k0} を得る.力は $F=-\dfrac{\dd V}{\dd x}=-k_0x$ で,Hooke の法則(ばねの力)になる.
(導出終わり)
ばね定数 $k_0$ は,谷の底の「曲がり方の強さ」(曲率)である.谷が深く狭いほど $k_0$ は大きく,結合は硬い.図19.2 に,HCl の核間ポテンシャルを(形を見せるために,第20章の Morse ポテンシャルで)描く.左側の壁は急で,右側の上り坂はゆるやかに一定の値(解離極限)に近づく非対称な形である.赤い円で囲んだ谷の底の近くでは,破線の放物線(調和近似)が曲線とよく重なっている.この赤い円の中が,調和振動子に近似できる範囲である.横軸の $r$ は図19.1 の核間距離で,図の右上の小さな模型が,その 2 つの原子の間の距離を表す.
注意:調和近似がよいのは谷の底の近くだけ
放物線は上下・左右で対称だが,実際のポテンシャルは非対称で,右側には解離極限がある.近似がよいのは,振動の振幅が小さい($n$ が小さい)ときだけである.振幅が大きくなると,準位の間隔は等間隔からずれ(非調和性),$V$ が解離極限に達すると分子は解離する.この非調和性を式で表すのが Morse ポテンシャル(第20章)である.
例題19.3 調和近似の誤差 — HCl を $\pm20\ \mathrm{pm}$ 動かしたとき
HCl のポテンシャルを Morse 型 $V(x)=D_{\mathrm e}\left(1-e^{-ax}\right)^2$($x=r-r_{\mathrm e}$.第20章で詳しく扱う)で表す.谷の深さを $D_{\mathrm e}=4.62\ \mathrm{eV}$($=7.40\times10^{-19}\ \mathrm{J}$),ばね定数を $k_0=516\ \mathrm{N/m}$ とする.(1) $x$ が小さいとき $V\approx\tfrac12k_0x^2$ になることから,$a$ を $D_{\mathrm e}$ と $k_0$ で表し,値を求めよ.(2) 結合を $x=+20\ \mathrm{pm}$ 伸ばしたとき,および $x=-20\ \mathrm{pm}$ 縮めたときの $V$ を,Morse 型と調和近似で比べよ.
解答 (1) $e^{-ax}=1-ax+\tfrac12a^2x^2-\cdots$ より $1-e^{-ax}=ax-\tfrac12a^2x^2+\cdots$.2 乗して $\left(1-e^{-ax}\right)^2=a^2x^2-a^3x^3+\cdots$.よって $V=D_{\mathrm e}a^2x^2-D_{\mathrm e}a^3x^3+\cdots$.第 1 項が $\tfrac12k_0x^2$ に等しいので $k_0=2D_{\mathrm e}a^2$,すなわち
$$ a=\sqrt{\frac{k_0}{2D_{\mathrm e}}}=\sqrt{\frac{516}{2\times7.40\times10^{-19}}}=\sqrt{3.49\times10^{20}}=1.87\times10^{10}\ \mathrm{m^{-1}}=1.87\ \mathring{\mathrm{A}}^{-1}. $$(2) $x=+20\ \mathrm{pm}$ のとき,$ax=1.87\times10^{10}\times2.0\times10^{-11}=0.373$,$e^{-0.373}=0.689$,$(1-0.689)^2=0.0971$ なので $V=4.62\ \mathrm{eV}\times0.0971=0.449\ \mathrm{eV}$.調和近似は $\tfrac12k_0x^2=\tfrac12\times516\times(2.0\times10^{-11})^2=1.03\times10^{-19}\ \mathrm{J}=0.645\ \mathrm{eV}$ で,実際より約 $44\ \%$ 高い.
$x=-20\ \mathrm{pm}$ のときは $ax=-0.373$,$e^{+0.373}=1.452$,$(1-1.452)^2=0.205$ なので $V=4.62\times0.205=0.95\ \mathrm{eV}$.調和近似の $0.645\ \mathrm{eV}$ より約 $47\ \%$ 高い(実際の壁のほうが急).結合を縮める側(左)は実際の壁のほうが急で,伸ばす側(右)はなだらかである.$\pm20\ \mathrm{pm}$ は平衡核間距離 $127\ \mathrm{pm}$ の約 $16\ \%$ であり,「小さな振動」の範囲を超えると調和近似が急速に悪くなることがわかる.($\pm10\ \mathrm{pm}$ では,Morse 型が $0.134\ \mathrm{eV}$,$0.195\ \mathrm{eV}$,調和近似が $0.161\ \mathrm{eV}$ で,Morse 型は調和近似よりそれぞれ約 $17\ \%$ 低く,約 $21\ \%$ 高いだけで,ずれは縮む.)
19.1.4 Schrödinger 方程式と準位 — 等間隔のはしご
谷の底 $V(r_{\mathrm e})$ をエネルギーの原点にとり,$r$ を伸び $x=r-r_{\mathrm e}$ に書き換える.$\dfrac{\dd^2}{\dd r^2}=\dfrac{\dd^2}{\dd x^2}$ なので,式 \eqref{eq:19-rel} に式 \eqref{eq:19-k0} を代入すると,
\begin{equation} \left[-\frac{\hbar^2}{2\mu}\frac{\dd^2}{\dd x^2}+\frac12k_0x^2\right]\chi(x)=\varepsilon\,\chi(x) \label{eq:19-ho} \end{equation}となる.これは,第13章で解いた調和振動子の方程式で,質量 $m$ を換算質量 $\mu$ に置き換え,ばね定数を $k_0=\mu\omega^2$ とおいたものと同じ形である.$x$ の範囲は本当は $x\gt-r_{\mathrm e}$($r\gt0$)だが,波動関数が $\lvert x\rvert\gt3x_0$ ではほぼ $0$ なので,第13章と同じく $-\infty\lt x\lt\infty$ まで広げてよい(理由は,次の定理の後の「イメージ」の囲みで述べる).したがって第13章の結果が使える.
この章では,準位のエネルギーを $E_n$ でなく $\varepsilon_n$ と書く.式 \eqref{eq:19-Hsep} のとおり,全エネルギー $E$ には分子全体の並進エネルギー $\hbar^2K^2/2M$ が含まれるので,それを除いた相対運動(振動)の分を $\varepsilon_n$ と書いて区別するためである.第13章の $E_n$ と同じ量である.また,隣り合う準位の間隔(吸収される光子のエネルギー)を $\Delta E=\varepsilon_{n+1}-\varepsilon_n$ と書く.
定理19.3 2 原子分子の振動準位(調和近似)
調和近似での分子の振動のエネルギーは,
\begin{equation} \varepsilon_n=\left(n+\frac12\right)\hbar\omega,\qquad \omega=\sqrt{\frac{k_0}{\mu}}\qquad(n=0,1,2,\dots) \label{eq:19-En} \end{equation}である.波動関数は第13章の $\psi_n$ で $m\to\mu$ としたもの,すなわち $\chi_n(x)=\left(\dfrac{\mu\omega}{\pi\hbar}\right)^{1/4}\dfrac{1}{\sqrt{2^nn!}}H_n\!\left(\dfrac{x}{x_0}\right)e^{-x^2/2x_0^2}$,$x_0=\sqrt{\dfrac{\hbar}{\mu\omega}}$ である.隣り合う準位の間隔は $n$ によらず一定で,
\begin{equation} \Delta E=\varepsilon_{n+1}-\varepsilon_n=\hbar\omega=h\nu,\qquad \nu=\frac{\omega}{2\pi}=\frac{1}{2\pi}\sqrt{\frac{k_0}{\mu}} \label{eq:19-dE} \end{equation}準位が等間隔であることは,箱の中の粒子($E_n\propto n^2$,間隔が上ほど広がる.第10章)や水素原子($E_n\propto-1/n^2$,間隔が上ほど縮まる)と対照的である.式 \eqref{eq:19-dE} の $\nu$ は,古典力学で 2 つの質量が同じ $k_0$ のばねでつながれたときの振動数 $\dfrac{1}{2\pi}\sqrt{k_0/\mu}$ と同じである.分子の吸収する光の振動数が,古典的な振動の振動数と一致することは,Bohr の対応原理(第5章 5.5節)の一例と見ることができる.図19.3 に,HCl の準位と波動関数を示す.
イメージ:$x_0$ は結合の長さに比べて小さい
振動を「原点のまわりの $x$ の範囲だけ」で調べてよいのは,波動関数の広がり $x_0=\sqrt{\hbar/(\mu\omega)}$ が結合の長さ $r_{\mathrm e}$ よりずっと小さいからである.HCl では,第13章の例題13.3 で見たとおり $x_0=10.7\ \mathrm{pm}$ で,$r_{\mathrm e}\approx127\ \mathrm{pm}$ の 8 % 程度である.$r=r_{\mathrm e}+x$ は本来 $r\gt0$($x\gt-r_{\mathrm e}$)の範囲でしか意味をもたないが,$\chi_n(x)$ は $\lvert x\rvert\gt3x_0\approx32\ \mathrm{pm}$ ではほぼ $0$ なので,$x\to-\infty$ まで積分する近似で問題はない.
回転との関係
実際の分子は,核間距離を変えるだけでなく,重心のまわりの回転もする.3 次元の相対運動では,$V(r)$ に回転の項 $\dfrac{\hbar^2l(l+1)}{2\mu r^2}$(第14章の遠心力ポテンシャル)が加わる.回転のエネルギーは,HCl では $10\ \mathrm{cm^{-1}}$ 程度(回転定数 $B\approx10.6\ \mathrm{cm^{-1}}$)の刻みで,振動の $3000\ \mathrm{cm^{-1}}$ 程度の刻みよりずっと小さい.そこで,振動と回転を近似的に分けて扱ってよい(回転は第22章で扱う).
19.2 赤外スペクトルとばね定数 — 波数から結合の硬さを読む
19.2.1 波数・振動数・エネルギーの換算
赤外分光では,光の「位置」を波長ではなく,1 cm の間に含まれる波の数である波数(wavenumber)で表す習慣がある.波長 $\lambda$ の光の波数は $\tilde{\nu}=\dfrac{1}{\lambda}$ で,単位は $\mathrm{cm^{-1}}$(「カイザー」とも読む)である.光速 $c$,振動数 $\nu$ とは $\lambda\nu=c$ の関係にあるので,
\begin{equation} \tilde{\nu}=\frac{1}{\lambda}=\frac{\nu}{c},\qquad \nu=c\tilde{\nu},\qquad \omega=2\pi\nu=2\pi c\tilde{\nu},\qquad E=h\nu=hc\tilde{\nu} \label{eq:19-wn} \end{equation}である.波数は光子のエネルギーに比例するので,エネルギー準位の間隔を直接読みやすく,分子の振動では $10^2$〜$10^4\ \mathrm{cm^{-1}}$ の手ごろな数値になる.そのため,分光学ではエネルギーの単位としても $\mathrm{cm^{-1}}$ が使われる.
注意:波数の $\tilde{\nu}$ と $k$,ばね定数の $k_0$,$k_{\mathrm B}$
物理学で「波数」というと,$k=2\pi/\lambda$(単位 $\mathrm{rad/m}$.本書の第10章以降の $k$)を指すことが多い.分光学の波数 $\tilde{\nu}=1/\lambda$ とは $2\pi$ だけ違い,$k=2\pi\tilde{\nu}$ である.混同を避けるため,分光学の波数は分光学の標準の記号 $\tilde{\nu}$(単位 $\mathrm{cm^{-1}}$)と書く(第13章の $\tilde{\nu}$ と同じ量である.第20章の分光定数 $\omega_{\mathrm e}$ は,小さな振動についての波数という別の量で,第20章 20.1 節で $\tilde{\nu}$ との関係を述べる).ばね定数は添字をつけて $k_0$,Boltzmann 定数は $k_{\mathrm B}$ と書き,これらの $k$ を区別する.とくに,本章のばね定数 $k_0$ は,第12章の波数 $k_0=\sqrt{2mE}/\hbar$(第12章)とは別の量である.19.4 節で Fourier 変換の変数として使う $k$($=p/\hbar$)は,$2\pi/\lambda$ のほうの波数である.
| 量 | $1\ \mathrm{cm^{-1}}$ に相当する値 | 逆向きの換算 |
|---|---|---|
| 波長 $\lambda$ | $1\ \mathrm{cm}$ | $\lambda\,[\mu\mathrm{m}]=10^4/\tilde{\nu}\,[\mathrm{cm^{-1}}]$ |
| 振動数 $\nu=c\tilde{\nu}$ | $29.979\ \mathrm{GHz}$ | $1\ \mathrm{THz}=33.356\ \mathrm{cm^{-1}}$ |
| 光子のエネルギー $hc\tilde{\nu}$ | $1.2398\times10^{-4}\ \mathrm{eV}$ | $1\ \mathrm{eV}=8065.5\ \mathrm{cm^{-1}}$ |
| モルあたりのエネルギー | $0.011963\ \mathrm{kJ/mol}$ | $1\ \mathrm{kJ/mol}=83.594\ \mathrm{cm^{-1}}$ |
| 温度 $hc\tilde{\nu}/k_{\mathrm B}$ | $1.4388\ \mathrm{K}$ | $k_{\mathrm B}T\ (300\ \mathrm{K})=208.5\ \mathrm{cm^{-1}}$ |
19.2.2 赤外の吸収波数からばね定数を求める
定理19.3 より,振動の準位の間隔は $\Delta E=\hbar\omega$ で,$\omega=\sqrt{k_0/\mu}$ である.一方,この間隔に等しいエネルギーの光子が吸収されるので,その光子の波数(調和振動子としての波数.非調和性を無視すれば,吸収線の位置と等しい.19.2.3 節の注意を見よ)を $\tilde{\nu}$ とすれば,式 \eqref{eq:19-wn} より $\Delta E=hc\tilde{\nu}$ である.つまり
$$ \hbar\omega=\hbar\sqrt{\frac{k_0}{\mu}}=hc\tilde{\nu} $$である($\hbar\omega=\dfrac{h}{2\pi}\cdot2\pi\nu=h\nu=hc\tilde{\nu}$).式の中の $k_0$ がばね定数,$\tilde{\nu}$ が波数である.両辺を $\hbar$ で割ると $\sqrt{k_0/\mu}=\dfrac{hc\tilde{\nu}}{\hbar}=2\pi c\tilde{\nu}$ となり,2 乗して $\mu$ を掛けると,次の公式を得る.
公式19.1 吸収波数からばね定数を求める
\begin{equation} k_0=(2\pi c\tilde{\nu})^2\,\mu \label{eq:19-kk} \end{equation}$c$ は光速,$\tilde{\nu}$ は調和振動子としての波数(ほぼ吸収線の位置.SI 単位では $\mathrm{m^{-1}}$),$\mu$ は換算質量である.
単位を確かめよう.$c\tilde{\nu}$ は $\dfrac{\mathrm{m}}{\mathrm{s}}\cdot\dfrac{1}{\mathrm{m}}=\mathrm{s^{-1}}$(振動数の単位)なので,$(2\pi c\tilde{\nu})^2\mu$ は $\mathrm{s^{-2}\,kg}=\mathrm{kg/s^2}=\mathrm{N/m}$ となり,ばね定数の単位に合う.なお,波数を $\mathrm{cm^{-1}}$ で表した値を式に入れるときは,$1\ \mathrm{cm^{-1}}=100\ \mathrm{m^{-1}}$ の換算を忘れないこと.
例19.1 HCl のばね定数
HCl の振動の調和振動子としての波数(ほぼ吸収線の位置)を $\tilde{\nu}=2990\ \mathrm{cm^{-1}}$,HCl の換算質量を $\mu=1.62\times10^{-27}\ \mathrm{kg}$ として,ばね定数 $k_0$ を求めよ.
解答 $\tilde{\nu}=2990\ \mathrm{cm^{-1}}=2.99\times10^{5}\ \mathrm{m^{-1}}$,光速を $c=3.00\times10^{8}\ \mathrm{m/s}$ とすると,
$$ 2\pi c\tilde{\nu}=2\pi\times3.00\times10^{8}\times2.99\times10^{5}=5.64\times10^{14}\ \mathrm{s^{-1}}\quad(=\omega) $$である.これを 2 乗して $\mu$ を掛けると,公式19.1 より
$$ k_0=(2\pi c\tilde{\nu})^2\mu=(5.64\times10^{14})^2\times1.62\times10^{-27}=3.18\times10^{29}\times1.62\times10^{-27}=5.1\times10^{2}\ \mathrm{N/m}. $$(例題19.1 の値 $\mu=1.6267\times10^{-27}\ \mathrm{kg}$ を使うと $5.16\times10^{2}\ \mathrm{N/m}$ である.)
ここでは,非調和性を無視して,吸収線の波数を調和振動子の波数(分光学の $\omega_{\mathrm e}$)と同一視した.実測される基本音($n=0\to1$)の吸収帯の位置 約 $2886\ \mathrm{cm^{-1}}$ をそのまま入れると,$k_0\approx4.8\times10^{2}\ \mathrm{N/m}$($481\ \mathrm{N/m}$)と,約 $7\ \%$ 小さい値になる.この違いの理由と補正は,19.2.3 節の注意と第20章で述べる.
$5\times10^2\ \mathrm{N/m}$ は,実験室にある普通のばね($10\ \mathrm{N/m}$ 程度)の 50 倍ほどの硬さである.同じ硬さのばねを $1\ \mathrm{cm}$ 伸ばすには約 $5\ \mathrm{N}$(約 $0.5\ \mathrm{kg}$ の物体の重さ)の力が要る.原子 1 個を動かすばねとしてはかなり強く結ばれているといえる.軽い水素原子が,この硬いばねにつながれているので,振動数は $9\times10^{13}\ \mathrm{Hz}$ という非常に高い値になる.
例題19.4 HCl の振動の周期・波長・エネルギー
H$^{35}$Cl の調和振動子としての波数を $\tilde{\nu}=2990.95\ \mathrm{cm^{-1}}$,換算質量を $\mu=1.6267\times10^{-27}\ \mathrm{kg}$ とする.(1) 振動数 $\nu$,周期,(2) 振動に相当する光の波長,(3) $\hbar\omega$ を $\mathrm{eV}$ で,(4) ばね定数 $k_0$ を求めよ.
解答 $\tilde{\nu}=2990.95\ \mathrm{cm^{-1}}=2.99095\times10^{5}\ \mathrm{m^{-1}}$ で,$c=2.99792\times10^{8}\ \mathrm{m/s}$ とする.
(1) $\nu=c\tilde{\nu}=2.99792\times10^{8}\times2.99095\times10^{5}=8.9667\times10^{13}\ \mathrm{Hz}$(約 $90\ \mathrm{THz}$).周期は $T=1/\nu=1.1152\times10^{-14}\ \mathrm{s}=11.2\ \mathrm{fs}$($1\ \mathrm{fs}=10^{-15}\ \mathrm{s}$).分子は 1 秒間に約 $9\times10^{13}$ 回という猛烈な速さで伸び縮みしている(光が 1 周期の間に進む距離は,次の (2) の波長 $3.34\ \mu\mathrm{m}$ にちょうど等しい).
(2) $\lambda=1/\tilde{\nu}=1/(2.99095\times10^{5}\ \mathrm{m^{-1}})=3.3434\times10^{-6}\ \mathrm{m}=3.34\ \mu\mathrm{m}$.赤外線(波長 $0.78\ \mu\mathrm{m}$ 以上)の領域にある.
(3) $\hbar\omega=h\nu=6.62607\times10^{-34}\times8.9667\times10^{13}=5.9415\times10^{-20}\ \mathrm{J}=\dfrac{5.9415\times10^{-20}}{1.602177\times10^{-19}}\ \mathrm{eV}=0.3708\ \mathrm{eV}$.表19.1 の換算では $2990.95\times1.2398\times10^{-4}=0.3708\ \mathrm{eV}$ で一致する.
(4) $\omega=2\pi\nu=5.6338\times10^{14}\ \mathrm{s^{-1}}$ なので,$k_0=\mu\omega^2=1.6267\times10^{-27}\times(5.6338\times10^{14})^2=1.6267\times10^{-27}\times3.1740\times10^{29}=516\ \mathrm{N/m}$.
19.2.3 8 種類の 2 原子分子のばね定数
公式19.1 を使って,代表的な 2 原子分子の赤外吸収の波数からばね定数を計算した結果を表19.2 に示す.換算質量は各原子の質量(例:$\mathrm{H}=1.00783\ \mathrm{u}$,$\mathrm{D}=2.01410\ \mathrm{u}$,$^{35}\mathrm{Cl}=34.96885\ \mathrm{u}$)から式 \eqref{eq:19-mu} で求めた.D は重水素(deuterium)の記号で,陽子 1 個に中性子 1 個が加わった水素の同位体(質量数 2,$^{2}\mathrm{H}$ とも書く)である.天然の水素のおよそ 6400 個に 1 個(約 $0.016\ \%$)が D で,1932 年に Urey らが発見した.HD は,H 原子 1 個と D 原子 1 個からなる分子である.
| 分子 | $\tilde{\nu}\ [\mathrm{cm^{-1}}]$ | $\mu\ [10^{-27}\ \mathrm{kg}]$ | $k_0\ [\mathrm{N/m}]$ | $\hbar\omega\ [\mathrm{eV}]$ | $r_{\mathrm e}\ [\mathrm{pm}]$ |
|---|---|---|---|---|---|
| $\mathrm{H_2}$ | 4400 | 0.8368 | 575 | 0.546 | 74.1 |
| HD | 3813 | 1.115 | 575 | 0.473 | 74.1 |
| HF | 4140 | 1.589 | 966 | 0.513 | 91.7 |
| HCl | 2990 | 1.627 | 516 | 0.371 | 127.5 |
| HBr | 2650 | 1.652 | 412 | 0.329 | 141.4 |
| HI | 2310 | 1.660 | 314 | 0.286 | 160.9 |
| CO | 2170 | 11.39 | 1902 | 0.269 | 112.8 |
| NO | 1900 | 12.40 | 1588 | 0.236 | 115.1 |
表の波数は 3〜4 桁に丸めた値である.より精密な値($\mathrm{H_2}$ が $4401.2\ \mathrm{cm^{-1}}$,HCl が $2990.95\ \mathrm{cm^{-1}}$ など)は,以下の例題と表19.3,表19.4 で使う.HCl の波数が $2990$,$2990.95$,$2991\ \mathrm{cm^{-1}}$ と書かれていても,すべて同じ量(有効数字の桁数が違うだけ)である.
表19.2 から読み取れることを挙げる(図19.4 は,ばね定数を棒グラフにしたものである).
- $\mathrm{H_2}$ と HD のばね定数は等しい(どちらも約 $575\ \mathrm{N/m}$).一方,波数は $4400$ と $3813\ \mathrm{cm^{-1}}$ と大きく違う.これは,水素を重水素に置き換えても結合の硬さ(電子がつくるポテンシャル)は変わらず,質量だけが変わるためである(19.3 節).
- HF,HCl,HBr,HI と,ハロゲンが重くなるにつれ $k_0$ は $966\to516\to412\to314\ \mathrm{N/m}$ と小さくなる.結合が長くなる($91.7\to160.9\ \mathrm{pm}$)ほど結合は軟らかい.換算質量はほとんど変わらない(どれも $\mu\approx m_{\mathrm H}$)ので,波数の低下がそのまま結合の軟らかさを表している.
- CO の $1902\ \mathrm{N/m}$ は HCl の 3.7 倍で,表の中で最も硬い.CO は三重結合で,NO(結合次数 2.5)の $1588\ \mathrm{N/m}$ も大きい.結合の多重度が高い(電子が結合にたくさん入る)ほど,結合は短く,硬い.波数は換算質量が大きい CO で小さいが,$k_0$ は大きいことに注意.
注意:表の波数は「調和振動子とみなした波数」である
実際の分子の振動準位は,非調和性のために厳密には等間隔でなく,高い準位ほど間隔が少しずつ縮む.観測される基本音($n=0\to1$)の吸収帯の位置は,調和振動子とみなした波数より少し低く,たとえば HCl では約 $2886\ \mathrm{cm^{-1}}$,CO では約 $2143\ \mathrm{cm^{-1}}$ である.表19.2 の波数は,この非調和性の補正を取り除いた調和振動子の波数(分光学では $\omega_{\mathrm e}$ と書く)に近い値で,$k_0=V''(r_{\mathrm e})$ という「谷の底の曲率」を求めるにはこちらを使うのが正しい.その違いは第20章で式にする.
例題19.5 表の $k_0$ を自分で計算する — $\mathrm{H_2}$ と HI
表19.2 の $\mathrm{H_2}$($\tilde{\nu}=4400\ \mathrm{cm^{-1}}$,$\mu=8.368\times10^{-28}\ \mathrm{kg}$)と HI($\tilde{\nu}=2310\ \mathrm{cm^{-1}}$,$\mu=1.660\times10^{-27}\ \mathrm{kg}$)のばね定数を,公式19.1 から求めよ.
解答 $\mathrm{H_2}$:$\tilde{\nu}=4400\ \mathrm{cm^{-1}}=4.400\times10^{5}\ \mathrm{m^{-1}}$ なので $\omega=2\pi c\tilde{\nu}=2\pi\times2.99792\times10^{8}\times4.400\times10^{5}=8.288\times10^{14}\ \mathrm{s^{-1}}$,$\omega^2=6.869\times10^{29}\ \mathrm{s^{-2}}$.よって
$$ k_0=\omega^2\mu=6.869\times10^{29}\times8.368\times10^{-28}=5.75\times10^{2}\ \mathrm{N/m}. $$HI:$\tilde{\nu}=2.310\times10^{5}\ \mathrm{m^{-1}}$ から $\omega=2\pi\times2.99792\times10^{8}\times2.310\times10^{5}=4.351\times10^{14}\ \mathrm{s^{-1}}$,$\omega^2=1.893\times10^{29}\ \mathrm{s^{-2}}$.よって
$$ k_0=1.893\times10^{29}\times1.660\times10^{-27}=3.14\times10^{2}\ \mathrm{N/m}. $$$\mathrm{H_2}$ のほうが HI より $\mu$ は約 $2$ 分の $1$ だが,波数(の 2 乗)が約 $3.6$ 倍なので,$k_0$ は約 $1.8$ 倍になる.
19.2.4 赤外線の吸収と選択則の予告
分子が赤外線を吸収して準位 $n$ から $n'$ に遷移するには,光子のエネルギーが準位の差に等しくなければならない:$h\nu_{\mathrm{photon}}=\varepsilon_{n'}-\varepsilon_n$.調和近似では準位が等間隔なので,隣り合う準位間($n\to n+1$)の遷移は,どの $n$ でもすべて同じエネルギー $\hbar\omega=h\nu$ をもつ.そのため,吸収線は $\nu=\dfrac{1}{2\pi}\sqrt{k_0/\mu}$ の 1 本になる.しかも,遷移できるのは隣り合う準位間だけで,$n\to n\pm1$ である.これを選択則(selection rule)といい,$\Delta n=\pm1$ と書く(図19.5).
理由の概略を述べる.光の電場が分子に及ぼす作用は,電気双極子モーメント $d$ と電場の相互作用 $-d\,E$ で表される.振動によって $d$ が変化するとき,$d$ を平衡の位置 $x=0$ のまわりで展開すると $d(x)\approx d_0+\dfrac{\dd d}{\dd x}\bigg|_0x$ となる.定数項 $d_0$ は,異なる固有状態が直交する($\braket{n'}{n}=0$,$n'\ne n$)ために,遷移に寄与しない(永久双極子モーメントだけでは吸収は起こらない).残る第 2 項から,遷移の強さ(吸収の強度)は,行列要素の絶対値の 2 乗 $\left\lvert\dfrac{\dd d}{\dd x}\bigg|_0\bra{n'}\hat{x}\ket{n}\right\rvert^2$ に比例する(遷移の確率は振幅の 2 乗).調和振動子の波動関数では,$\bra{n'}\hat{x}\ket{n}$ は $n'=n\pm1$ のときだけ $0$ でない(第13章 13.8.1節).時間に依存する摂動論による導出は,Fermi の黄金律(第51章)と電気双極子近似(第52章)で行う.ここでは,次の 2 点を使えばよい.
- $\Delta n=\pm1$(調和近似では,$\Delta n=\pm2$ などの倍音は現れない.実際の分子では非調和性のため,倍音がごく弱く現れる).
- 振動で双極子モーメントが変化する分子だけが赤外線を吸収する(赤外活性,IR active).$\dfrac{\dd d}{\dd x}=0$ なら遷移の強さが $0$ になる.同じ原子が 2 つ並んだ等核 2 原子分子($\mathrm{H_2}$,$\mathrm{N_2}$,$\mathrm{O_2}$)は,どれだけ伸び縮みしても双極子モーメントが $0$ のままなので,赤外線を吸収しない(赤外不活性).HCl,CO,NO のような異核 2 原子分子は,伸び縮みで双極子モーメントが変化し,赤外活性である.
例題19.6 赤外で見える分子・見えない分子
$\mathrm{H_2}$,$\mathrm{N_2}$,$\mathrm{O_2}$,HCl,CO のうち,振動の赤外吸収が観測されるものはどれか.理由も述べよ.また,HCl の吸収帯の中心が調和近似の波数より低い理由を,準位の間隔で説明せよ.
解答 赤外線が吸収されるには,振動によって電気双極子モーメントが変化しなければならない.$\mathrm{H_2}$,$\mathrm{N_2}$,$\mathrm{O_2}$ は同じ原子 2 個からなり,結合がどれだけ伸縮しても電荷の分布は 2 つの原子に対して対称なので,双極子モーメントは $0$ のままである.したがってこれら 3 つは赤外不活性(吸収なし)である.HCl は H が正,Cl が負に偏った双極子をもち,結合が伸びるとその大きさが変わる.CO も同様である.したがって HCl と CO は赤外活性で,吸収が観測される.
後半:調和振動子なら $\varepsilon_1-\varepsilon_0=\hbar\omega$ だが,実際のポテンシャルは,谷の右側(結合を伸ばす側)が放物線より低い(図19.2).準位が高くなるほど,波動関数は右側の低い部分に広がるので,エネルギーの上がり方が調和振動子より小さい.したがって準位の間隔は上ほど縮み,$n=0\to1$ の間隔 $\varepsilon_1-\varepsilon_0$ も,$\hbar\omega$(谷の底の曲率から決まる値)よりわずかに小さくなる.HCl では,この差が $2990.95\to$ 約 $2886\ \mathrm{cm^{-1}}$(約 $3.5\ \%$)である.
応用:赤外分光は結合の「指紋」
結合が硬い($k_0$ が大きい)ほど,また結んでいる原子が軽い($\mu$ が小さい)ほど,吸収の波数は高い.そのため,赤外吸収スペクトルの吸収線の位置から,物質の中の結合の種類を見分けることができる.たとえば,O–H 結合(水,水酸基)の伸縮は約 $3400\ \mathrm{cm^{-1}}$ 付近(水素結合で幅が広がる),C=O 結合は約 $1700\ \mathrm{cm^{-1}}$ 付近に吸収をもち,ガラス($\mathrm{SiO_2}$)では Si–O–Si 結合の吸収が約 $1000$〜$1100\ \mathrm{cm^{-1}}$ にある.FTIR(Fourier 変換赤外分光)は,薄膜の組成,高分子,触媒の表面に吸着した分子(例:Pt 表面に吸着した CO)などの分析に広く使われる.大気の $\mathrm{CO_2}$ の反対称伸縮振動(約 $2349\ \mathrm{cm^{-1}}$)は赤外線を強く吸収し,これが $\mathrm{CO_2}$ の温室効果の一因になっている.
関連シミュレーター:調和振動子 ― ばねと波動関数(ばねの硬さと質量を変えたときの準位と波動関数).
19.3 同位体効果と零点エネルギー
19.3.1 同じポテンシャル,違う質量
Born–Oppenheimer 近似の考え方(19.1.1 節)では,核間ポテンシャル $V(r)$ は電子のエネルギーで決まり,原子核の質量にはほとんど依存しない.したがって,水素 H を重水素 D に置き換えたり,塩素の同位体 $^{35}\mathrm{Cl}$ を $^{37}\mathrm{Cl}$ に置き換えたりしても,ポテンシャルの谷の形,つまりばね定数 $k_0$ は(高い精度で)変わらず,換算質量 $\mu$ だけが変わる.すると $\omega=\sqrt{k_0/\mu}$ より,同位体置換後の波数 $\tilde{\nu}'$ は,置換前の波数 $\tilde{\nu}$ と次の関係にある.
公式19.2 同位体効果(振動数の質量依存性)
\begin{equation} \frac{\tilde{\nu}'}{\tilde{\nu}}=\frac{\omega'}{\omega}=\sqrt{\frac{\mu}{\mu'}} \label{eq:19-isotope} \end{equation}$\mu$,$\mu'$ は置換前・置換後の換算質量.同じばね定数のとき,換算質量が大きい分子ほど振動数(波数)は低い.
水素分子で確かめよう.$\mathrm{H_2}$,HD,$\mathrm{D_2}$ の換算質量は,H の質量を $m_{\mathrm H}$,D の質量を $m_{\mathrm D}\ (\approx2m_{\mathrm H})$ として,$\mu(\mathrm{H_2})=\dfrac{m_{\mathrm H}}{2}$,$\mu(\mathrm{HD})=\dfrac{m_{\mathrm H}m_{\mathrm D}}{m_{\mathrm H}+m_{\mathrm D}}$,$\mu(\mathrm{D_2})=\dfrac{m_{\mathrm D}}{2}$ である.$m_{\mathrm D}\approx2m_{\mathrm H}$ なら,$\mu(\mathrm{HD})\approx\tfrac23m_{\mathrm H}$,$\mu(\mathrm{D_2})\approx m_{\mathrm H}$ で,$\mathrm{H_2}$ に比べて $\mu$ は $4/3$ 倍,2 倍になり,波数は $\sqrt{3/4}=0.866$ 倍,$1/\sqrt{2}=0.707$ 倍になる.これは,表19.2 の HD の波数が $\mathrm{H_2}$ の $0.87$ 倍であることと合う.表19.3 に,同位体の原子質量から計算した予言値と実測値を並べる.
| 分子 | $\mu\ [\mathrm{u}]$ | $\sqrt{\mu(\mathrm{H_2})/\mu}$ | 予言 $\tilde{\nu}\ [\mathrm{cm^{-1}}]$ | 実測 $\tilde{\nu}\ [\mathrm{cm^{-1}}]$ |
|---|---|---|---|---|
| $\mathrm{H_2}$ | 0.50392 | 1 | (基準)4401 | 4401 |
| HD | 0.67171 | 0.8661 | 3812 | 3813 |
| $\mathrm{D_2}$ | 1.00705 | 0.7074 | 3113 | 3116 |
塩化水素では,H を D に置き換えた DCl の波数が約 $2145\ \mathrm{cm^{-1}}$($\mu$ が約 $1.94$ 倍)になる(第13章の例題13.12.数値は例題19.7 (3)).塩素の同位体を $^{35}\mathrm{Cl}$ から $^{37}\mathrm{Cl}$ に変えると,換算質量は $0.97959\ \mathrm{u}$ から $0.98108\ \mathrm{u}$ へ 0.15 % だけ増えるので,波数は $0.99924$ 倍,つまり約 $2.26\ \mathrm{cm^{-1}}$ だけ低くなる.HCl の赤外吸収線が,塩素の天然の同位体存在比($^{35}\mathrm{Cl}$ が約 $75.8\ \%$,$^{37}\mathrm{Cl}$ が約 $24.2\ \%$)を反映して,間隔約 $2\ \mathrm{cm^{-1}}$,強度比約 $3:1$ の二重線に分かれて見えることは,高分解能の赤外スペクトルの有名な例である.
例題19.7 $\mathrm{H_2}$ の $k_0$ から HD,$\mathrm{D_2}$,$\mathrm{H^{37}Cl}$ の波数を予言する
原子質量を $\mathrm{H}=1.00783\ \mathrm{u}$,$\mathrm{D}=2.01410\ \mathrm{u}$,$^{35}\mathrm{Cl}=34.96885\ \mathrm{u}$,$^{37}\mathrm{Cl}=36.96590\ \mathrm{u}$ とする.$\mathrm{H_2}$ の波数を $4401\ \mathrm{cm^{-1}}$,$\mathrm{H^{35}Cl}$ の波数を $2990.95\ \mathrm{cm^{-1}}$ として,(1) HD と $\mathrm{D_2}$ の波数,(2) $\mathrm{H^{37}Cl}$ の波数と $\mathrm{H^{35}Cl}$ との差,(3) DCl($\mathrm{D^{35}Cl}$)の波数と,$\mathrm{H^{35}Cl}$ との零点エネルギーの差($\mathrm{cm^{-1}}$ と $\mathrm{kJ/mol}$)を,公式19.2 で求めよ.
解答 (1) 換算質量は,$\mu(\mathrm{H_2})=\dfrac{1.00783}{2}=0.50392\ \mathrm{u}$,$\mu(\mathrm{HD})=\dfrac{1.00783\times2.01410}{1.00783+2.01410}=\dfrac{2.02988}{3.02193}=0.67171\ \mathrm{u}$,$\mu(\mathrm{D_2})=\dfrac{2.01410}{2}=1.00705\ \mathrm{u}$.公式19.2 より
$$ \tilde{\nu}(\mathrm{HD})=4401\times\sqrt{\frac{0.50392}{0.67171}}=4401\times0.86614=3812\ \mathrm{cm^{-1}},\qquad \tilde{\nu}(\mathrm{D_2})=4401\times\sqrt{\frac{0.50392}{1.00705}}=4401\times0.70738=3113\ \mathrm{cm^{-1}}. $$実測(3813 と $3116\ \mathrm{cm^{-1}}$)との差は $0.1\ \%$ 以下である.
(2) $\mu(\mathrm{H^{35}Cl})=\dfrac{1.00783\times34.96885}{35.97668}=0.97959\ \mathrm{u}$,$\mu(\mathrm{H^{37}Cl})=\dfrac{1.00783\times36.96590}{37.97373}=0.98108\ \mathrm{u}$.よって
$$ \tilde{\nu}(\mathrm{H^{37}Cl})=2990.95\times\sqrt{\frac{0.97959}{0.98108}}=2990.95\times0.99924=2988.69\ \mathrm{cm^{-1}},\qquad \Delta\tilde{\nu}=-2.26\ \mathrm{cm^{-1}}. $$同位体存在比 $75.8:24.2=3.1:1$ に応じて,強度比約 $3:1$ で $2\ \mathrm{cm^{-1}}$ ほど離れた 2 本の線が見える.
(3) $\mu(\mathrm{D^{35}Cl})=\dfrac{2.01410\times34.96885}{2.01410+34.96885}=\dfrac{70.4308}{36.98295}=1.90441\ \mathrm{u}$ で,$\mathrm{H^{35}Cl}$ の $0.97959\ \mathrm{u}$ の約 $1.94$ 倍である.公式19.2 より
$$ \tilde{\nu}(\mathrm{DCl})=2990.95\times\sqrt{\frac{0.97959}{1.90441}}=2990.95\times0.71721=2145\ \mathrm{cm^{-1}}. $$零点エネルギーは $\varepsilon_0=\tfrac12hc\tilde{\nu}$ なので,$\mathrm{H^{35}Cl}$ は $\tfrac12\times2990.95=1495.5\ \mathrm{cm^{-1}}$,DCl は $\tfrac12\times2145.1=1072.6\ \mathrm{cm^{-1}}$ で,差は $\Delta\varepsilon_0=422.9\ \mathrm{cm^{-1}}$ である.表19.1 の換算($1\ \mathrm{cm^{-1}}=0.011963\ \mathrm{kJ/mol}$)で $422.9\times0.011963=5.06\ \mathrm{kJ/mol}$($0.0524\ \mathrm{eV}$).DCl のほうが零点エネルギーが約 $5\ \mathrm{kJ/mol}$ 低いので,$D_0$ は約 $5\ \mathrm{kJ/mol}$ 大きい(式 \eqref{eq:19-D0}).
応用:重水素化で「どの結合の吸収か」を見分ける
赤外スペクトルの吸収帯がどの結合のものか迷うとき,H を D に置き換えた試料(重水素化試料)を測ると,その結合の吸収だけが $\sqrt{\mu_{\mathrm{H}}/\mu_{\mathrm{D}}}\approx0.73$ 倍の波数へ移動するので,帰属が確定する.たとえば,水中の O–H 伸縮の約 $3400\ \mathrm{cm^{-1}}$ の広い吸収は,重水 $\mathrm{D_2O}$ では O–D 伸縮として約 $2500\ \mathrm{cm^{-1}}$ に移る.また,$\mu$ が大きく変わらない相手側の結合(たとえば C–C)の吸収はほとんど動かない.
19.3.2 零点エネルギーと解離エネルギー
調和振動子の基底状態($n=0$)のエネルギーは零ではなく,零点エネルギー $\varepsilon_0=\tfrac12\hbar\omega=\tfrac12hc\tilde{\nu}$ である(第13章 13.5節).分子は,谷の底ではなく,谷の底から $\varepsilon_0$ だけ上で,絶対零度でも「振動」している.この零点エネルギーは,ポテンシャルが同じでも $\omega\propto\mu^{-1/2}$ に応じて,軽い分子ほど大きい.したがって,同位体置換は,分子が結合を切って原子に分かれるために必要なエネルギーを変える.
ポテンシャルの谷の深さ(谷の底から解離極限までの高さ)を $D_{\mathrm e}$ とすると,$V(r)$ が同位体によらないので,$D_{\mathrm e}$ も同位体によらない.しかし,基底状態の分子を原子に解離させるのに必要なエネルギー $D_0$ は,基底状態が谷の底から $\varepsilon_0$ だけ上にあるので,
\begin{equation} D_0=D_{\mathrm e}-\varepsilon_0=D_{\mathrm e}-\tfrac12\hbar\omega \label{eq:19-D0} \end{equation}である.軽い同位体は零点エネルギーが大きいので $D_0$ が小さく,重い同位体(たとえば D)は零点エネルギーが小さいので $D_0$ が大きい.すなわち,重水素の結合のほうが「切れにくい」.図19.6 に模式的に示す.
例題19.8 $\mathrm{H_2}$ と $\mathrm{D_2}$ の解離エネルギーの差
$\mathrm{H_2}$ と $\mathrm{D_2}$ の振動の波数(調和振動子としての値)を $4401.2\ \mathrm{cm^{-1}}$,$3115.5\ \mathrm{cm^{-1}}$ とする.(1) それぞれの零点エネルギーを $\mathrm{cm^{-1}}$,$\mathrm{eV}$,$\mathrm{kJ/mol}$ で求めよ.(2) $D_{\mathrm e}$ が同じとして,$D_0(\mathrm{D_2})-D_0(\mathrm{H_2})$ を求め,実測値($D_0(\mathrm{H_2})=4.478\ \mathrm{eV}$,$D_0(\mathrm{D_2})=4.556\ \mathrm{eV}$)と比べよ.(3) $D_{\mathrm e}(\mathrm{H_2})$ を見積もれ.
解答 (1) $\varepsilon_0=\tfrac12hc\tilde{\nu}$ で,波数の値を半分にすればよい:$\mathrm{H_2}$ は $2200.6\ \mathrm{cm^{-1}}$,$\mathrm{D_2}$ は $1557.8\ \mathrm{cm^{-1}}$.表19.1 の換算を使うと,$\mathrm{H_2}$ は $2200.6\times1.2398\times10^{-4}=0.2728\ \mathrm{eV}$($2200.6\times0.011963=26.3\ \mathrm{kJ/mol}$),$\mathrm{D_2}$ は $1557.8\times1.2398\times10^{-4}=0.1931\ \mathrm{eV}$($18.6\ \mathrm{kJ/mol}$)である.
(2) 式 \eqref{eq:19-D0} より $D_0(\mathrm{D_2})-D_0(\mathrm{H_2})=\varepsilon_0(\mathrm{H_2})-\varepsilon_0(\mathrm{D_2})=0.2728-0.1931=0.0797\ \mathrm{eV}$($7.7\ \mathrm{kJ/mol}$).実測値の差は $4.556-4.478=0.078\ \mathrm{eV}$ で,よく一致する.(実際の零点エネルギーは,非調和性のために調和近似の値よりわずかに小さいので,差が少し違う.)
(3) $D_{\mathrm e}=D_0+\varepsilon_0=4.478+0.273=4.75\ \mathrm{eV}$ で,これは $\mathrm{H_2}$ の谷の深さに当たる($\mathrm{D_2}$ でも $4.556+0.193=4.75\ \mathrm{eV}$ で同じ).
19.3.3 速度論的同位体効果
零点エネルギーの差は,化学反応の速さにも現れる.有機化合物の C–H 結合が切れる反応を考える.反応物の中の C–H の伸縮振動は,零点エネルギー $\tfrac12\hbar\omega_{\mathrm H}$ をもつ.反応の途中の状態(遷移状態)では結合が半分切れかけていて,この振動はもはや通常の振動ではなくなる,と最も簡単に考える(この振動の零点エネルギーが遷移状態では 0 になる).すると,反応に必要な活性化エネルギーは,反応物の零点エネルギーの分だけ小さくなる.H を D に置き換えると,C–D の伸縮振動は $\omega_{\mathrm D}=\omega_{\mathrm H}\sqrt{\mu_{\mathrm{CH}}/\mu_{\mathrm{CD}}}$ と低くなるので,反応物の零点エネルギーが $\Delta\varepsilon_0=\tfrac12\hbar(\omega_{\mathrm H}-\omega_{\mathrm D})$ だけ低く,活性化エネルギーは $\Delta\varepsilon_0$ だけ大きくなる.頻度因子が同じなら,Arrhenius の式より,反応速度定数(波数 $\tilde{\nu}$,ばね定数 $k_0$,$k_{\mathrm B}$ と区別して $k_{\mathrm r}$ と書く)の比は
\begin{equation} \frac{k_{\mathrm{r,H}}}{k_{\mathrm{r,D}}}\approx\exp\left(\frac{\Delta\varepsilon_0}{k_{\mathrm B}T}\right) \label{eq:19-kie} \end{equation}となる.これを(一次の)速度論的同位体効果(kinetic isotope effect)という.
例題19.9 C–H と C–D の速度論的同位体効果($298\ \mathrm{K}$)
C–H の伸縮の波数を $3000\ \mathrm{cm^{-1}}$ とする.C と D,C と H の原子質量を $12.000\ \mathrm{u}$,$\mathrm{H}=1.00783\ \mathrm{u}$,$\mathrm{D}=2.01410\ \mathrm{u}$ として,(1) C–D の伸縮の波数,(2) 零点エネルギーの差 $\Delta\varepsilon_0$($\mathrm{cm^{-1}}$ と $\mathrm{kJ/mol}$),(3) $298\ \mathrm{K}$ での反応速度定数の比 $k_{\mathrm{r,H}}/k_{\mathrm{r,D}}$ を求めよ.
解答 (1) $\mu(\mathrm{CH})=\dfrac{12.000\times1.00783}{13.00783}=0.92974\ \mathrm{u}$,$\mu(\mathrm{CD})=\dfrac{12.000\times2.01410}{14.01410}=1.72464\ \mathrm{u}$.公式19.2 より $\tilde{\nu}_{\mathrm{CD}}=3000\times\sqrt{\dfrac{0.92974}{1.72464}}=3000\times0.73423=2203\ \mathrm{cm^{-1}}$.
(2) $\Delta\varepsilon_0=\tfrac12(3000-2203)=398.5\ \mathrm{cm^{-1}}$.$\mathrm{kJ/mol}$ に直すと $398.5\times0.011963=4.77\ \mathrm{kJ/mol}$($0.049\ \mathrm{eV}$).
(3) $298\ \mathrm{K}$ で $RT=8.314\times298=2.48\ \mathrm{kJ/mol}$ なので,式 \eqref{eq:19-kie} より
$$ \frac{k_{\mathrm{r,H}}}{k_{\mathrm{r,D}}}=\exp\left(\frac{4.77}{2.48}\right)=e^{1.92}\approx6.8. $$(指数を丸めずに計算すると,$RT=8.3145\times298.15\ \mathrm{J/mol}=2.479\ \mathrm{kJ/mol}$,$\Delta\varepsilon_0=4.769\ \mathrm{kJ/mol}$ から $e^{1.924}=6.85$ となる.丸め方で $6.8$〜$6.9$ の幅があるが,どちらも約 $7$ 倍である.)すなわち,C–H が切れる反応は,C–D が切れる反応の約 $7$ 倍速い.実際に観測される一次の同位体効果は,室温で $2$〜$7$ 程度で,この簡単な見積もり(上限に近い値)とよく合う.(実際の分子では,反応の途中でも結合がある程度振動を保つ,曲げ振動の寄与がある,水素のトンネル効果がある,などで値が変わる.)
応用:重水素で「壊れにくい」材料をつくる
同位体効果は,材料の寿命の改善にも使われている.MOS トランジスタでは,Si と酸化膜の界面の未結合手を水素で終端した Si–H 結合が,高エネルギーの電子(ホットキャリア)で切れて素子が劣化する.この H を D に置き換える(重水素アニール)と,Si–D 結合は切れにくく,寿命が伸びることが報告されている.有機 EL の発光材料でも,分子内の C–H を C–D にして劣化を遅らせる研究が行われている.いずれも,重い同位体ほど零点エネルギーが小さく,結合が切れにくいという,この節の考え方に基づいている.
19.4 運動量表示 — 分子の振動の Fourier 変換
19.4.1 なぜ運動量表示か — 位置と運動量の対称性
分子の振動を表す波動関数 $\psi_n(x)$($x$ は結合の伸び)は,「核間距離がどれだけ伸び縮みしているか」の確率分布を与える.同じ状態を,「伸び縮みの速さ(運動量)はどれだけか」という見方で書き直すのが運動量表示である.振動する分子では,位置の分布の幅 $\Delta x$ と運動量の分布の幅 $\Delta p$ の積が $\hbar/2$ 以上になること(不確定性原理)が,零点エネルギーの正体であった(第13章 13.5節).調和振動子の $\psi_0$,$\psi_1$ の運動量表示を Gauss 積分を複素方向にずらす方法で導く計算は,一般の $n$ の場合まで含めて第13章 13.7 節で行った.この節では,その結果($\phi_0$,$\phi_1$ の式)だけを引用して,分子振動の数値(HCl の $\Delta x$,$\Delta p$)と,位置表示と運動量表示が同じ形になるという対称性に結びつける.
Fourier 変換の規約は,運動量表示の波動関数を $\phi(p)=\dfrac{1}{\sqrt{2\pi\hbar}}\displaystyle\int_{-\infty}^{\infty}\psi(x)\,e^{-ipx/\hbar}\dd x$ と定めるもので(第10章.波数の関数との関係と規格化は,第13章 13.7.1 節にまとめてある),位置の波動関数と同じく $\int\lvert\phi(p)\rvert^2\dd p=1$ と規格化される.以下で使う $k=p/\hbar$ は $2\pi/\lambda$ のほうの波数で,19.2 節の赤外の波数 $\tilde{\nu}$ とは $k=2\pi\tilde{\nu}$ の関係にある.
19.4.2 第13章の結果を使う — $\psi_0$,$\psi_1$ の運動量表示
分子の振動の波動関数は,第13章の $\psi_n$ で質量 $m$ を換算質量 $\mu$ に置き換えたものである:$\psi_0(x)=\left(\dfrac{\mu\omega}{\pi\hbar}\right)^{1/4}e^{-\alpha x^2}$,$\psi_1(x)=\left(\dfrac{\mu\omega}{\pi\hbar}\right)^{1/4}\sqrt{\dfrac{2\mu\omega}{\hbar}}\,x\,e^{-\alpha x^2}$($\alpha=\dfrac{\mu\omega}{2\hbar}$.定理19.3 の $\chi_0$,$\chi_1$ と同じ関数).どちらも Gauss 関数 $e^{-\alpha x^2}$ に,$1$ または $x$ を掛けた形をしている.
その運動量表示の計算(Gauss 関数の Fourier 変換,複素方向にずらした Gauss 積分,符号が $-i$ になること,一般の $n$ の証明)は,第13章 13.7 節が主役なので,ここでは繰り返さない.13.7 節では質量を $m$,指数の係数を $\gamma$ と書いている.ここでは $m\to\mu$,$\gamma\to\alpha$ と読み替えて,結果だけを次にまとめる.
公式19.3 $\psi_0$,$\psi_1$ の運動量表示(第13章 13.7 の結果)
\begin{equation} \phi_0(p)=\frac{1}{(\pi\mu\hbar\omega)^{1/4}}\;e^{-\frac{p^2}{2\mu\hbar\omega}} \label{eq:19-phi0} \end{equation} \begin{equation} \phi_1(p)=-\,i\left(\frac{1}{\pi\mu\hbar\omega}\right)^{1/4}\sqrt{\frac{2}{\mu\hbar\omega}}\;p\,e^{-\frac{p^2}{2\mu\hbar\omega}} \label{eq:19-phi1} \end{equation}一般の $n$ では $\phi_n(p)=(-i)^n\dfrac{1}{\sqrt{\mu\omega}}\psi_n\!\left(\dfrac{p}{\mu\omega}\right)$ である(第13章 定理13.6).
この結果は,運動量表示が位置表示とそっくりな形になることを表している.$\phi_0(p)$ は $\psi_0(x)$ の $x$ を $p/(\mu\omega)$ に置き換えて $1/\sqrt{\mu\omega}$ を掛けた Gauss 関数,$\phi_1(p)$ はそれに位相因子 $-i$ を付けたものである.位相因子 $(-i)^n$ は確率密度 $\lvert\phi_n\rvert^2$ には効かないが,複数の状態を重ね合わせて干渉させるとき(時間変化する波束など)には意味をもつ.この対称性は,調和振動子の Hamilton 演算子 $\hat{H}=\dfrac{\hat{p}^2}{2\mu}+\dfrac12\mu\omega^2\hat{x}^2$ が,$x$ と $p$ について対称な形をしていることによる(図13.8).分子の振動の言葉では,「核間距離の分布」と「核の運動量の分布」が,$x\leftrightarrow p/(\mu\omega)$ の読み替えで同じ関数形をもつ,ということである.$\phi_0$ の規格化と,運動量が古典的な範囲を超える確率は,第13章の例題13.15〜13.17 で扱った.
19.4.3 基底状態の位置と運動量の広がり — HCl の数値
式 \eqref{eq:19-phi0} の確率密度 $\lvert\phi_0(p)\rvert^2$ は $p=0$ を中心とする Gauss 分布で,$\expval{p^2}=\dfrac{\mu\hbar\omega}{2}$,すなわち $\Delta p=\sqrt{\dfrac{\mu\hbar\omega}{2}}$ である.位置の広がり $\Delta x=\sqrt{\dfrac{\hbar}{2\mu\omega}}$ との積が $\Delta x\,\Delta p=\dfrac{\hbar}{2}$ になり,基底状態は不確定性原理の下限を実現している.HCl で具体的な値を求めてみよう.
例題19.10 HCl の基底状態の位置と運動量の広がり
H$^{35}$Cl の基底状態($\tilde{\nu}=2990.95\ \mathrm{cm^{-1}}$,$\mu=1.6267\times10^{-27}\ \mathrm{kg}$)で,(1) $\Delta x$,$\Delta p$,$\Delta x\,\Delta p$ を数値で求めよ.(2) 運動エネルギーの期待値 $\expval{T}=\dfrac{\expval{p^2}}{2\mu}$ が $\dfrac{\hbar\omega}{4}$ に等しいことを確かめよ.
解答 (1) $\omega=2\pi c\tilde{\nu}=5.6338\times10^{14}\ \mathrm{s^{-1}}$,$\hbar=1.05457\times10^{-34}\ \mathrm{J\,s}$ より $x_0=\sqrt{\hbar/(\mu\omega)}=\sqrt{\dfrac{1.05457\times10^{-34}}{1.6267\times10^{-27}\times5.6338\times10^{14}}}=1.0727\times10^{-11}\ \mathrm{m}=10.73\ \mathrm{pm}$.$\Delta x=x_0/\sqrt{2}=7.59\ \mathrm{pm}$.運動量は $\expval{p^2}=\dfrac{\mu\hbar\omega}{2}$ から $\Delta p=\sqrt{\dfrac{\mu\hbar\omega}{2}}=\sqrt{\dfrac{1.6267\times10^{-27}\times1.05457\times10^{-34}\times5.6338\times10^{14}}{2}}=6.95\times10^{-24}\ \mathrm{kg\,m/s}$(波数では $\Delta k=\Delta p/\hbar=66\ \mathrm{nm^{-1}}$).積は $\Delta x\,\Delta p=7.59\times10^{-12}\times6.95\times10^{-24}=5.27\times10^{-35}\ \mathrm{J\,s}=\hbar/2$ で,下限に一致する.
(2) $\expval{T}=\dfrac{(\Delta p)^2}{2\mu}=\dfrac{(6.95\times10^{-24})^2}{2\times1.6267\times10^{-27}}=1.485\times10^{-20}\ \mathrm{J}=0.0927\ \mathrm{eV}$.一方 $\dfrac{\hbar\omega}{4}=\dfrac{0.3708}{4}=0.0927\ \mathrm{eV}$ で,等しい.運動エネルギーは零点エネルギー $\tfrac12\hbar\omega$ の半分で,残りの半分はポテンシャルエネルギー $\expval{V}$ である.なお,$\Delta p/\mu=4.3\times10^3\ \mathrm{m/s}$ は,基底状態の HCl でも,H 原子がこのくらいの($\mathrm{km/s}$ 単位の)速さで動いていることを表す.
応用:水素の運動量分布を「見る」— 中性子 Compton 散乱
結晶や水の中の水素(プロトン)の運動量の分布は,高エネルギーの中性子を散乱させる中性子 Compton 散乱(深非弾性中性子散乱)で直接測ることができる.水素原子は,結合のポテンシャルの谷の中で零点振動しているので,運動量が $0$ ではなく,幅 $\Delta p$ の分布をもつ.調和振動子の基底状態なら,運動量分布は式 \eqref{eq:19-phi0} の Gauss 分布で,その幅(例題19.10 の HCl では $\Delta p\approx7\times10^{-24}\ \mathrm{kg\,m/s}$)は,結合の硬さ $k_0$ と換算質量 $\mu$ で決まる.Gauss 分布からのずれは,ポテンシャルの非調和性(第20章)を反映する.波動関数の運動量表示は,このように実験で測られる量である.
19.5 分子振動と温度 — 量子の「凍結」
19.5.1 準位の間隔と熱エネルギー — Boltzmann 因子
温度 $T$ の気体の分子は,衝突を通して熱エネルギー($k_{\mathrm B}T$ 程度)を受け渡している.振動の準位 $n$ にいる分子の割合は Boltzmann 因子 $e^{-\varepsilon_n/k_{\mathrm B}T}$ に比例するので,準位 $n=1$ と $n=0$ にいる分子の数の比は,準位の間隔 $\hbar\omega$ だけで決まる:
\begin{equation} \frac{N_1}{N_0}=e^{-\hbar\omega/k_{\mathrm B}T}=e^{-\theta_{\mathrm{vib}}/T},\qquad \theta_{\mathrm{vib}}\equiv\frac{\hbar\omega}{k_{\mathrm B}}=\frac{hc\tilde{\nu}}{k_{\mathrm B}} \label{eq:19-boltz} \end{equation}$\theta_{\mathrm{vib}}$ は振動の特性温度(characteristic vibrational temperature.温度の単位をもつ),表19.1 の換算では $\theta_{\mathrm{vib}}=1.4388\ \mathrm{K}\cdot\tilde{\nu}/(\mathrm{cm^{-1}})$ である.$T\ll\theta_{\mathrm{vib}}$ ではほとんどの分子が $n=0$ にいて,振動が「凍結」している.$T\gtrsim\theta_{\mathrm{vib}}$ になってはじめて,高い準位への励起が起こり始める.表19.4 に,いくつかの 2 原子分子の値を示す(波数は調和振動子としての値).
| 分子 | $\tilde{\nu}\ [\mathrm{cm^{-1}}]$ | $\theta_{\mathrm{vib}}\ [\mathrm{K}]$ | $N_1/N_0$($300\ \mathrm{K}$) |
|---|---|---|---|
| $\mathrm{H_2}$ | 4401 | 6332 | $6.8\times10^{-10}$ |
| HCl | 2991 | 4303 | $5.9\times10^{-7}$ |
| $\mathrm{N_2}$ | 2358.6 | 3393 | $1.2\times10^{-5}$ |
| $\mathrm{Cl_2}$ | 559.7 | 805 | $0.068$ |
| $\mathrm{I_2}$ | 214.5 | 309 | $0.36$ |
$N_1/N_0$ は 2 つの準位だけの比である.全分子のうち各準位にいる割合は,$u\equiv\theta_{\mathrm{vib}}/T=\hbar\omega/k_{\mathrm B}T$ とおくと,Boltzmann 因子 $e^{-nu}$(零点エネルギーの因子は分母と分子で消える)を,無限等比級数 $\sum_{m=0}^{\infty}e^{-mu}=\dfrac{1}{1-e^{-u}}$ で割って,$P_n=e^{-nu}\left(1-e^{-u}\right)$ となる.$n=0$ にいる割合は $P_0=1-e^{-\theta_{\mathrm{vib}}/T}$ である.HCl の $300\ \mathrm{K}$ では $P_0=1-5.9\times10^{-7}$ で,ほぼすべての分子が $n=0$ にいる.これが振動の「凍結」の定量的な意味である.$\mathrm{Cl_2}$ では $P_0=1-e^{-2.68}=0.93$ で,約 $7\ \%$ の分子がすでに $n\ge1$ に励起されている.
室温($300\ \mathrm{K}$,$k_{\mathrm B}T=208.5\ \mathrm{cm^{-1}}=25.9\ \mathrm{meV}$)の熱エネルギーは,軽い水素化物や二重・三重結合の分子の振動量子 $\hbar\omega$($2000$〜$4000\ \mathrm{cm^{-1}}$)よりずっと小さいので,これらの分子の振動は室温で凍結している.一方,重い原子でできた $\mathrm{Cl_2}$ や $\mathrm{I_2}$ は,結合がゆるく($k_0$ が小さく),$\mu$ が大きいので,$\hbar\omega$ が小さく,室温で振動がかなり励起されている.「量子が意味をもつかどうか」は,準位の間隔と熱エネルギーの比で決まる.
19.5.2 Einstein 関数 — 振動の比熱
準位が等間隔の調和振動子では,熱平均が厳密に計算できる.$u\equiv\theta_{\mathrm{vib}}/T=\hbar\omega/k_{\mathrm B}T$ とおくと,振動子 1 個の平均エネルギーは,第13章 13.8.3 節で求めたとおり $\langle E\rangle=\hbar\omega\left(\bar{n}+\tfrac12\right)$,$\bar{n}=\dfrac{1}{e^{u}-1}$ である.温度で微分して定積比熱(1 分子の振動 1 自由度あたり)を求める.$\dfrac{\dd u}{\dd T}=-\dfrac{u}{T}$ なので,$\dfrac{\dd\bar{n}}{\dd T}=\dfrac{\dd\bar{n}}{\dd u}\dfrac{\dd u}{\dd T}=\left(-\dfrac{e^u}{(e^u-1)^2}\right)\left(-\dfrac{u}{T}\right)=\dfrac{u\,e^u}{T(e^u-1)^2}$.零点エネルギーは $T$ によらないので,
\begin{equation} C_V=\frac{\dd\langle E\rangle}{\dd T}=\hbar\omega\,\frac{u\,e^{u}}{T(e^{u}-1)^2}=k_{\mathrm B}\,\frac{u^2e^{u}}{(e^{u}-1)^2}\qquad\left(\frac{\hbar\omega}{T}=k_{\mathrm B}u\ \text{を使った}\right) \label{eq:19-einstein} \end{equation}となる.これを Einstein 関数という.極限を調べる.高温($u\ll1$)では $e^u-1\approx u$,$e^u\approx1$ より $C_V\to k_{\mathrm B}$(等分配の法則.運動エネルギーとポテンシャルエネルギーが各 $\tfrac12k_{\mathrm B}T$ ずつ).低温($u\gg1$)では $C_V\approx k_{\mathrm B}u^2e^{-u}\to0$(振動が凍結して,熱エネルギーを蓄えない).
公式19.4 振動の比熱(Einstein 関数)
$$ \frac{C_V}{k_{\mathrm B}}=\frac{u^2e^u}{(e^u-1)^2},\qquad u=\frac{\theta_{\mathrm{vib}}}{T}=\frac{\hbar\omega}{k_{\mathrm B}T} $$$T\gg\theta_{\mathrm{vib}}$ で $C_V\to k_{\mathrm B}$,$T\ll\theta_{\mathrm{vib}}$ で $C_V\to0$.途中の値は,$T=\theta_{\mathrm{vib}}/5$ で約 $0.17\,k_{\mathrm B}$,$\theta_{\mathrm{vib}}/2$ で約 $0.72\,k_{\mathrm B}$,$\theta_{\mathrm{vib}}$ で約 $0.92\,k_{\mathrm B}$,$2\theta_{\mathrm{vib}}$ で約 $0.98\,k_{\mathrm B}$ である.古典的な値に近づくのは $T\gtrsim\theta_{\mathrm{vib}}$ のころである.
例題19.11 窒素と塩素の振動の比熱(室温)
(1) $\mathrm{N_2}$($\tilde{\nu}=2358.57\ \mathrm{cm^{-1}}$)の $\theta_{\mathrm{vib}}$ と,$300\ \mathrm{K}$,$1000\ \mathrm{K}$,$2000\ \mathrm{K}$ での $C_V/k_{\mathrm B}$ を求めよ.(2) $\mathrm{Cl_2}$($\tilde{\nu}=559.7\ \mathrm{cm^{-1}}$)の $300\ \mathrm{K}$ での $N_1/N_0$ と $C_V/k_{\mathrm B}$ を求めよ.(3) 2 原子分子の理想気体の定積モル比熱は,並進の $\tfrac32R$,回転の $R$(AD 03 第51章 51.5節)に,振動の $R\times C_V/k_{\mathrm B}$ が加わる.$300\ \mathrm{K}$ での $\mathrm{N_2}$ と $\mathrm{Cl_2}$ の $C_V$ を求めよ.
解答 (1) 表19.1 の換算より $\theta_{\mathrm{vib}}=1.4388\times2358.57=3393\ \mathrm{K}$.$T=300\ \mathrm{K}$ では $u=3393/300=11.31$,$e^{u}=8.18\times10^{4}$ なので $C_V/k_{\mathrm B}=\dfrac{11.31^2\times8.18\times10^4}{(8.18\times10^4-1)^2}\approx u^2e^{-u}=127.9\times1.22\times10^{-5}=1.6\times10^{-3}$.$1000\ \mathrm{K}$ では $u=3.394$,$e^{u}=29.77$ で $\dfrac{11.52\times29.77}{(28.77)^2}=0.414$.$2000\ \mathrm{K}$ では $u=1.697$,$e^{u}=5.456$ で $\dfrac{2.879\times5.456}{(4.456)^2}=0.791$.
(2) $\theta_{\mathrm{vib}}=1.4388\times559.7=805\ \mathrm{K}$,$u=805/300=2.683$.$N_1/N_0=e^{-2.683}=0.068$.$e^{u}=14.63$ より $C_V/k_{\mathrm B}=\dfrac{2.683^2\times14.63}{(13.63)^2}=\dfrac{7.199\times14.63}{185.8}=0.567$.
(3) $\mathrm{N_2}$:$C_V=\left(\tfrac52+0.0016\right)R=20.80\ \mathrm{J/(mol\,K)}$($R=8.314\ \mathrm{J/(mol\,K)}$).$\mathrm{Cl_2}$:$C_V=\left(\tfrac52+0.567\right)R=3.067\times8.314=25.5\ \mathrm{J/(mol\,K)}$.$\mathrm{N_2}$ は振動が凍結しているので $\tfrac52R$ とほぼ等しい.空気の比熱比が $\gamma=C_p/C_V=(C_V+R)/C_V\approx7/5=1.40$ であるのは,このためである.$\mathrm{Cl_2}$ は室温でも振動が一部励起されているので,$\tfrac52R=20.8$ よりかなり大きく,実測の $C_p\approx34\ \mathrm{J/(mol\,K)}$(すなわち $C_V=C_p-R\approx25.6$)とよく合う.
考察:等分配の法則が破れる —— 古典物理の危機と量子論
古典物理の等分配の法則では,どんな温度でも 2 原子分子は並進・回転・振動のすべての自由度に $\tfrac12k_{\mathrm B}T$ ずつ持つので,定積モル比熱は $\tfrac72R$ になるはずである.ところが,室温の $\mathrm{N_2}$,$\mathrm{O_2}$,$\mathrm{H_2}$ では $\tfrac52R$ しか観測されず,振動の自由度は「消えて」いる.この不一致は 19 世紀から知られていた難問で,エネルギーが $\hbar\omega$ を単位にとびとびであることによってはじめて説明された.Einstein が固体の比熱に同じ考えを使ったのは 1907 年である.熱エネルギー $k_{\mathrm B}T$ が準位の間隔 $\hbar\omega$ より小さいと,振動子に熱エネルギーの単位を渡すことができないので,その自由度は熱に関与しない.
19.5.3 分子から固体へ
ここまでの結果は,そのまま固体にも使える.結晶の中の $N$ 個の原子は $3N$ 個の調和振動子として扱え,Einstein 模型(第13章 13.8.3節)では,そのすべてが同じ振動数をもつと仮定して,式 \eqref{eq:19-einstein} の $C_V$ を $3N$ 倍した比熱を得る.固体の格子振動の振動数は $10^{12}\ \mathrm{Hz}$(THz)の桁で,HCl の振動(約 $90\ \mathrm{THz}$)よりずっと低いので,特性温度は数百 K になり,室温付近で比熱が古典的な値 $3Nk_{\mathrm B}$(Dulong–Petit の法則)に近づく.3 原子以上の分子($\mathrm{CO_2}$,$\mathrm{H_2O}$ など)では,$3N-6$ 個(直線分子は $3N-5$ 個)の基準振動が,それぞれ独立な調和振動子として扱え,各基準振動が固有の $\theta_{\mathrm{vib}}$ をもつ.格子振動を量子化した粒子(フォノン)と,振動数分布まで考える Debye 模型は,AD 03(第53章 53.7節),本書第60章,姉妹編「固体物理学(AD 06)」(目次)で扱われる.分子の力の定数 $k_0$ を第一原理計算で求めて振動数を予測する方法(Hessian の対角化)は,姉妹編「マテリアル計算科学(AD 05)」(目次)につながる.
関連シミュレーター:フォノンと比熱(準位の間隔 $\hbar\omega$ と熱エネルギー $k_{\mathrm B}T$ の関係,比熱の温度変化).
19.6 まとめと演習
19.6.1 まとめ
- 2 体問題の分離:質量 $m_1$,$m_2$ の 2 つの原子の運動は,重心の自由運動と,換算質量 $\mu=\dfrac{m_1m_2}{m_1+m_2}$ の粒子の相対運動(核間距離 $r$)に分離できる.$\mu$ は軽いほうの質量より小さい.HCl では $\mu\approx0.97\,m_{\mathrm H}$ で,ほぼ H だけが動く.
- 調和近似:核間ポテンシャルの谷の底 $r_{\mathrm e}$ のまわりで $V\approx\tfrac12k_0(r-r_{\mathrm e})^2$,$k_0=V''(r_{\mathrm e})$.近似がよいのは低い準位だけで,振幅が大きくなると非調和性が現れる(第20章).
- 準位:$\varepsilon_n=(n+\tfrac12)\hbar\omega$,$\omega=\sqrt{k_0/\mu}$.間隔は等しく $\Delta E=\hbar\omega=h\nu$.波動関数は第13章の $\psi_n$ で $m\to\mu$ とおいたもの.
- 波数とばね定数:$\tilde{\nu}=1/\lambda\ [\mathrm{cm^{-1}}]$,$\hbar\omega=hc\tilde{\nu}$,$k_0=(2\pi c\tilde{\nu})^2\mu$.HCl で約 $516\ \mathrm{N/m}$,CO で約 $1900\ \mathrm{N/m}$(三重結合).結合が硬いほど,原子が軽いほど,波数は高い.
- 赤外吸収:調和近似では $\Delta n=\pm1$(選択則),吸収線は 1 本.振動で双極子モーメントが変化する分子だけが赤外活性(HCl,CO は活性,$\mathrm{H_2}$,$\mathrm{N_2}$,$\mathrm{O_2}$ は不活性).実際の吸収帯は非調和性のために,調和振動子の波数より少し低い.
- 同位体効果:ポテンシャルは同位体で変わらず,$\mu$ だけが変わるので $\tilde{\nu}'/\tilde{\nu}=\sqrt{\mu/\mu'}$.H→D で約 $1/\sqrt{2}$ 倍($\mathrm{H_2}\to\mathrm{D_2}$:$4401\to3113\ \mathrm{cm^{-1}}$).零点エネルギーの差のために,$D_0=D_{\mathrm e}-\tfrac12\hbar\omega$ は重い同位体ほど大きく($\mathrm{D_2}$ が $\mathrm{H_2}$ より約 $0.08\ \mathrm{eV}$),C–H は C–D より約 $7$ 倍速く切れる(速度論的同位体効果,$6.8$〜$6.9$).
- 運動量表示(導出は第13章 13.7):$\displaystyle\int e^{-\alpha x^2}e^{-ikx}\dd x=\sqrt{\pi/\alpha}\,e^{-k^2/4\alpha}$.$\phi_0(p)=(\pi\mu\hbar\omega)^{-1/4}e^{-p^2/2\mu\hbar\omega}$,$\phi_1$ は $-i$ の位相をもち,一般に $\phi_n=(-i)^n\psi_n$ の形.基底状態は $\Delta x\,\Delta p=\hbar/2$ を実現する(HCl で $\Delta x=7.6\ \mathrm{pm}$,$\Delta p=7.0\times10^{-24}\ \mathrm{kg\,m/s}$).
- 温度:振動の特性温度 $\theta_{\mathrm{vib}}=\hbar\omega/k_{\mathrm B}$,$N_1/N_0=e^{-\theta_{\mathrm{vib}}/T}$.HCl,$\mathrm{N_2}$ では室温で振動は凍結.振動の比熱は Einstein 関数 $C_V/k_{\mathrm B}=u^2e^u/(e^u-1)^2$($u=\theta_{\mathrm{vib}}/T$)で,$T\gg\theta_{\mathrm{vib}}$ で $k_{\mathrm B}$,$T\ll\theta_{\mathrm{vib}}$ で $0$.
19.6.2 演習問題
演習19.1 HF と HBr の振動の周期と波長
表19.2 の HF($\tilde{\nu}=4140\ \mathrm{cm^{-1}}$,$\mu=1.589\times10^{-27}\ \mathrm{kg}$)と HBr($\tilde{\nu}=2650\ \mathrm{cm^{-1}}$,$\mu=1.652\times10^{-27}\ \mathrm{kg}$)について,振動数,周期,対応する光の波長,$\hbar\omega$($\mathrm{eV}$),ばね定数 $k_0$ を求めよ.
ヒント:$\nu=c\tilde{\nu}$($\tilde{\nu}$ を $\mathrm{m^{-1}}$ に直す),$T=1/\nu$,$\lambda=1/\tilde{\nu}$,$\hbar\omega=hc\tilde{\nu}=1.2398\times10^{-4}\ \mathrm{eV\,cm}\times\tilde{\nu}$,$k_0=\mu(2\pi\nu)^2$.
演習19.2 CO の結合を伸ばす
CO のばね定数を $k_0=1902\ \mathrm{N/m}$,波数を $\tilde{\nu}=2170\ \mathrm{cm^{-1}}$,換算質量を $\mu=1.1385\times10^{-26}\ \mathrm{kg}$ とする.(1) 結合を $0.01\ \mathrm{nm}$($=10\ \mathrm{pm}$)伸ばすのに必要な力,そのときのポテンシャルエネルギー $\tfrac12k_0x^2$($\mathrm{eV}$)を求めよ.(2) これを $\hbar\omega$ と比べ,$x_0=\sqrt{\hbar/\mu\omega}$ と比べて,この伸びに対して調和近似が使えるか,考えよ.
ヒント:$F=k_0x$.$x_0$ は,第13章の例題13.3 と同じ計算.
演習19.3 トリチウムを含む水素分子の振動数
三重水素(トリチウム)T の質量を $3.01605\ \mathrm{u}$ とする.$\mathrm{H_2}$ の波数 $4401\ \mathrm{cm^{-1}}$ から,HT,DT,$\mathrm{T_2}$ の波数を予言せよ.(H の質量は $1.00783\ \mathrm{u}$,D の質量は $2.01410\ \mathrm{u}$.)
ヒント:公式19.2.換算質量を $\mathrm{u}$ で求め,比だけを使えばよい.
演習19.4 $\phi_1(p)$ の規格化と $\psi_1$ の運動量のゆらぎ
式 \eqref{eq:19-phi1} の $\phi_1(p)$ が $\displaystyle\int\lvert\phi_1\rvert^2\dd p=1$ を満たすことを Gauss 積分で確かめよ.また,$\phi_1(p)$ を使って $\expval{p^2}$ を求め,$\expval{T}=\dfrac{3}{4}\hbar\omega$ を確かめよ.
ヒント:$\gamma=\mu\hbar\omega$ とおくと $\lvert\phi_1\rvert^2=\dfrac{1}{\sqrt{\pi\gamma}}\dfrac{2}{\gamma}\,p^2e^{-p^2/\gamma}$.$\displaystyle\int_{-\infty}^{\infty}p^2e^{-p^2/\gamma}\dd p=\dfrac{\gamma}{2}\sqrt{\pi\gamma}$,$\displaystyle\int_{-\infty}^{\infty}p^4e^{-p^2/\gamma}\dd p=\dfrac{3}{4}\gamma^2\sqrt{\pi\gamma}$.
演習19.5 位置表示と運動量表示の両方で $\Delta x\,\Delta p$ を求める
$\psi_1$ について,$\expval{x^2}$ を位置表示($\psi_1(x)$)で,$\expval{p^2}$ を運動量表示($\phi_1(p)$)で計算し,$\Delta x\,\Delta p=\dfrac{3}{2}\hbar$ となることを示せ.$\expval{x}=\expval{p}=0$ を使ってよい.
ヒント:$a=\mu\omega/\hbar$ とおくと,$\psi_1$ の係数の 2 乗は $\left(\dfrac{\mu\omega}{\pi\hbar}\right)^{1/2}\dfrac{2\mu\omega}{\hbar}=\sqrt{\dfrac{a}{\pi}}\cdot2a$ で,$\lvert\psi_1\rvert^2=\sqrt{\dfrac{a}{\pi}}\cdot2a\,x^2e^{-ax^2}$.積分は $\displaystyle\int_{-\infty}^{\infty}x^4e^{-ax^2}\dd x=\dfrac{3}{4a^2}\sqrt{\dfrac{\pi}{a}}$.運動量表示の $\lvert\phi_1\rvert^2$ は,$\lvert\psi_1\rvert^2$ で $x\to p/\mu\omega$ とし,$1/\mu\omega$ を掛けたもの(演習19.4 の結果を使ってもよい).
演習19.6 窒素の振動の比熱
$\mathrm{N_2}$($\tilde{\nu}=2358.57\ \mathrm{cm^{-1}}$)の $\theta_{\mathrm{vib}}$ を求め,$300\ \mathrm{K}$,$1000\ \mathrm{K}$,$2000\ \mathrm{K}$ での振動の比熱 $C_V/k_{\mathrm B}$ と,定積モル比熱の合計(並進・回転・振動)を求めよ.
ヒント:公式19.4.並進 $\tfrac32R$,回転 $R$,$R=8.314\ \mathrm{J/(mol\,K)}$.
演習19.7 HD の解離エネルギーの予言
$\mathrm{H_2}$ の解離エネルギー $D_0(\mathrm{H_2})=4.478\ \mathrm{eV}$,調和振動子としての波数 $\tilde{\nu}(\mathrm{H_2})=4401\ \mathrm{cm^{-1}}$ から,谷の深さ $D_{\mathrm e}$ を求めよ.HD の波数を公式19.2 で予言し($\mu(\mathrm{H_2})=0.50392\ \mathrm{u}$,$\mu(\mathrm{HD})=0.67171\ \mathrm{u}$),$D_0(\mathrm{HD})$ を見積もれ.
ヒント:$D_0=D_{\mathrm e}-\tfrac12hc\tilde{\nu}$,$D_{\mathrm e}$ は同位体によらない.
演習19.8 CO の振動の量と熱励起
$\tilde{\nu}=2170\ \mathrm{cm^{-1}}$ の CO について,$\hbar\omega$($\mathrm{eV}$),振動の周期,対応する波長,特性温度 $\theta_{\mathrm{vib}}$,$300\ \mathrm{K}$ での $N_1/N_0$ を求めよ.
ヒント:表19.1 の換算,式 \eqref{eq:19-boltz}.
19.6.3 参考文献
- 望月泰英『物理学ノート 量子力学2』(手書き講義ノート).本章の底本.
- G. Herzberg, Molecular Spectra and Molecular Structure I: Spectra of Diatomic Molecules, 2nd ed., Van Nostrand (1950).
- K. P. Huber and G. Herzberg, Molecular Spectra and Molecular Structure IV: Constants of Diatomic Molecules, Van Nostrand Reinhold (1979).
- P. Atkins and J. de Paula, Atkins' Physical Chemistry, 11th ed., Oxford University Press (2018).
- J. M. Hollas, Modern Spectroscopy, 4th ed., Wiley (2004).
- D. J. Griffiths and D. F. Schroeter, Introduction to Quantum Mechanics, 3rd ed., Cambridge University Press (2018).
- J. J. Sakurai and J. Napolitano, Modern Quantum Mechanics, 3rd ed., Cambridge University Press (2020).
- 小出昭一郎『量子力学(I)』裳華房.
- A. Einstein, Ann. Phys. 22, 180 (1907)(固体の比熱の量子論).
- H. C. Urey, F. G. Brickwedde and G. M. Murphy, Phys. Rev. 39, 164 (1932)(重水素の発見).
- F. H. Westheimer, Chem. Rev. 61, 265 (1961)(水素と重水素の速度論的同位体効果).