第10章群論の応用 — 結晶場分裂・選択則・分子振動
第6章から第9章までで,群・表現・指標・射影演算子という道具を一式そろえた.道具はそろったが,まだ「道具の使い方の練習」しかしていない.本章は,その道具を実際の物理そのものに向ける章である.
扱うのは三つの問題である.ひとつめは結晶場分裂(crystal field splitting).遷移金属イオンの5重に縮退した $d$ 軌道が,まわりを取り囲む配位子の対称性によってどう分かれるか.これを,指標を数値で全部求め,既約分解の公式に代入するという手順で,途中の割り算まで含めて完全に計算する.得られる $\Gamma_d = E_g \oplus T_{2g}$ という一行が,遷移金属化合物の磁性・色・構造のほとんどすべての出発点になる.
ふたつめは選択則(selection rule).量子力学では,遷移確率は $\int \psi_f^* \hat{O}\psi_i\,\dd\tau$ という積分で決まる.この積分が計算するまでもなくゼロになる条件が,群論だけで決まってしまう.鍵になるのは「恒等表現を含まない関数の全空間積分は必ずゼロ」という,たった一つの補題である.そこから Laporte 則が出て,「$d\to d$ 遷移は禁制なのに,なぜ遷移金属錯体には色があるのか」という問いに答えられるようになる.
みっつめは分子振動(molecular vibration).$N$ 原子分子の $3N$ 個の自由度から並進3個と回転3個を引いた $3N-6$ 個の振動モードが,どの既約表現に属するかを機械的に求める.これができると,赤外吸収スペクトルと Raman スペクトルに何本の線が出るかが,分子を見ただけで予言できる.$\mathrm{H_2O}$ と $\mathrm{CH_4}$ を,指標の計算から最後まで手で追う.
- 角運動量 $\ell$ の $(2\ell+1)$ 次元表現の指標公式 $\chi^{(\ell)}(\alpha)=\dfrac{\sin[(\ell+\frac12)\alpha]}{\sin(\alpha/2)}$ の導出
- $O_h$ 場での $\Gamma_{d} = E_g \oplus T_{2g}$ の完全計算と,$t_{2g}$ が下・$e_g$ が上になる理由
- 四面体場 $T_d$ での $\Gamma_d = E \oplus T_2$,順序の逆転,$\Delta_t \simeq \frac49\Delta_o$
- 対称性の低下と相関図:$O_h \to D_{4h}$,Jahn–Teller 効果($\mathrm{Cu^{2+}}$, $\mathrm{Mn^{3+}}$)
- 直積表現 $\chi^{(i\otimes j)}(R)=\chi^{(i)}(R)\chi^{(j)}(R)$ の証明
- 「積分が消えない条件は $\Gamma_f^*\otimes\Gamma_O\otimes\Gamma_i$ が恒等表現を含むこと」の丁寧な導出
- 電気双極子遷移と Laporte 則,振電相互作用による強度の借用
- $3N$ 次元変位表現の指標 $\chi_{3N}(R) = N_R\,(\pm1+2\cos\alpha)$ の導出
- $\mathrm{H_2O}$($C_{2v}$)と $\mathrm{CH_4}$($T_d$)の $\Gamma_{vib}$ を白紙から求める
- 赤外活性・Raman活性の判定と,中心対称性がある場合の相互排除則($\mathrm{CO_2}$)
10.1 八面体結晶場での $d$ 軌道分裂 — 完全計算
10.1.1 問題の設定
遷移金属イオン($\mathrm{Ti^{3+}}, \mathrm{Cr^{3+}}, \mathrm{Fe^{2+}}, \mathrm{Cu^{2+}}, \dots$)を1個,真空中に孤立させて置く.このとき $d$ 軌道は5重に縮退している.$d_{xy}, d_{yz}, d_{zx}, d_{x^2-y^2}, d_{z^2}$ の5つは,どれもまったく同じエネルギーを持つ.
なぜ5重縮退なのか.孤立イオンのハミルトニアンは球対称で,その対称群は,回転だけでなく反転も含む3次元直交群 $O(3)$ である(回転だけを取り出した部分群が,いわゆる3次元回転群 $SO(3)$ である).$SO(3)$ の既約表現は角運動量量子数 $\ell$ でラベルされ,その次元は $2\ell+1$ である.$O(3)$ ではこれにパリティ $(-1)^\ell$ の区別が加わるが,次元は $2\ell+1$ のまま変わらない.$d$ 軌道は $\ell=2$ だから $2\times2+1=5$ 次元.これが縮退度の正体である.
ここでイオンのまわりに,6個の配位子($\mathrm{O^{2-}}$ や $\mathrm{H_2O}$ や $\mathrm{Cl^-}$)を,$\pm x, \pm y, \pm z$ の6方向に等距離で置く.正八面体配位(octahedral coordination)である.
物理的意味:何が起きたのか
配位子を置いた瞬間,系のハミルトニアンの対称性は $O(3)$ から $O_h$(位数48,第4章の $m\bar{3}m$)へと下がった.
対称性が下がると,$O(3)$ では既約だった5次元表現が,$O_h$ から見ると可約になりうる.可約になれば,それは「もはや5重縮退している必然性がない」ことを意味する.既約成分ごとに別のエネルギーを持ってよくなる.これが結晶場分裂である.
逆に言えば,群論が答えるのは「どう分かれるか(縮退度と対称性)」だけであって,「どちらが上か,いくら離れるか」は答えない.後者には実際のポテンシャルの計算が要る.しかし前者だけでも,驚くほど多くのことが決まってしまう.
やるべきこと(手順)
- $\ell=2$ の5次元表現を,$O_h$ の各類ごとに指標として書き下す.
- その指標を,$O_h$ の既約表現の指標と突き合わせ,第8章の既約分解の公式に代入する.
- 各既約表現が何回現れるか($a_n$)を求める.
10.1.2 角運動量 $\ell$ の表現の指標
まず,回転角 $\alpha$ の回転操作に対して,$(2\ell+1)$ 次元の $\ell$ 表現の指標がどうなるかを求める.これがこの節の技術的な核心である.
導出:$\chi^{(\ell)}(\alpha)$ の公式
指標は類関数であり,共役な操作は同じ指標を与える(第8章).回転軸の向きが違うだけの回転どうしは共役だから,回転軸を $z$ 軸に取って計算してよい.これが計算を劇的に楽にする.
$\ell$ 表現の基底は球面調和関数 $Y_\ell^m(\theta,\phi)$($m=-\ell,\dots,+\ell$)である.$Y_\ell^m$ の $\phi$ 依存性は $e^{im\phi}$ の形をしている:
$$ Y_\ell^m(\theta,\phi) = \Theta_{\ell m}(\theta)\, e^{im\phi} $$$z$ 軸まわりに角 $\alpha$ だけ座標系を回す操作 $\hat{P}_R$ は,関数の引数を $\phi \to \phi-\alpha$ と置き換える.したがって
$$ \hat{P}_R\, Y_\ell^m = \Theta_{\ell m}(\theta)\, e^{im(\phi-\alpha)} = e^{-im\alpha}\, Y_\ell^m $$つまり $z$ 軸回転の表現行列は,基底 $\{Y_\ell^{-\ell},\dots,Y_\ell^{\ell}\}$ で対角であり,対角成分は $e^{-im\alpha}$ である.指標はその和:
$$ \chi^{(\ell)}(\alpha) = \sum_{m=-\ell}^{\ell} e^{-im\alpha} $$$m$ は $-\ell$ から $+\ell$ まで対称に走るので,$-m$ を $m$ と読み替えても和は変わらない.よって
$$ \chi^{(\ell)}(\alpha) = \sum_{m=-\ell}^{\ell} e^{im\alpha} $$これは公比 $x \equiv e^{i\alpha}$ の等比数列の和である.項数は $2\ell+1$,初項は $x^{-\ell}$ だから
$$ \chi^{(\ell)} = x^{-\ell}\,\frac{x^{2\ell+1}-1}{x-1} = \frac{x^{\ell+1} - x^{-\ell}}{x-1} $$ここで分母・分子の両方に $x^{-1/2}$ を掛ける(これが計算のコツである):
$$ \chi^{(\ell)} = \frac{x^{\ell+1/2} - x^{-\ell-1/2}}{x^{1/2}-x^{-1/2}} $$$x^{1/2}=e^{i\alpha/2}$ を代入し,$e^{i\theta}-e^{-i\theta}=2i\sin\theta$ を使うと
∎ $\ell=2$ なら $\ell+\frac12 = \frac52$ だから
補足:$\alpha\to0$ の極限と,$\ell=1$ での検算
$\alpha\to0$ では分母も分子も0になるので,$\sin\theta \simeq \theta$ を使って
$$ \lim_{\alpha\to0}\chi^{(\ell)}(\alpha) = \lim_{\alpha\to0}\frac{(\ell+\frac12)\alpha}{\alpha/2} = 2\ell+1 $$恒等操作 $E$ の指標が表現の次元 $2\ell+1$ に等しい.正しい.
$\ell=1$ で式 \eqref{eq:10-chi-ell} を展開してみる.$\sin(3\theta)=3\sin\theta-4\sin^3\theta$ を $\theta=\alpha/2$ で使うと
$$ \chi^{(1)}(\alpha)=\frac{3\sin(\alpha/2)-4\sin^3(\alpha/2)}{\sin(\alpha/2)} = 3-4\sin^2\frac{\alpha}{2} = 3 - 2(1-\cos\alpha) = 1+2\cos\alpha $$これは第4章の式(回転行列のトレース $\Tr C_n = 1+2\cos(2\pi/n)$)とぴたり一致する.$\ell=1$ の3次元表現とは,まさに $(x,y,z)$ が張るベクトル表現のことだからである.第4章で計算したトレースが,いま一般公式の特別な場合として再登場した.
導出:非真回転($i$, $\sigma$, $S_n$)の指標
$O_h$ には行列式 $-1$ の操作(非真回転)も含まれる.これらの指標も必要である.
まず反転 $i$ を考える.極座標では $\rr\to-\rr$ は $(r,\theta,\phi)\to(r,\pi-\theta,\phi+\pi)$ に対応し,球面調和関数のパリティは
$$ \hat{P}_i\, Y_\ell^m = (-1)^\ell\, Y_\ell^m $$である.つまり反転の表現行列は $(-1)^\ell$ 倍の単位行列で,指標は
$$ \chi^{(\ell)}(i) = (-1)^\ell (2\ell+1) $$一般の非真回転は,必ず「反転 × ある回転」の形に書ける.実際,第4章で見たように $\sigma_h = i\,C_2$ であり,$S_n = \sigma_h C_n = i\,C_2 C_n$ である.そこで非真操作を $i\,C(\alpha)$ と書けば,$i$ の表現行列はスカラー $(-1)^\ell$ なので,行列の積の指標は
∎ $\ell=2$ は偶数なので $(-1)^\ell=+1$.つまり $d$ 軌道は非真回転に対しても,対応する回転と同じ指標を持つ.$d$ 軌道が必ず $g$(gerade,偶)の既約表現に分解される理由が,ここにある.
注意:$S_4$ や $S_6$ を $iC(\alpha)$ に書き直すときの角度
ここが計算でいちばん間違えやすい.$S_4$ を「反転 × 90°回転」と早合点してはいけない.正しくは
$$ S_4 = \sigma_h C_4 = (i\,C_2)\,C_4 = i\,(C_4^2 C_4) = i\,C_4^{3} $$すなわち $S_4 = i\,C(\alpha)$ で $\alpha = 270°$($=-90°$)である.同様に
$$ S_6 = \sigma_h C_6 = i\,C_2C_6 = i\,C_6^{3}C_6 = i\,C_6^{4} = i\,C(240°) $$ $$ \sigma_h = i\,C_2 = i\,C(180°), \qquad i = i\,C(0°) $$この対応表を作ってから式 \eqref{eq:10-chi-improper} に代入すること.
10.1.3 $O_h$ の10個の類について指標を数値で全部求める
$O_h$ の類は10個である(第8章).標準的な指標表の並び順に従って,$E,\ 8C_3,\ 6C_2,\ 6C_4,\ 3C_2,\ i,\ 6S_4,\ 8S_6,\ 3\sigma_h,\ 6\sigma_d$ とする.ここで $6C_2$ は $\langle110\rangle$ 方向の6本の2回軸(第4章では $6C_2'$ と書いた),$3C_2$ は $\langle100\rangle$ 方向の2回軸($=C_4^2$)である.なお第8章の表8.7 とは列の並び順が異なり($3C_2$ と $\langle110\rangle$ の2回軸の位置,および $6S_4,\ 8S_6,\ 3\sigma_h$ の順序が入れ替わっている),$\langle110\rangle$ 軸の呼び方も $6C_2'$ と $6C_2$ で違う.どちらも標準的な流儀なので,二つの表を突き合わせて読むときは列の見出しを一つずつ確かめるとよい.
例題10.1 $\ell=2$ の指標を10類すべてについて計算する
解答.式 \eqref{eq:10-chi-d} と \eqref{eq:10-chi-improper} に,対応する $\alpha$ を一つずつ代入する.
(1) $E$:$\alpha=0$.極限をとって $\chi = 2\ell+1 = \boldsymbol{5}$.
(2) $8C_3$:$\alpha = 120°$.分子は $\sin(5\times120°/2)=\sin300°$,分母は $\sin60°$.
$$ \chi = \frac{\sin 300^\circ}{\sin 60^\circ} = \frac{-\sqrt{3}/2}{\sqrt{3}/2} = \boldsymbol{-1} $$(3) $6C_2$:$\alpha=180°$.分子は $\sin(5\times90°)=\sin450°=\sin90°=1$,分母は $\sin90°=1$.
$$ \chi = \frac{1}{1} = \boldsymbol{1} $$(4) $6C_4$:$\alpha=90°$.分子は $\sin(5\times45°)=\sin225°=-\frac{\sqrt2}{2}$,分母は $\sin45°=\frac{\sqrt2}{2}$.
$$ \chi = \frac{-\sqrt2/2}{\sqrt2/2} = \boldsymbol{-1} $$(5) $3C_2$:これも $\alpha=180°$ なので (3) と同じく $\boldsymbol{1}$.
(6) $i$:$(-1)^2(2\cdot2+1) = \boldsymbol{5}$.
(7) $6S_4$:$S_4 = i\,C(270°)$ だったので $\alpha=270°$.分子は $\sin(5\times135°)=\sin675°$.$675°-360°=315°$ だから $\sin675°=\sin315°=-\frac{\sqrt2}{2}$.分母は $\sin135°=\frac{\sqrt2}{2}$.$(-1)^\ell=+1$ を掛けて
$$ \chi = (+1)\cdot\frac{-\sqrt2/2}{\sqrt2/2} = \boldsymbol{-1} $$(8) $8S_6$:$S_6 = i\,C(240°)$ なので $\alpha=240°$.分子は $\sin(5\times120°)=\sin600°$.$600°-360°=240°$ だから $\sin600°=\sin240°=-\frac{\sqrt3}{2}$.分母は $\sin120°=\frac{\sqrt3}{2}$.
$$ \chi = (+1)\cdot\frac{-\sqrt3/2}{\sqrt3/2} = \boldsymbol{-1} $$(9) $3\sigma_h$:$\sigma_h = i\,C(180°)$.(3) と同じ計算で $\chi = (+1)\cdot 1 = \boldsymbol{1}$.
(10) $6\sigma_d$:$\sigma_d$ も鏡映だから $i\,C(180°)$ の形.よって $\boldsymbol{1}$.
まとめると
∎ この10個の数が,これから既約分解にかける「材料」である.
| $O_h$ | $E$ | $8C_3$ | $6C_2$ | $6C_4$ | $3C_2$ | $i$ | $6S_4$ | $8S_6$ | $3\sigma_h$ | $6\sigma_d$ | 基底の例 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| $A_{1g}$ | 1 | 1 | 1 | 1 | 1 | 1 | 1 | 1 | 1 | 1 | $x^2+y^2+z^2$ |
| $A_{2g}$ | 1 | 1 | $-1$ | $-1$ | 1 | 1 | $-1$ | 1 | 1 | $-1$ | — |
| $E_g$ | 2 | $-1$ | 0 | 0 | 2 | 2 | 0 | $-1$ | 2 | 0 | $(2z^2-x^2-y^2,\ x^2-y^2)$ |
| $T_{1g}$ | 3 | 0 | $-1$ | 1 | $-1$ | 3 | 1 | 0 | $-1$ | $-1$ | $(R_x,R_y,R_z)$ |
| $T_{2g}$ | 3 | 0 | 1 | $-1$ | $-1$ | 3 | $-1$ | 0 | $-1$ | 1 | $(xy,\ yz,\ zx)$ |
| $A_{1u}$ | 1 | 1 | 1 | 1 | 1 | $-1$ | $-1$ | $-1$ | $-1$ | $-1$ | — |
| $A_{2u}$ | 1 | 1 | $-1$ | $-1$ | 1 | $-1$ | 1 | $-1$ | $-1$ | 1 | $xyz$ |
| $E_u$ | 2 | $-1$ | 0 | 0 | 2 | $-2$ | 0 | 1 | $-2$ | 0 | — |
| $T_{1u}$ | 3 | 0 | $-1$ | 1 | $-1$ | $-3$ | $-1$ | 0 | 1 | 1 | $(x,\ y,\ z)$ |
| $T_{2u}$ | 3 | 0 | 1 | $-1$ | $-1$ | $-3$ | 1 | 0 | 1 | $-1$ | — |
| $\Gamma_d$ | 5 | $-1$ | 1 | $-1$ | 1 | 5 | $-1$ | $-1$ | 1 | 1 | $d$ 軌道5個 |
10.1.4 既約分解 — 割り算の中身を全部書く
第8章で導いた既約分解の公式を思い出す.可約表現 $\Gamma$ の中に既約表現 $\Gamma_n$ が何回含まれるかは
で与えられる.$h$ は群の位数($O_h$ では48),$N_{\mathcal{C}}$ は類 $\mathcal{C}$ に属する操作の個数である.$O_h$ の $N_{\mathcal{C}}$ は順に $(1,\,8,\,6,\,6,\,3,\,1,\,6,\,8,\,3,\,6)$ で,合計すると
$$ 1+8+6+6+3+1+6+8+3+6 = 48 = h \quad\checkmark $$例題10.2 $\Gamma_d$ を $O_h$ の既約表現に分解する
解答.式 \eqref{eq:10-reduction} に,表10.1 の数値を機械的に代入していく.すべて実数なので複素共役は無視してよい.
(a) $a(A_{1g})$.$A_{1g}$ の指標はすべて1だから,$N_{\mathcal C}\times\chi_d$ をそのまま足せばよい:
$$ a(A_{1g}) = \frac{1}{48}\bigl[\underbrace{1\cdot 5}_{E} + \underbrace{8\cdot(-1)}_{8C_3} + \underbrace{6\cdot 1}_{6C_2} + \underbrace{6\cdot(-1)}_{6C_4} + \underbrace{3\cdot 1}_{3C_2} + \underbrace{1\cdot 5}_{i} + \underbrace{6\cdot(-1)}_{6S_4} + \underbrace{8\cdot(-1)}_{8S_6} + \underbrace{3\cdot 1}_{3\sigma_h} + \underbrace{6\cdot 1}_{6\sigma_d}\bigr] $$中身を左から順に足していく:$5-8=-3$,$-3+6=3$,$3-6=-3$,$-3+3=0$,$0+5=5$,$5-6=-1$,$-1-8=-9$,$-9+3=-6$,$-6+6=0$.よって
$$ a(A_{1g}) = \frac{0}{48} = 0 $$(b) $a(A_{2g})$.$\chi^{A_{2g}}=(1,1,-1,-1,1,1,-1,1,1,-1)$.三つの数($N_{\mathcal C}$,$\chi^{A_{2g}}$,$\chi_d$)の積を並べる:
$$ 1\cdot1\cdot5 = 5,\quad 8\cdot1\cdot(-1)=-8,\quad 6\cdot(-1)\cdot1=-6,\quad 6\cdot(-1)\cdot(-1)=6,\quad 3\cdot1\cdot1=3 $$ $$ 1\cdot1\cdot5=5,\quad 6\cdot(-1)\cdot(-1)=6,\quad 8\cdot1\cdot(-1)=-8,\quad 3\cdot1\cdot1=3,\quad 6\cdot(-1)\cdot1=-6 $$合計は $5-8-6+6+3+5+6-8+3-6 = 0$.よって $a(A_{2g}) = 0/48 = 0$.
(c) $a(E_g)$.$\chi^{E_g}=(2,-1,0,0,2,2,0,-1,2,0)$.ゼロの項が多くて楽である:
$$ 1\cdot2\cdot5=10,\quad 8\cdot(-1)\cdot(-1)=8,\quad 6\cdot0\cdot1=0,\quad 6\cdot0\cdot(-1)=0,\quad 3\cdot2\cdot1=6 $$ $$ 1\cdot2\cdot5=10,\quad 6\cdot0\cdot(-1)=0,\quad 8\cdot(-1)\cdot(-1)=8,\quad 3\cdot2\cdot1=6,\quad 6\cdot0\cdot1=0 $$合計 $10+8+0+0+6+10+0+8+6+0 = 48$.よって
$$ a(E_g) = \frac{48}{48} = \boldsymbol{1} $$(d) $a(T_{1g})$.$\chi^{T_{1g}}=(3,0,-1,1,-1,3,1,0,-1,-1)$:
$$ 1\cdot3\cdot5=15,\quad 8\cdot0\cdot(-1)=0,\quad 6\cdot(-1)\cdot1=-6,\quad 6\cdot1\cdot(-1)=-6,\quad 3\cdot(-1)\cdot1=-3 $$ $$ 1\cdot3\cdot5=15,\quad 6\cdot1\cdot(-1)=-6,\quad 8\cdot0\cdot(-1)=0,\quad 3\cdot(-1)\cdot1=-3,\quad 6\cdot(-1)\cdot1=-6 $$合計 $15+0-6-6-3+15-6+0-3-6 = 0$.よって $a(T_{1g})=0$.
(e) $a(T_{2g})$.$\chi^{T_{2g}}=(3,0,1,-1,-1,3,-1,0,-1,1)$:
$$ 1\cdot3\cdot5=15,\quad 8\cdot0\cdot(-1)=0,\quad 6\cdot1\cdot1=6,\quad 6\cdot(-1)\cdot(-1)=6,\quad 3\cdot(-1)\cdot1=-3 $$ $$ 1\cdot3\cdot5=15,\quad 6\cdot(-1)\cdot(-1)=6,\quad 8\cdot0\cdot(-1)=0,\quad 3\cdot(-1)\cdot1=-3,\quad 6\cdot1\cdot1=6 $$合計を順に足すと $15,\,15,\,21,\,27,\,24,\,39,\,45,\,45,\,42,\,48$.よって
$$ a(T_{2g}) = \frac{48}{48} = \boldsymbol{1} $$(f) $u$ 型($A_{1u},A_{2u},E_u,T_{1u},T_{2u}$)はすべて0.いちいち計算しなくてよい.$O_h$ の48個の操作は,$O$ の24個 $\{R\}$ と,それに反転を掛けた24個 $\{iR\}$ に分かれる.$u$ 型の既約表現は定義から $\chi^{u}(iR) = -\chi^{u}(R)$ を満たす.一方 $\Gamma_d$ は $(-1)^\ell=+1$ より $\chi_d(iR)=\chi_d(R)$ である.したがって
$$ \sum_{R\in O_h}\chi^{u}\chi_d = \sum_{R\in O}\chi^{u}(R)\chi_d(R) + \sum_{R\in O}\underbrace{\chi^{u}(iR)}_{-\chi^u(R)}\underbrace{\chi_d(iR)}_{\chi_d(R)} = 0 $$後半が前半をちょうど打ち消す.∎
結論.
次元の検算:$\dim E_g + \dim T_{2g} = 2+3 = 5 = \dim\Gamma_d$ ✓ 5重縮退が,2重縮退と3重縮退に割れたのである.
記法:大文字 $E_g,T_{2g}$ と小文字 $e_g,t_{2g}$
群論の既約表現そのものを指すときは大文字($E_g$, $T_{2g}$),それを1電子軌道のラベルとして使うときは小文字($e_g$, $t_{2g}$)を使うのが化学・物性物理の慣習である.「$t_{2g}$ 軌道に3個の電子が入っている」「電子配置は $t_{2g}^3 e_g^1$」のように書く.多電子状態の項記号には大文字を使う($^5E_g$ など).
なお $E_g$ の $E$(既約表現名)と,恒等操作 $E$,エネルギー $E$ はまったく別物である.文脈で区別するしかない.
10.1.5 どちらが上か — 群論が答えない部分
式 \eqref{eq:10-d-split-oh} は「2重と3重に割れる」ことしか言わない.どちらが高エネルギーかは,実際のポテンシャルを見なければならない.そしてそれは,絵を描けば一目でわかる.
導出:重心保存則から $-4Dq$ と $+6Dq$ が出る
結晶場ポテンシャルは,球対称な部分と非球対称な部分に分けられる.球対称な部分は5つの $d$ 軌道すべてを同じだけ持ち上げるので,分裂には寄与しない.分裂を生むのは非球対称部分だけで,その効果は「全体の重心(加重平均)を変えない」という性質を持つ.これを重心保存則(barycenter rule)という.
$t_{2g}$ のエネルギーを $E_t$,$e_g$ を $E_e$,分裂幅を $\Delta_o \equiv E_e - E_t$ とし,重心をエネルギーの原点に取る.縮退度で重みをつけた平均がゼロだから
$$ 3E_t + 2E_e = 0 $$この式と $E_e - E_t = \Delta_o$ を連立する.第1式から $E_e = -\frac32 E_t$.これを第2式に代入して
$$ -\frac32 E_t - E_t = \Delta_o \quad\Longrightarrow\quad -\frac52 E_t = \Delta_o \quad\Longrightarrow\quad E_t = -\frac{2}{5}\Delta_o $$したがって $E_e = -\frac32\cdot\left(-\frac25\Delta_o\right) = +\frac35\Delta_o$.慣習として $\Delta_o \equiv 10Dq$ と書くと
∎ 「$10Dq$」という奇妙な書き方は,この $-4$ と $+6$ を整数にするための歴史的な工夫である($D$ と $q$ はもともと点電荷モデルの積分から出る別々の量だった).
物理的意味:$\Delta_o$ の大きさと錯体の色
$\Delta_o$ の実測値は,典型的に $\Delta_o \sim 10000$–$30000\ \mathrm{cm^{-1}}$($1.2$–$3.7\ \mathrm{eV}$)である.これはちょうど可視光のエネルギーにあたる.$d$ 電子が $t_{2g}\to e_g$ と励起されるとき,その分の光が吸収され,残りの色が目に届く.遷移金属化合物が色鮮やかである理由は,$\Delta_o$ が可視光域にあるからである.
数値例:$[\mathrm{Ti(H_2O)_6}]^{3+}$($\mathrm{Ti^{3+}}$ は $d^1$)では $\Delta_o = 20300\ \mathrm{cm^{-1}}$ である.エネルギーに直すと
$$ E = \frac{20300\ \mathrm{cm^{-1}}}{8065.5\ \mathrm{cm^{-1}/eV}} = 2.52\ \mathrm{eV} $$波長は $\lambda = 1239.8/2.52 = 492\ \mathrm{nm}$,すなわち青緑の光を吸収する.その補色である赤紫が透過し,実際この錯体の水溶液は淡い紫色に見える.
$\Delta_o$ は配位子の種類で系統的に変わる.この序列を分光化学系列(spectrochemical series)という:
$$ \mathrm{I^-} < \mathrm{Br^-} < \mathrm{Cl^-} < \mathrm{F^-} < \mathrm{OH^-} < \mathrm{H_2O} < \mathrm{NH_3} < \mathrm{en} < \mathrm{NO_2^-} < \mathrm{CN^-} < \mathrm{CO} $$右に行くほど $\Delta_o$ が大きい.単純な静電反発(点電荷モデル)だけなら,負電荷を持つ陰イオン配位子のほうが中性分子より強い場をつくるはずである.ところが実測の序列は $\mathrm{OH^-} < \mathrm{H_2O}$ と逆転しており,しかも中性分子である $\mathrm{CO}$ が系列の最右端に来る.この逆転は点電荷モデルでは説明できない.実際には $\pi$ 逆供与などの共有結合性が効いており,「結晶場理論」から「配位子場理論」への拡張が必要になる.群論の分解 \eqref{eq:10-d-split-oh} 自体は,どちらの理論でもまったく同じである点が重要である.対称性から出る結論は,相互作用の詳細に依存しない.
例題10.3 高スピンと低スピン
$d^6$ の $\mathrm{Fe^{2+}}$ が八面体配位にあるとき,$[\mathrm{Fe(H_2O)_6}]^{2+}$ は常磁性($S=2$),$[\mathrm{Fe(CN)_6}]^{4-}$ は反磁性($S=0$)である.理由を述べよ.
解答.6個の電子を $t_{2g}$(3軌道)と $e_g$(2軌道)に詰める.詰め方は競合する二つの効果で決まる.
- $t_{2g}$ に詰め込めば,$e_g$ に上げるより $\Delta_o$ だけ得をする.
- しかし同じ軌道に2個入れると,スピン対形成エネルギー $P$(電子間反発)を損する.
$\Delta_o < P$ の場合(弱い場,高スピン):Hund 則が優先し,まず5つの軌道すべてに1個ずつ上向きで入れ,6個目が $t_{2g}$ の一つに対を作る.配置は $t_{2g}^4 e_g^2$,不対電子は4個,$S = 4\times\frac12 = 2$.$\mathrm{H_2O}$ は分光化学系列の中ほどで $\Delta_o$ が小さく,これにあたる.
$\Delta_o > P$ の場合(強い場,低スピン):$e_g$ に上げるコストのほうが大きいので,6個すべてが $t_{2g}$ に入る.配置は $t_{2g}^6 e_g^0$,不対電子ゼロ,$S=0$.$\mathrm{CN^-}$ は系列の右端で $\Delta_o$ が大きく,これにあたる.∎
この高スピン/低スピンの分岐は,$\Gamma_d = E_g\oplus T_{2g}$ という群論の結論があってはじめて意味を持つ問いである.5重縮退のままなら,そもそも「上」も「下」もない.
10.2 四面体場 $T_d$ — 順序が逆転する
次に,配位子が4個で正四面体を組む場合を考える.$\mathrm{ZnO_4}$,$\mathrm{[CoCl_4]^{2-}}$,閃亜鉛鉱型結晶の陽イオンサイトなどがこれにあたる.点群は $T_d$($\bar{4}3m$,位数24)である.
四面体の4頂点は,立方体の8頂点のうち一つおきに選んだ4個,すなわち $\langle111\rangle$ 方向にある.中心の金属イオンから見ると,配位子は体対角線方向を向いている.ここが八面体(配位子が $\langle100\rangle$ 方向)との決定的な違いである.
例題10.4 $T_d$ 場での $d$ 軌道分裂
解答.$T_d$ の類は $E,\ 8C_3,\ 3C_2,\ 6S_4,\ 6\sigma_d$ の5個,位数 $h=24$,各類の要素数は $(1,8,3,6,6)$ である($1+8+3+6+6=24$ ✓).
ステップ1:$\ell=2$ の指標.式 \eqref{eq:10-chi-d}, \eqref{eq:10-chi-improper} に代入する.$T_d$ には反転がないが,$S_4$ と $\sigma_d$ は非真回転なので $iC(\alpha)$ の形に書き直して使う.
- $E$($\alpha=0$):$\chi = 5$
- $8C_3$($\alpha=120°$):$\sin300°/\sin60° = -1$
- $3C_2$($\alpha=180°$):$\sin450°/\sin90° = 1$
- $6S_4 = iC(270°)$:$(+1)\sin675°/\sin135° = -1$
- $6\sigma_d = iC(180°)$:$(+1)\sin450°/\sin90° = 1$
八面体のときの10個の数のうち,$T_d$ に含まれる類のものだけを抜き出した形になっている(当然である.$T_d$ は $O_h$ の部分群だから).
ステップ2:$T_d$ の指標表.
| $T_d$ | $E$ (1) | $8C_3$ (8) | $3C_2$ (3) | $6S_4$ (6) | $6\sigma_d$ (6) | 基底 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| $A_1$ | 1 | 1 | 1 | 1 | 1 | $x^2+y^2+z^2$ |
| $A_2$ | 1 | 1 | 1 | $-1$ | $-1$ | — |
| $E$ | 2 | $-1$ | 2 | 0 | 0 | $(2z^2-x^2-y^2,\ x^2-y^2)$ |
| $T_1$ | 3 | 0 | $-1$ | 1 | $-1$ | $(R_x,R_y,R_z)$ |
| $T_2$ | 3 | 0 | $-1$ | $-1$ | 1 | $(x,y,z)$; $(xy,yz,zx)$ |
| $\Gamma_d$ | 5 | $-1$ | 1 | $-1$ | 1 | $d$ 軌道 |
ステップ3:既約分解.式 \eqref{eq:10-reduction} に $h=24$,$N_{\mathcal C}=(1,8,3,6,6)$ を入れる.
$$ a(A_1) = \frac{1}{24}\bigl[1\cdot1\cdot5 + 8\cdot1\cdot(-1) + 3\cdot1\cdot1 + 6\cdot1\cdot(-1) + 6\cdot1\cdot1\bigr] = \frac{5-8+3-6+6}{24} = \frac{0}{24} = 0 $$ $$ a(A_2) = \frac{1}{24}\bigl[5 + 8\cdot1\cdot(-1) + 3\cdot1\cdot1 + 6\cdot(-1)\cdot(-1) + 6\cdot(-1)\cdot1\bigr] = \frac{5-8+3+6-6}{24} = \frac{0}{24} = 0 $$ $$ a(E) = \frac{1}{24}\bigl[1\cdot2\cdot5 + 8\cdot(-1)\cdot(-1) + 3\cdot2\cdot1 + 6\cdot0\cdot(-1) + 6\cdot0\cdot1\bigr] = \frac{10+8+6+0+0}{24} = \frac{24}{24} = \boldsymbol{1} $$ $$ a(T_1) = \frac{1}{24}\bigl[1\cdot3\cdot5 + 0 + 3\cdot(-1)\cdot1 + 6\cdot1\cdot(-1) + 6\cdot(-1)\cdot1\bigr] = \frac{15+0-3-6-6}{24} = \frac{0}{24} = 0 $$ $$ a(T_2) = \frac{1}{24}\bigl[1\cdot3\cdot5 + 0 + 3\cdot(-1)\cdot1 + 6\cdot(-1)\cdot(-1) + 6\cdot1\cdot1\bigr] = \frac{15+0-3+6+6}{24} = \frac{24}{24} = \boldsymbol{1} $$次元は $2+3=5$ ✓ ∎
注意:$g$ / $u$ の添字が消えている
$T_d$ の既約表現には $g$(gerade)も $u$(ungerade)も付いていない.$T_d$ は反転操作 $i$ を含まない群だからである(第4章の $\bar{4}3m$ を思い出そう.$\bar{4}$ も $3$ も $m$ も,組み合わせて $i$ を作れない).
パリティというラベルは,反転操作があってはじめて意味を持つ.$i$ がない群では,そもそも「偶/奇」という分類ができない.この一点が,10.5節で「$T_d$ 錯体は $O_h$ 錯体より色が濃い」という結論を生む.
なぜ $T_d$ では順序が逆転するのか
八面体では配位子が $\langle100\rangle$ 方向にあり,$e_g$($d_{z^2}, d_{x^2-y^2}$)のローブがそこを直撃していた.四面体では配位子が $\langle111\rangle$ 方向にある.この方向に対して,どちらの組が近いだろうか.
$d_{xy}$ のローブは $xy$ 面内の $[110]$ と $[1\bar{1}0]$ 方向を向いている.$[111]$ 方向とのなす角を計算しよう.
$$ \cos\theta = \frac{[1,1,0]\cdot[1,1,1]}{\sqrt{2}\sqrt{3}} = \frac{2}{\sqrt{6}} = 0.8165 \quad\Longrightarrow\quad \theta = 35.3^\circ $$一方 $d_{x^2-y^2}$ のローブは $[100]$ 方向を向いており,
$$ \cos\theta = \frac{[1,0,0]\cdot[1,1,1]}{1\cdot\sqrt{3}} = \frac{1}{\sqrt3} = 0.5774 \quad\Longrightarrow\quad \theta = 54.7^\circ $$$t_2$ 組($d_{xy}$ など)のほうが配位子に $19.4^\circ$ ぶん近い.したがって四面体場では $t_2$ が上,$e$ が下になる.八面体とちょうど逆である.
導出:$\Delta_t \simeq \frac{4}{9}\Delta_o$ の見積もり
点電荷モデルで両者を比べると,二つの因子が効く.
因子1:配位子の個数.八面体は6個,四面体は4個.分裂は配位子がつくるポテンシャルの大きさに比例するので,この効果で $\dfrac{4}{6}=\dfrac{2}{3}$ 倍.
因子2:幾何学的な向きの悪さ.八面体では配位子が $e_g$ のローブを真正面から見ている.四面体では,いちばん近い $t_2$ のローブでさえ $35.3°$ ずれている.この「的の外し具合」を角度因子として評価すると $\dfrac{2}{3}$ 倍になる($4$次の球面調和関数の期待値の比から出る).
二つを掛け合わせて
∎ 同じ金属・同じ配位子でも,四面体配位なら分裂は半分以下になる.実験値もおおむねこの見積もりに合う.
物理的意味:四面体錯体はなぜ必ず高スピンか
例題10.3 で見たように,低スピンになるには $\Delta > P$(スピン対形成エネルギー)が必要だった.$\Delta_t$ は $\Delta_o$ の $4/9$ しかないので,この不等式が満たされることはまずない.四面体錯体は,事実上すべて高スピンである.
固体でも同じ事情が働く.スピネル $\mathrm{AB_2O_4}$ では A サイトが四面体配位,B サイトが八面体配位で,遷移金属イオンがどちらのサイトを好むかは,結晶場安定化エネルギー(CFSE)の差が大きな目安になる.$\mathrm{Fe_3O_4}$(マグネタイト)が逆スピネル構造 $(\mathrm{Fe^{3+}})_{\rm A}[\mathrm{Fe^{2+}Fe^{3+}}]_{\rm B}\mathrm{O_4}$ をとり,室温でフェリ磁性を示すことも,この $\Delta_o$ と $\Delta_t$ の競合から理解できる.A サイトと B サイトの $\mathrm{Fe^{3+}}$ が反平行に整列して打ち消し合い,B サイトの $\mathrm{Fe^{2+}}$ の分($\sim4\mu_B$)だけが正味の磁化として残る.第20章の磁性の議論の土台である.なお,実際のサイト選択性を決めるのは CFSE だけではない.静電エネルギー・共有結合性・イオン半径・格子エネルギーもあわせて効くので,CFSE の差は「群論から見通せる一因子」だと理解しておくのがよい.
10.3 対称性の低下と相関図 — Jahn–Teller 効果
10.3.1 群を部分群に落とす
いままでは「球対称 → $O_h$」という一段の低下を見た.ここではもう一段,$O_h$ から部分群へ落とす操作を扱う.物理的には,正八面体が $z$ 軸方向に伸びたり縮んだりして,正方晶に歪む状況である.このとき点群は $O_h \to D_{4h}$($4/mmm$,位数16)になる.
定義:制限表現(subduced representation)と相関図
群 $G$ の既約表現 $\Gamma$ を,その部分群 $H\subset G$ に制限したものを $\Gamma\!\downarrow\! H$ と書き,$H$ への制限表現(部分群への簡約)という.
紛らわしいので一言注意しておく.誘導表現(induced representation)は,これとは逆向きに,部分群 $H$ の表現から群 $G$ の表現を組み上げる操作の名前である(第11章で,並進群の既約表現から空間群の表現をつくるときに使う).本章で扱うのは,あくまで $G$ から $H$ へ落とす向きの制限表現である.
$\Gamma$ が $G$ で既約でも,$H$ では可約になりうる.既約分解の手順はまったく同じで,$H$ に属する操作についてだけ指標を拾い,$H$ の指標表と式 \eqref{eq:10-reduction} を使う(このとき $h$ は $H$ の位数を使う).
この対応関係を線でつないだ図を相関図(correlation diagram)という.
補足:$D_{4h}$ の類が $O_h$ のどの類から来るか
$D_{4h}$($z$ を4回軸に取る)の10個の類は,$O_h$ の類のなかにこう埋め込まれている.この対応表が制限表現の計算のすべてである.
| $D_{4h}$ の類 | 要素数 | 具体的な操作 | $O_h$ でのもとの類 |
|---|---|---|---|
| $E$ | 1 | 恒等 | $E$ |
| $2C_4$ | 2 | $z$ 軸まわり $\pm90°$ | $6C_4$ |
| $C_2$ | 1 | $z$ 軸まわり $180°$ | $3C_2$ |
| $2C_2'$ | 2 | $x$ 軸,$y$ 軸まわり $180°$ | $3C_2$ |
| $2C_2''$ | 2 | $[110],[1\bar{1}0]$ まわり $180°$ | $6C_2$ |
| $i$ | 1 | 反転 | $i$ |
| $2S_4$ | 2 | $z$ 軸まわり | $6S_4$ |
| $\sigma_h$ | 1 | $xy$ 面 | $3\sigma_h$ |
| $2\sigma_v$ | 2 | $xz$ 面,$yz$ 面 | $3\sigma_h$ |
| $2\sigma_d$ | 2 | $x=\pm y$ を含む面 | $6\sigma_d$ |
合計 $1+2+1+2+2+1+2+1+2+2 = 16 = h(D_{4h})$ ✓ $O_h$ の $8C_3$ と $8S_6$($\langle111\rangle$ 軸の操作)は $D_{4h}$ に一つも入らない.$z$ 軸を特別扱いした時点で,体対角線まわりの3回回転は失われるからである.
例題10.5 $E_g$ と $T_{2g}$ を $D_{4h}$ に落とす
解答.まず $D_{4h}$ の指標表を用意する(類の順は上の表と同じ).
| $D_{4h}$ | $E$ (1) | $2C_4$ (2) | $C_2$ (1) | $2C_2'$ (2) | $2C_2''$ (2) | $i$ (1) | $2S_4$ (2) | $\sigma_h$ (1) | $2\sigma_v$ (2) | $2\sigma_d$ (2) | 基底 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| $A_{1g}$ | 1 | 1 | 1 | 1 | 1 | 1 | 1 | 1 | 1 | 1 | $x^2+y^2,\ z^2$ |
| $A_{2g}$ | 1 | 1 | 1 | $-1$ | $-1$ | 1 | 1 | 1 | $-1$ | $-1$ | $R_z$ |
| $B_{1g}$ | 1 | $-1$ | 1 | 1 | $-1$ | 1 | $-1$ | 1 | 1 | $-1$ | $x^2-y^2$ |
| $B_{2g}$ | 1 | $-1$ | 1 | $-1$ | 1 | 1 | $-1$ | 1 | $-1$ | 1 | $xy$ |
| $E_g$ | 2 | 0 | $-2$ | 0 | 0 | 2 | 0 | $-2$ | 0 | 0 | $(xz,\ yz)$ |
(a) $E_g(O_h)$ を落とす.表10.1 の $E_g$ 行 $(2,-1,0,0,2,2,0,-1,2,0)$ から,$D_{4h}$ の各類に対応する値を拾う.上の対応表を見ながら一つずつ:
- $E \leftarrow E$:$2$
- $2C_4 \leftarrow 6C_4$:$0$
- $C_2 \leftarrow 3C_2$:$2$
- $2C_2' \leftarrow 3C_2$:$2$
- $2C_2'' \leftarrow 6C_2$:$0$
- $i \leftarrow i$:$2$
- $2S_4 \leftarrow 6S_4$:$0$
- $\sigma_h \leftarrow 3\sigma_h$:$2$
- $2\sigma_v \leftarrow 3\sigma_h$:$2$
- $2\sigma_d \leftarrow 6\sigma_d$:$0$
これを $D_{4h}$ で分解する.$h=16$,$N_{\mathcal C}=(1,2,1,2,2,1,2,1,2,2)$:
$$ a(A_{1g}) = \frac{1}{16}\bigl[1\cdot2 + 2\cdot0 + 1\cdot2 + 2\cdot2 + 2\cdot0 + 1\cdot2 + 2\cdot0 + 1\cdot2 + 2\cdot2 + 2\cdot0\bigr] = \frac{2+2+4+2+2+4}{16} = \frac{16}{16} = 1 $$ $$ a(B_{1g}) = \frac{1}{16}\bigl[1\cdot1\cdot2 + 2\cdot(-1)\cdot0 + 1\cdot1\cdot2 + 2\cdot1\cdot2 + 2\cdot(-1)\cdot0 + 1\cdot1\cdot2 + 0 + 1\cdot1\cdot2 + 2\cdot1\cdot2 + 0\bigr] = \frac{16}{16} = 1 $$残りは0である(たとえば $a(E_g^{D_{4h}}) = \frac{1}{16}[1\cdot2\cdot2 + 0 + 1\cdot(-2)\cdot2 + 0+0+ 1\cdot2\cdot2 + 0 + 1\cdot(-2)\cdot2 + 0 + 0] = \frac{4-4+4-4}{16}=0$).次元も $1+1=2$ で合う.
(b) $T_{2g}(O_h)$ を落とす.$T_{2g}$ 行 $(3,0,1,-1,-1,3,-1,0,-1,1)$ から同様に拾うと
$$ \chi(T_{2g}\!\downarrow\! D_{4h}) = (3,\ -1,\ -1,\ -1,\ 1,\ 3,\ -1,\ -1,\ -1,\ 1) $$ $$ a(B_{2g}) = \frac{1}{16}\bigl[3 + 2(-1)(-1) + (1)(-1) + 2(-1)(-1) + 2(1)(1) + 3 + 2(-1)(-1) + (1)(-1) + 2(-1)(-1) + 2(1)(1)\bigr] $$順に $3+2-1+2+2+3+2-1+2+2 = 16$.よって $a(B_{2g})=1$.
$$ a(E_g) = \frac{1}{16}\bigl[1\cdot2\cdot3 + 0 + 1\cdot(-2)\cdot(-1) + 0 + 0 + 1\cdot2\cdot3 + 0 + 1\cdot(-2)\cdot(-1) + 0 + 0\bigr] = \frac{6+2+6+2}{16} = \frac{16}{16} = 1 $$次元 $1+2=3$ ✓
∎ 対応する軌道は,基底の欄を見れば読み取れる:$A_{1g}\leftrightarrow d_{z^2}$,$B_{1g}\leftrightarrow d_{x^2-y^2}$,$B_{2g}\leftrightarrow d_{xy}$,$E_g\leftrightarrow (d_{xz}, d_{yz})$.
10.3.2 Jahn–Teller 効果
定理10.1(Jahn–Teller の定理, 1937)
直線分子を除き,電子状態が軌道縮退している非直線多原子系は,その縮退を解く方向の構造歪みに対して必ず不安定である.すなわち,高対称構造はエネルギーの極小点ではありえない.
導出:なぜ「必ず」不安定なのか
歪みの大きさを表す座標を $Q$ とする($Q=0$ が高対称構造).縮退した2つの電子準位が,歪みによって一次のオーダーで割れるとしよう:
$$ E_{\pm}(Q) = \pm A\,Q \qquad (A \ne 0) $$歪みには弾性エネルギーの代償が伴う.原子核の運動は調和近似で
$$ E_{\rm elastic}(Q) = \frac{1}{2}k\,Q^2 $$いま,下側の準位だけに電子が入っているとする($\mathrm{Cu^{2+}}$ の $d^9$ や $\mathrm{Mn^{3+}}$ の高スピン $d^4$ がそうである).全エネルギーは
$$ E(Q) = -A\,Q + \frac{1}{2}k\,Q^2 $$これを $Q$ で微分してゼロと置く:
$$ \frac{\dd E}{\dd Q} = -A + kQ = 0 \quad\Longrightarrow\quad Q_0 = \frac{A}{k} $$このときのエネルギーは,$Q=Q_0$ を代入して
$$ E(Q_0) = -A\cdot\frac{A}{k} + \frac{1}{2}k\left(\frac{A}{k}\right)^2 = -\frac{A^2}{k} + \frac{A^2}{2k} = -\frac{A^2}{2k} $$∎ ここが定理の核心である.$A$ がどんなに小さくても,$A^2/2k$ は正の値である.つまり $Q=0$ より $Q=Q_0$ のほうが必ず低い.歪まないほうが得になることは,原理的にありえない.
直線分子が除外されるのは,直線分子では対称性の要請から一次の項 $A$ がゼロになってしまうためである.
なぜ「一次で割れる」と言えるのか — 群論の出番
上の導出は $A\ne0$ を仮定している.この仮定が正当かどうかは,群論で判定できる.$A$ は行列要素
$$ A \propto \left\langle \psi_1 \left| \frac{\partial \Ham}{\partial Q}\right| \psi_2 \right\rangle $$の形をしており,これがゼロでないための条件は,10.4節で導く選択則そのものである.すなわち,縮退した電子状態の対称積のなかに,振動座標 $Q$ の既約表現が含まれていればよい.
$O_h$ の $E_g$ 電子状態の場合,$[E_g \otimes E_g] = A_{1g}\oplus E_g$(対称積)となり,$A_{1g}$ 以外に $E_g$ が現れる.$E_g$ 対称性の振動モード,すなわち八面体の $Q_2$($x^2-y^2$ 型=斜方歪み)と $Q_3$($3z^2-r^2$ 型=正方歪み)が存在するので,$A\ne0$.このあとの図10.3 で扱う $z$ 方向の伸長は $Q_3$ モードにあたる.だから $e_g$ 縮退は必ず歪む.
直積と対称積を取り違えないこと.角括弧 $[\;\cdot\;]$ は 対称積(symmetrized square)を表す記号であって,完全直積ではない.両者は次のように違う.
$$ \underbrace{E_g \otimes E_g = A_{1g}\oplus A_{2g}\oplus E_g}_{\text{完全直積(4次元)}}, \qquad \underbrace{[E_g \otimes E_g] = A_{1g}\oplus E_g}_{\text{対称積(3次元)}}, \qquad \underbrace{\{E_g \otimes E_g\} = A_{2g}}_{\text{反対称積(1次元)}} $$対称積の指標は $\chi_{[\Gamma^2]}(R)=\frac12\left[\chi_\Gamma(R)^2+\chi_\Gamma(R^2)\right]$,反対称積は $\chi_{\{\Gamma^2\}}(R)=\frac12\left[\chi_\Gamma(R)^2-\chi_\Gamma(R^2)\right]$ で計算する($R^2$ がどの類に落ちるかを見るのがコツで,$O_h$ なら $C_4^2=C_2$,$S_4^2=C_2$,$S_6^2=C_3$,$\sigma^2=E$).両者を足せば完全直積に戻る.
Jahn–Teller で効くのが対称積のほうである理由は,振電結合の行列 $\langle\psi_i|\partial\Ham/\partial Q|\psi_j\rangle$ が,スピン軌道相互作用を無視すれば $i,j$ の入れ替えに対して実対称だからである.反対称な成分は行列要素として現れようがないので,$A_{2g}$ は一次の分裂に寄与しない.念のため付け加えると,正八面体 $\mathrm{ML_6}$ の基準振動は $\Gamma_{vib} = A_{1g}\oplus E_g\oplus T_{2g}\oplus 2T_{1u}\oplus T_{2u}$($3N-6=15$ 個)であって,そもそも $A_{2g}$ のモードは存在しない.完全直積で考えて $A_{2g}$ を拾ってしまっても,結合する相手の振動がないのである.
一方 $t_{2g}$ 縮退の場合は,$t_{2g}$ 軌道が配位子の間を向いているため,歪みとの振電結合定数 $A$ が小さい.歪みは起きるが微弱で,多くの場合スピン軌道相互作用に隠れてしまう.これが「$e_g$ 縮退は強い Jahn–Teller,$t_{2g}$ 縮退は弱い Jahn–Teller」と言われる理由である.
例題10.6 $d^9$ の Jahn–Teller 安定化エネルギーを数える
図10.3 の記号で,伸長歪みによる電子エネルギーの利得を求めよ.$e_g$ の分裂幅を $\delta$,$t_{2g}$ の分裂は無視する.
解答.歪む前,$e_g$ の2軌道はどちらもエネルギー $E_0$ で,3個の電子が入っている:合計 $3E_0$.
歪んだあと,重心保存則から $a_{1g}$ は $E_0 - \delta/2$,$b_{1g}$ は $E_0+\delta/2$ になる(2軌道の平均が変わらないため).$a_{1g}$ に2個,$b_{1g}$ に1個入るので合計は
$$ 2\left(E_0 - \frac{\delta}{2}\right) + 1\cdot\left(E_0+\frac{\delta}{2}\right) = 3E_0 - \delta + \frac{\delta}{2} = 3E_0 - \frac{\delta}{2} $$差し引き $-\delta/2$ だけ得をする.∎
同じ計算を $d^{10}$($\mathrm{Zn^{2+}}$,$e_g$ に4電子)でやると
$$ 2\left(E_0-\frac{\delta}{2}\right) + 2\left(E_0+\frac{\delta}{2}\right) = 4E_0 $$で利得ゼロ.$\mathrm{Zn^{2+}}$ が Jahn–Teller 歪みを示さないのは,$e_g$ が満杯で縮退していないからである.$d^3$($t_{2g}^3$)や高スピン $d^5$($t_{2g}^3e_g^2$)も,各準位が均等に埋まっていて縮退がないので歪まない.
物理的意味:実在物質での Jahn–Teller 歪み
- $\mathrm{Cu^{2+}}$($d^9$):$\mathrm{CuO_6}$ 八面体はほぼ例外なく $z$ 方向に伸びている.$\mathrm{La_2CuO_4}$ では面内 Cu–O が $1.90\,\text{Å}$,頂点 Cu–O が $2.40\,\text{Å}$ と,$0.5\,\text{Å}$ も違う.この強い伸長のため $d_{x^2-y^2}$ だけが Fermi 準位に残り,銅酸化物高温超伝導体の2次元性が生まれる.
- $\mathrm{Mn^{3+}}$(高スピン $d^4 = t_{2g}^3e_g^1$):$\mathrm{LaMnO_3}$ では,隣り合う $\mathrm{MnO_6}$ 八面体が交互に別方向に伸びる協同 Jahn–Teller 効果(cooperative Jahn–Teller effect)が起き,$\mathrm{O}'$ 型に歪んだ斜方晶になる.この軌道秩序が,マンガン酸化物の巨大磁気抵抗(CMR)の舞台を用意する.
- $\mathrm{Mn^{4+}}$($d^3 = t_{2g}^3$)や $\mathrm{Cr^{3+}}$($d^3$):縮退がないので歪まない.$\mathrm{CaMnO_3}$ が $\mathrm{LaMnO_3}$ より対称性の高い構造をとるのは,このためである.
第一原理計算で $\mathrm{LaMnO_3}$ を扱うとき,初期構造を完全な立方晶ペロブスカイトから始めると,対称性が保たれたまま高エネルギーの解に収束してしまうことがある.あらかじめ対称性を破った初期構造を与える必要があるのは,この定理10.1 の帰結である.
注意:second-order Jahn–Teller との違い
いま扱った Jahn–Teller 効果は,縮退した準位が一次で割れることによる.これに対して,縮退していない基底状態でも,近くにある励起状態との二次の混成($-\abs{\langle e|\partial\Ham/\partial Q|g\rangle}^2/(E_e-E_g)$)によって歪みが起きることがある.これをsecond-order Jahn–Teller 効果(擬 Jahn–Teller 効果)という.
$\mathrm{BaTiO_3}$ の $\mathrm{Ti^{4+}}$ は $d^0$ で縮退がないが,O-2p(占有)と Ti-3d(非占有)の混成によって Ti が中心からずれ,強誘電性が生まれる.第4章の「強誘電体はなぜ見つけにくいのか」と,第19章の議論につながる話である.
10.4 直積表現と選択則
10.4.1 直積表現
量子力学の行列要素には,必ず複数の関数の積が現れる.$\psi_f^*\hat{O}\psi_i$ のように三つの積になることもある.積の対称性を扱う道具が直積表現(direct product representation)である.
定義:直積表現
既約表現 $\Gamma_i$ の基底を $\{\phi_1,\dots,\phi_{\ell_i}\}$,$\Gamma_j$ の基底を $\{\psi_1,\dots,\psi_{\ell_j}\}$ とする.これらの積をすべて集めた $\ell_i\ell_j$ 個の関数
$$ \{\phi_a\psi_b\ :\ a=1,\dots,\ell_i,\ \ b=1,\dots,\ell_j\} $$が張る空間の上の表現を,$\Gamma_i\otimes\Gamma_j$ と書き,直積表現という.次元は $\ell_i\ell_j$ である.
定理と証明:$\chi^{(i\otimes j)}(R) = \chi^{(i)}(R)\,\chi^{(j)}(R)$
対称操作 $R$ に対して,それぞれの基底は
$$ \hat{P}_R\,\phi_a = \sum_{a'} D^{(i)}_{a'a}(R)\,\phi_{a'}, \qquad \hat{P}_R\,\psi_b = \sum_{b'} D^{(j)}_{b'b}(R)\,\psi_{b'} $$と変換する.積の関数はどう変換するか.$\hat{P}_R$ は関数の引数を置き換える演算子なので,積に作用させれば積の各因子に作用する:
$$ \hat{P}_R\,(\phi_a\psi_b) = (\hat{P}_R\phi_a)(\hat{P}_R\psi_b) = \left(\sum_{a'} D^{(i)}_{a'a}\phi_{a'}\right)\left(\sum_{b'} D^{(j)}_{b'b}\psi_{b'}\right) $$右辺を展開して和の順序を入れ替えると
$$ \hat{P}_R\,(\phi_a\psi_b) = \sum_{a'}\sum_{b'} D^{(i)}_{a'a}(R)\,D^{(j)}_{b'b}(R)\ \phi_{a'}\psi_{b'} $$いま $(a,b)$ の組を一つの添字とみなせば,これは $\ell_i\ell_j$ 次元の行列
による変換に他ならない.表現の定義($D(R)D(S)=D(RS)$)を満たすことも,成分ごとに掛け算すれば直ちに確かめられる.
指標は対角成分の和である.対角成分とは $(a'b')=(ab)$,すなわち $a'=a$ かつ $b'=b$ の成分のことだから
$$ \chi^{(i\otimes j)}(R) = \sum_{a}\sum_{b} D^{(i)}_{aa}(R)\,D^{(j)}_{bb}(R) $$ここで和が二つに分離できることが要点である.$a$ についての和と $b$ についての和は独立なので
$$ \chi^{(i\otimes j)}(R) = \left(\sum_{a} D^{(i)}_{aa}(R)\right)\left(\sum_{b} D^{(j)}_{bb}(R)\right) $$∎ 指標は,ただ掛ければよい.これほど扱いやすい規則はない.三つ以上の直積でも同様に $\chi^{(i)}\chi^{(j)}\chi^{(k)}$ となる.
例題10.7 $O_h$ で $T_{1u}\otimes T_{1u}$ を分解する
解答.表10.1 の $T_{1u}$ 行は $(3,0,-1,1,-1,-3,-1,0,1,1)$.式 \eqref{eq:10-dp-char} により,各成分を2乗すればよい:
$$ \chi^{T_{1u}\otimes T_{1u}} = (9,\ 0,\ 1,\ 1,\ 1,\ 9,\ 1,\ 0,\ 1,\ 1) $$次元は $3\times3=9$($E$ の値と一致 ✓).反転の指標が $+9$ で正なので,結果はすべて $g$ 型になるはずである($u\otimes u = g$).分解しよう.
$$ a(A_{1g}) = \frac{1}{48}\bigl[1\cdot9 + 8\cdot0 + 6\cdot1 + 6\cdot1 + 3\cdot1 + 1\cdot9 + 6\cdot1 + 8\cdot0 + 3\cdot1 + 6\cdot1\bigr] = \frac{9+6+6+3+9+6+3+6}{48} = \frac{48}{48} = 1 $$ $$ a(A_{2g}) = \frac{1}{48}\bigl[9 + 0 + 6(-1)(1) + 6(-1)(1) + 3(1)(1) + 9 + 6(-1)(1) + 0 + 3(1)(1) + 6(-1)(1)\bigr] = \frac{9-6-6+3+9-6+3-6}{48} = 0 $$ $$ a(E_g) = \frac{1}{48}\bigl[1\cdot2\cdot9 + 8(-1)(0) + 0 + 0 + 3\cdot2\cdot1 + 1\cdot2\cdot9 + 0 + 8(-1)(0) + 3\cdot2\cdot1 + 0\bigr] = \frac{18+6+18+6}{48} = 1 $$ $$ a(T_{1g}) = \frac{1}{48}\bigl[27 + 0 + 6(-1)(1) + 6(1)(1) + 3(-1)(1) + 27 + 6(1)(1) + 0 + 3(-1)(1) + 6(-1)(1)\bigr] = \frac{27-6+6-3+27+6-3-6}{48} = 1 $$ $$ a(T_{2g}) = \frac{1}{48}\bigl[27 + 0 + 6(1)(1) + 6(-1)(1) + 3(-1)(1) + 27 + 6(-1)(1) + 0 + 3(-1)(1) + 6(1)(1)\bigr] = \frac{27+6-6-3+27-6-3+6}{48} = 1 $$次元の検算:$1+2+3+3 = 9$ ✓ ∎
この分解には物理的な意味がある.$T_{1u}$ はベクトル $(x,y,z)$ の表現だから,$T_{1u}\otimes T_{1u}$ は2階テンソル $x_ix_j$(9成分)の表現である.そのうち対称部分(6成分)が $A_{1g}\oplus E_g\oplus T_{2g}$ ——それぞれ「トレース $x^2+y^2+z^2$」「トレースなし対角成分2個」「非対角成分3個」に対応する——であり,反対称部分(3成分)が $T_{1g}$ ——外積すなわち軸性ベクトル $(R_x,R_y,R_z)$ ——である.第4章で扱った物性テンソルの話が,群論の言葉で整理されている.
定理10.2(恒等表現が現れる回数)
2つの既約表現の直積 $\Gamma_i\otimes\Gamma_j$ が恒等表現 $\Gamma_1$ を含むのは,$\Gamma_j = \Gamma_i^*$ のときに限り,そのときちょうど1回含む.
証明.式 \eqref{eq:10-reduction} で $\Gamma_n = \Gamma_1$(指標はすべて1)とすると
$$ a_1 = \frac{1}{h}\sum_R 1\cdot \chi^{(i)}(R)\chi^{(j)}(R) = \frac{1}{h}\sum_R \left[\chi^{(i)}(R)^*\right]^*\chi^{(j)}(R) $$これは指標の第1直交関係(第8章)そのもので,$\Gamma_i^*$ と $\Gamma_j$ が同じなら1,違えば0である.∎
実表現の場合は $\Gamma_i^*=\Gamma_i$ なので,条件は単に $\Gamma_i=\Gamma_j$ となる.結晶点群の既約表現の大部分は実である.
10.4.2 積分が消えるための群論的条件
ここからが本節の主題である.まず,たった一つの補題を証明する.この補題があらゆる選択則の源である.
補題10.1(全空間積分の消滅)
関数 $f(\rr)$ の全空間積分 $\displaystyle\int f(\rr)\,\dd\tau$ がゼロでないためには,$f$ が恒等表現 $\Gamma_1$ の成分を含んでいなければならない.
証明:補題10.1
ステップ1:積分は対称操作で不変である.群 $G$ の任意の操作 $R$ をとる.積分の変数変換 $\rr \to R^{-1}\rr$ を行うと,$R$ は直交変換だから $\abs{\det R}=1$ で体積要素は変わらず($\dd\tau' = \dd\tau$),また積分領域は全空間なので変わらない.したがって
$$ \int f(\rr)\,\dd\tau = \int f(R^{-1}\rr)\,\dd\tau = \int \bigl(\hat{P}_R f\bigr)(\rr)\,\dd\tau $$ここで $\hat{P}_R f(\rr) \equiv f(R^{-1}\rr)$ は第9章で導入した関数への作用である.どの $R$ を選んでも積分値は同じ,というのがステップ1の結論である.
ステップ2:群の全要素について平均をとる.ステップ1の等式は $h$ 個の $R$ すべてについて成り立つ.それらをすべて足して $h$ で割っても,当然もとの値に戻る:
$$ \int f\,\dd\tau = \frac{1}{h}\sum_{R\in G}\int \bigl(\hat{P}_R f\bigr)\dd\tau = \int \left(\frac{1}{h}\sum_{R\in G}\hat{P}_R f\right)\dd\tau $$(和と積分の順序を交換した.有限和なので自由に交換できる.)
ステップ3:括弧の中身は射影演算子である.第9章で導いた射影演算子は
$$ \hat{P}^{(\Gamma_n)} = \frac{\ell_n}{h}\sum_{R}\chi^{(\Gamma_n)}(R)^*\,\hat{P}_R $$であった.ここで $\Gamma_n = \Gamma_1$(恒等表現)とすると,$\ell_1=1$ かつ $\chi^{(\Gamma_1)}(R)=1$(すべての $R$ について)なので
$$ \hat{P}^{(\Gamma_1)} = \frac{1}{h}\sum_{R}\hat{P}_R $$これはステップ2の括弧の中身にぴたり一致する.したがって
ステップ4:結論.$f$ を既約表現ごとの成分に分解して $f = \sum_n f^{(n)}$ と書けば,$\hat{P}^{(\Gamma_1)}f = f^{(1)}$,すなわち恒等表現成分だけが残る.$f$ が $\Gamma_1$ 成分を持たなければ $f^{(1)}=0$ で,式 \eqref{eq:10-lemma} の右辺は $\int 0\,\dd\tau = 0$.∎
なぜ:直観的にはこういうことである
1次元で $\int_{-\infty}^{\infty} x\,\dd x$ を考えてみよう.$x$ は奇関数で,反転($x\to-x$)に対して符号を変える.積分は必ずゼロである.値を計算するまでもない.
いま群 $G=\{E,i\}$(位数2)とみなすと,$x$ は「反対称表現」に属し,恒等表現の成分をまったく持たない.補題10.1 が言っているのは,この「奇関数の積分はゼロ」をあらゆる対称群に一般化したものである.
逆に $\int x^2\,\dd x$ の被積分関数 $x^2$ は偶関数,すなわち恒等表現に属する.だからゼロにならなくてよい(実際には発散するが,それは別の話である).
補題は「ゼロである」ことしか保証しない点に注意したい.恒等表現を含んでいても,動径積分がたまたまゼロになることはありうる.群論が言えるのは禁制(forbidden)までであって,許容(allowed)は「ゼロでない可能性がある」という意味である.
定理10.3(選択則の一般形)
行列要素
$$ I = \int \psi_f^*\,\hat{O}\,\psi_i\ \dd\tau $$がゼロでないための必要条件は,直積表現
が恒等表現 $\Gamma_1$ を含むことである.ここで $\Gamma_f, \Gamma_O, \Gamma_i$ はそれぞれ $\psi_f$,$\hat O$,$\psi_i$ が属する既約表現である.
証明.被積分関数 $f = \psi_f^*\hat{O}\psi_i$ は3つの因子の積だから,式 \eqref{eq:10-dp-char} により $\Gamma_f^*\otimes\Gamma_O\otimes\Gamma_i$ という(一般には可約な)表現に属する.補題10.1 を $f$ に適用すればよい.∎
実用形:$\Gamma_O\otimes\Gamma_i$ が $\Gamma_f$ を含むか
定理10.2 を使うと,条件 \eqref{eq:10-selection} は次のように言い換えられる.$\Gamma_O\otimes\Gamma_i$ を既約分解しておき,そのなかに $\Gamma_f$ が現れるかどうかを見ればよい:
実際に手を動かすときは,こちらのほうが速い.「$\hat O$ を $\psi_i$ に作用させると,どんな対称性の関数ができるか.そのなかに $\psi_f$ の対称性があるか」と読むと,物理的な意味もつかみやすい.
例題10.8 $O_h$ 系で $A_{1g}$ 状態からどこへ遷移できるか
電気双極子演算子は $O_h$ で $T_{1u}$ に属する($(x,y,z)$ の表現.表10.1).基底状態が $A_{1g}$ のとき,電気双極子遷移で行ける終状態の対称性は何か.
解答.式 \eqref{eq:10-selection-practical} を使う.$\Gamma_O\otimes\Gamma_i = T_{1u}\otimes A_{1g}$ である.恒等表現との直積は,指標が1倍されるだけなので相手をそのまま返す:
$$ \chi^{T_{1u}\otimes A_{1g}}(R) = \chi^{T_{1u}}(R)\cdot 1 = \chi^{T_{1u}}(R) $$ $$ T_{1u}\otimes A_{1g} = T_{1u} $$したがって $\Gamma_f = T_{1u}$ のときだけ許容である.∎ $A_{1g}\to E_g$ も $A_{1g}\to T_{2g}$ も $A_{1g}\to A_{1g}$ も,すべて禁制になる.
10.5 電気双極子遷移と Laporte 則
10.5.1 Laporte 則
光の吸収・放出でいちばん強いのは電気双極子遷移である.その演算子は電子の位置ベクトルそのもの,$\hat{O} = -e\bm{r} = -e(x,y,z)$ である.だから $\Gamma_O$ は「$(x,y,z)$ がどの既約表現に属するか」で決まる.
導出:Laporte 則(パリティ選択則)
中心対称性を持つ群($i$ を含む群)を考える.反転操作のもとで $\bm r \to -\bm r$ だから,$\hat O = -e\bm r$ は必ず奇(ungerade, $u$)である.$O_h$ では $\Gamma_O = T_{1u}$,$D_{4h}$ では $\Gamma_O = A_{2u}\oplus E_u$ のように,必ず $u$ が付く.
いま,$\Gamma_f$ のパリティを $p_f$,$\Gamma_i$ のパリティを $p_i$ とする($p = g$ または $u$).直積のパリティは掛け算の規則
$$ g\otimes g = g,\qquad g\otimes u = u,\qquad u\otimes u = g $$に従う($(\pm1)$ の掛け算そのものである.$g\to+1$,$u\to-1$ と置けばよい).したがって式 \eqref{eq:10-selection} のパリティは
$$ p(\Gamma_f^*\otimes\Gamma_O\otimes\Gamma_i) = p_f \cdot u \cdot p_i $$恒等表現 $\Gamma_1 = A_{1g}$ は $g$ だから,これが含まれるには全体が $g$ でなければならない:
$$ p_f\cdot u\cdot p_i = g \quad\Longrightarrow\quad p_f\cdot p_i = u $$つまり $p_f$ と $p_i$ の一方が $g$,他方が $u$ でなければならない.∎
物理的意味:$d\to d$ 遷移は禁制のはずである
$d$ 軌道は $\ell=2$ で偶パリティ,$O_h$ では $e_g$ も $t_{2g}$ も $g$ である.したがって $t_{2g}\to e_g$ という結晶場遷移は $g\to g$ で,Laporte 則により禁制である.
指標で確かめよう.$E_g\otimes T_{1u}$ の指標は成分ごとの積で
$$ (2,-1,0,0,2,2,0,-1,2,0)\times(3,0,-1,1,-1,-3,-1,0,1,1) = (6,0,0,0,-2,-6,0,0,2,0) $$これが $T_{2g}$ を含むか調べる.
$$ a(T_{2g}) = \frac{1}{48}\bigl[1\cdot3\cdot6 + 0 + 0 + 0 + 3(-1)(-2) + 1\cdot3\cdot(-6) + 0 + 0 + 3(-1)(2) + 0\bigr] = \frac{18+6-18-6}{48} = 0 $$確かに含まない.式 \eqref{eq:10-selection-practical} により $t_{2g}\to e_g$ は禁制である.
しかし,遷移金属錯体には色がある.$[\mathrm{Ti(H_2O)_6}]^{3+}$ は紫,$[\mathrm{Ni(H_2O)_6}]^{2+}$ は緑,ルビー($\mathrm{Al_2O_3}$ 中の $\mathrm{Cr^{3+}}$)は赤い.禁制なら無色のはずではないのか.
10.5.2 禁制なのに色がある理由
理由1:振電相互作用(vibronic coupling)による強度の借用
Laporte 則の導出は,分子が完全な $O_h$ 対称性を保っていることを前提にしている.しかし現実の分子は常に振動しており,瞬間瞬間には歪んでいる.
歪みのうち,$u$ 対称性を持つ振動モード($O_h$ の八面体錯体なら $t_{1u}$ と $t_{2u}$ のモード)が励起されている瞬間は,反転中心が失われている.反転中心がなければ,そもそも $g$/$u$ という分類が意味を失い,Laporte 則は働かない.
群論的には,電子状態と振動状態を合わせた「振電状態」で選択則を書き直す.始状態を電子 $\Gamma_i$・振動基底状態($\Gamma_1$),終状態を電子 $\Gamma_f$・振動1量子励起($\Gamma_v$)とすると,条件は
$$ \Gamma_f^*\otimes\Gamma_v\otimes\Gamma_O\otimes\Gamma_i \supset \Gamma_1 $$となる.パリティだけ見れば $g\cdot u\cdot u\cdot g = g$ ✓ で,条件を満たしうる.$t_{1u}$ や $t_{2u}$ の振動が「奇のパリティを供給する」ことで,禁制遷移がわずかに許容になる.これを強度の借用(intensity borrowing)という.
結果として,$d$–$d$ 遷移のモル吸光係数は $\varepsilon \sim 1$–$100\ \mathrm{M^{-1}cm^{-1}}$ 程度になる.完全に許容な遷移の $\varepsilon\sim10^4$ に比べると2〜4桁も弱い.「淡い色」であることそのものが,Laporte 則が効いている証拠である.
理由2:$T_d$ には反転中心がない
$T_d$ 群には $i$ が含まれない(10.2節の注意).パリティという概念自体が存在しないので,Laporte 則は最初から適用できない.
さらに $T_d$ では,$(x,y,z)$ も $(xy,yz,zx)$ もどちらも $T_2$ に属する(表10.2).つまり $p$ 軌道と $d$ 軌道が同じ対称性を持ち,混成できる.この $p$–$d$ 混成が $d$–$d$ 遷移に強度を与える.
その結果,四面体錯体は八面体錯体よりずっと濃く色づく.$[\mathrm{CoCl_4}]^{2-}$(四面体)は $\varepsilon\sim600\ \mathrm{M^{-1}cm^{-1}}$ の鮮やかな青,$[\mathrm{Co(H_2O)_6}]^{2+}$(八面体)は $\varepsilon\sim5$ の淡いピンクである.塩化コバルト水溶液に濃塩酸を加えると,ピンクから青へ劇的に変わる.この色の変化は,配位構造が八面体から四面体へ変わったことを目で見ているのである.
理由3:電荷移動遷移は最初から許容
$\mathrm{MnO_4^-}$(過マンガン酸イオン)の濃い紫は,$d$–$d$ 遷移ではない.$\mathrm{Mn^{7+}}$ は $d^0$ で $d$ 電子が一つもない.
この色は,酸素の $2p$ 軌道から Mn の $3d$ 軌道への配位子–金属電荷移動(LMCT)遷移による.$\mathrm{MnO_4^-}$ は $T_d$ 対称で,可視域($\sim18{,}000\ \mathrm{cm^{-1}}$,$545\ \mathrm{nm}$ 付近)の吸収帯は,始状態 $t_1$(O-2p 主体の非結合軌道)から終状態 $e$(Mn-3d 主体)への遷移である.$T_1\otimes E$ を分解すると $T_1\oplus T_2$ となり,$\Gamma_O=T_2$ を含むので許容.$\varepsilon\sim2300\ \mathrm{M^{-1}cm^{-1}}$ に達する.さらに紫外側($\sim32{,}000\ \mathrm{cm^{-1}}$)には $t_1\to t_2$ の帯があり,こちらも $T_1\otimes T_2 = A_2\oplus E\oplus T_1\oplus T_2$ が $T_2$ を含むので許容である.
顔料の鮮やかさ($\mathrm{PbCrO_4}$ のクロムイエロー,$\mathrm{HgS}$ の朱)は,ほとんどが電荷移動遷移によるものである.
補足:スピン選択則も効く
電気双極子演算子はスピンに作用しないので,$\Delta S = 0$ でなければ遷移は起きない(スピン軌道相互作用があると少し破れる).
高スピン $d^5$ の $\mathrm{Mn^{2+}}$ は $t_{2g}^3e_g^2$ で全電子のスピンが揃っており($S=5/2$),どこへ遷移してもスピンが一つ反転してしまう.したがって $d$–$d$ 遷移は Laporte 禁制かつスピン禁制の二重禁制である.$\varepsilon\sim0.01$–$0.1$ しかなく,$\mathrm{MnSO_4}$ 水溶液はほとんど無色(ごく淡いピンク)である.
「$\mathrm{Mn^{2+}}$ の化合物が薄い色」「$\mathrm{Mn^{7+}}$ の化合物が濃い紫」という,一見不思議な対比が,選択則だけで説明できる.
10.6 分子振動の既約分解
10.6.1 $3N$ 次元変位表現
$N$ 個の原子からなる分子(あるいは結晶の単位胞)を考える.各原子は $x,y,z$ の3方向に動けるから,系の自由度は $3N$ である.この $3N$ 個の変位が張る空間の上に,点群の表現ができる.これを$3N$ 次元変位表現 $\Gamma_{3N}$ という.
導出:$\chi_{3N}(R) = N_R \times (\pm1 + 2\cos\alpha)$
基底の取り方.原子 $A$($A=1,\dots,N$)の変位ベクトルの $\mu$ 成分($\mu=x,y,z$)を基底に取る.合計 $3N$ 個である.
操作 $R$ の作用.対称操作 $R$ は,原子 $A$ の位置 $\rr_A$ を $R\rr_A$ に移す.分子が $R$ で不変であるためには,そこにも同種の原子がいなければならない.その原子を $A' = \pi_R(A)$ と書く($\pi_R$ は原子の置換).
このとき,原子 $A$ の変位 $\uu_A$ は,原子 $A'$ の変位 $R\uu_A$ になる.すなわち表現行列の成分は
$$ D_{(A'\mu'),(A\mu)}(R) = \delta_{A',\,\pi_R(A)}\ R_{\mu'\mu} $$と書ける.ここで $R_{\mu'\mu}$ は $R$ の $3\times3$ 直交行列(第4章)の成分である.
指標の計算.指標は対角成分の和,すなわち $(A'\mu')=(A\mu)$ の成分の和である:
$$ \chi_{3N}(R) = \sum_{A=1}^{N}\sum_{\mu=x,y,z} D_{(A\mu),(A\mu)}(R) = \sum_{A=1}^{N}\delta_{A,\,\pi_R(A)}\ \underbrace{\sum_{\mu}R_{\mu\mu}}_{=\Tr R} $$ここで決定的なことが起きる.$\delta_{A,\pi_R(A)}$ は,原子 $A$ が $R$ によって自分自身に移る場合だけ 1,それ以外は 0 である.つまり和は「動かない原子」の個数を数えるだけになる.それを $N_R$ と書けば
$\Tr R$ の値.第4章の結果を使う.真の回転($\det=+1$,回転角 $\alpha$)なら
$$ \Tr R = 1 + 2\cos\alpha $$非真回転 $S(\alpha)=\sigma_h C(\alpha)$ なら,$z$ 成分の符号が反転するので
$$ S(\alpha) = \begin{pmatrix}\cos\alpha & -\sin\alpha & 0\\ \sin\alpha & \cos\alpha & 0\\ 0&0&-1\end{pmatrix}, \qquad \Tr S = 2\cos\alpha - 1 $$まとめて
∎ 実に使いやすい公式である.分子の絵を見て「この操作で何個の原子が動かないか」を数え,$\pm1+2\cos\alpha$ を掛けるだけでよい.
| 操作 | $\alpha$ | 種別 | $\Tr R$ |
|---|---|---|---|
| $E$ | $0°$ | 真 | $1+2 = 3$ |
| $C_2$ | $180°$ | 真 | $1-2 = -1$ |
| $C_3$ | $120°$ | 真 | $1+2(-\tfrac12) = 0$ |
| $C_4$ | $90°$ | 真 | $1+0 = 1$ |
| $C_6$ | $60°$ | 真 | $1+1 = 2$ |
| $\sigma\ (=S_1)$ | $0°$ | 非真 | $-1+2 = 1$ |
| $i\ (=S_2)$ | $180°$ | 非真 | $-1-2 = -3$ |
| $S_3$ | $120°$ | 非真 | $-1-1 = -2$ |
| $S_4$ | $90°$ | 非真 | $-1+0 = -1$ |
| $S_6$ | $60°$ | 非真 | $-1+1 = 0$ |
手順:$\Gamma_{vib}$ を求める3ステップ
- $\Gamma_{3N}$ の指標を求める.各類について「動かない原子の数 $N_R$」を数え,表10.4 の $\Tr R$ を掛ける.
- 既約分解する.式 \eqref{eq:10-reduction} を使う.
- 並進と回転を引く. $$\Gamma_{vib} = \Gamma_{3N} \ominus \Gamma_{trans} \ominus \Gamma_{rot}$$ $\Gamma_{trans}$ は $(x,y,z)$ が属する表現,$\Gamma_{rot}$ は $(R_x,R_y,R_z)$ が属する表現である.指標表の右欄を見れば即座にわかる.
残った $\Gamma_{vib}$ の次元は,非直線分子なら $3N-6$,直線分子なら $3N-5$ になる(直線分子は分子軸まわりの回転が自由度にならないため).この検算を必ず行うこと.
補足:なぜ並進と回転を引くのか,そして $\Gamma_{rot}$ の指標
$3N$ 個の自由度のうち,分子全体を平行移動させる3つと,分子全体を回転させる3つは,原子間距離をまったく変えない.ばねが伸び縮みしないのだから,振動数ゼロのモードである.これらは「振動」ではないので除く.
$\Gamma_{trans}$ の指標は,変位ベクトルそのものの変換だから $\chi_{trans}(R) = \Tr R = \pm1+2\cos\alpha$ である(式 \eqref{eq:10-chi3n} で $N_R=1$ とした形).
$\Gamma_{rot}$ は少し違う.回転 $(R_x,R_y,R_z)$ は軸性ベクトル(擬ベクトル)であり,鏡映や反転に対して普通のベクトルと逆の符号を持つ.一般に軸性ベクトルの指標は $\det(R)\times$(ベクトルの指標)だから
$$ \chi_{rot}(R) = \det(R)\,\bigl(\pm1+2\cos\alpha\bigr) = 1 + 2\cos\alpha \ \ (\text{真}),\qquad 1-2\cos\alpha\ \ (\text{非真}) $$検算:反転 $i$ では $\chi_{rot} = 1-2\cos180° = 3$.回転軸は反転で向きを変えないので確かに $+3$ である.鏡映 $\sigma$ では $\chi_{rot} = 1-2 = -1$.
実用上は,指標表の右端に $R_x,R_y,R_z$ がどの行にあるか書いてあるので,それを読むだけでよい.
10.6.2 例題1:$\mathrm{H_2O}$($C_{2v}$)
例題10.9 水分子の振動モードを完全に決める
設定.$\mathrm{H_2O}$ は折れ線分子(H–O–H 角 $104.5°$)で,点群は $C_{2v}$(位数4).$N=3$ なので $3N=9$,振動モードは $3N-6 = 3$ 個のはずである.
座標系を決める.$C_2$ 軸を $z$ 軸に取り,分子は $xz$ 面内に置くことにする.$C_{2v}$ の4つの操作は $E$,$C_2(z)$,$\sigma_v(xz)$(分子面),$\sigma_v'(yz)$(分子面に垂直)である.
ステップ1:$\Gamma_{3N}$ の指標.各操作で動かない原子を数える.
| 操作 | 動かない原子 | $N_R$ | $\Tr R$ | $\chi_{3N}=N_R\Tr R$ |
|---|---|---|---|---|
| $E$ | O, H, H すべて | 3 | $3$ | $9$ |
| $C_2(z)$ | O のみ(2つの H は入れ替わる) | 1 | $-1$ | $-1$ |
| $\sigma_v(xz)$ | O, H, H(全部この面の中にある) | 3 | $1$ | $3$ |
| $\sigma_v'(yz)$ | O のみ(H は入れ替わる) | 1 | $1$ | $1$ |
ステップ2:既約分解.$C_{2v}$ の指標表は次の通り(各類の要素数はすべて1,$h=4$).
| $C_{2v}$ | $E$ | $C_2$ | $\sigma_v(xz)$ | $\sigma_v'(yz)$ | 1次 | 2次 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| $A_1$ | 1 | 1 | 1 | 1 | $z$ | $x^2,y^2,z^2$ |
| $A_2$ | 1 | 1 | $-1$ | $-1$ | $R_z$ | $xy$ |
| $B_1$ | 1 | $-1$ | 1 | $-1$ | $x,\ R_y$ | $xz$ |
| $B_2$ | 1 | $-1$ | $-1$ | 1 | $y,\ R_x$ | $yz$ |
式 \eqref{eq:10-reduction} に $h=4$ を入れて,4回計算する.
$$ a(A_1) = \frac{1}{4}\bigl[1\cdot9 + 1\cdot(-1) + 1\cdot3 + 1\cdot1\bigr] = \frac{9-1+3+1}{4} = \frac{12}{4} = 3 $$ $$ a(A_2) = \frac{1}{4}\bigl[1\cdot9 + 1\cdot(-1) + (-1)\cdot3 + (-1)\cdot1\bigr] = \frac{9-1-3-1}{4} = \frac{4}{4} = 1 $$ $$ a(B_1) = \frac{1}{4}\bigl[1\cdot9 + (-1)(-1) + 1\cdot3 + (-1)\cdot1\bigr] = \frac{9+1+3-1}{4} = \frac{12}{4} = 3 $$ $$ a(B_2) = \frac{1}{4}\bigl[1\cdot9 + (-1)(-1) + (-1)\cdot3 + 1\cdot1\bigr] = \frac{9+1-3+1}{4} = \frac{8}{4} = 2 $$検算:$3+1+3+2 = 9 = 3N$ ✓(すべて1次元表現なので,個数がそのまま次元になる.)
$$ \Gamma_{3N} = 3A_1 \oplus A_2 \oplus 3B_1 \oplus 2B_2 $$ステップ3:並進と回転を引く.表10.5 の右欄を読む.
$$ \Gamma_{trans} = \underbrace{A_1}_{z} \oplus \underbrace{B_1}_{x} \oplus \underbrace{B_2}_{y}, \qquad \Gamma_{rot} = \underbrace{A_2}_{R_z} \oplus \underbrace{B_1}_{R_y} \oplus \underbrace{B_2}_{R_x} $$引き算する.$A_1$ の個数は $3-1-0 = 2$,$A_2$ は $1-0-1 = 0$,$B_1$ は $3-1-1 = 1$,$B_2$ は $2-1-1 = 0$.
次元は $2+1 = 3 = 3N-6$ ✓ ∎
注意:$C_{2v}$ では座標の取り方で答えの記号が変わる
もし分子を $yz$ 面内に置いていたら,$\sigma_v(xz)$ と $\sigma_v'(yz)$ の役割が入れ替わり,答えは $\Gamma_{vib} = 2A_1\oplus B_2$ になる.教科書によってどちらの表記も見かける.
物理は同じである.変わったのはラベルの付け方だけで,「反対称伸縮モードは $C_2$ 軸で符号を変え,分子面内で対称」という中身は変わらない.論文や教科書を読むときは,必ず「分子面をどちらに取っているか」を確認すること.$C_{3v}$ や $T_d$ ではこの曖昧さは起きない.
物理的意味:3つのモードが何をしているか
- $\nu_1$($A_1$,対称伸縮,$3657\ \mathrm{cm^{-1}}$):2本の O–H 結合が同時に伸び,同時に縮む.$C_2$ 回転でも鏡映でも形が変わらないので $A_1$.
- $\nu_2$($A_1$,変角,$1595\ \mathrm{cm^{-1}}$):H–O–H の角度が開いたり閉じたりする.これも全対称なので $A_1$.結合を伸ばすより角度を変えるほうが柔らかいので,振動数は伸縮の半分以下である.
- $\nu_3$($B_1$,反対称伸縮,$3756\ \mathrm{cm^{-1}}$):片方の O–H が伸びるとき,もう片方が縮む.$C_2$ 回転で2つの H が入れ替わると符号が変わるので $B_1$.
群論は「$A_1$ が2個,$B_1$ が1個」までを教えてくれる.$A_1$ が2個ある,ということは,対称伸縮と変角が同じ対称性を持ち,互いに混ざりうることを意味する.実際,$\nu_1$ と $\nu_2$ は純粋な伸縮・変角ではなく,両者のわずかな混合になっている.一方 $\nu_3$ は $B_1$ でただ一つなので,他のどのモードとも混ざれない.
10.6.3 例題2:$\mathrm{CH_4}$($T_d$)
例題10.10 メタンの振動モードを完全に決める
設定.$\mathrm{CH_4}$ は正四面体,点群 $T_d$(位数24).$N=5$ なので $3N=15$,振動は $3N-6 = 9$ 個.
幾何を頭に入れておく.C を立方体の中心に置き,4個の H を一つおきの頂点,すなわち $[111],[1\bar1\bar1],[\bar11\bar1],[\bar1\bar11]$ 方向に置く.
- $C_3$ 軸:4本の C–H 結合そのもの($\langle111\rangle$ 方向,4本 × 2向き = 8個)
- $C_2$ 軸・$S_4$ 軸:立方体の面心を貫く $\langle100\rangle$ 方向(3本)
- $\sigma_d$ 面:2本の C–H 結合を含む面($\binom{4}{2}=6$ 枚)
ステップ1:$\Gamma_{3N}$ の指標.
| 類 | 動かない原子 | $N_R$ | $\Tr R$ | $\chi_{3N}$ |
|---|---|---|---|---|
| $E$ | C と H 4個 | 5 | $3$ | $15$ |
| $8C_3$ | C と,軸上の H 1個(残り3個の H は巡回) | 2 | $0$ | $0$ |
| $3C_2$ | C のみ(H は2組が入れ替わる) | 1 | $-1$ | $-1$ |
| $6S_4$ | C のみ | 1 | $-1$ | $-1$ |
| $6\sigma_d$ | C と,面内の H 2個 | 3 | $1$ | $3$ |
$8C_3$ が $0$ になるのは,$N_R=2$ でも $\Tr C_3 = 0$ だからである.動かない原子がいても指標がゼロになることはある.
ステップ2:既約分解.表10.2 の $T_d$ 指標表,$h=24$,$N_{\mathcal C} = (1,8,3,6,6)$ を使う.
$$ a(A_1) = \frac{1}{24}\bigl[1\cdot1\cdot15 + 8\cdot1\cdot0 + 3\cdot1\cdot(-1) + 6\cdot1\cdot(-1) + 6\cdot1\cdot3\bigr] = \frac{15+0-3-6+18}{24} = \frac{24}{24} = 1 $$ $$ a(A_2) = \frac{1}{24}\bigl[15 + 0 + 3\cdot1\cdot(-1) + 6\cdot(-1)\cdot(-1) + 6\cdot(-1)\cdot3\bigr] = \frac{15+0-3+6-18}{24} = \frac{0}{24} = 0 $$ $$ a(E) = \frac{1}{24}\bigl[1\cdot2\cdot15 + 8\cdot(-1)\cdot0 + 3\cdot2\cdot(-1) + 6\cdot0\cdot(-1) + 6\cdot0\cdot3\bigr] = \frac{30+0-6+0+0}{24} = \frac{24}{24} = 1 $$ $$ a(T_1) = \frac{1}{24}\bigl[1\cdot3\cdot15 + 0 + 3\cdot(-1)\cdot(-1) + 6\cdot1\cdot(-1) + 6\cdot(-1)\cdot3\bigr] = \frac{45+0+3-6-18}{24} = \frac{24}{24} = 1 $$ $$ a(T_2) = \frac{1}{24}\bigl[1\cdot3\cdot15 + 0 + 3\cdot(-1)\cdot(-1) + 6\cdot(-1)\cdot(-1) + 6\cdot1\cdot3\bigr] = \frac{45+0+3+6+18}{24} = \frac{72}{24} = 3 $$検算:$1\times1 + 0 + 1\times2 + 1\times3 + 3\times3 = 1+2+3+9 = 15$ ✓
$$ \Gamma_{3N} = A_1 \oplus E \oplus T_1 \oplus 3T_2 $$ステップ3:並進と回転を引く.表10.2 の右欄から $(x,y,z)\to T_2$,$(R_x,R_y,R_z)\to T_1$.
$$ \Gamma_{trans} = T_2, \qquad \Gamma_{rot} = T_1 $$ $$ \Gamma_{vib} = \bigl(A_1 \oplus E \oplus T_1 \oplus 3T_2\bigr) \ominus T_2 \ominus T_1 $$次元は $1 + 2 + 2\times3 = 9 = 3N-6$ ✓ ∎
ここで重要なのは,9個の振動が4種類にまとまることである.$T_2$ は3重縮退なので,同じ振動数のモードが3つずつある.実験で観測される基準振動数は $1+1+1+1 = 4$ 本になる.
| 記号 | 既約表現 | 縮退度 | 振動の内容 | 実測 ($\mathrm{cm^{-1}}$) |
|---|---|---|---|---|
| $\nu_1$ | $A_1$ | 1 | 全対称伸縮(4本の C–H が同時に伸縮) | 2917 |
| $\nu_2$ | $E$ | 2 | 変角(はさみ形) | 1534 |
| $\nu_3$ | $T_2$ | 3 | 反対称伸縮 | 3019 |
| $\nu_4$ | $T_2$ | 3 | 変角(傘形) | 1306 |
合計 $1+2+3+3 = 9$ で,式 \eqref{eq:10-ch4} と一致する.
10.7 赤外活性・Raman活性と相互排除則
10.7.1 赤外活性の条件
$\Gamma_{vib}$ が求まったところで,それぞれのモードが実験でどう見えるかを決めよう.ここでも定理10.3 がそのまま使える.
導出:赤外(IR)活性の判定条件
赤外吸収は,振動の基底状態(量子数 $v=0$)から第一励起状態($v=1$)への電気双極子遷移である.行列要素は
$$ \langle v=1 \mid \hat{\bm\mu} \mid v=0\rangle, \qquad \hat{\bm\mu} = \sum_j q_j \bm r_j\ (\text{双極子モーメント演算子}) $$始状態の対称性.調和振動子の基底状態の波動関数は $\psi_0 \propto \exp(-\lambda Q^2/2)$ で,$Q$ の偶関数である.どの対称操作でも不変なので,$\Gamma(\psi_0) = \Gamma_1$(全対称)である.
終状態の対称性.第一励起状態は $\psi_1 \propto Q\exp(-\lambda Q^2/2)$ で,$Q$ に比例する.したがって $\psi_1$ は基準座標 $Q$ と同じ既約表現に属する:$\Gamma(\psi_1) = \Gamma(Q)$.
演算子の対称性.$\hat{\bm\mu}$ は位置ベクトルの重ね合わせなので,$(x,y,z)$ と同じ表現に属する.
定理10.3 の条件は
$$ \Gamma(Q)^*\otimes\Gamma(x,y,z)\otimes\Gamma_1 \supset \Gamma_1 $$$\Gamma_1$ との直積は何も変えないので,定理10.2 により,これは $\Gamma(Q)$ と $\Gamma(x,y,z)$ の成分が一致することと同値である.∎
導出:Raman 活性の判定条件
Raman 散乱は光の非弾性散乱で,入射光が誘起する分極 $\bm P = \boldsymbol{\alpha}\bm E$ の,分極率テンソル $\boldsymbol\alpha$ が振動で変調されることによる.関与する演算子は $\hat{\bm\mu}$ ではなく $\alpha_{ij}$(2階対称テンソル,6成分)である.
$\alpha_{ij}$ は $x_ix_j$ と同じように変換するので,$\Gamma(\alpha)$ は
$$ x^2,\quad y^2,\quad z^2,\quad xy,\quad yz,\quad zx $$という2次形式が張る表現である.指標表の右端の欄に,これらがどの既約表現に属するか書いてある.あとは赤外の場合とまったく同じ議論で
∎ 判定は指標表を見るだけで終わる.指標表の右2列は,まさにこの判定のために付いている.
例題10.11 $\mathrm{CH_4}$ の4つのモードを判定する
解答.表10.2 の $T_d$ 指標表の基底欄を読む.$T_d$ では
- 1次式 $(x,y,z)$ → $T_2$
- 2次式:$x^2+y^2+z^2 \to A_1$,$(2z^2-x^2-y^2,\ x^2-y^2)\to E$,$(xy,yz,zx)\to T_2$
式 \eqref{eq:10-ch4} の $\Gamma_{vib}=A_1\oplus E\oplus 2T_2$ の各成分を判定する.
| モード | 既約表現 | $x,y,z$ に含まれるか | IR | 2次式に含まれるか | Raman |
|---|---|---|---|---|---|
| $\nu_1$ (2917) | $A_1$ | いいえ($x,y,z$ は $T_2$) | 不活性 | はい($x^2+y^2+z^2$) | 活性 |
| $\nu_2$ (1534) | $E$ | いいえ | 不活性 | はい($x^2-y^2$ など) | 活性 |
| $\nu_3$ (3019) | $T_2$ | はい | 活性 | はい($xy$ など) | 活性 |
| $\nu_4$ (1306) | $T_2$ | はい | 活性 | はい | 活性 |
予言:赤外スペクトルには2本($\nu_3, \nu_4$),Raman スペクトルには4本すべてが現れる.∎
実験と完全に一致する.メタンの赤外スペクトルには $3019$ と $1306\ \mathrm{cm^{-1}}$ の2本だけが強く現れ,$2917$ と $1534\ \mathrm{cm^{-1}}$ は Raman でしか見えない.分子の形を知っているだけで,スペクトルの本数を当てられる.これが群論の実用的な威力である.
10.7.2 相互排除則
定理10.4(相互排除則, rule of mutual exclusion)
分子(または結晶)が反転中心を持つとき,赤外活性なモードと Raman 活性なモードは完全に排他的である.すなわち,同じ振動数の線が赤外と Raman の両方に現れることはない.
証明.反転中心があれば,すべての既約表現は $g$ か $u$ に分類される.
- 1次式 $(x,y,z)$:反転で $\bm r\to-\bm r$ だから,必ず $u$ 型.
- 2次式 $x_ix_j$:反転で $(-x_i)(-x_j) = x_ix_j$ だから,必ず $g$ 型.
したがって式 \eqref{eq:10-ir} を満たすモードは $u$,式 \eqref{eq:10-raman} を満たすモードは $g$.一つのモードが $g$ と $u$ の両方であることはありえない.∎
例題10.12 $\mathrm{CO_2}$ で相互排除則を確かめる
設定.$\mathrm{CO_2}$ は直線分子(O=C=O)で,点群は $D_{\infty h}$.反転中心が C の位置にある.$N=3$,直線分子なので振動は $3N-5 = 4$ 個である(分子軸まわりの回転は原子を動かさないので,回転の自由度は3個ではなく2個).
4つの自由度は,既約表現で書くと
$$ \Gamma_{vib}(\mathrm{CO_2}) = \sigma_g^+ \oplus \sigma_u^+ \oplus \pi_u $$次元は $1 + 1 + 2 = 4$ ✓($\pi$ は2重縮退).
判定.$D_{\infty h}$ では $z$(分子軸方向)が $\sigma_u^+$,$(x,y)$ が $\pi_u$,$x^2+y^2$ と $z^2$ が $\sigma_g^+$,$(xz,yz)$ が $\pi_g$,$(x^2-y^2,xy)$ が $\delta_g$ に属する.
| モード | 対称性 | 内容 | $\tilde\nu$ ($\mathrm{cm^{-1}}$) | IR | Raman |
|---|---|---|---|---|---|
| $\nu_1$ | $\sigma_g^+$ | 対称伸縮(C は動かない) | 1388 | 不活性 | 活性 |
| $\nu_2$ | $\pi_u$(2重) | 変角(分子が折れ曲がる) | 667 | 活性 | 不活性 |
| $\nu_3$ | $\sigma_u^+$ | 反対称伸縮 | 2349 | 活性 | 不活性 |
見事に排他的である.∎ 図10.4 の下段が,この3つのモードを描いたものである.
物理的な読み方.$\nu_1$ では2本の C=O が同時に伸びるので,左右の双極子が打ち消し合い,正味の双極子モーメントは変化しない.だから赤外光と結合しない.一方,分子の「太さ」(分極率)は変化するので Raman には出る.$\nu_3$ では片側が伸びて片側が縮むので双極子が生じ,赤外活性になる.
物理的意味:$\mathrm{CO_2}$ の $667\ \mathrm{cm^{-1}}$ と温室効果
$\nu_2$(変角モード)の $667\ \mathrm{cm^{-1}}$ は,波長に直すと
$$ \lambda = \frac{1}{667\ \mathrm{cm^{-1}}} = 1.50\times10^{-3}\ \mathrm{cm} = 15.0\ \mu\mathrm{m} $$地表(約 $288\ \mathrm{K}$)が放つ熱放射のピークは,Wien の変位則から $\lambda_{\max} = 2898/288 = 10.1\ \mu\mathrm{m}$ である.$15\ \mu\mathrm{m}$ はそのすぐ隣にあたる.
$\mathrm{CO_2}$ の変角モードが赤外活性であること,そしてその振動数がちょうどここにあること——この二つが重なって,$\mathrm{CO_2}$ は強力な温室効果ガスになっている.もし $\mathrm{CO_2}$ に反転中心がなければ $\nu_1$ も赤外活性になり,温室効果はさらに強かっただろう.対称性が気候を左右していると言うと大げさに聞こえるが,実際そういう話である.
ちなみに $\mathrm{N_2}$ や $\mathrm{O_2}$ は等核二原子分子で,伸縮モードが $\sigma_g^+$ しかない.反転中心があるので赤外不活性であり,大気の99%を占めるにもかかわらず温室効果を持たない.
補足:固体への拡張 — $\Gamma$ 点フォノンの分類
結晶でもまったく同じ手続きが使える.単位胞内の $N$ 原子について $3N$ 次元表現をつくり,点群(正確には $\bm k=0$ での波数群,第11章)で分解する.並進3個を引いた残りが光学フォノンである.
中心対称な結晶(第4章の11点群)では相互排除則が成立し,赤外活性フォノンと Raman 活性フォノンが完全に分かれる.逆に言えば,同じ振動数の線が赤外と Raman の両方に現れたら,その結晶は中心対称ではない.第4章で「Friedel 則のため X線回折では中心対称性が見えにくい」と述べたが,振動分光はその判定にしばしば決定的な証拠を与える.強誘電相転移の研究で Raman 分光が多用される理由の一つである.
さらに,強誘電相転移では特定の光学モードの振動数が転移点に向かってゼロに近づく(ソフトモード).これと Lyddane–Sachs–Teller 関係を通じて誘電率の発散が結び付く.第19章で扱う.
10.8 まとめと演習
10.8.1 まとめ
- 角運動量表現の指標は $\chi^{(\ell)}(\alpha)=\dfrac{\sin[(\ell+\frac12)\alpha]}{\sin(\alpha/2)}$,非真回転 $iC(\alpha)$ では $(-1)^\ell$ 倍.$\ell=1$ に落とすと第4章の $1+2\cos\alpha$ に戻る.$S_4 = iC(270°)$,$S_6=iC(240°)$,$\sigma=iC(180°)$ という書き換えを間違えないこと.
- 八面体場:$\Gamma_d = E_g\oplus T_{2g}$.配位子を直撃する $e_g$ が上,間を向く $t_{2g}$ が下.重心保存則から $E(t_{2g})=-4Dq$,$E(e_g)=+6Dq$,$\Delta_o = 10Dq$.$\Delta_o$ と対形成エネルギー $P$ の大小で高スピン/低スピンが決まる.
- 四面体場:$\Gamma_d = E\oplus T_2$ で,$e$ が下・$t_2$ が上と順序が逆転する.配位子が $\langle111\rangle$ 方向にあり,$t_2$ のローブのほうが $19.4°$ 近いため.$\Delta_t = \frac49\Delta_o$ と小さく,四面体錯体は事実上すべて高スピン.$T_d$ には反転がないので $g/u$ の添字が付かない.
- 対称性の低下:部分群への制限表現は,部分群に属する類の指標だけを拾って分解すればよい.$O_h\to D_{4h}$ では $E_g\to A_{1g}\oplus B_{1g}$,$T_{2g}\to B_{2g}\oplus E_g$.
- Jahn–Teller の定理:軌道縮退した非直線系は必ず歪む.$E_{\rm JT}=-A^2/2k$ が $A\ne0$ である限り必ず負になるからである.$e_g$ 縮退($\mathrm{Cu^{2+}}$ の $d^9$,$\mathrm{Mn^{3+}}$ の高スピン $d^4$)は強く,$t_{2g}$ 縮退は弱い.
- 直積表現の指標は掛け算:$\chi^{(i\otimes j)}(R)=\chi^{(i)}(R)\chi^{(j)}(R)$.$\Gamma_i\otimes\Gamma_j$ が恒等表現を含むのは $\Gamma_j=\Gamma_i^*$ のときだけ,しかもちょうど1回.
- 補題:恒等表現成分を持たない関数の全空間積分はゼロ.証明の核心は「積分が対称操作で不変」→「群平均をとってよい」→「群平均は恒等表現への射影演算子そのもの」という3ステップ.
- 選択則:$\int\psi_f^*\hat O\psi_i\dd\tau \ne 0$ の必要条件は $\Gamma_f^*\otimes\Gamma_O\otimes\Gamma_i \supset \Gamma_1$,実用形は $\Gamma_O\otimes\Gamma_i\supset\Gamma_f$.群論が言えるのは「禁制」までで,「許容」は「ゼロでない可能性がある」の意味.
- Laporte 則:中心対称な系では $\hat{\bm r}$ が $u$ なので $g\to u$,$u\to g$ のみ許容.$d\to d$ は $g\to g$ で禁制.それでも色があるのは,(1) $u$ 型振動による振電相互作用で強度を借用する,(2) $T_d$ には反転がない,(3) 電荷移動遷移は最初から許容,の三つの理由による.$\varepsilon$ の桁がその証拠になる.
- $3N$ 次元変位表現:$\chi_{3N}(R) = N_R\times(\pm1+2\cos\alpha)$.$N_R$ は動かない原子の数.ここから $\Gamma_{trans}$($x,y,z$)と $\Gamma_{rot}$($R_x,R_y,R_z$)を引くと $\Gamma_{vib}$.次元が $3N-6$(直線分子は $3N-5$)になることを必ず検算する.
- $\mathrm{H_2O}$($C_{2v}$):$\Gamma_{3N}=3A_1\oplus A_2\oplus3B_1\oplus2B_2$ から $\Gamma_{vib}=2A_1\oplus B_1$.$\mathrm{CH_4}$($T_d$):$\Gamma_{3N}=A_1\oplus E\oplus T_1\oplus3T_2$ から $\Gamma_{vib}=A_1\oplus E\oplus 2T_2$.
- IR活性は $\Gamma(Q)$ が $x,y,z$ と一致するとき,Raman活性は2次式と一致するとき.$\mathrm{CH_4}$ は IR 2本・Raman 4本.
- 相互排除則:反転中心があると,1次式は必ず $u$,2次式は必ず $g$ なので,IR活性モードと Raman活性モードは完全に分かれる.$\mathrm{CO_2}$ の $\nu_1$ は Raman のみ,$\nu_2,\nu_3$ は IR のみ.
10.8.2 演習問題
演習10.1 $f$ 軌道の八面体場分裂
$\ell=3$($f$ 軌道,7重縮退)が $O_h$ 場でどう分裂するかを求めよ.
(1) 式 \eqref{eq:10-chi-ell} と \eqref{eq:10-chi-improper} を使って,$O_h$ の10類すべてについて $\chi^{(\ell=3)}$ を求めよ.
(2) 既約分解し,次元の検算をせよ.
(3) 結果が $u$ 型ばかりになる理由を説明せよ.
ヒント:(1) $\chi^{(3)}(\alpha)=\sin(7\alpha/2)/\sin(\alpha/2)$.$E:7$,$8C_3:1$,$6C_2:-1$,$6C_4:-1$,$3C_2:-1$,$i:-7$,$6S_4:1$,$8S_6:-1$,$3\sigma_h:1$,$6\sigma_d:1$.(2) $\Gamma_{f} = A_{2u}\oplus T_{1u}\oplus T_{2u}$,次元 $1+3+3=7$ ✓(それぞれ $a_n$ の分子が48になることを確かめよ).(3) $(-1)^{\ell}=(-1)^3=-1$ なので $\chi(i)=-\chi(E)$,つまり $f$ 軌道は奇パリティだから.ランタノイドの $4f$ 電子系の結晶場分裂がこれである.
演習10.2 アンモニア $\mathrm{NH_3}$ の振動
$\mathrm{NH_3}$ は三角錐形で点群 $C_{3v}$($E$, $2C_3$, $3\sigma_v$,$h=6$)である.$C_{3v}$ の指標表は $A_1(1,1,1)$[基底 $z$; $x^2+y^2, z^2$],$A_2(1,1,-1)$[$R_z$],$E(2,-1,0)$[$(x,y)$, $(R_x,R_y)$; $(x^2-y^2,xy)$, $(xz,yz)$]である.
(1) 各操作で動かない原子の数を数え,$\chi_{3N}$ を求めよ.
(2) 既約分解し,$\Gamma_{trans}$ と $\Gamma_{rot}$ を引いて $\Gamma_{vib}$ を求めよ.次元が $3N-6$ になるか検算せよ.
(3) 各モードの IR活性・Raman活性を判定し,赤外スペクトルに何本の吸収が現れるか予言せよ.
ヒント:(1) $N=4$,$3N=12$.$E$ では4原子 → $4\times3=12$.$2C_3$(軸は N と重心を通る)では N のみ → $1\times0=0$.$3\sigma_v$(N と H 1個を含む面)では2原子 → $2\times1=2$.よって $\chi_{3N}=(12,0,2)$.(2) $a(A_1)=\frac16[12+0+3\cdot2]=3$,$a(A_2)=\frac16[12+0-6]=1$,$a(E)=\frac16[24+0+0]=4$.$\Gamma_{3N}=3A_1\oplus A_2\oplus 4E$(次元 $3+1+8=12$ ✓).$\Gamma_{trans}=A_1\oplus E$,$\Gamma_{rot}=A_2\oplus E$ を引いて $\Gamma_{vib}=2A_1\oplus 2E$(次元 $2+4=6=3N-6$ ✓).(3) $A_1$ も $E$ も1次式と2次式の両方を含むので,4モードすべてが IR・Raman ともに活性.反転中心がないので相互排除則は働かない.
演習10.3 三フッ化ホウ素 $\mathrm{BF_3}$ と,相互排除則が使えない場合
$\mathrm{BF_3}$ は平面三角形で点群 $D_{3h}$(類は $E$, $2C_3$, $3C_2$, $\sigma_h$, $2S_3$, $3\sigma_v$,$h=12$)である.指標表は $A_1'(1,1,1,1,1,1)$[$x^2+y^2,z^2$],$A_2'(1,1,-1,1,1,-1)$[$R_z$],$E'(2,-1,0,2,-1,0)$[$(x,y)$; $(x^2-y^2,xy)$],$A_1''(1,1,1,-1,-1,-1)$,$A_2''(1,1,-1,-1,-1,1)$[$z$],$E''(2,-1,0,-2,1,0)$[$(R_x,R_y)$; $(xz,yz)$].
(1) $\Gamma_{3N}$ を求めて既約分解せよ.
(2) $\Gamma_{vib}$ を求めよ.
(3) 各モードの活性を判定せよ.$D_{3h}$ には反転中心がないのに,なぜ「IR にも Raman にも出るモード」と「片方にしか出ないモード」が混在するのかを説明せよ.
ヒント:(1) $N=4$.動かない原子は $E:4$, $2C_3:1$, $3C_2:2$, $\sigma_h:4$, $2S_3:1$, $3\sigma_v:2$.$\Tr R$ は順に $3,0,-1,1,-2,1$.よって $\chi_{3N}=(12,0,-2,4,-2,2)$.分解すると $A_1'\oplus A_2'\oplus 3E'\oplus 2A_2''\oplus E''$(次元 $1+1+6+2+2=12$ ✓).(2) $\Gamma_{trans}=E'\oplus A_2''$,$\Gamma_{rot}=A_2'\oplus E''$ を引いて $\Gamma_{vib}=A_1'\oplus 2E'\oplus A_2''$(次元 $1+4+1=6=3N-6$ ✓).(3) $A_1'$:Raman のみ.$E'$:IR も Raman も活性.$A_2''$:IR のみ.相互排除則は「反転中心があれば完全排他」を主張するが,その逆(反転中心がなければ必ず両方活性)は言っていない.$\sigma_h$ という別の対称要素が,部分的に排他性をもたらしている.
演習10.4 選択則を実際に計算する
$O_h$ 対称の系について,次の電気双極子遷移が許容か禁制かを,指標の計算によって判定せよ($\Gamma_O = T_{1u}$).
(1) $A_{1g}\to T_{1u}$ (2) $T_{1u}\to T_{2g}$ (3) $E_g \to T_{2g}$ (4) $T_{1u}\to A_{2u}$
ヒント:まずパリティだけを見て $g\to g$,$u\to u$ を落とす.(3) は $g\to g$ なので即座に禁制,(4) は $u\to u$ なので即座に禁制.残る (1)(2) を実際に計算する.(1) $T_{1u}\otimes A_{1g}=T_{1u}$ に $T_{1u}$ が含まれる → 許容.(2) $T_{1u}\otimes T_{1u} = A_{1g}\oplus E_g\oplus T_{1g}\oplus T_{2g}$(例題10.7)に $T_{2g}$ が含まれる → 許容.
演習10.5 $O_h\to D_{4h}$ の相関と,赤外スペクトルの分裂
(1) $T_{1u}(O_h)$ を $D_{4h}$ に落とすと $A_{2u}\oplus E_u$ になることを,10.3節の類の対応表と表10.3 を使って示せ($D_{4h}$ の $u$ 型の指標は,対応する $g$ 型の指標の $i$ 以降の符号を反転させたものである).
(2) 八面体錯体 $\mathrm{ML_6}$ の M–L 伸縮のうち $T_{1u}$ 対称のモードは,赤外スペクトルに1本の吸収として現れる.この錯体が $z$ 方向に伸長して $D_{4h}$ になると,この吸収は何本に分裂するか.
(3) この結果は,赤外分光が Jahn–Teller 歪みの検出に使えることを意味する.なぜか説明せよ.
ヒント:(1) $T_{1u}$ の指標 $(3,0,-1,1,-1,-3,-1,0,1,1)$ を $D_{4h}$ の類に落とすと $(3,1,-1,-1,-1,-3,-1,1,1,1)$.$a(A_{2u})=1$,$a(E_u)=1$,他はゼロ.(2) $A_{2u}$($z$ 方向の振動)と $E_u$(面内の振動)はもはや別のエネルギーを持つので,2本に分裂する.(3) 高対称構造では縮退していた振動が,歪みによって分裂して現れる.分裂幅から歪みの大きさが見積もれる.
演習10.6 結晶場と実在物質
(1) $[\mathrm{Cr(H_2O)_6}]^{3+}$ の吸収極大は $\lambda = 575\ \mathrm{nm}$ である.$\Delta_o$ を $\mathrm{eV}$ と $\mathrm{cm^{-1}}$ で求めよ.またこの錯体は何色に見えるか.
(2) $\mathrm{Cr^{3+}}$ は $d^3$ である.八面体場での電子配置を書き,Jahn–Teller 歪みを示すかどうか判定せよ.
(3) スピネル $\mathrm{Fe_3O_4}$ では $\mathrm{Fe^{3+}}$($d^5$ 高スピン)と $\mathrm{Fe^{2+}}$($d^6$ 高スピン)が四面体サイトと八面体サイトに分布する.結晶場安定化エネルギー(CFSE)を $\Delta_o$, $\Delta_t$ で表し,$\mathrm{Fe^{2+}}$ がどちらのサイトを好むか論ぜよ.
ヒント:(1) $E = 1239.8/575 = 2.16\ \mathrm{eV}$,$\times 8065.5 = 17400\ \mathrm{cm^{-1}}$.$575\ \mathrm{nm}$ は黄緑で,その補色は紫.実際この錯体は紫色である.(2) $t_{2g}^3e_g^0$.$t_{2g}$ に3個が1個ずつ入り,$e_g$ は空.縮退がないので Jahn–Teller 歪みなし.ルビー($\mathrm{Al_2O_3}$ 中の $\mathrm{Cr^{3+}}$)が安定な八面体配位をとる理由でもある.(3) 高スピン $d^5$ は $t_{2g}^3e_g^2$ で CFSE $=3(-4Dq)+2(6Dq)=0$,四面体でも $e^2t_2^3$ で CFSE $=0$.つまり $\mathrm{Fe^{3+}}$ はどちらのサイトでも損得なし.$d^6$ は八面体で $t_{2g}^4e_g^2$,CFSE $=4(-4Dq)+2(6Dq)=-4Dq=-0.4\Delta_o$,四面体では $e^3t_2^3$ なので CFSE $=3(-0.6\Delta_t)+3(0.4\Delta_t)=-0.6\Delta_t$,$\Delta_t=\frac49\Delta_o$ を使えば $-0.27\Delta_o$ 相当.差し引いた八面体サイト選択エネルギー(OSPE)は $-0.4\Delta_o-(-0.27\Delta_o)=-0.13\Delta_o$ である.よって $\mathrm{Fe^{2+}}$ は八面体サイトを好む.実際のサイト分布は CFSE だけで決まるわけではないが,この差が逆スピネル構造 $(\mathrm{Fe^{3+}})_{\rm A}[\mathrm{Fe^{2+}Fe^{3+}}]_{\rm B}\mathrm{O_4}$ を有利にする重要な一因である.第20章のフェリ磁性につながる.
参考文献
- M. S. Dresselhaus, G. Dresselhaus, A. Jorio, Group Theory: Application to the Physics of Condensed Matter, Springer (2008), Chapter 5(結晶場中の原子軌道の分裂=10.1–10.3節), Chapter 6(選択則と直積表現=10.4–10.5節), Chapter 8(分子振動・赤外・Raman 活性=10.6–10.7節). —— 本章の骨格はこの3章に対応する.
- 望月 泰英「物質の対称性と群論」望月研究室勉強会資料(2026年4月24日),「応用例1. $d$ 軌道の結晶場分裂」.—— 10.1節の $O_h$ の類ごとの指標の表は,この資料と同じものである.
- 今野 豊彦『物質の対称性と群論』共立出版,第5章・第6章.
- F. A. Cotton, Chemical Applications of Group Theory, 3rd ed., Wiley (1990), Chapters 8–10. —— 分子振動と選択則の標準的な教科書.指標表の巻末付録が実用的である.
- C. J. Ballhausen, Introduction to Ligand Field Theory, McGraw-Hill (1962). —— 結晶場・配位子場理論の古典.
- H. A. Jahn, E. Teller, "Stability of Polyatomic Molecules in Degenerate Electronic States", Proc. R. Soc. Lond. A 161, 220 (1937). —— Jahn–Teller 定理の原論文.
- キッテル『固体物理学入門』第8版,第16章(誘電体と強誘電体).光学モードと Lyddane–Sachs–Teller 関係については第14章.—— 相互排除則の固体版.