第15章標準模型の先へ
第13章までで標準模型は完成した.$SU(3)_C\times SU(2)_L\times U(1)_Y$ というゲージ群と,3世代のクォークとレプトン,そして一つの Higgs 二重項.19個(ニュートリノ質量を含めれば26個以上)のパラメータを実験で決めてやれば,あとは原理的にすべての現象が計算できる.2012 年に Higgs ボソンが見つかったことで,標準模型が予言した粒子はすべて見つかった.終わった,のだろうか.
終わっていない.標準模型は,宇宙の中身(エネルギー密度)の 5 % しか記述していないからである.Planck 衛星による宇宙背景放射の精密測定は,宇宙のエネルギー収支が「通常の物質 4.9 %,暗黒物質 26.4 %,暗黒エネルギー 68.5 %」であることを示した.標準模型が記述するのは最初の 4.9 % だけである.残りの 95 % が何でできているのか,我々は知らない.
それだけではない.標準模型はニュートリノがなぜ軽いのかを説明しない(第14章).なぜ物質だけが残って反物質が消えたのかを説明しない.三つのゲージ結合定数がなぜ三つ別々にあるのかを説明しない.電荷がなぜ $e/3$ の整数倍に量子化されているのかを説明しない.そして最も苛立たしいことに,Higgs ボソンの質量がなぜ $125$ GeV なのか——なぜ $10^{19}$ GeV まで持ち上がってしまわないのか——を説明しない.この最後の問題を階層性問題という.量子補正は
$$ \delta m_H^2 \;=\; -\,\frac{3 y_t^2}{8\pi^2}\,\Lambda^2 $$という形で効き,カットオフ $\Lambda$ を Planck 質量 $1.22\times10^{19}$ GeV に取ると,裸の質量二乗と量子補正が 32 桁目まで打ち消し合わねばならない.これは偶然と呼ぶには苦しい.
本章はこれら「標準模型の先」の話題を一巡する.大統一理論,バリオン数生成,超対称性,弦理論,余剰次元,そして暗黒物質と暗黒エネルギーの正体.ここで一つ区別しておく.暗黒物質と暗黒エネルギーについては,存在そのものは観測によって確立している(15.5 節で見るように,回転曲線・重力レンズ・弾丸銀河団・宇宙背景放射の四つが独立に暗黒物質を要求し,暗黒エネルギーは加速膨張という観測事実に対応する).確立していないのはその正体であり,それを説明する理論はどれも実験的に裏づけられていない.他の話題は,存在そのものが仮説である.正直にそう書く.確立していないものを確立したように書くのは,教科書として最も避けるべきことである.
そのうえで,本章には材料科学者にとって非常に具体的な出口がある.検出器としての材料である.暗黒物質を捕まえようとする実験は,究極の低バックグラウンド材料科学そのものである.$^{238}$U を $10^{-13}$ g/g 以下まで落とした結晶,$10\ \mathrm{mK}$ で動く $\mathrm{TeO_2}$ ボロメータ,液体 Xe のシンチレーション光($175$ nm)を $95\ \%$ 以上反射する PTFE,正味不純物濃度を $10^{10}\ \mathrm{cm^{-3}}$ まで落とした Ge 単結晶,転移端の急峻さで $\dd R/\dd T$ を稼ぐ超伝導センサ.さらに axion 探索では,素粒子論の $\theta F\tilde F$ 項とトポロジカル絶縁体の軸性電磁応答が文字通り同じ Lagrangian であることが分かってきた.15.6 節では,これらを比喩ではなく式と数値で扱う.
- Higgs ボソンの四つの生成過程(ggF, VBF, VH, $t\bar tH$)と断面積,$\gamma\gamma$・$ZZ^*$ が「金のチャンネル」である理由
- 崩壊分岐比の表と,$\Gamma(H\to b\bar b)/\Gamma(H\to\tau\tau)$ を色因子と走る質量から再現する計算
- 結合定数の質量比例性 $g_f=m_f/v$ の検証,および $v=246.22$ GeV が $G_F$ から出ること
- ミュオンの異常磁気モーメント $a_\mu$ の現状:食い違っているのは実験と理論ではなくハドロン真空偏極の二つの評価法であること
- 階層性問題の定量的評価:自然さが要求する新物理スケール $\Lambda\lesssim2$ TeV
- 1ループのくりこみ群方程式を解いて $\alpha_1,\alpha_2,\alpha_3$ の交点を自分で求めること(標準模型では交わらない,MSSM では $2\times10^{16}$ GeV で交わる)
- $SU(5)$ における電荷の量子化:$Q_d=-1/3$ が「色が3つある」ことから出ること
- 陽子崩壊の寿命公式 $\tau\sim M_X^4/(\alpha_G^2m_p^5)$ と Super-Kamiokande の下限が与える $M_X>4.8\times10^{15}$ GeV
- バリオン数非対称 $\eta=6.1\times10^{-10}$,Sakharov の3条件,標準模型が失敗する二つの理由,レプトジェネシス
- 超対称性の三つの動機(二次発散の相殺・結合定数の収束・暗黒物質候補)と,見つかっていないという事実
- 弦理論と余剰次元の現状を正直に述べること,および重力の逆二乗則の実験検証
- 回転曲線・重力レンズ・弾丸銀河団・CMB による暗黒物質の証拠,WIMP の奇跡,axion と強い CP 問題
- 宇宙定数問題:$\rho_\Lambda^{1/4}=2.2$ meV と $M_{\rm Pl}^4$ の $10^{122}$ 倍のずれ
- 材料科学との接点:放射能清浄度という材料指標,極低温ボロメータと TES,液体 Xe TPC,NaI(Tl),高純度 Ge,超伝導空洞,トポロジカル絶縁体の axion 電磁力学
15.1 Higgs ボソン
15.1.1 2012年7月4日
2012 年 7 月 4 日,CERN の講堂で ATLAS と CMS の二つの実験グループが,それぞれ独立に $125$ GeV 付近の新粒子の発見を報告した.有意度は発表当日の時点で ATLAS が $5.0\sigma$,CMS が $4.9\sigma$,同年の論文ではそれぞれ $5.9\sigma$,$5.0\sigma$ であった.素粒子物理では $5\sigma$(偶然に起きる確率 $3\times10^{-7}$)を発見の基準とするので,二つの実験がそれぞれ単独でこの水準に達したことになる.翌 2013 年,Englert と Higgs にノーベル物理学賞が贈られた.
この粒子が Higgs ボソンであると言うためには,質量が合っているだけでは足りない.次の三つを確かめる必要がある.
- スピンとパリティが $J^{PC}=0^{++}$ であること.$H\to ZZ^*\to 4\ell$ の四つのレプトンの角度分布から,$0^-$ や $2^+$ の仮説は $99.9\ \%$ 以上の信頼度で棄却された.
- 結合が質量に比例すること.これが Higgs 機構の核心である(15.1.4 項).
- 自己結合をもつこと.$\lambda$ の測定は $HH$ 生成の断面積が小さすぎて,まだできていない.HL-LHC でようやく $\pm50\ \%$ 程度に迫れる見込みである.
したがって現状は「二つは確かめた,一つはこれから」である.測定された質量は
である.全崩壊幅は標準模型の予言で $\Gamma_H=4.07$ MeV,寿命に直すと
$$ \tau_H = \frac{\hbar}{\Gamma_H} = \frac{6.582\times10^{-22}\ \mathrm{MeV\,s}}{4.07\ \mathrm{MeV}} = 1.62\times10^{-22}\ \mathrm{s} $$である.なお全崩壊幅そのものも,オフシェル生成 $H^*\to ZZ$ を使って直接測られるようになり,$\Gamma_H=3.2^{+2.4}_{-1.7}$ MeV(CMS 2022),$4.5^{+3.3}_{-2.5}$ MeV(ATLAS 2023)と,上の予言に無矛盾な値が得られている.$m_H$ に比べて $\Gamma_H/m_H=3\times10^{-5}$ と極端に細い.これは Higgs が $t\bar t$ 対にも $W$ 対にも実崩壊できず($2m_t=345$ GeV,$2m_W=161$ GeV はどちらも $m_H$ より重い),仮想的な $W^*$,$Z^*$ を経由するしかないためである.皮肉なことに,$m_H$ がもう少し重ければ $WW$ への実崩壊が開いて全幅が一気に広がり $\gamma\gamma$ の分岐比が潰れ,もう少し軽ければ $ZZ^*\to4\ell$ の分岐比が急減して($m_H=115$ GeV では $0.87\ \%$ で,$125$ GeV の $2.62\ \%$ の3分の1しかない)金のチャンネルの一方を失っていた.$125$ GeV は,人間が Higgs を精密に調べるうえで最も都合のよい値だったのである.
15.1.2 どうやって作るか —— 四つの生成過程
陽子・陽子衝突で Higgs を作る主要な過程は四つある(図15.1).Higgs は質量に比例して結合するので,軽いクォークからはほとんど作れない.陽子の中身は $u$,$d$,グルーオンであり,$u$,$d$ の湯川結合は $10^{-5}$ 程度しかない.そこで実際に効くのは,重い粒子をループで回すか,ゲージボソンを介するかである.
| 過程 | 記号 | 断面積 [pb] | 割合 | 結合する頂点 |
|---|---|---|---|---|
| グルーオン融合 | $gg\to H$ | 48.6 | 88.2 % | $y_t$(三角ループ) |
| ベクトルボソン融合 | $qq\to qqH$ | 3.78 | 6.9 % | $g_{HVV}=2m_V^2/v$ |
| $W$ 随伴生成 | $q\bar q\to WH$ | 1.37 | 2.5 % | $g_{HWW}$ |
| $Z$ 随伴生成 | $q\bar q\to ZH$ | 0.88 | 1.6 % | $g_{HZZ}$ |
| トップ随伴生成 | $gg\to t\bar tH$ | 0.51 | 0.9 % | $y_t$(直接) |
| 合計 | 55.1 | 100 % |
なぜ「1億分の1のごみの山から探す」ことになるのか
$\sqrt s=13$ TeV での陽子・陽子の非弾性散乱の全断面積は約 $80$ mb $=8\times10^{10}$ pb である(TOTEM の測定値は $79.5\pm1.8$ mb,ATLAS は $78.1\pm2.9$ mb).Higgs 生成の $55$ pb と比べると
$$ \frac{\sigma_H}{\sigma_{\rm inel}} = \frac{55}{8\times10^{10}} = 6.9\times10^{-10} $$つまり 15 億回の衝突に 1 回しか Higgs はできない.さらにそこから $H\to\gamma\gamma$(分岐比 $0.227\ \%$)を選ぶと $1.56\times10^{-12}$,およそ 6400 億回に 1 回である.LHC は $40$ MHz で衝突を起こし,1回の交差で平均 $30\text{--}60$ 個の陽子対が相互作用する.それでも $\gamma\gamma$ の事象は 1 日あたり $160\text{--}320$ 個(平均 $45$ 個の相互作用なら $2.4\times10^2$ 個)しか生まれない.年間の稼働率を掛ければ,実効的には 1 日 100 個台である.
これは材料科学における微量分析の感覚に近い.ICP-MS で $\mathrm{ppt}$($10^{-12}$)の不純物を検出するのと同じ桁の「針を藁の山から探す」問題であり,実際どちらも背景を減らすことが感度を決めるという点で同じ構造をしている.15.6 節ではこの点を徹底的に掘る.
15.1.3 どうやって見つけるか —— 崩壊チャンネル
Higgs は作った端から崩壊する(寿命 $1.6\times10^{-22}$ s では,光速で走っても $4.9\times10^{-14}$ m しか進まない.水素原子の大きさ($5.3\times10^{-11}$ m)の 1000 分の 1 である).したがって観測できるのは崩壊生成物だけである.
| チャンネル | 分岐比 $B$ | 部分幅 [MeV] | 実験での使いやすさ |
|---|---|---|---|
| $b\bar b$ | 58.2 % | 2.37 | △ 背景の QCD ジェットが $10^7$ 倍多い.VH 生成と組んで初めて見える |
| $WW^*$ | 21.4 % | 0.87 | △ $\ell\nu\ell\nu$ はニュートリノで質量ピークが作れない |
| $gg$ | 8.19 % | 0.33 | × 2ジェット,背景に完全に埋もれる |
| $\tau^+\tau^-$ | 6.27 % | 0.255 | ○ 第3世代レプトンへの結合を測れる |
| $c\bar c$ | 2.89 % | 0.118 | × チャームタグの効率が足りない |
| $ZZ^*\to 4\ell$ | 2.62 %($4\ell$ は $0.0125$ %) | 0.107 | ◎ 金のチャンネル.背景ほぼ皆無,質量分解能 $1\text{--}2$ % |
| $\gamma\gamma$ | 0.227 % | 0.0092 | ◎ 金のチャンネル.分解能 $1\text{--}2$ %,背景は滑らかで差し引ける |
| $Z\gamma$ | 0.153 % | 0.0062 | △ 2023 年にようやく $3.4\sigma$ |
| $\mu^+\mu^-$ | 0.0218 % | 0.00089 | ○ 2020 年に $3\sigma$.第2世代への結合の唯一の手がかり |
物理的意味:一番多いチャンネルが一番役に立たない
表15.2 を眺めると,発見に使われた二つのチャンネル($\gamma\gamma$ と $ZZ^*\to4\ell$)が,分岐比では最下位の部類であることに気づく.合わせても $0.24\ \%$ しかない.一方,$58\ \%$ を占める $b\bar b$ は発見にはまったく使えなかった.
理由は信号対背景比である.$H\to\gamma\gamma$ は,二つの高エネルギー光子の不変質量に鋭いピークを作る.背景($q\bar q\to\gamma\gamma$ など)は $m_{\gamma\gamma}$ の滑らかな関数なので,多項式でフィットして差し引ける.これに対し $H\to b\bar b$ の背景は QCD の $b\bar b$ 生成であり,断面積が $10^7$ 倍大きいうえに形も似ている.
この「多数派より少数派の方が測りやすい」という構図は,材料の分光でもまったく同じである.たとえば X 線回折で主相の Bragg ピークは強いが,そこから微量な第二相を読み取ることは難しい.むしろ主相が信号をもたない領域(禁制反射や特定の $Q$ 領域)を狙うほうが,桁違いに高い感度が得られる.背景がゼロの窓を探すのが,どちらの分野でも定石である.
15.1.4 結合は質量に比例するか
Higgs 機構の主張は明快である.フェルミオンの質量は湯川結合と真空期待値の積から生じるから(第13章)
である.ここで真空期待値 $v$ は Fermi 定数から決まる:
導出:$v=246.22$ GeV を $G_F$ から出す
ステップ1:低エネルギー極限で $W$ 交換を4点接触に潰す.第12章で見たように,$q^2\ll m_W^2$ では $W$ の伝播関数 $1/(q^2-m_W^2)\to-1/m_W^2$ となり,振幅は
$$ \mathcal{M} \simeq \frac{g_w^2}{8m_W^2}\,\big[\bar u\gamma^\mu(1-\gamma^5)u\big]\big[\bar u\gamma_\mu(1-\gamma^5)u\big] $$となる.Fermi 理論との対応から
$$ \frac{G_F}{\sqrt2} = \frac{g_w^2}{8m_W^2} $$ステップ2:$m_W$ を $v$ で書く.第13章の Higgs 機構により $m_W=g_w v/2$ である.これを代入すると $g_w^2$ が消える:
$$ \frac{G_F}{\sqrt2} = \frac{g_w^2}{8\cdot (g_w v/2)^2} = \frac{g_w^2}{2g_w^2v^2} = \frac{1}{2v^2} $$ステップ3:$v$ について解く.
ステップ4:数値を入れる.$G_F=1.1663787\times10^{-5}\ \mathrm{GeV^{-2}}$ を使うと
$$ \sqrt2\,G_F = 1.41421\times1.1663787\times10^{-5} = 1.64951\times10^{-5}\ \mathrm{GeV^{-2}} $$ $$ v = \left(1.64951\times10^{-5}\right)^{-1/2} = \left(6.06239\times10^{4}\right)^{1/2} = 246.22\ \mathrm{GeV} $$この $246.22$ GeV は,実験で測られた $\mu$ 粒子の寿命ひとつから決まっている.そして式 \eqref{eq:15-yukawa} により,これがすべてのフェルミオン質量の「換算係数」になる.たとえば電子は $y_e=2.94\times10^{-6}$ という,理由の分からない小さな数を持たされている.標準模型は質量の値を説明しない.説明するのは,質量と結合の比だけである.
この比例則を実験と比べたのが図15.2 である.横軸に粒子の質量,縦軸に測定された Higgs 結合(フェルミオンは $\kappa_f m_f/v$,ベクトルボソンは $\sqrt{\kappa_V}\,m_V/v$ という換算をする)を取ると,$\mu$ の $4.3\times10^{-4}$ から $t$ の $0.70$ まで3桁にわたって一本の直線に乗る(縦軸の目盛りは $10^{-4}$ から $1$ までを取ってある).傾きは $1$,切片は $-\log_{10}v$ である.
注意:この直線は「説明」ではない
図15.2 の直線を見て「Higgs 機構が質量の起源を説明した」と言いたくなるが,正確ではない.式 \eqref{eq:15-yukawa} が言っているのは,$m_f$ と $y_f$ が比例するということだけである.なぜ $y_t=0.99$ で $y_e=2.9\times10^{-6}$ なのか,つまりなぜ 5 桁半もの階層があるのかは,標準模型の外にある.これをフレーバー問題という.
物性の言葉に翻訳すると,Higgs 機構は「秩序変数 $v$ が有限になると準粒子にギャップが開く」という BCS 型の主張であって,「各バンドの結合定数がなぜその値なのか」は別問題である,ということである.どちらの分野でも,機構と,機構に入る材料定数の値とは,別の階層の問いである.
15.1.5 ミュオンの異常磁気モーメント $a_\mu$
Higgs の節の最後に,標準模型の先を探す道具としていま最も精密な一つを置いておく.ミュオンの異常磁気モーメント
$$ a_\mu \equiv \frac{g_\mu-2}{2} $$である.Dirac 方程式は $g=2$ を与える(第9章).そこからのずれ $a_\ell$ はすべて量子補正であり,最低次は第10章 10.6.5 項で計算した Schwinger 項 $\alpha/2\pi=1.1614\times10^{-3}$ である.ミュオンの $a_\mu$ は,理論も実験も $10^{-10}$ の桁まで押し下げられているため,標準模型の全体を一つの数で試す検査になる.
実験の現状は,Fermilab の Muon $g-2$ 実験が 2025 年に最終結果を出し,BNL の結果と合わせた世界平均が
である.相対精度 $0.12$ ppm.一方,標準模型の予言は寄与を足し合わせて作る(単位はすべて $10^{-11}$):
$$ \frac{a_\mu^{\rm SM}}{10^{-11}} = \underbrace{116\,584\,719}_{\text{QED(5ループまで)}} \;+\;\underbrace{154}_{\text{電弱}} \;+\;\underbrace{6845\ \text{または}\ 7045}_{\text{ハドロン真空偏極(HVP)}} \;+\;\underbrace{92\ \text{または}\ 115}_{\text{ハドロン光子光子散乱}} $$問題は第3項である.HVP は $\gamma$ の自己エネルギーにクォーク・グルーオンが入る寄与で,摂動論が使えない.評価法が二つあり,値が食い違っている.
- データ駆動($R$ 比):$e^+e^-\to$ ハドロンの断面積の実測から分散関係で組み上げる.$6845\times10^{-11}$(2020 年の理論白書),合計 $a_\mu^{\rm SM}=116\,591\,810\,(43)\times10^{-11}$.
- 格子 QCD:HVP を格子上で直接計算する(BMW 2021 以降).$7045\times10^{-11}$(2025 年の理論白書.ハドロン光子光子散乱も同時に $92$ から $115$ に改訂),合計 $a_\mu^{\rm SM}=116\,592\,033\,(62)\times10^{-11}$.
式 \eqref{eq:15-amu} と比べると,格子 QCD を採る 2025 年の理論白書の値との差は $0.6\sigma$ で一致している.ところが従来のデータ駆動の値との差は $2.6\times10^{-9}$ で,両者の誤差を二乗和した $4.5\times10^{-10}$ の $5.8$ 倍($5.8\sigma$)にもなる.つまり現在の食い違いは「実験 vs 理論」ではなく理論側の二つの評価法の間にあり,その背後には $e^+e^-\to\pi^+\pi^-$ の断面積の実測そのものの不一致(CMD-3 と KLOE・BaBar)がある.
注意:「$4\text{--}5\sigma$ の乖離」という言い方は現在は保留すべきである
2021–2023 年には「ミュオン $g-2$ に $4\text{--}5\sigma$ の乖離があり,新物理の兆候である」と広く言われた.この言い方はデータ駆動の HVP を標準模型予言として採用した場合のものであって,格子 QCD の HVP を採れば乖離は消える.どちらが正しいかが決まるまで,$a_\mu$ を「新物理の証拠」として挙げることはできない.理論の不定性が実験精度を上回っているとき,差は物理ではなく手法の差であるという,測定一般に通じる教訓でもある.
なぜ電子ではなくミュオンなのか
質量 $m_\ell$ のレプトンに,質量 $\Lambda$ の新粒子がループで効くとすると,その寄与は
$$ \delta a_\ell \sim \frac{\alpha}{4\pi}\,\frac{m_\ell^2}{\Lambda^2} $$のように $m_\ell^2/\Lambda^2$ に比例する.したがってミュオンは電子より $(m_\mu/m_e)^2=4.3\times10^4$ 倍だけ新物理に敏感である.
絶対精度では電子のほうがはるかに良い.$a_e=1.159\,652\,180\,59(13)\times10^{-3}$ の不確かさは $1.3\times10^{-13}$ で,$a_\mu$ の $1.45\times10^{-10}$ より $1.1\times10^3$ 倍細かい.しかし感度が $4.3\times10^4$ 倍あるので,差し引き $a_\mu$ のほうが約 $40$ 倍強い制限を与える.これが $a_\mu$ に労力が注がれる理由である.
到達スケールを見ておく.式の右辺を現在の不確かさ $1.45\times10^{-10}$ と等しく置くと,ループ因子 $\alpha/4\pi$ を伴う典型的な新物理なら $\Lambda\simeq210$ GeV,結合が $O(1)$ で $\alpha/4\pi$ が付かない場合は $\Lambda\simeq8.8$ TeV となる.LHC の直接探索と補い合う窓である.
15.1.6 階層性問題
ここからが本章の主題への入り口である.Higgs はスカラー場であり,スカラー場の質量には質量を守る対称性がない.これが問題の根源である.
導出:Higgs 質量への二次発散
ステップ1:どの補正が効くかを見る.Higgs 質量への1ループ補正のうち最大のものは,最も結合の強い粒子,すなわちトップクォークのループである.湯川相互作用 $\Lag_Y=-y_t\,\bar t\,t\,H/\sqrt2$ から,自己エネルギーは
$$ -\ii\Sigma(p^2) = -\left(\frac{y_t}{\sqrt2}\right)^{\!2} N_c\,(-1)\!\int\!\frac{\dd^4k}{(2\pi)^4}\, \Tr\!\left[\frac{\ii}{\slashed k-m_t}\,\frac{\ii}{\slashed k+\slashed p-m_t}\right] $$となる.$N_c=3$ は色の数,$(-1)$ はフェルミオンループの符号(第10章)である.
ステップ2:大きい $k$ での振る舞いだけを見る.$k\to\infty$ ではトレースの分子が $\sim 4k^2$,分母が $\sim k^4$ なので,被積分関数は $1/k^2$ のように振る舞う.したがって
$$ \Sigma \sim \frac{y_t^2 N_c}{2}\int^\Lambda\!\frac{\dd^4k}{(2\pi)^4}\,\frac{4}{k^2} $$$\dd^4k\sim k^3\dd k$ だから,被積分関数は $k\,\dd k$ となり,積分は $\Lambda^2$ で発散する.丁寧に係数を追うと
ステップ3:数値を入れる.$y_t=0.992$ より $y_t^2=0.984$,したがって係数は
$$ \frac{3\times0.984}{8\pi^2} = \frac{2.951}{78.96} = 0.0374 $$カットオフを Planck 質量 $\Lambda=M_{\rm Pl}=1.22\times10^{19}$ GeV に取ると $\Lambda^2=1.49\times10^{38}\ \mathrm{GeV^2}$ であり
$$ \abs{\delta m_H^2} = 0.0374\times1.49\times10^{38} = 5.57\times10^{36}\ \mathrm{GeV^2} $$ステップ4:観測値と比べる.$m_H^2=(125.25)^2=1.569\times10^4\ \mathrm{GeV^2}$ である.つまり
$$ \frac{\abs{\delta m_H^2}}{m_H^2} = \frac{5.57\times10^{36}}{1.569\times10^{4}} = 3.5\times10^{32} $$裸の質量二乗 $m_{H,0}^2$ と量子補正 $\delta m_H^2$ は,どちらも $10^{36}\ \mathrm{GeV^2}$ の桁でありながら,その差が $1.6\times10^4\ \mathrm{GeV^2}$ でなければならない.32 桁目まで一致して 33 桁目で食い違うという調整が要る.これが階層性問題である.
なぜフェルミオンやゲージボソンでは問題にならないのか
電子の質量にも量子補正はあるが,こちらは
$$ \delta m_e = \frac{3\alpha}{4\pi}\,m_e\,\ln\!\frac{\Lambda^2}{m_e^2} $$と,$\Lambda$ の対数でしか増えない.しかも補正が $m_e$ に比例している.$\Lambda=M_{\rm Pl}$ でも $\ln(\Lambda^2/m_e^2)=2\ln(1.22\times10^{19}/5.11\times10^{-4})=2\times51.5=103$ だから $\delta m_e/m_e=(3/137.0/4\pi)\times103=0.18$,たった $18\ \%$ である.
理由はカイラル対称性である.$m_e\to0$ の極限で,左巻きと右巻きを独立に回す対称性 $\psi_{L,R}\to\ee^{\ii\theta_{L,R}}\psi_{L,R}$ が回復する.対称性が回復する点は量子補正でも守られるので,補正は必ず $m_e$ に比例せざるを得ない.同様にゲージボソンの質量はゲージ対称性が守る.’t Hooft はこれを技術的自然さと呼んだ:「あるパラメータをゼロにしたときに対称性が増えるなら,そのパラメータが小さいことは自然である」.
ところがスカラーには,$m_H\to0$ で回復する対称性がない.守るものがないから,カットオフスケールまで持ち上がってしまう.超対称性(15.4 節)は,スカラーにフェルミオンの相棒を用意することで,フェルミオンのカイラル対称性による保護をスカラーに移植するアイディアである.
物性の言葉でいえば,これは「秩序変数の質量項($T$ からの距離 $a(T-T_c)$)は,対称性で守られないので微視的スケールで決まってしまう」という Ginzburg–Landau 理論の悩みと同型である.ただし対応はここで切れる.超伝導では BCS の指数関数 $\Delta=2\hbar\omega_D\ee^{-1/N(0)V}$ が $T_c\ll E_F$ という巨大な階層を自然に作ってくれるのに対し,Higgs にはその「指数関数」に相当する機構がまだ見つかっていない.そこが階層性問題の本質である.(なお $T_c$ を第一原理で数 $\%$ の精度で当てることが極めて難しいのは,主に McMillan・Allen–Dynes 式の $\exp(-1/\lambda)$ という指数的感度と電子相関・非調和性の扱いによるもので,これとは別の問題である.)
階層性問題への応答は,歴史的に四つに分かれる.
- 新しい対称性を入れる(超対称性).ボソンとフェルミオンのループが符号違いで相殺し,$\Lambda^2$ が消える.
- Higgs を複合粒子にする(テクニカラー,複合 Higgs).$\Lambda$ が複合スケールで止まる.しかし電弱精密測定と折り合いが悪い.
- $\Lambda$ そのものを下げる(余剰次元).重力が強くなるスケールを TeV まで下げれば,$M_{\rm Pl}$ という巨大な数が最初から存在しない.
- 調整を受け入れる(人間原理,多重宇宙).$10^{500}$ 個の真空のうち,$m_H$ が偶然小さいものにだけ観測者が生まれる,という論法.
$1$–$3$ はいずれも TeV スケールに新粒子を予言する.LHC は Run 2($13$ TeV,2015–2018 年)で $140\ \mathrm{fb^{-1}}$ を蓄積し,Run 3($13.6$ TeV,2022 年–)でさらにデータを積み上げているが,新粒子は一つも見つかっていない.これは重い事実である.15.4 節で正直に扱う.
15.2 大統一
15.2.1 なぜ「統一」を考えるのか —— 電荷の量子化
標準模型のゲージ群は $SU(3)_C\times SU(2)_L\times U(1)_Y$ という三つの因子の直積である.因子が三つあるということは,結合定数が三つ独立にあるということであり,理論は「なぜ $g_3$,$g_2$,$g'$ がこの値なのか」を答えない.
それだけならまだよいが,$U(1)_Y$ の存在にはもっと具体的な不満がある.$U(1)$ の電荷は,群論的には何でもよいのである.$U(1)$ の既約表現は $\ee^{\ii q\theta}$ で,$q$ は任意の実数でよい.ところが実験によれば,電子と陽子の電荷は
$$ \frac{\abs{Q_p+Q_e}}{e} < 1\times10^{-21} $$という驚くべき精度で打ち消し合っている(中性の物質が本当に中性であることの実験的検証から).クォークの電荷はきっちり $2/3$ と $-1/3$ であり,$0.6670$ でも $0.3334$ でもない.なぜこんなに精密に量子化されているのか.
なぜ? 非可換群では電荷が量子化される
$SU(2)$ を思い出そう.第5章で見たように,$SU(2)$ の生成子 $T_3$ の固有値は $-j,-j+1,\dots,j$ という離散値しか取れない.半整数か整数の飛び飛びの値である.これは $SU(2)$ が非可換でコンパクトだからで,交換関係 $[T_+,T_-]=2T_3$ が固有値を階段状に縛る.
電荷 $Q$ が,何かもっと大きな単純群($U(1)$ 因子を含まない群)の生成子の一つであったなら,$Q$ の固有値は同じ理由で自動的に量子化される.そして「電荷の和がゼロ」という関係も,$SU(N)$ の生成子がトレースレスであること $\Tr\,T^a=0$ から出てくる.
電荷の量子化は,大統一を考える最大の動機である.これは実験事実の説明であって,美学ではない.
15.2.2 $SU(5)$ —— 最小の統一
標準模型のゲージ群を含む最小の単純群は $SU(5)$ である(Georgi–Glashow, 1974).階数(rank)を数えると $SU(3)$ が 2,$SU(2)$ が 1,$U(1)$ が 1 で合計 4,そして $SU(5)$ の階数も $5-1=4$ でぴたりと合う.
1 世代分のフェルミオン 15 個($u,d$ が各 3 色で左右 2 つずつ $=12$,$e^-$ の左右 $=2$,$\nu_{eL}=1$)は,$SU(5)$ の二つの既約表現 $\bar{\bm 5}$ と $\bm{10}$ にちょうど収まる:
$3+2=5$ と分解した最初の3成分がカラー,後の2成分が弱アイソスピンである.この配置がいかに強い主張かを見よう.
導出:$Q_d=-1/3$ が「色が3つある」ことから出る
ステップ1:電荷は $SU(5)$ の生成子である.$SU(5)$ の生成子はすべてトレースレスなエルミート $5\times5$ 行列である.電荷 $Q$ もその一つだから,$\bar{\bm 5}$ に作用する対角行列として
$$ Q = \mathrm{diag}\big(Q_{d^c},\,Q_{d^c},\,Q_{d^c},\,Q_{e^-},\,Q_{\nu}\big) $$と書ける(色の3成分は $SU(3)$ 対称性から同じ値をもたねばならない).
ステップ2:トレースレス条件を課す.$\Tr\,Q=0$ より
$$ 3\,Q_{d^c} + Q_{e^-} + Q_{\nu} = 0 $$ここで $3$ という係数は色の数である.
ステップ3:中性のニュートリノを入れる.$Q_\nu=0$ だから
$$ 3\,Q_{d^c} = -\,Q_{e^-} = +1 \qquad\Longrightarrow\qquad Q_{d^c} = +\frac13 $$$d^c$ は $d$ クォークの反粒子だから $Q_d=-1/3$ である.
ステップ4:陽子の電荷を確認する.$\bm{10}$ 表現に同じ議論を適用すると $Q_u=+2/3$ が出る.$\bm{10}$ は $\bm5\otimes\bm5$ の反対称部分である($\bar{\bm5}\otimes\bar{\bm5}$ の反対称部分は $\overline{\bm{10}}$ のほうである).$\bm5$ の電荷は $\bar{\bm5}$ の符号を反転した $\left(-\frac13,-\frac13,-\frac13,+1,0\right)$ なので,反対称テンソルの成分 $[ij]$ の電荷は $Q_i+Q_j$ で決まる.カラー2成分の組は $Q=-\frac23$ でこれが $u^c$(すなわち $Q_{u^c}=2Q_d=-2Q_{d^c}$),カラーと $e^+$ の組は $Q=-\frac13+1=+\frac23$ でこれが $u$,カラーと $\bar\nu$ の組は $Q=-\frac13$ で $d$,$e^+$ と $\bar\nu$ の組は $Q=+1$ で $e^c$ である.したがって
$$ Q_p = 2Q_u + Q_d = \frac43 - \frac13 = 1 = -Q_{e^-} $$である.陽子と電子の電荷が厳密に打ち消すのは,クォークが3色あり,かつクォークとレプトンが同じ多重項に入っているからである.$10^{-21}$ という実験精度が,理論では自動的に厳密に成り立つ.これが $SU(5)$ の最も美しい成果である.
| 群 | 階数 | ゲージボソン数 | 1世代の入り方 | 特徴 |
|---|---|---|---|---|
| $SU(3)\times SU(2)\times U(1)$ | 4 | $8+3+1=12$ | 5 個の既約表現に分散 | 標準模型.電荷量子化は説明されない |
| $SU(5)$ | 4 | $24$ | $\bar{\bm5}\oplus\bm{10}$ | 最小.新ゲージボソン $X,Y$(12個)が陽子崩壊を起こす |
| $SO(10)$ | 5 | $45$ | $\bm{16}$(1個!) | 右巻きニュートリノが自動的に入り,シーソー機構が自然 |
| $E_6$ | 6 | $78$ | $\bm{27}$ | 弦理論のヘテロティック模型から出やすい |
$SU(5)$ の 24 個のゲージボソンのうち,12 個は標準模型のもの(グルーオン 8,$W^\pm,W^3$,$B$)であるが,残り 12 個はクォークとレプトンを行き来させる新しいボソンである.電荷 $4/3$ の $X$ と電荷 $1/3$ の $Y$ で,各 3 色 $\times$ 粒子・反粒子 $=12$ 個.これらは $\bar{\bm5}$ の中でカラー成分と弱アイソスピン成分をつなぐ,すなわち $d^c\leftrightarrow e^-$ を起こす.バリオン数もレプトン数も保存しない.
15.2.3 走る結合定数は交わるか
統一が起きるなら,あるスケール $M_X$ で三つの結合定数が一致するはずである.第11章で導いた1ループのくりこみ群方程式は,$\alpha_i=g_i^2/4\pi$ に対して
という形をしている.$\alpha^{-1}$ が $\ln\mu$ の一次関数になるところが要点で,これなら直線を延長するだけで交点が求まる.係数 $b_i$ は,そのゲージ群に結合する粒子の内容だけで決まる:
$$ b_i = -\frac{11}{3}C_2(G) + \frac23\sum_{\rm Weyl\ fermions}T(R) + \frac13\sum_{\rm complex\ scalars}T(R) $$標準模型(3世代 $+$ Higgs 二重項1個)では
$$ b_1 = \frac{41}{10},\qquad b_2 = -\frac{19}{6},\qquad b_3 = -7 $$となる.$b_3<0$ が漸近的自由(第11章),$b_1>0$ が QED 的な遮蔽である.なお $\alpha_1$ は $U(1)_Y$ の結合を $SU(5)$ の中で正しく規格化した量で
$$ \alpha_1 \equiv \frac53\,\alpha_Y,\qquad \alpha_Y=\frac{g'^2}{4\pi} $$と定義する($5/3$ は $\Tr\,Y^2$ を $\Tr\,T_3^2$ に合わせる因子である).
導出:交点を自分で求める(標準模型の場合)
ステップ1:$m_Z$ での出発値を作る.実測値は $\hat\alpha_{\rm em}^{-1}(m_Z)=127.95$($\overline{\rm MS}$ 定義.第10章 10.6.4 項参照),$\sin^2\theta_W(\overline{\rm MS})=0.23122$,$\alpha_s(m_Z)=0.1179$ である.以下この節では $\overline{\rm MS}$ の組で通す.$\alpha_2=\alpha_{\rm em}/\sin^2\theta_W$,$\alpha_Y=\alpha_{\rm em}/\cos^2\theta_W$ を使うと
$$ \alpha_2^{-1}(m_Z) = \alpha_{\rm em}^{-1}\sin^2\theta_W = 127.95\times0.23122 = 29.58 $$ $$ \alpha_Y^{-1}(m_Z) = \alpha_{\rm em}^{-1}\cos^2\theta_W = 127.95\times0.76878 = 98.37 \;\Longrightarrow\; \alpha_1^{-1} = \tfrac35\times98.37 = 59.02 $$ $$ \alpha_3^{-1}(m_Z) = 1/0.1179 = 8.48 $$ステップ2:$t\equiv\ln(\mu/m_Z)$ の一次式にする.式 \eqref{eq:15-rge} より
$$ \alpha_1^{-1} = 59.02 - \frac{4.100}{2\pi}t,\quad \alpha_2^{-1} = 29.58 + \frac{3.167}{2\pi}t,\quad \alpha_3^{-1} = 8.48 + \frac{7.000}{2\pi}t $$ステップ3:$\alpha_1=\alpha_2$ の交点.
$$ 59.02 - \frac{4.100}{2\pi}t = 29.58 + \frac{3.167}{2\pi}t \;\Longrightarrow\; 29.44 = \frac{7.267}{6.2832}\,t = 1.1565\,t $$ $$ t = 25.46 \;\Longrightarrow\; \mu = m_Z\,\ee^{25.46} = 91.19\times1.14\times10^{11} = 1.0\times10^{13}\ \mathrm{GeV} $$ステップ4:残り二つの交点.同様に
$$ \alpha_1=\alpha_3:\quad 50.54=\frac{11.10}{6.2832}t \Rightarrow t=28.61 \Rightarrow \mu=2.4\times10^{14}\ \mathrm{GeV} $$ $$ \alpha_2=\alpha_3:\quad 21.10=\frac{3.833}{6.2832}t \Rightarrow t=34.59 \Rightarrow \mu=9.6\times10^{16}\ \mathrm{GeV} $$ステップ5:結論.三つの交点は $10^{13}$,$2.4\times10^{14}$,$9.6\times10^{16}$ GeV とばらばらである.標準模型の粒子内容では,三つの結合定数は一点で交わらない.1990 年前後に LEP が $\sin^2\theta_W$ と $\alpha_s$ を精密に測り,その値を使った 1991 年の解析(Amaldi–de Boer–Fürstenau.本章末の参考文献)で,この食い違いは誤差では説明できないほど有意になった.最小 $SU(5)$ は,この一点だけでも棄却される.
材料科学との接点:結合定数の走りは誘電遮蔽そのものである
式 \eqref{eq:15-rge} を「難しい場の理論」と思う必要はない.これは媒質による遮蔽と完全に同じ話である.
誘電体の中に点電荷を置くと,周囲の分極が電荷を遮蔽し,距離 $r$ で測った有効電荷は
$$ Q_{\rm eff}(r) = \frac{Q}{\varepsilon(r)} $$と小さくなる.波数空間で書けば $\varepsilon(q)$ であり,第一原理計算で日常的に扱う量である(『線形応答理論入門』第9章「密度応答関数と誘電関数」・第10章「遮蔽 —— Thomas–Fermi と Lindhard 関数」の RPA 誘電関数).QED でも同じことが起きる.真空が仮想電子・陽電子対で分極するので,遠くから見た電子の電荷は小さく見える.近づく($q$ を上げる)ほど遮蔽を突き破って裸の電荷が見えるので $\alpha$ が増える:
$$ \alpha(q^2) = \frac{\alpha(0)}{1-\dfrac{\alpha(0)}{3\pi}\ln\dfrac{q^2}{m_e^2}} \qquad\Longleftrightarrow\qquad \alpha^{-1}(q^2)=\alpha^{-1}(0)-\frac{1}{3\pi}\ln\frac{q^2}{m_e^2} $$これは式 \eqref{eq:15-rge} で $b=4/3$ とした形にほかならない.実際 $\ln(q^2/m_e^2)=2\ln(q/m_e)$ だから
$$ \frac{1}{3\pi}\ln\frac{q^2}{m_e^2} = \frac{2}{3\pi}\ln\frac{q}{m_e} = \frac{b}{2\pi}\ln\frac{q}{m_e} \quad\Longrightarrow\quad b=\frac43 $$である.これは電荷 $1$ の Dirac フェルミオン 1 個(Weyl フェルミオン 2 個分)の値であり,$b$ の一般式 $\frac23\sum_{\rm Weyl}T(R)$ に $T(R)=Q^2=1$ を 2 個分入れた $\frac23\times2=\frac43$ と一致する($2/3$ は Weyl 1 個分の値なので,混同しないこと).$\alpha^{-1}(0)=137.04$ が $\hat\alpha^{-1}(m_Z)=127.95$ まで減る(つまり $\alpha$ が $1/137$ から $1/128$ へ $7\ \%$ 増える)のは,$m_e$ から $m_Z$ までのあいだの荷電粒子による真空分極が剥がれた分である.
違いは $SU(3)$ と $SU(2)$ で符号が逆転することである.非可換群ではゲージボソン自身が電荷をもつ.そのスピン($g=2$)による常磁性的な寄与 $-4C_2(G)$ が,ゲージボソン自身の軌道運動による遮蔽 $+\frac13C_2(G)$ を 12 対 1 で圧倒する($SU(3)$ では $C_2(G)=3$ なので $-12$ と $+1$,$SU(2)$ では $C_2(G)=2$ なので $-8$ と $+2/3$ である.数値は群ごとに違う).ここにフェルミオンによる遮蔽 $+\frac23\sum T(R)$ を足しても足りないので,$b_3=-7<0$ となって「近づくほど弱くなる」.固体中で言えば,Landau 反磁性(遮蔽)と Pauli 常磁性(反遮蔽)の競合で符号が決まるのと同じ構図であり,非可換群では常磁性が勝つ,というのが第11章 11.6.2 項の内容であった.
要するに,大統一とは「三つの誘電関数を外挿して,$10^{16}$ GeV で同じ値になるかを見る」という問いである.材料科学者にとっては,異なる測定から求めた三本の外挿線が一点で交わるかを検証する,というごく馴染みのある作業である.
15.2.4 陽子崩壊
$X$,$Y$ ボソンはクォークとレプトンをつなぐから,陽子が崩壊できるようになる.最も注目される崩壊モードは
$$ p \longrightarrow e^+ + \pi^0 $$である.$\Delta B=-1$,$\Delta L=-1$ で,$B-L$ は保存する($SU(5)$ では $B-L$ が大域的対称性として残る).
導出:陽子の寿命を次元解析で見積もる
ステップ1:有効相互作用を書く.$X$ の質量が $m_p$ よりはるかに重いので,第12章の Fermi 理論と同じく 4 点接触に潰せる.有効結合は
$$ G_X \sim \frac{g_5^2}{M_X^2} = \frac{4\pi\alpha_G}{M_X^2} $$($\alpha_G$ は統一結合定数).これは次元 $[\mathrm{GeV^{-2}}]$ をもつ.
ステップ2:崩壊幅の次元を合わせる.崩壊幅 $\Gamma$ は次元 $[\mathrm{GeV}]$ をもち,振幅の二乗に比例するから $G_X^2\propto M_X^{-4}$ に比例する.残りの次元 $\mathrm{GeV}^{5}$ を埋められる量は,この問題には陽子質量しかない.したがって
ステップ3:数値を入れる(最小 $SU(5)$).$M_X=1\times10^{15}$ GeV,$\alpha_G=1/40$ とする.$m_p=0.9383$ GeV なので $m_p^5=0.7273\ \mathrm{GeV^5}$.
$$ \Gamma = \frac{(1/40)^2\times0.7273}{(10^{15})^4} = \frac{6.25\times10^{-4}\times0.7273}{10^{60}} = 4.55\times10^{-64}\ \mathrm{GeV} $$ステップ4:秒と年に直す.$\hbar=6.582\times10^{-25}\ \mathrm{GeV\,s}$ を使って
$$ \tau_p = \frac{6.582\times10^{-25}}{4.55\times10^{-64}} = 1.45\times10^{39}\ \mathrm{s} = \frac{1.45\times10^{39}}{3.156\times10^{7}} = 4.6\times10^{31}\ \mathrm{年} $$これが 1980 年前後に大きな期待を呼んだ数である.$10^{32}$ 年なら,$10^{33}$ 個の陽子を 1 年見張れば 10 個崩壊する計算になる.手が届く.
ステップ5:しかし見つからなかった.Super-Kamiokande は 22.5 kton の超純水中の陽子を 20 年以上見張り続けたが,1 事象も見つけていない.現在の下限は
$$ \tau_p/B(p\to e^+\pi^0) > 2.4\times10^{34}\ \mathrm{年}\quad(90\%\ \mathrm{C.L.},\ 2020) $$である(2017 年の解析では $1.6\times10^{34}$ 年であった).$\tau_p\propto M_X^4$ だから,$M_X$ の下限は
$$ M_X > 10^{15}\times\left(\frac{2.4\times10^{34}}{4.6\times10^{31}}\right)^{1/4} = 10^{15}\times(522)^{1/4} = 10^{15}\times4.78 = 4.8\times10^{15}\ \mathrm{GeV} $$である.一方 15.2.3 項で見たように,最小 $SU(5)$ の統一スケールは $\alpha_2=\alpha_3$ の交点でも $10^{17}$ GeV に届かず,$\alpha_1=\alpha_3$ の交点は $2.4\times10^{14}$ GeV しかない.結合定数の非収束と陽子崩壊の非観測の二つで,最小 $SU(5)$ は死んだ.これは 1980 年代の素粒子物理における,最も明快な理論の反証である.
注意:大統一そのものが死んだわけではない
死んだのは最小の $SU(5)$ である.超対称 $SU(5)$ や $SO(10)$ では $M_X\sim2\times10^{16}$ GeV となり,式 \eqref{eq:15-proton} から,$\alpha_G=1/40$ をそのまま使えば $\tau_p\sim4.6\times10^{31}\times20^4=7\times10^{36}$ 年,MSSM の統一結合 $\alpha_G=1/24$ を使えば($\tau_p\propto\alpha_G^{-2}$ なので $(24/40)^2$ 倍で)$\tau_p\sim3\times10^{36}$ 年となり,いずれも現在の下限をゆうに超える.
ただし超対称大統一には,スカラークォークとカラー三重項 Higgs(およびその相棒のヒッグシーノ)を介する次元 5 の演算子 $\mathcal{O}_5\sim QQQL/M_{H_C}$ による別の崩壊モード $p\to K^+\bar\nu$ がある.こちらを抑えるのは超重ゲージボソンの質量 $M_X$ ではなくカラー三重項 Higgs の質量 $M_{H_C}$ であり,しかもその 1 乗でしか抑制されない.1 ループ因子と超対称粒子質量による抑制を入れても $\tau\propto M_{H_C}^2m_{\rm SUSY}^2$ と短いままなので,むしろ厳しい制限を受ける.Super-Kamiokande の下限は $\tau(p\to K^+\bar\nu)>5.9\times10^{33}$ 年($90\ \%$ C.L.,2014)で,超対称粒子が TeV 級である限り最小の超対称 $SU(5)$ はこれで排除される(超対称粒子をずっと重くすれば回避の余地は残る).
次世代実験である Hyper-Kamiokande(有効質量 $188$ kton,2028 年運転開始予定)と DUNE(液体アルゴン $40$ kton)は,10 年の観測で $\tau_p\sim10^{35}$ 年に迫る.陽子崩壊は,まだ生きている実験課題である.
15.2.5 $SO(10)$ とニュートリノ質量
$SO(10)$ には $SU(5)$ にない魅力がある.1 世代分のフェルミオンがたった一つの既約表現 $\bm{16}$ に入るのである.$SU(5)$ の $\bar{\bm5}\oplus\bm{10}$ は 15 個だったが,$\bm{16}$ は 16 個.余った 1 個は何かというと,右巻きニュートリノ $\nu_R$ である.
第14章で見たように,$\nu_R$ はあらゆるゲージ相互作用をしないので,標準模型に入れる理由がなかった.ところが $SO(10)$ では,入れないと表現が閉じない.そして $SO(10)$ が $10^{16}$ GeV 付近で破れるとき,$\nu_R$ は $M_R\sim10^{14\text{--}15}$ GeV の Majorana 質量を得る.すると第14章のシーソー機構により
$$ m_\nu \simeq \frac{m_D^2}{M_R} \sim \frac{(100\ \mathrm{GeV})^2}{10^{15}\ \mathrm{GeV}} = 10^{-11}\ \mathrm{GeV} = 0.01\ \mathrm{eV} $$となり,観測されている $\sqrt{\Delta m_{31}^2}=0.05$ eV とほぼ一致する.大統一スケールとニュートリノ質量が,独立に得られた二つの数として整合する——これが $SO(10)$ が今なお有力視される理由である.そして次節のレプトジェネシスも,同じ $\nu_R$ を使う.
15.3 物質・反物質非対称
15.3.1 $\eta\approx6\times10^{-10}$ という数
我々の身の回りには物質しかない.反物質は加速器か宇宙線か放射性崩壊でしか作れない.月にも,太陽にも,見える範囲の銀河にも,反物質でできた領域はない(もしあれば境界で対消滅が起き,$511$ keV や $\gamma$ 線として見えるはずである).
ところが,第6章と第10章で見たように,素粒子の相互作用はほとんど粒子・反粒子対称である.宇宙が高温だった頃には,$\gamma\gamma\leftrightarrow q\bar q$ が平衡していて,クォークと反クォークは同数あったはずである.なぜ物質だけが残ったのか.
定義:バリオン数対称性の指標 $\eta$
バリオン数密度 $n_B=n_b-n_{\bar b}$ を光子数密度 $n_\gamma$ で割った量
$$ \eta \equiv \frac{n_B}{n_\gamma} $$を用いる.$n_B$ も $n_\gamma$ も膨張とともに $a^{-3}$ で薄まるので,$\eta$ は($e^+e^-$ 対消滅で $n_\gamma$ が少し増える時期を除けば)宇宙の膨張を通じて一定に保たれる.
この量は二つの独立な方法で測られる.一つはビッグバン元素合成($^4$He,D,$^7$Li の存在比が $\eta$ に敏感に依存する),もう一つは宇宙背景放射(音響ピークの高さの比が $\Omega_b h^2$ を与える).両者は一致し
である.具体的には,Planck 2018 の $\Omega_b h^2=0.02237$ と換算式 $\eta=2.74\times10^{-8}\,\Omega_bh^2$ から $\eta=6.13\times10^{-10}$ が得られる.
物理的意味:$10^9$ 対のうち 1 個だけが生き残った
初期宇宙にクォークが $N+\Delta N$ 個,反クォークが $N$ 個あったとしよう.温度が下がると $N$ 対が対消滅して光子になり,残るのは $\Delta N$ 個のクォーク(バリオン数ではクォーク 1 個あたり $1/3$ なので $\Delta N/3$)と,およそ $2N$ 個の光子である.すると
$$ \eta \approx \frac{\Delta N/3}{2N} = \frac{\Delta N}{6N} \quad\Longrightarrow\quad \frac{\Delta N}{N} \approx 6\eta = 3.7\times10^{-9} $$つまり,$10^9$ 個の反クォークに対してクォークが $10^9+4$ 個あった,という程度の微差で決着がついた.因子 3 や対消滅時の光子数の増減といった詳細を無視すれば,要するに $\Delta N/N\sim\eta$ の桁,「10 億分の数」である.いま我々の体を作っている原子は,その生き残りである.
もし $\Delta N=0$ なら,対消滅の凍結後に残るバリオンは $n_B/n_\gamma\sim10^{-18}$ 程度になる(対消滅断面積と膨張率の比で決まる).観測値はこれより 8 桁も多い.初期条件として非対称を置くのではなく,物理法則から作り出さねばならない.
15.3.2 Sakharov の3条件
Sakharov(1967)は,バリオン数がゼロの初期状態から $\eta\ne0$ を作るために必要な条件を三つ挙げた.
Sakharov の3条件
- バリオン数 $B$ を破る過程が存在すること.これがなければ $B$ は保存量であり,初期値がゼロなら永遠にゼロである.
- $C$ と $CP$ がともに破れていること.$C$ が保存すれば,$B$ を増やす過程と減らす過程が同じ率で起きて相殺する.$CP$ が保存する場合も,左巻き・右巻きを込めて相殺する(第6章).
- 熱平衡からのずれがあること.厳密な熱平衡では,$CPT$ 定理により粒子と反粒子の質量が等しく,したがって平衡分布も等しくなるので $\langle B\rangle=0$ が保たれる.
導出:なぜ熱平衡では駄目なのか
ステップ1:$CPT$ から質量の等号.第6章の $CPT$ 定理により,粒子と反粒子の質量は厳密に等しい:$m_b=m_{\bar b}$.実験的にも $\abs{m_{K^0}-m_{\bar K^0}}/m_{K^0}<6\times10^{-19}$ という精度で確かめられている.
ステップ2:平衡分布を書く.化学ポテンシャルがゼロ($B$ が破れていれば,$B$ は保存量でないので化学ポテンシャルを持てない)の熱平衡では,粒子数密度は質量だけで決まる:
$$ n_b = \frac{g}{(2\pi)^3}\int \dd^3p\;\frac{1}{\ee^{E_b/T}+1},\qquad E_b=\sqrt{\pp^2+m_b^2} $$ステップ3:等しくなってしまう.$m_b=m_{\bar b}$ なら $E_b=E_{\bar b}$,したがって $n_b=n_{\bar b}$ となり
$$ \langle B\rangle_{\rm eq} = n_b - n_{\bar b} = 0 $$ステップ4:結論.いくら $B$ と $CP$ を破っても,系が平衡に達してしまえばバリオン数は洗い流される.したがって非対称は平衡から外れている時期に作られ,その後「凍結」されねばならない.
材料科学との接点:第3条件は「急冷による凍結」と同じ方程式である
Sakharov の第3条件は,材料科学者にはきわめて馴染み深い.結晶中の空孔濃度を考えよう.熱平衡濃度は
$$ c_{\rm eq}(T) = \exp\!\left(-\frac{E_f}{k_BT}\right) $$であり,高温では大きい.ここから急冷すると,空孔は拡散して表面や転位で消滅しようとするが,その速度は
$$ \frac{\dd c}{\dd t} = -\Gamma(T)\,\big[c - c_{\rm eq}(T)\big], \qquad \Gamma(T)=\nu_0\exp\!\left(-\frac{E_m}{k_BT}\right) $$で決まる.冷却速度 $\abs{\dd\ln T/\dd t}$ が緩和率 $\Gamma$ を上回った瞬間に $c$ は追随できなくなり,そのときの値のまま凍結する.凍結温度 $T_f$ は
$$ \Gamma(T_f) = \abs{\frac{\dd\ln T}{\dd t}}\bigg|_{T_f} $$で決まる.焼入れした鋼に過飽和の空孔が残り,急冷したガラスが非平衡構造を保つのは,すべてこの式である.
初期宇宙で起きたことは,記号を置き換えただけで同じである.緩和率 $\Gamma$ は相互作用率 $n\langle\sigma v\rangle$ ,冷却速度は Hubble 率 $H=\dot a/a$ に対応し,凍結条件は
となる.$\Gamma>H$ なら平衡(追随できる),$\Gamma<H$ なら凍結(追随できない).暗黒物質の残存量(15.5.4 項),ニュートリノのデカップリング,ビッグバン元素合成——初期宇宙論の定量計算はほとんどすべてこの一本の式から出発する.
宇宙は,一度だけ行われた巨大な急冷実験である.我々が見ているバリオン非対称も,暗黒物質の存在量も,焼入れ材の残留空孔と同じく「凍結された非平衡量」なのである.この視点に立てば,$\Omega_{\rm DM}h^2=0.12$ という数値を「$\langle\sigma v\rangle$ から逆算する」という 15.5.4 項の議論は,空孔濃度から $E_m$ を逆算する作業とまったく同じに見えてくる.
15.3.3 標準模型はなぜ足りないのか
標準模型は,Sakharov の第1条件と第2条件を満たす機構を原理的にはもっている.ところが第2条件の $CP$ の破れは数量的に 10 桁足りず,第3条件(非平衡)は $m_H=125$ GeV では——宇宙膨張による僅かな非平衡を除いて——そもそも満たされない.一つずつ見ていこう.
第1条件($B$ の破れ):標準模型では,$B+L$ がカイラルアノマリー(第13章 13.6.3 項.Adler–Bell–Jackiw 1969)によって破れる.
$$ \partial_\mu j_B^\mu = \partial_\mu j_L^\mu = \frac{n_f\,g_w^2}{32\pi^2}\,W^a_{\mu\nu}\tilde W^{a\,\mu\nu}, \qquad \tilde W^{a\,\mu\nu} \equiv \frac12\,\epsilon^{\mu\nu\rho\sigma}W^a_{\rho\sigma} $$である(双対テンソル $\tilde W$ の定義に $1/2$ が入ることに注意.$\epsilon WW$ の形で書くなら係数は $n_fg_w^2/64\pi^2$ になる).右辺には同じ形の $U(1)_Y$ の寄与 $-n_fg'^2B_{\mu\nu}\tilde B^{\mu\nu}/32\pi^2$ も加わるが,以下の議論には効かないので省いた.
$B-L$ は保存するが $B+L$ は破れる.この過程を媒介する古典解をスファレロンという.そのエネルギーは
$$ E_{\rm sph} \approx \frac{4\pi v}{g_w}\,B(\lambda/g_w^2) \approx \frac{4\pi\times246}{0.65}\times1.9 \approx 9\ \mathrm{TeV} $$で,低温では $\ee^{-E_{\rm sph}/T}$ で強く抑制されるが,$T>100$ GeV の初期宇宙では自由に起こる.つまり第1条件は満たされている.
第2条件($C$,$CP$ の破れ):$C$ は弱い相互作用が最大限に破っている(第12章).$CP$ は CKM 行列の位相 $\delta=1.14$ rad が破っている(第6章の $K^0$,$B^0$ の実験).しかし,その大きさが問題である.$CP$ の破れの度合いは Jarlskog 不変量
$$ J = \mathrm{Im}\big[V_{us}V_{cb}V_{ub}^*V_{cs}^*\big] = 3.08\times10^{-5} $$で測られるが,バリオン数生成に効く無次元量は,質量の縮退が起きると $CP$ の破れが消えるという事実から,$J$ に世代間の質量二乗差をすべて掛けたものになる:
$$ d_{CP} = J\,\frac{(m_t^2-m_c^2)(m_t^2-m_u^2)(m_c^2-m_u^2)(m_b^2-m_s^2)(m_b^2-m_d^2)(m_s^2-m_d^2)}{T^{12}} $$$T\sim100$ GeV を入れると $d_{CP}\sim10^{-20}$ となり,必要な $\eta\sim10^{-10}$ に対して10 桁足りない.
第3条件(非平衡):電弱相転移が1次相転移なら,泡の壁という非平衡が用意できた.ところが格子計算によれば,$m_H>72$ GeV では電弱相転移は 1 次相転移ではなくクロスオーバーである.$m_H=125$ GeV は完全にその領域にある.つまり,泡は立たず,非平衡は生じない.
注意:Higgs 質量の値が理論の筋書きを一つ消した
電弱バリオン数生成(electroweak baryogenesis)というシナリオは,1980 年代末から 1990 年代前半には有力な候補だった.ところが格子計算がクロスオーバーへの転換点を $m_H\approx72$ GeV と定め(Kajantie ら 1996,Csikor ら 1999),LEP2 が直接探索で $m_H>114.4$ GeV を示した 2000 年前後に,このシナリオは標準模型内では事実上排除されていた.2012 年の $m_H=125$ GeV は,それを確定させたのである.
これは「質量の値が一つ決まることが,理論の可能性を一つ殺す」例である.新しい粒子の発見は,理論の選択肢を増やすのではなく,減らすことのほうが多い.なお,Higgs セクターを拡張して(二重項をもう一つ足すなど)1 次相転移を復活させる模型は活発に研究されており,将来の重力波観測(LISA)で相転移由来の背景重力波を探す試みが進んでいる.
15.3.4 レプトジェネシス
標準模型が駄目なら,どこから非対称を持ってくるか.最も有力な筋書きがレプトジェネシス(Fukugita–Yanagida, 1986)である.発想は簡潔で,「バリオンではなくレプトンで非対称を作り,スファレロンにバリオンへ変換させる」というものである.
導出:レプトジェネシスの3ステップ
ステップ1:重い Majorana ニュートリノを用意する.第14章のシーソー機構に登場した右巻きニュートリノ $N_i$(Majorana 質量 $M_i\sim10^{10\text{--}15}$ GeV)を使う.これは湯川結合を通じて
$$ N \to \ell + H, \qquad N \to \bar\ell + H^\dagger $$の両方に崩壊できる.$N$ は自分自身の反粒子(Majorana)なので,この二つはどちらも許される.レプトン数が破れている.
ステップ2:$CP$ の破れで分岐比に差を作る.湯川行列 $y_\nu$ が複素であれば,ツリー図と1ループ図の干渉により,二つの崩壊の分岐比に差が生じる.非対称度を
$$ \epsilon = \frac{\Gamma(N\to\ell H)-\Gamma(N\to\bar\ell H^\dagger)}{\Gamma(N\to\ell H)+\Gamma(N\to\bar\ell H^\dagger)} $$と定義すると,$\epsilon\sim\frac{3}{16\pi}\frac{M_1}{M_2}\frac{\mathrm{Im}[(y_\nu y_\nu^\dagger)_{12}^2]}{(y_\nu y_\nu^\dagger)_{11}}$ という形になる.典型的には $\epsilon\sim10^{-6}$.
ステップ3:非平衡崩壊で凍結する.$N$ の崩壊率が Hubble 率より小さい($\Gamma_N<H$,すなわち式 \eqref{eq:15-freezeout} の凍結条件)なら,$N$ は平衡から外れて崩壊し,レプトン非対称 $Y_L=n_L/s$ が残る.典型的に $Y_L\sim\epsilon/g_*\sim10^{-6}/100=10^{-8}$.
ステップ4:スファレロンでバリオンに変換する.$B-L$ は保存,$B+L$ はスファレロンが洗い流すので,最終的に
となる(標準模型の粒子内容と 3 世代・1 Higgs 二重項に対する化学平衡の計算から出る係数.Harvey–Turner 1990).ここで $L_{\rm init}$ はスファレロンが働きはじめる前にレプトジェネシスで作られたレプトン非対称であって,最終状態のレプトン数ではない(最終状態では $L_{\rm fin}=B-(B-L)=-\frac{51}{79}(B-L)=+\frac{51}{79}L_{\rm init}$ になる).したがって $Y_B\approx0.35\,\abs{Y_L}\sim3\times10^{-9}$,$\eta=7.04\,Y_B\sim2\times10^{-8}$.やや大きいが,$\epsilon$ と洗い流し効率を丁寧に扱えば観測値 $6\times10^{-10}$ を出せる.
物理的意味:ニュートリノの軽さと物質の存在が同じ起源をもつ
レプトジェネシスの魅力は,第14章でニュートリノ質量のために導入した右巻き Majorana ニュートリノ $N_i$ 以外に,新しい粒子を追加していない点にある.ニュートリノを軽くするために入れた粒子が,そのまま非対称の源になる.シーソー機構($m_\nu=m_D^2/M_R$)とレプトジェネシス($\epsilon\propto M_1$)は同じ $y_\nu$ と $M_R$ で決まる.
言い換えれば,「なぜニュートリノは軽いのか」と「なぜ物質だけが残ったのか」は同じ一つの答えをもつ可能性がある.これは標準模型を超える理論の中で,最もよくできた話の一つである.
ただし,直接の検証は極めて難しい.$M_1\gtrsim10^9$ GeV(Davidson–Ibarra 限界)が必要で,加速器では絶対に作れない.間接的な手がかりは,(i) ニュートリノを伴わない二重ベータ崩壊(第14章 14.7 節,Majorana 性の確認),(ii) $\delta_{CP}$ の測定(T2K・NOvA・Hyper-K・DUNE),(iii) 陽子崩壊($B$ の破れの直接検証.ただし 15.2.4 項で見たように $p\to e^+\pi^0$ は $\Delta B=\Delta L=-1$ で $B-L$ を保存するので,$B-L$ の破れそのものを担うのは (i) の $\Delta L=2$ の過程である)である.いずれも本書の他章で扱った実験であり,どれも材料と検出器の技術に律速されている.
15.4 超対称性・弦理論・余剰次元
15.4.1 超対称性 —— 動機
超対称性(supersymmetry, SUSY)とは,ボソンとフェルミオンを入れ替える対称性である.生成子 $Q$ は
$$ Q\,\ket{\text{ボソン}} = \ket{\text{フェルミオン}}, \qquad Q\,\ket{\text{フェルミオン}} = \ket{\text{ボソン}} $$と作用する.$Q$ はスピノルなので,これは時空の対称性(Poincaré 群)の拡張である.実際 $\{Q_\alpha,\bar Q_{\dot\beta}\}=2\sigma^\mu_{\alpha\dot\beta}P_\mu$ という反交換関係をもち,二回作用すると並進になる.Coleman–Mandula の定理は「時空の対称性と内部対称性は直積以外に結合できない」と述べるが,超対称性はこの定理の仮定(生成子がボソン的)を破ることで抜け道を通っている(Haag–Łopuszański–Sohnius の定理).
導出:二次発散はなぜ相殺するか
ステップ1:フェルミオンループの寄与.15.1.6 項で求めた通り
$$ \delta m_H^2\big|_{\rm fermion} = -\frac{N_c\,y_f^2}{8\pi^2}\,\Lambda^2 + (\text{対数項}) $$符号は負である(フェルミオンループの $(-1)$ による).
ステップ2:スカラーループの寄与.Higgs と結合するスカラー $\tilde f$($\Lag\supset-\lambda_S\abs{H}^2\abs{\tilde f}^2$)があると,そのループは
$$ \delta m_H^2\big|_{\rm scalar} = +\frac{N_c\,\lambda_S}{16\pi^2}\,\Lambda^2 + (\text{対数項}) $$符号は正である(フェルミオンループの $(-1)$ がない).$N_c$ はそのスカラーがもつ色の数で,ストップなら $N_c=3$,色をもたないスカラーなら $N_c=1$ とする(ステップ1 の $N_c$ と同じ因子である).
ステップ3:超対称性が課す関係.超対称性は,フェルミオン $f$ に対して同じ量子数をもつ2つの複素スカラー $\tilde f_L,\tilde f_R$ を要求し,かつ結合定数を
$$ \lambda_S = \abs{y_f}^2 $$と固定する.これは自由なパラメータではなく,超対称性から強制される関係である.
ステップ4:足し合わせる.スカラーが 2 つあるので
$$ \delta m_H^2 = -\frac{N_c y_f^2}{8\pi^2}\Lambda^2 + 2\times\frac{N_c\abs{y_f}^2}{16\pi^2}\Lambda^2 = 0 $$$\Lambda^2$ の項が厳密に消える.残るのは対数項だけで
符号が負であることには意味がある.これが MSSM で電弱対称性の破れが放射的に起きる理由,すなわち $m_{H_u}^2$ が走りながら負に落ちて真空期待値をもつ理由である.以下では大きさだけを問題にするので絶対値を取る.
ステップ5:自然さの要求.式 \eqref{eq:15-susy-cancel} の大きさが $m_H^2$ を大きく超えないためには,$m_{\tilde t}$(ストップ,トップの超対称パートナー)が $1$ TeV 程度以下でなければならない.$y_t=0.99$,$\ln(\Lambda/m_{\tilde t})\approx30$ とすると
$$ \abs{\delta m_H^2} = \frac{3\times0.984}{4\pi^2}\times m_{\tilde t}^2\times30 = 2.24\,m_{\tilde t}^2 $$これを $m_H^2=1.57\times10^4\ \mathrm{GeV^2}$ の 10 倍以内に抑えるなら $m_{\tilde t}<265$ GeV,100 倍以内でも $m_{\tilde t}<837$ GeV である.超対称性は,TeV 以下に新粒子があることを要求する.
15.4.2 超対称性が同時に解決する三つのこと
- 階層性問題:上記の通り,$\Lambda^2$ の発散が相殺する.
- 結合定数の収束:超対称粒子が加わると $\beta$ 関数の係数が $b_1=33/5$,$b_2=1$,$b_3=-3$ に変わり,図15.3 の破線のように $2\times10^{16}$ GeV でほぼ一点に集まる.これは 1991 年に Amaldi・de Boer・Fürstenau らが指摘した,超対称性の最も印象的な状況証拠であった.
- 暗黒物質候補:$R$ パリティ $R=(-1)^{3(B-L)+2s}$ を課すと,最も軽い超対称粒子(LSP,多くの模型ではニュートラリーノ $\tilde\chi_1^0$)が安定になる.質量 $100$ GeV–$1$ TeV,弱い相互作用の強さ,電気的中性——暗黒物質の条件をすべて満たす(15.5.4 項).
材料科学との接点:超対称量子力学とグラフェンの $n=0$ Landau 準位
超対称性の「代数」の部分だけを取り出したものを超対称量子力学という.演算子
$$ A = \frac{\dd}{\dd x} + W(x),\qquad A^\dagger = -\frac{\dd}{\dd x} + W(x) $$から二つのハミルトニアンを作る:
$$ H_- = A^\dagger A = -\frac{\dd^2}{\dd x^2} + W^2 - W', \qquad H_+ = A A^\dagger = -\frac{\dd^2}{\dd x^2} + W^2 + W' $$$H_\pm$ は基底状態を除いて同じスペクトルをもつ($A\psi^-_n$ が $H_+$ の固有関数になる).$H_-$ の基底状態 $\psi_0\propto\exp[-\int W\dd x]$ だけが対を持たず,これをゼロモードという.
これが物性に現れる代表例が,磁場中のグラフェンである.Dirac ハミルトニアン $H=v_F\bm\sigma\cdot(\pp+e\bm A)$ を二乗すると
$$ H^2 = v_F^2\left[(\pp+e\bm A)^2 - e\hbar\,\sigma_z B\right] = \begin{pmatrix} 2v_F^2 e\hbar B\, a^\dagger a & 0\\ 0 & 2v_F^2e\hbar B\,(a^\dagger a+1)\end{pmatrix} $$というまさに $A^\dagger A$ と $AA^\dagger$ の組になる.したがって Landau 準位は
$$ E_n = \pm\,\frac{\hbar v_F}{\ell_B}\sqrt{2n},\qquad \ell_B=\sqrt{\hbar/eB} $$となり,$\sqrt{n}$ 依存性(通常の 2 次元電子気体の $E_n=(n+1/2)\hbar\omega_c$ と全く違う)を示す.そして $n=0$ の準位は片方の副格子にしか存在しない——超対称量子力学のゼロモードそのものである.
この $n=0$ 準位が存在することは,Atiyah–Singer の指数定理によりトポロジカルに保護されている.不純物やポテンシャルの詳細によらず必ず存在する.グラフェンの半整数量子 Hall 効果 $\sigma_{xy}=4e^2(n+1/2)/h$ が室温でも観測できるのは,このゼロモードの頑健さのおかげである.
素粒子物理の超対称性は未発見だが,超対称代数そのものは物質中で日常的に実現している.同じ数学が,一方では階層性問題の処方箋として提案され,他方では 2 次元材料の量子 Hall 応答を保護している.なお,形状不変ポテンシャル(Pöschl–Teller,Morse,Coulomb など)の厳密解を統一的に導く Darboux 変換も同じ枠組みで,反射のないポテンシャルの構成など散乱理論に応用されている(Cooper–Khare–Sukhatme, Phys. Rep. 251, 267 (1995)).ただし第一原理計算で実用されているノルム保存・ウルトラソフト・PAW の擬ポテンシャルは,散乱位相の対数微分を全電子計算に合わせるという別系統の手法であって,Darboux 変換とは関係がない.同じ「擬ポテンシャル」という語でも中身が違うので,混同しないこと.
15.4.3 見つかっていない,という事実
正直に書かねばならない.LHC は Run 2($\sqrt s=13$ TeV)で $140\ \mathrm{fb^{-1}}$ を蓄積し,Run 3($13.6$ TeV)でさらに増やしているが,超対称粒子は一つも見つかっていない.主な下限は次の通りである.
| 粒子 | 記号 | 標準模型の相棒 | 質量下限 | 自然さの要求 |
|---|---|---|---|---|
| グルイーノ | $\tilde g$ | グルーオン | $\sim2.3$ TeV | $\lesssim1.5$ TeV |
| ストップ | $\tilde t_1$ | トップクォーク | $\sim1.3$ TeV | $\lesssim0.5$ TeV |
| 第1・2世代スクォーク | $\tilde q$ | $u,d,s,c$ | $\sim1.9$ TeV | 制限なし |
| チャージーノ | $\tilde\chi_1^\pm$ | $W$,Higgs | $\sim0.7$ TeV | $\lesssim0.3$ TeV |
| スレプトン | $\tilde\ell$ | 荷電レプトン | $\sim0.7$ TeV | 制限なし |
「自然さの要求」の欄と比べると,実験の下限がすでにそれを超えていることが分かる.さらに $m_H=125$ GeV という値そのものが,最小超対称標準模型(MSSM)では厄介である.ツリーレベルでは $m_h<m_Z\abs{\cos2\beta}\le m_Z=91.2$ GeV しか出ず,$125$ GeV に持ち上げるには大きなループ補正,つまり重いストップ($3$–$10$ TeV)か大きな左右混合が必要になる.しかし重いストップは式 \eqref{eq:15-susy-cancel} から $\abs{\delta m_H^2}$ を大きくし,$1\ \%$ 程度の微調整を再び要求する.これを小さな階層性問題という.
注意:ここが本章で最も誠実さを要する箇所である
1980 年代から 2010 年代前半にかけて,超対称性は「LHC が動けば必ず見つかる」と広く信じられていた.見つからなかった.この事実の受け止め方は研究者によって分かれている.
- まだ探し足りない:LHC の探索は特定の崩壊パターンを仮定した「簡略化模型」に基づいており,圧縮スペクトル(質量差が小さく,柔らかい終状態しか出ない)や長寿命粒子には感度が低い.HL-LHC でさらに 20 倍のデータを取る.
- 自然さの基準が誤っていた:$1\ \%$ の微調整は許容範囲かもしれない.そもそも「自然さ」は物理法則ではなく,理論家の美意識である.
- 超対称性はもっと高いスケールにある:分離超対称性(split SUSY)では,階層性問題は諦めるが,結合定数の収束と暗黒物質候補は保つ.
- 方向が違う:階層性問題は,別の機構(余剰次元,複合 Higgs,relaxion,あるいは我々の知らない何か)で解かれる.
本書としてはこう述べる.超対称性は美しく,よくできた仮説であり,そして現時点で実験的支持は一つもない.教科書がこれを「有力な理論」と書き続けることは,読者に対して不誠実である.同時に「否定された」と書くのも誤りである.検証されていない,というのが正しい.
15.4.4 弦理論 —— 正直な現状
弦理論は,素粒子を点ではなく1 次元的に広がった弦とみなす.弦の張力は
$$ T = \frac{1}{2\pi\alpha'},\qquad \ell_s = \sqrt{\alpha'} \sim \ell_{\rm Pl} = \sqrt{\frac{\hbar G}{c^3}} = 1.62\times10^{-35}\ \mathrm{m} $$で,弦の振動モードが異なる粒子に対応する.動機は次の三つである.
- 重力の量子化:点粒子の場の理論では,重力子のループが $\Lambda^n$ で発散してくりこめない.弦には有限の大きさ $\ell_s$ があり,これが自然な紫外カットオフとして働く.
- 重力子が自動的に出る:閉じた弦のスペクトルには,質量ゼロ・スピン 2 の状態が必然的に含まれる.これは重力子の性質そのものである.
- 統一:ゲージ場も物質場も重力も,同じ弦の振動モードとして出る.
しかし代償がある.無矛盾性(共形アノマリーの消去)を要求すると,時空の次元が
$$ D = 26\ (\text{ボソン弦}),\qquad D = 10\ (\text{超弦}) $$に固定されてしまう.我々が見ているのは 4 次元だから,残りの 6 次元は $\ell_s$ 程度の大きさに丸まっている(コンパクト化)と考える.丸め方は Calabi–Yau 多様体という 6 次元空間で与えられる.既知の Calabi–Yau の位相型そのものは $10^4$–$10^5$ 種ほどだが,その上に張るフラックスの選び方まで含めると真空の数は $10^{500}$ 通りとも言われる(ランドスケープ).そしてどのコンパクト化が我々の宇宙なのかを決める原理は知られていない.
注意:弦理論について本書が言えること・言えないこと
言えること:弦理論は数学的に極めて豊かで,40 年にわたり多くの一流の研究者を惹きつけてきた.重力を含む量子論の候補として最も広く研究されており,摂動論の範囲で紫外発散のないことが示されている枠組みである(ループ量子重力,漸近的安全性,causal dynamical triangulation など他の候補もあり,弦理論を含めどれも非摂動的な無矛盾性が完全に証明されたわけではない).
言えないこと:実験的検証の見込みである.弦のスケール $10^{-35}$ m を直接見るには $10^{19}$ GeV の加速器が要る.LHC の $10^4$ GeV との差は 15 桁.地球サイズの加速器でも届かない.低エネルギーへの「予言」(超対称性,余剰次元,特定のゲージ群)はどれもコンパクト化に依存し,一意ではない.
Popper の意味での反証可能性を厳密に問えば,現在の弦理論は物理理論の要件を満たしていない.これは弦理論研究者の一部も認めている問題であり,反証可能性を科学の要件とみなすべきかをめぐって科学哲学的な論争が続いている(Polchinski や Dawid は反論している).本書の立場は「これは魅力的な数学的枠組みであり,物理理論としてはまだ検証段階に入っていない」というものである.
材料科学との接点:AdS/CFT は強相関電子系の計算道具になった
弦理論が実験的に検証されていないことと,弦理論から生まれた道具が役に立たないこととは,別の話である.最も顕著な例が AdS/CFT 対応(Maldacena, 1997)である.
これは「$d+1$ 次元の反ド・ジッター空間における重力理論」と「その境界の $d$ 次元共形場理論」が等価だ,という主張である.重要なのは,境界側の結合が強いとき,重力側の記述が古典的(弱結合)になるという点である.つまり,摂動論が使えない強相関系を,古典的な重力の計算に翻訳できる.
この道具から出た最も有名な結果が,ずり粘性とエントロピー密度の比の下限である:
これを KSS 下限という.右辺は $6.08\times10^{-13}\ \mathrm{K\,s}$ に相当する.RHIC と LHC で作られたクォーク・グルーオンプラズマは $\eta/s\approx(1\text{--}2)\times\hbar/4\pi k_B$ という,知られている中で最も理想流体に近い値を示した.また冷却原子のユニタリ Fermi 気体も $\eta/s\approx5\hbar/4\pi k_B$ に達する.
物性への応用としては,ホログラフィック超伝導体,奇妙金属(strange metal)の線形抵抗 $\rho\propto T$,Planck 散逸時間 $\tau\sim\hbar/k_BT$ の下限などがある.高温超伝導体の常伝導相で観測される線形 $T$ 抵抗が,この「Planck 極限の散逸」に近いことは,長く未解決の問題への一つの視点を与えている.
要するに,弦理論の実験的検証は絶望的だが,弦理論が生んだ計算技術は,材料科学の隣接領域ですでに使われている.理論の価値は,その予言の検証可能性だけでは測れない場合がある.
15.4.5 余剰次元と重力の逆二乗則
弦理論のコンパクト化スケールが $\ell_{\rm Pl}$ である必然性はない,というのが Arkani-Hamed–Dimopoulos–Dvali(ADD, 1998)の指摘であった.もし余剰次元が巨視的に大きく,重力だけがそこに漏れ出せるなら,階層性問題は「$M_{\rm Pl}$ が大きく見えるのは重力が薄まっているからだ」と説明できる.
導出:余剰次元の大きさ $R$ を求める
ステップ1:$4+n$ 次元での Gauss の法則.$4+n$ 次元時空で質量 $m_1,m_2$ の間の重力ポテンシャルは,距離 $r\ll R$(余剰次元の内側)で
$$ V(r) = -\,\frac{m_1m_2}{M_*^{\,n+2}}\,\frac{1}{r^{\,n+1}} $$となる.$M_*$ が真の($4+n$ 次元の)Planck 質量である.力線が $n$ 方向余分に広がるので,べきが $n$ だけ強くなる.
ステップ2:$r\gg R$ では 4 次元に見える.余剰次元が半径 $R$ に丸まっているなら,$r\gg R$ では力線は余剰方向に広がりきってしまい,そこから先は通常の $1/r$ に戻る.接続すると
$$ V(r) = -\,\frac{m_1m_2}{M_*^{\,n+2}R^n}\,\frac1r \qquad\Longleftrightarrow\qquad \frac{1}{M_{\rm Pl}^2} = \frac{1}{M_*^{\,n+2}R^n} $$ステップ3:$M_*=1$ TeV とおいて $R$ を求める.階層性問題を解くには $M_*\sim1$ TeV でなければならない.$n=2$ のとき式 \eqref{eq:15-add} より
$$ R = \frac{M_{\rm Pl}}{M_*^2} = \frac{1.22\times10^{19}\ \mathrm{GeV}}{(10^3\ \mathrm{GeV})^2} = 1.22\times10^{13}\ \mathrm{GeV^{-1}} $$自然単位を SI に戻す.$1\ \mathrm{GeV^{-1}}=\hbar c/1\ \mathrm{GeV}=1.973\times10^{-16}$ m だから
$$ R = 1.22\times10^{13}\times1.973\times10^{-16}\ \mathrm{m} = 2.4\times10^{-3}\ \mathrm{m} = 2.4\ \mathrm{mm} $$ミリメートル.これは驚くべき結論である.重力の逆二乗則をミリメートル以下で確かめれば検証できる.
ステップ4:$n$ を変えると.$n=1$ なら $R=M_{\rm Pl}^2/M_*^3=1.49\times10^{29}\ \mathrm{GeV^{-1}}=2.9\times10^{13}$ m,すなわち $200$ 天文単位という太陽系サイズであり,明らかに排除される.$n=3$ なら $R=(M_{\rm Pl}^2/M_*^5)^{1/3}=5.3\times10^{7}\ \mathrm{GeV^{-1}}=1.0\times10^{-8}$ m $\approx10$ nm,$n=6$ なら $R=2.3\times10^{2}\ \mathrm{GeV^{-1}}=4.5\times10^{-14}$ m である.$n$ が増えるほど $R$ は急激に小さくなり,短距離重力実験では届かなくなる.
これを受けて,1990 年代後半からトーションバランス(ねじれ秤)による短距離重力実験が精力的に行われた.Washington 大学の Eöt-Wash グループは,Yukawa 型の補正
$$ V(r) = -\frac{Gm_1m_2}{r}\Big[1+\alpha\,\ee^{-r/\lambda}\Big] $$を仮定して,$\alpha=1$ の場合に $\lambda<38.6\ \mu\mathrm{m}$($95\ \%$ C.L.,2020)という上限を得た.式 \eqref{eq:15-add} に戻して $n=2$ の場合の $M_*$ の下限を求めると(厳密には $n=2$ の ADD で 2 方向が等半径なら Yukawa 補正の強度は $\alpha=1$ ではなく $\alpha=16/3$ になり,同じ論文は ADD の余剰次元半径に $R<30\ \mu$m というやや厳しい制限を与えている.ここでは桁の見積もりとして $\lambda\approx R$ と置く)
$$ M_* = \sqrt{\frac{M_{\rm Pl}}{R}} > \sqrt{\frac{1.22\times10^{19}}{1.96\times10^{11}\ \mathrm{GeV^{-1}}}} = 7.9\times10^{3}\ \mathrm{GeV} \approx 8\ \mathrm{TeV} $$となる.$n=2$ で $M_*=1$ TeV という最も魅力的だった場合は,すでに排除されている.LHC からも,余剰次元に漏れる重力子による欠損エネルギー事象の探索で同様の制限がついている.
数学ノート:ワープした余剰次元(Randall–Sundrum)
ADD が余剰次元を「大きく」して階層性を作るのに対し,Randall–Sundrum(1999)は余剰次元を曲げる.計量を
$$ \dd s^2 = \ee^{-2k r_c\abs{\phi}}\,\eta_{\mu\nu}\dd x^\mu\dd x^\nu - r_c^2\,\dd\phi^2, \qquad \phi\in[0,\pi] $$と取る.$\ee^{-2kr_c\abs\phi}$ がワープ因子である.$\phi=0$ のブレーン(Planck ブレーン)で $M_{\rm Pl}$ の物理が,$\phi=\pi$ のブレーン(TeV ブレーン)では
$$ m_{\rm eff} = \ee^{-k r_c\pi}\,M_{\rm Pl} $$という指数関数的に小さいスケールが実現する.$10^{-16}$ の階層を作るには
$$ \ee^{-kr_c\pi} = 10^{-16} \;\Longrightarrow\; kr_c\pi = 36.8 \;\Longrightarrow\; kr_c = 11.7 $$である.$O(10)$ のパラメータから $10^{16}$ の階層が出るのがこの模型の売りである.指数関数を使って大きな比を作るという発想は,第11章で見た $\Lambda_{\rm QCD}=\mu\,\ee^{-2\pi/\beta_0\alpha_s}$ や,超伝導の $\Delta=1.76k_BT_c=2\hbar\omega_D\ee^{-1/N(0)V}$ とまったく同じである.物理学が大きな数を作るとき,使う道具は指数関数か,くりこみ群か,そのどちらかである.
15.5 暗黒物質と暗黒エネルギー
15.5.1 回転曲線 —— 最初の証拠
渦巻銀河の中で,中心から距離 $r$ にある星の円運動を考える.重力と遠心力のつり合いから
ここで $M(r)$ は半径 $r$ の内側の全質量である.銀河の光は中心付近に集中しているので,光っている物質だけなら $r$ が大きいところで $M(r)\to$ 一定となり
$$ v(r) \propto \frac{1}{\sqrt r} \qquad(\text{Kepler 的な落ち込み}) $$が期待される.太陽系の惑星が,遠いものほどゆっくり回っているのと同じである.
ところが Vera Rubin と Kent Ford が 1970 年代に多数の渦巻銀河を測ったところ,$v(r)$ は落ちずに平坦だった(図15.5).式 \eqref{eq:15-rotation} を逆に読むと,$v=$ 一定は
$$ M(r) = \frac{v^2 r}{G} \propto r, \qquad \rho(r) = \frac{1}{4\pi r^2}\frac{\dd M}{\dd r} = \frac{v^2}{4\pi G r^2} \propto \frac{1}{r^2} $$を意味する.光っていない質量が $\rho\propto r^{-2}$ で銀河を包んでいる.これが暗黒物質ハローである.
この式に太陽の位置($r=8$ kpc,$v=220$ km/s)を入れると,我々の周囲の暗黒物質密度が出る.ハロー模型の取り方で幅があり,標準的には
$$ \rho_{\rm DM}^{\rm local} = 0.3\text{--}0.4\ \mathrm{GeV/cm^3} = (5\text{--}7)\times10^{-25}\ \mathrm{g/cm^3} $$である(axion 探索ではハロー模型の上端寄りの $0.45\ \mathrm{GeV/cm^3}$ を使う習慣がある.15.6.3 項).$1$ リットルあたり $100$ GeV の WIMP が 3〜4 個($1\ \mathrm{m^3}$ で $3.5\times10^3$ 個)という薄さだが,この一つの数が直接探索の期待事象率をそのまま決める(15.6 節,演習15.6).
15.5.2 重力レンズと弾丸銀河団
回転曲線だけなら,「重力法則が大きなスケールで変更されている」という別解釈(MOND など)もありえた.これに強い困難を突きつけたのが,重力レンズによる質量分布の直接測定である.
一般相対論によれば,質量 $M$ の天体のそばを通る光は
$$ \theta = \frac{4GM}{c^2 b} $$だけ曲がる($b$ は衝突径数).背景銀河の像の歪み(弱重力レンズ)を統計的に解析すれば,前景の質量分布を光っているかどうかによらず再構成できる.
決定的だったのが弾丸銀河団 1E 0657$-$558(Clowe et al., 2006)である.二つの銀河団が正面衝突した現場で,次のことが観測された.
- X 線(高温プラズマ,バリオン質量の $\sim90\ \%$ を占める)は,衝突で減速して中央に取り残されている.
- 銀河(星の集まり,衝突断面積が小さい)は素通りして両側に分かれている.
- 重力レンズが示す質量中心は,X 線ではなく銀河のほうにある.
もし重力法則の変更で説明するなら,質量中心は最も質量の多い X 線ガスと一致するはずである.一致しない.したがって,衝突しない(自己相互作用の弱い)質量成分が,バリオンとは別に存在する.これが暗黒物質の存在を示す最も直接的な証拠とされる.
ここから暗黒物質の自己相互作用断面積に制限もつく:$\sigma/m<1\ \mathrm{cm^2/g}$.核子の核子に対する断面積 $\sigma/m\approx40\ \mathrm{mb}/1.67\times10^{-24}\ \mathrm{g}=2.4\times10^{-2}\ \mathrm{cm^2/g}$ と比べると,上限はその約 40 倍である.すなわち弾丸銀河団が言えるのは,暗黒物質の自己相互作用が核子どうしの強い相互作用の数十倍を超えない,ということにすぎない.逆に言えば,核物質と同じ桁の自己相互作用をもつ模型(自己相互作用暗黒物質,SIDM)はまだ排除されていない.
15.5.3 CMB —— 宇宙の収支表
宇宙背景放射(CMB)の温度ゆらぎのパワースペクトルには,音響振動によるピーク列が現れる.第1ピークの位置が空間の曲率を,第1ピークと第2ピークの高さの比がバリオン密度を,第3ピークの高さが暗黒物質密度を決める.Planck 衛星(2018)の結果は次の通りである.
| 成分 | $\Omega$ | $\Omega h^2$ | 現在のエネルギー密度 | 正体 |
|---|---|---|---|---|
| 暗黒エネルギー | $0.685$ | — | $3.3\ \mathrm{GeV/m^3}$ | 不明(宇宙定数?) |
| 暗黒物質 | $0.264$ | $0.1200$ | $1.3\ \mathrm{GeV/m^3}$ | 不明(WIMP? axion?) |
| バリオン | $0.0493$ | $0.02237$ | $0.24\ \mathrm{GeV/m^3}$ | 標準模型(陽子・中性子・電子) |
| 光子 | $5.4\times10^{-5}$ | — | $0.26\ \mathrm{MeV/m^3}$ | CMB($T_0=2.7255$ K,$411$ 個/cm$^3$) |
| ニュートリノ | $\gtrsim1.4\times10^{-3}$ | $\sum m_\nu/93.14\ \mathrm{eV}$ | $\gtrsim7\ \mathrm{MeV/m^3}$ | 標準模型($336$ 個/cm$^3$.振動実験の下限 $\sum m_\nu\ge0.06$ eV(正常順序)と $h=0.674$ を用いた) |
合計すると $\Omega_{\rm tot}=1.000\pm0.002$,すなわち宇宙は平坦である.そして標準模型が記述するのは,このうち $4.9\ \%$ に過ぎない.本章の冒頭で述べた「$5\ \%$ しか記述していない」の根拠がこれである.
15.5.4 WIMP と「WIMP の奇跡」
暗黒物質の候補として最も研究されてきたのが WIMP(Weakly Interacting Massive Particle)である.なぜ「弱い相互作用の強さ」が特別なのかを見よう.
導出:WIMP の奇跡
ステップ1:凍結の条件.初期宇宙で暗黒物質 $\chi$ は $\chi\bar\chi\leftrightarrow$ 標準模型粒子 の平衡にある.温度が下がって $T<m_\chi$ になると $n_\chi\propto\ee^{-m_\chi/T}$ で急減し,やがて対消滅率が Hubble 率を下回って凍結する(式 \eqref{eq:15-freezeout}):
$$ n_\chi\langle\sigma v\rangle = H $$ステップ2:残存量の公式.Boltzmann 方程式を解くと,凍結後の残存量は
という,きわめて単純な形になる.注目すべきは,$m_\chi$ が(対数的な依存を除いて)現れないことである.残存量を決めるのは断面積だけである.
ステップ3:観測値から $\langle\sigma v\rangle$ を逆算する.$\Omega_{\rm DM}h^2=0.120$ を代入すると
$$ \langle\sigma v\rangle = \frac{3\times10^{-27}}{0.120} = 2.5\times10^{-26}\ \mathrm{cm^3\,s^{-1}} $$ステップ4:弱い相互作用の断面積を見積もる.質量 $m_\chi$ の粒子が結合定数 $\alpha_w$ で対消滅するなら,次元解析から $\sigma\sim\alpha_w^2/m_\chi^2$ である.$\alpha_w=1/30$,$m_\chi=300$ GeV とすると
$$ \sigma \sim \frac{(1/30)^2}{(300\ \mathrm{GeV})^2} = \frac{1.11\times10^{-3}}{9\times10^{4}\ \mathrm{GeV^2}} = 1.23\times10^{-8}\ \mathrm{GeV^{-2}} $$自然単位を戻す.$1\ \mathrm{GeV^{-2}}=0.3894\ \mathrm{mb}=3.894\times10^{-28}\ \mathrm{cm^2}$ だから
$$ \sigma = 1.23\times10^{-8}\times3.894\times10^{-28} = 4.8\times10^{-36}\ \mathrm{cm^2} $$凍結時の典型速度 $v\approx0.3c=9\times10^{9}\ \mathrm{cm/s}$ を掛けると
$$ \langle\sigma v\rangle \approx 4.8\times10^{-36}\times9\times10^{9} = 4.3\times10^{-26}\ \mathrm{cm^3\,s^{-1}} $$ステップ5:一致.ステップ3 で観測から逆算した $2.5\times10^{-26}$ と,ステップ4 で「弱い相互作用の強さ・電弱スケールの質量」から見積もった $4.3\times10^{-26}$ が,因子 2 以内で一致した.宇宙論の観測が,電弱スケールの新粒子を指している——これを WIMP の奇跡という.
注意:奇跡は,まだ実験に裏付けられていない
WIMP の奇跡は 30 年にわたって暗黒物質探索の指導原理であった.しかし直接探索実験は,予言された領域を次々と削り取ってきた.スピン非依存の核子との断面積の上限は
- 2000 年頃:$10^{-42}\ \mathrm{cm^2}$(CDMS 初期)
- 2013 年:$10^{-45}\ \mathrm{cm^2}$(LUX)
- 2023 年:$2.6\times10^{-47}\ \mathrm{cm^2}$(XENONnT)
- 2024 年:$2.2\times10^{-48}\ \mathrm{cm^2}$(LZ,$m_\chi=40$ GeV)
と,四半世紀で 6 桁改善した.素朴な超対称性ニュートラリーノの多くの領域はすでに排除されている.そして $10^{-48}$ 台に入ると,大気ニュートリノや太陽ニュートリノのコヒーレント散乱(CE$\nu$NS)が消せない背景として立ち上がる.これをニュートリノ・フォグという.LZ はすでにその縁に触れている.
この状況を受け,探索の重心は (i) より軽い暗黒物質(MeV–GeV),(ii) axion,(iii) 原始ブラックホール,(iv) 非常に弱く結合する「隠れセクター」へと移りつつある.どの方向へ進むにせよ,感度を決めるのは検出器材料である(15.6 節).
15.5.5 axion と強い CP 問題
もう一つの有力候補 axion は,暗黒物質のためではなく,まったく別の問題を解くために提案された.
QCD の Lagrangian には,第11章では書かなかった項を足すことが許される:
この項はゲージ不変でくりこみ可能なので,禁じる理由がない.ところがこれは $P$ と $CP$ を破る.その帰結は中性子の電気双極子モーメント(EDM)であり
$$ d_n \approx 3\times10^{-16}\,\bar\theta\ \ e\cdot\mathrm{cm} $$と見積もられる.実験値は $\abs{d_n}<1.8\times10^{-26}\ e\cdot\mathrm{cm}$($90\ \%$ C.L.,2020)なので
$$ \abs{\bar\theta} < 6\times10^{-11} $$である.$\bar\theta$ は $0$ から $2\pi$ の任意の角度でよいのに,なぜ $10^{-10}$ 以下なのか.これが強い CP 問題である.階層性問題と同じ「なぜこんなに小さいのか」型の問いである.ここで一見もっともらしい誤解を一つ潰しておく.「$\bar\theta\to0$ で $CP$ 対称性が回復するのだから ’t Hooft の意味で技術的に自然だ」と言いたくなるが,これは成り立たない.標準模型では CKM 行列の位相 $\delta=1.14$ rad が $CP$ をすでに破っているので,$\bar\theta=0$ と置いても $CP$ 対称性は回復しないのである.しかも $\bar\theta=\theta_{\rm QCD}+\arg\det M_q$ の第2項は CKM と同じ湯川行列の位相に由来する.つまり CKM 位相を残したまま $\bar\theta$ をゼロに固定する対称性は,標準模型には存在しない.守り手がいないからこそ $\bar\theta$ の小ささが「問題」なのである($\bar\theta$ が CKM から受ける輻射補正そのものは $\sim10^{-16}$ と極小で,量的には安定である.しかしそれは「対称性が守っている」からではない).以下に見る Peccei–Quinn 機構は,その守り手を新しく導入する試みである.
導出:Peccei–Quinn 機構と axion 質量
ステップ1:$\bar\theta$ を動的な場にする.Peccei と Quinn(1977)は,新しい大域的 $U(1)_{\rm PQ}$ 対称性を導入し,それが $f_a$ というスケールで自発的に破れるとした.その南部–Goldstone ボソンが axion $a$ であり,$\bar\theta\to\bar\theta+a/f_a$ と置き換わる.
ステップ2:QCD がポテンシャルを作る.$U(1)_{\rm PQ}$ はアノマリーで破れるので,$a$ は厳密な Goldstone ボソンではなく,QCD の非摂動効果によって
$$ V(a) \approx m_\pi^2 f_\pi^2\left[1-\cos\!\left(\bar\theta+\frac{a}{f_a}\right)\right] $$というポテンシャルを得る.
ステップ3:最小値で $CP$ が回復する.$V$ の最小は $\bar\theta+\langle a\rangle/f_a=0$ にある.つまり axion 場が自分で $\bar\theta$ をゼロに緩和する.これが Peccei–Quinn 機構である.
ステップ4:axion の質量.ポテンシャルの二階微分から
$$ m_a^2 = \frac{m_\pi^2f_\pi^2}{f_a^2}\cdot\frac{m_um_d}{(m_u+m_d)^2} \quad\Longrightarrow\quad m_a = 5.70\ \mu\mathrm{eV}\times\frac{10^{12}\ \mathrm{GeV}}{f_a} $$$f_a$ が大きいほど axion は軽く,結合は弱い.天体物理(SN1987A の冷却)からの下限 $f_a>4\times10^8$ GeV と,宇宙論的な過剰生成の上限を合わせると,暗黒物質 axion の質量は $\mu$eV から meV の範囲にあると期待される.
ステップ5:光子との結合.axion は2光子に結合する:
$\bm E\cdot\bm B$ という組み合わせが本質的である.強い静磁場 $\bm B_0$ をかけると,axion が実光子に変換される(Primakoff 転換).これが 15.6.3 項のハロスコープの原理であり,同時にトポロジカル絶縁体の軸性電磁応答とまったく同じ形の項である.
15.5.6 暗黒エネルギーと宇宙定数問題
1998 年,遠方の Ia 型超新星の観測から,宇宙膨張が加速していることが分かった(Riess, Perlmutter ら.2011 年ノーベル賞).加速には負の圧力が必要で,状態方程式 $p=w\rho$ で $w<-1/3$ でなければならない.観測は $w=-1.03\pm0.03$ で,宇宙定数($w=-1$)と無矛盾である.
導出:120 桁のずれ
ステップ1:観測される真空エネルギー密度.臨界密度は
$$ \rho_c = \frac{3H_0^2}{8\pi G} $$$H_0=67.4\ \mathrm{km\,s^{-1}Mpc^{-1}}=67.4\times10^3/(3.086\times10^{22})\ \mathrm{s^{-1}}=2.184\times10^{-18}\ \mathrm{s^{-1}}$ を入れると
$$ \rho_c = \frac{3\times(2.184\times10^{-18})^2}{8\pi\times6.674\times10^{-11}} = \frac{1.431\times10^{-35}}{1.677\times10^{-9}} = 8.54\times10^{-27}\ \mathrm{kg/m^3} $$$\Omega_\Lambda=0.685$ を掛けて $\rho_\Lambda=5.85\times10^{-27}\ \mathrm{kg/m^3}$.エネルギー密度に直すと $\rho_\Lambda c^2=5.26\times10^{-10}\ \mathrm{J/m^3}$ である.
ステップ2:自然単位に直す.$1\ \mathrm{GeV^4}$ は,エネルギー $1$ GeV $=1.602\times10^{-10}$ J を体積 $(\hbar c/1\ \mathrm{GeV})^3=(1.973\times10^{-16}\ \mathrm{m})^3=7.68\times10^{-48}\ \mathrm{m^3}$ で割ったものだから
$$ 1\ \mathrm{GeV^4} = \frac{1.602\times10^{-10}}{7.68\times10^{-48}} = 2.086\times10^{37}\ \mathrm{J/m^3} $$したがって
$$ \rho_\Lambda = \frac{5.26\times10^{-10}}{2.086\times10^{37}} = 2.52\times10^{-47}\ \mathrm{GeV^4} $$ステップ3:エネルギースケールに直す.$\rho_\Lambda^{1/4}$ を取ると
$$ \rho_\Lambda^{1/4} = (2.52\times10^{-47})^{1/4}\ \mathrm{GeV} = 2.24\times10^{-12}\ \mathrm{GeV} = 2.24\ \mathrm{meV} $$ミリ電子ボルト.室温の熱エネルギー $k_BT=25$ meV の 1/10,あるいは波長 $0.55$ mm の光子のエネルギーに相当する.素粒子物理のどのスケールとも似ていない.
ステップ4:場の理論の素朴な予言.量子場の零点エネルギーは,カットオフ $\Lambda$ まで足すと
$$ \rho_{\rm vac} = \frac{1}{2}\int^{\Lambda}\frac{\dd^3k}{(2\pi)^3}\,\omega_k = \frac{1}{4\pi^2}\int_0^\Lambda k^2\sqrt{k^2+m^2}\,\dd k \sim \frac{\Lambda^4}{16\pi^2} $$$\Lambda=M_{\rm Pl}=1.22\times10^{19}$ GeV とすると $M_{\rm Pl}^4=2.22\times10^{76}\ \mathrm{GeV^4}$.係数 $1/16\pi^2$ を無視して
$$ \frac{\rho_{\rm vac}}{\rho_\Lambda} = \frac{2.22\times10^{76}}{2.52\times10^{-47}} = 8.8\times10^{122} $$ステップ5:カットオフを下げても救われない.
| カットオフ $\Lambda$ | 物理的意味 | $\Lambda^4\ [\mathrm{GeV^4}]$ | $\Lambda^4/\rho_\Lambda$ | ずれの桁数 |
|---|---|---|---|---|
| $1.22\times10^{19}$ GeV | Planck 質量 | $2.2\times10^{76}$ | $8.8\times10^{122}$ | 123 |
| $2\times10^{16}$ GeV | 大統一スケール | $1.6\times10^{65}$ | $6.3\times10^{111}$ | 112 |
| $246$ GeV | 電弱スケール $v$ | $3.7\times10^{9}$ | $1.5\times10^{56}$ | 56 |
| $0.2$ GeV | $\Lambda_{\rm QCD}$ | $1.6\times10^{-3}$ | $6.3\times10^{43}$ | 44 |
| $2.2\times10^{-12}$ GeV | 観測値 | $2.5\times10^{-47}$ | $1$ | 0 |
QCD スケールという,明らかに存在することが分かっている最も低いスケールまで下げても,まだ 44 桁ずれる.宇宙定数問題は,物理学で知られている最悪の理論と実験の不一致である.階層性問題の $10^{32}$ ですら,これに比べれば可愛らしい.
なぜ? 物性では零点エネルギーが「見える」のに
ここには奇妙な非対称がある.物性物理では,真空(基底状態)の零点エネルギーは実在の効果として観測される.たとえば Casimir 効果:距離 $d$ の平行平板間に働く単位面積あたりの引力は
$$ \frac{F}{A} = -\frac{\pi^2\hbar c}{240\,d^4} $$で,$d=100$ nm なら $13\ \mathrm{N/m^2}$ となり,MEMS の設計で実際に問題になる大きさである.また分子間の van der Waals 力も,格子振動の零点エネルギー($\sum_{\qq s}\hbar\omega_{\qq s}/2$,第一原理フォノン計算で日常的に扱う量)も,どれも実在する.
これらに共通するのは,測っているのが零点エネルギーの差だという点である.板を動かしたときの変化,同位体を置換したときの変化,体積を変えたときの変化(Grüneisen パラメータ).絶対値は決して現れない.
ところが重力だけは,エネルギーの絶対値に結合する.これが宇宙定数問題の本質である.物性物理が「エネルギーの原点は任意」という便利な逃げ道を持てるのは,重力を無視できるからにほかならない.重力を入れた瞬間に,我々が普段捨てている定数項が観測量になってしまう.
この問題への現在の応答は,正直に言えば「分からない」である.超対称性が完全なら零点エネルギーはボソンとフェルミオンで相殺してゼロになるが,超対称性は破れており,破れのスケール($>1$ TeV)で切っても $(1\ \mathrm{TeV})^4/\rho_\Lambda=4\times10^{58}$ 倍残る.人間原理による説明(Weinberg, 1987:$\rho_\Lambda$ が大きすぎると銀河が形成されず観測者が生じない,という上限)は $\rho_\Lambda$ の桁を正しく予言したが,物理法則からの導出ではない.
15.6 材料科学との接点 —— 検出器としての材料
15.2 節以降の四つの節は,すべて「見つかっていないもの」の話であった.陽子崩壊,バリオン数生成の機構,超対称粒子,暗黒物質,axion.これらを探す実験に共通する構造は,一つしかない.信号が極端に小さく,背景が支配的である.したがって感度を決めるのは,加速器の性能でも理論の精密さでもなく,検出器を作る材料そのものである.
本節では,この分野が材料科学に対して出している要求を,数値とともに具体的に述べる.素粒子物理は,材料科学の最も要求の厳しい顧客の一つである.
15.6.1 放射能清浄度という材料指標
暗黒物質の直接探索を考えよう.目標は,年に数個の核反跳事象を,$1$ トンの標的の中で捉えることである.一方,何もしなければ何が起きるか.
導出:$^{238}$U がどれだけ許されるか
ステップ1:$^{238}$U の比放射能を求める.半減期 $T_{1/2}=4.468\times10^9$ 年なので,崩壊定数は
$$ \lambda = \frac{\ln2}{T_{1/2}} = \frac{0.6931}{4.468\times10^9\times3.156\times10^7\ \mathrm{s}} = \frac{0.6931}{1.410\times10^{17}\ \mathrm{s}} = 4.916\times10^{-18}\ \mathrm{s^{-1}} $$1 g の $^{238}$U に含まれる原子数は $N=6.022\times10^{23}/238=2.530\times10^{21}$.したがって
$$ A = \lambda N = 4.916\times10^{-18}\times2.530\times10^{21} = 1.24\times10^{4}\ \mathrm{Bq/g} = 12.4\ \mathrm{kBq/g} $$ステップ2:実験が許す放射能を決める.1 トンの検出器で,年に 1 事象以下の背景に抑えたいとする.崩壊 1 回あたり信号領域に落ちる確率を(遮蔽・弁別の効果込みで)$10^{-4}$ とすると,許される全放射能は $10^4\ \mathrm{崩壊/年}=3.2\times10^{-4}$ Bq,すなわち $1$ トンあたり $3.2\times10^{-4}$ Bq $\approx0.3\ \mu\mathrm{Bq/kg}$ のオーダーになる.実際,最先端の実験の要求はまさに $1\ \mu\mathrm{Bq/kg}$ 級である.
ステップ3:質量分率に直す.$1\ \mu\mathrm{Bq/kg}=10^{-9}\ \mathrm{Bq/g}$ だから,許される $^{238}$U の質量分率は
ステップ4:普通の材料と比べる.地殻中の U 濃度は $2.7$ ppm,つまり $2.7\times10^{-6}$ g/g である.工業用の「高純度」試薬でも $10^{-9}$ g/g(ppb)程度が普通である.要求値 $8\times10^{-14}$ は,そこからさらに 4–5 桁,地殻からは 7–8 桁下である.
ステップ5:測定そのものが難しい.$0.08$ ppt を測る方法も限られる.高感度 ICP-MS(検出限界 $\sim10^{-13}$ g/g),中性子放射化分析,そして地下の HPGe 検出器による直接 $\gamma$ 線計数($\mu$Bq/kg 級)である.最後の方法は,測るために測りたいのと同じ純度の検出器が要る,という循環に陥る.
材料科学との接点:放射能清浄度は,第4の純度指標である
材料科学者は普通,純度を三つの尺度で語る.(i) 化学純度($5\mathrm{N}$,$6\mathrm{N}$ など),(ii) 電気的純度(キャリア濃度,残留抵抗比 RRR),(iii) 結晶完全性(転位密度,モザイク幅).素粒子実験は,これに第4の軸を加える.放射能清浄度(radiopurity)である.
重要なのは,この軸が他の三つと独立だということである.$6\mathrm{N}$ の銅でも,宇宙線で作られた $^{60}$Co が入っていれば使えない.完璧な単結晶でも,$^{210}$Pb が表面に付着していれば駄目である.逆に,多結晶で構わないが $^{238}$U だけは $10^{-14}$ でなければならない,という要求もありうる.
| 核種 | 半減期 | 比放射能 | $1\ \mu\mathrm{Bq/kg}$ 相当 | 由来と対策 |
|---|---|---|---|---|
| $^{238}$U | $4.47\times10^9$ 年 | $12.4$ kBq/g | $8.0\times10^{-14}$ g/g | 原料鉱石.イオン交換・溶媒抽出・ゾーン精製 |
| $^{232}$Th | $1.41\times10^{10}$ 年 | $4.06$ kBq/g | $2.5\times10^{-13}$ g/g | 同上.$^{208}$Tl の $2615$ keV $\gamma$ が最も厄介 |
| $^{40}$K | $1.25\times10^9$ 年 | $31$ Bq/g(天然 K) | $3.2\times10^{-11}$ g(K)/g | ガラス・セラミクス・人体.NaI では K $<20$ ppb を要求 |
| $^{222}$Rn | $3.82$ 日 | 気体 | 空気中 $10\text{--}100$ Bq/m$^3$ | 脱気・N$_2$ パージ・Rn 低減空気($<0.1$ Bq/m$^3$) |
| $^{210}$Pb / $^{210}$Po | $22.3$ 年 / $138$ 日 | 表面付着 | $<10\ \mathrm{nBq/cm^2}$ | Rn 娘核種の表面プレートアウト.研磨・エッチング・清浄環境 |
| $^{60}$Co | $5.27$ 年 | 宇宙線生成 | Cu 中で問題 | 地下保管・電解精製(電鋳銅)で $<0.1\ \mu\mathrm{Bq/kg}$ |
| $^{39}$Ar | $269$ 年 | 大気 Ar で $1$ Bq/kg | — | 地下ガス田由来の Ar を使い $1400$ 分の 1 に低減 |
| $^{85}$Kr | $10.8$ 年 | 核実験・再処理由来 | Xe 中 ppq 級 | 低温蒸留・ガスクロマトで $^{nat}$Kr/Xe $<10^{-13}$ mol/mol |
この表は,材料科学の教科書には載っていない.しかし現実には,電解精製した銅を地下で保管し,地下で機械加工する(MAJORANA の電鋳銅),ゾーン精製した Ge を $10^{10}\ \mathrm{cm^{-3}}$ まで清める,地下のガス田から掘った $^{39}$Ar の少ないアルゴンを使う——といった,きわめて具体的な材料工学が実行されている.
そしてこの技術は素粒子物理の外にも波及する.半導体デバイスのソフトエラーは,パッケージ材料中の $^{238}$U・$^{232}$Th の $\alpha$ 線が原因であり,低 $\alpha$ はんだ($<0.002\ \mathrm{counts/cm^2/h}$)の開発は同じ問題である.超伝導量子ビットのコヒーレンス時間が,環境放射線による準粒子生成で制限されることも 2020 年前後に明らかになった.放射能清浄度は,量子デバイスの世紀にはむしろ主流の材料指標になりつつある.
15.6.2 三つの信号チャンネルと,材料の選び方
WIMP が原子核に弾性散乱すると,反跳した原子核が結晶中を走り,エネルギーを落とす.落とし方は三通りしかない.
- 熱(フォノン):最終的にはほぼ全エネルギーが格子振動になる.最も損失が少ないが,測るには極低温が要る.
- 電離:電子・正孔対を作る.半導体や液体希ガスで電場をかけて集める.
- シンチレーション:発光中心を励起して光子を出す.光電子増倍管で読む.
そして二つ以上を同時に測れば,事象の種類が判別できる.電子反跳($\gamma$ 線や $\beta$ 線による背景)と核反跳(WIMP や中性子)では,熱に対する電離の比が違うからである(核反跳では電離が抑制される:Lindhard の quenching).この弁別能力が,背景を $10^{-3}$ 以下に落とす鍵になる.
導出:カロリメータのエネルギー分解能と,材料に対する要求
ステップ1:熱容量 $C$ の系にエネルギー $E$ が落ちると.温度上昇は
$$ \Delta T = \frac{E}{C} $$である.$C$ が小さいほど信号が大きい.
ステップ2:熱ゆらぎが分解能の下限を与える.熱浴と弱く結合した系のエネルギーは,正準集団のゆらぎ(『線形応答理論入門』第8章「応答関数の一般的性質」の揺動散逸定理)により
という下限をもつ.低温にし,かつ熱容量を小さくすれば分解能が上がる.
ステップ3:Debye 則を入れる.絶縁体結晶では,低温で電子の寄与が消え,格子の比熱だけが残る:
$$ C = \frac{12\pi^4}{5}\,n\,R\left(\frac{T}{\Theta_D}\right)^3 = 1944\,n\left(\frac{T}{\Theta_D}\right)^3\ \mathrm{J/K} $$($n$ は原子のモル数).これを式 \eqref{eq:15-calorimeter} に入れると $\Delta E\propto T^{5/2}\Theta_D^{-3/2}$ となる.Debye 温度が高い材料ほどよい.
ステップ4:CUORE の $\mathrm{TeO_2}$ で数値を入れる.$\Theta_D=232$ K,結晶 $750$ g($5\times5\times5\ \mathrm{cm^3}$),$T=10$ mK.$\mathrm{TeO_2}$ の式量は $159.6$ g/mol,1 式量あたり原子 3 個なので原子のモル数は
$$ n = \frac{750}{159.6}\times3 = 14.1\ \mathrm{mol} $$ $$ \left(\frac{T}{\Theta_D}\right)^3 = \left(\frac{0.010}{232}\right)^3 = (4.31\times10^{-5})^3 = 8.01\times10^{-14} $$ $$ C = 1944\times14.1\times8.01\times10^{-14} = 2.20\times10^{-9}\ \mathrm{J/K} $$ナノジュール毎ケルビン.$750$ g もの結晶が,室温の $\mathrm{TeO_2}$ の熱容量(比熱は約 $0.4\ \mathrm{J/g/K}$.$\Theta_D=232$ K は室温より低いので Dulong–Petit の $9R/159.6=0.47\ \mathrm{J/g/K}$ に近い.$750$ g で約 $300$ J/K)の $10^{-11}$ 程度しか熱容量を持たない.$T^3$ 則の威力である.
ステップ5:分解能の下限.
$$ \Delta E_{\rm rms} = \sqrt{1.381\times10^{-23}\times(0.010)^2\times2.20\times10^{-9}} = \sqrt{3.04\times10^{-36}} = 1.74\times10^{-18}\ \mathrm{J} $$ $$ = \frac{1.74\times10^{-18}}{1.602\times10^{-19}} = 10.9\ \mathrm{eV} \quad\Longrightarrow\quad \Delta E_{\rm FWHM} = 2.355\times10.9 = 26\ \mathrm{eV} $$ステップ6:実際は $7$ keV である.CUORE が達成しているのは $2615$ keV で FWHM $\approx7$ keV.熱力学的下限の 270 倍悪い.差は,温度センサ(NTD-Ge サーミスタ)の雑音,機械振動,電子回路,そして結晶と熱浴をつなぐ熱伝導のゆらぎである.この 270 倍が,まるごと材料科学とセンサ工学の余地である.実際 CUPID(CUORE の後継)は,$\mathrm{Li_2MoO_4}$ 結晶と光検出の併用で $\alpha$ 背景をほぼ完全に除去し,感度を一桁上げようとしている.
材料科学との接点:超伝導転移端センサ(TES)はなぜ効くか
温度計として何を使うかで,カロリメータの性能は決まる.二つの流儀がある.
(1) 半導体サーミスタ(NTD-Ge):中性子照射でドープした Ge の可変領域ホッピング伝導を使う.抵抗は
$$ R(T) = R_0\exp\!\left[\left(\frac{T_0}{T}\right)^{1/2}\right], \qquad \alpha \equiv \frac{\dd\ln R}{\dd\ln T} = -\frac12\sqrt{\frac{T_0}{T}} $$$T_0\sim4$ K,$T=10$ mK なら $\alpha=-10$.素直で安定だが,感度はこの程度である.
(2) 超伝導転移端センサ(TES):超伝導体を転移温度 $T_c$ のちょうど中間($R\approx R_n/2$)にバイアスして使う.転移幅 $\Delta T_c$ が $1$ mK 以下なら
$$ \alpha = \frac{\dd\ln R}{\dd\ln T} \approx \frac{T_c}{\Delta T_c} \sim 100\text{--}1000 $$となり,サーミスタの 10–100 倍の感度が得られる.エネルギー分解能は $\Delta E\propto\sqrt{k_BT^2C/\alpha}\times$(幾何因子)で改善し,X 線分光では $1.5$ eV FWHM($6$ keV,$\Delta E/E=2.5\times10^{-4}$)という,半導体検出器の 100 倍の分解能が実現している.
ここで完全に材料の問題になる.$T_c$ を望みの値($15$–$100$ mK)に作り込まねばならない.純 W の $T_c$ は $15$ mK($\alpha$ 相)だが薄膜では相制御が難しい.そこで近接効果を使う:常伝導金属(Au, Cu)と超伝導体(Mo, Ir, Ti, Al)の二層膜を作り,膜厚比で $T_c$ を連続的に調整する.Mo/Au 二層膜なら,Au の厚さを $100$–$300$ nm で振ることで $T_c$ を $80$–$150$ mK に設定できる.この「近接効果による $T_c$ 設計」は,まさに薄膜材料科学である.
読み出しにも材料が要る.TES の抵抗変化は電流変化として SQUID で読む.Nb/AlO$_x$/Nb ジョセフソン接合を使った直流 SQUID で,磁束雑音 $10^{-6}\Phi_0/\sqrt{\rm Hz}$ 級.さらに近年は,超伝導ナノワイヤ単一光子検出器(SNSPD,WSi や NbN の $5$ nm 厚ナノワイヤ)が,暗計数率 $10^{-4}\ \mathrm{s^{-1}}$ 以下で $0.1$ eV の光子を数える性能に達し,軽い暗黒物質の探索に使われ始めている.
素粒子物理の感度は,いま超伝導薄膜の $T_c$ 制御と界面工学に律速されている.これは誇張ではなく,実験提案書に書かれている通りの現実である.
導出:なぜ標的核の質量が重要か —— 反跳エネルギーの運動学
ステップ1:弾性散乱の運動学.質量 $M_\chi$,速度 $v$ の WIMP が静止した質量 $m_N$ の原子核に弾性散乱する.重心系で運動量の大きさは $\mu v$($\mu=M_\chi m_N/(M_\chi+m_N)$ は換算質量),散乱角 $\theta^*$ での反跳エネルギーは
$$ E_R = \frac{(\mu v)^2}{m_N}\big(1-\cos\theta^*\big) $$ステップ2:最大値.$\theta^*=\pi$(真後ろへの散乱)で最大になり
ステップ3:極限を見る.$M_\chi\gg m_N$ なら $E_R^{\max}\to2m_Nv^2$(重い弾丸で軽い的を弾く:的が軽いほど飛ばない),$M_\chi\ll m_N$ なら $E_R^{\max}\to2M_\chi^2v^2/m_N$(軽い弾丸は重い的をほとんど動かせない).両者が釣り合う $M_\chi\approx m_N$ のときに最も効率がよい.
ステップ4:数値を入れる.$v=220$ km/s($v/c=7.34\times10^{-4}$,$v^2=5.39\times10^{-7}$),$m_N=A\times0.9315$ GeV として計算したのが表15.8 である.$M_\chi=100$ GeV では Xe が最良だが,$M_\chi=1$ GeV では Si の方が Xe の 4.4 倍大きな反跳エネルギーを与える.
ステップ5:しかし断面積は $A^2$ で効く.スピン非依存の散乱では,核内の核子からの散乱振幅がコヒーレントに足し合わさるので
$$ \sigma_N = \sigma_p\,A^2\,\frac{\mu_N^2}{\mu_p^2}\,F^2(q) $$となり,重い核ほど有利である(Xe の $A^2=17237$ は Si の $A^2=789$ の 22 倍).重い核は断面積で有利,軽い核は運動学で有利.この二つの競合が,標的材料の選択を決める.
| 標的核 | $A$ | $A^2$ | $M_\chi=1$ GeV | $M_\chi=10$ GeV | $M_\chi=100$ GeV | 代表的実験 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| Si | 28.1 | 789 | 38.2 eV | 2.15 keV | 17.7 keV | SENSEI, DAMIC-M, SuperCDMS |
| Ar | 40.0 | 1596 | 27.4 eV | 1.80 keV | 21.3 keV | DarkSide-20k |
| Ge | 72.6 | 5275 | 15.5 eV | 1.21 keV | 25.9 keV | SuperCDMS, EDELWEISS, CDEX |
| Te | 127.6 | 16282 | 8.9 eV | 0.77 keV | 26.7 keV | CUORE(主に $0\nu\beta\beta$) |
| Xe | 131.3 | 17237 | 8.7 eV | 0.75 keV | 26.7 keV | LZ, XENONnT, PandaX-4T |
| W | 183.8 | 33797 | 6.2 eV | 0.56 keV | 25.1 keV | CRESST(CaWO$_4$) |
表15.8 から,材料選択の戦略がそのまま読み取れる.$100$ GeV 級の WIMP を狙うなら液体 Xe(大質量・高 $A^2$・自己遮蔽・弁別可能),$1$ GeV 以下を狙うなら Si や Al$_2$O$_3$ や超伝導体(反跳エネルギーが数十 eV しかないので,閾値を eV 以下まで下げられるセンサが必須).CRESST-III が $\mathrm{CaWO_4}$ を使う理由も,重い W(高 $A^2$)と軽い O(軽い WIMP への運動学的感度)を一つの結晶に同居させられるからである.化合物結晶を選ぶことが,そのまま探索領域を選ぶことになる.
材料科学との接点:液体 Xe 二相 TPC —— 液体そのものが検出器であり遮蔽でもある
$100$ GeV 級の WIMP 探索を現在支配しているのは,液体 Xe の二相タイムプロジェクションチェンバー(TPC)である(LZ,XENONnT,PandaX-4T).結晶を育てる必要がないという点で,材料科学の要求が「固体の完全性」から「液体の純度と界面」へ移る.要求は四つある.
- 自己遮蔽:Xe は $Z=54$,密度 $2.9\ \mathrm{g/cm^3}$ と重いので,外部からの $\gamma$ 線は $\lambda\approx3$ cm 程度で吸収される.したがって数トンの容器の中心部だけを信号領域に使えば,外側の Xe が受動遮蔽として働く.質量を増やすことが,そのまま背景を減らすことになる——固体検出器には真似のできない性質である.
- S1/S2 弁別:反跳はまず即発シンチレーション光(S1,$175$ nm の VUV)を出す.同時に作られた電子は電場($\sim200$ V/cm)でドリフトして液面に達し,気相に引き出されて比例シンチレーション(S2)を出す.S1 と S2 の比が電子反跳と核反跳で異なるので,これで背景を $10^{-3}$ 以下に落とす.ドリフト時間が深さを与えるので,事象の 3 次元位置も分かる(これが自己遮蔽を使える前提である).
- $175$ nm を逃がさない壁:S1 は真空紫外なので,普通の反射材は吸収してしまう.ここで使われるのが PTFE(ポリテトラフルオロエチレン)である.液体 Xe 中で $175$ nm の拡散反射率が $95\ \%$ 以上あり,しかも放射能が低く,極低温で使える.反射率が $95\ \%$ か $90\ \%$ かで集光効率が倍近く変わり,それがそのままエネルギー閾値を決める.高分子の VUV 反射率という,一見地味な材料定数が探索領域の境界を引いている.
- $^{85}$Kr と $^{222}$Rn の除去:Xe 自身は放射性同位体をもたないが,商用 Xe には $^{\rm nat}$Kr が ppb〜ppm 混じり,その中の $^{85}$Kr(半減期 $10.8$ 年,$\beta$ 線)が致命的な背景になる.要求は Kr/Xe $<10^{-12}$(ppt 未満)で,低温蒸留とガスクロマトグラフィで達成する.容器材料から滲み出す $^{222}$Rn(半減期 $3.8$ 日)も同様に問題で,こちらは材料の放射能清浄度(15.6.1 項)と,活性炭による連続 Rn 除去で対処する.さらに電子の寿命を保つため電気陰性不純物($\mathrm{O_2}$,$\mathrm{H_2O}$)を ppb 以下に保つ熱間ゲッター循環が常時回っている.
まとめると,液体 Xe TPC の性能は液体の純度($10^{-12}$ 級)と高分子の VUV 光学特性という二つの材料課題に律速されている.固体結晶の育成とは要求の中身がまるで違うが,「$10^{-12}$ を保証せよ」という水準は同じである.
15.6.3 axion 探索と材料 —— 空洞とトポロジカル絶縁体
axion 探索は,材料科学との結びつきがさらに直接的である.二つの側面がある.
(a) ハロスコープ:超伝導空洞と高 $Q$ 値
Sikivie(1983)の提案は単純である.式 \eqref{eq:15-axion-photon} の $\Lag=g_{a\gamma\gamma}\,a\,\bm E\cdot\bm B$ を見ると,強い静磁場 $\bm B_0$ の中では,axion 場 $a$ が電場 $\bm E$ を作る.そこに共鳴空洞を置き,共鳴周波数を $\nu=m_ac^2/h$ に合わせれば,信号が $Q$ 倍に増幅される.出力電力は
である($\rho_a=0.45\ \mathrm{GeV/cm^3}$ は局所暗黒物質密度.15.5.1 項と演習15.6 では $0.3$–$0.4\ \mathrm{GeV/cm^3}$ を使うが,ハロー模型に起因する幅の範囲内である.$V$ は空洞体積,$C$ はモード形状因子(TM$_{010}$ で $C\approx0.69$),$Q_L$ は負荷 $Q$ 値).結合 $g_{a\gamma\gamma}$ は模型によるので,それを明示しないと電力は決まらない.$m_ac^2=3\ \mu$eV($f_a=1.9\times10^{12}$ GeV)として式 \eqref{eq:15-axion-photon} を使うと,KSVZ 模型($E/N=0$,$g_\gamma=-0.97$)では $g_{a\gamma\gamma}=1.2\times10^{-15}\ \mathrm{GeV^{-1}}$,結合のより弱い DFSZ 模型($E/N=8/3$,$g_\gamma=0.36$)では $4.6\times10^{-16}\ \mathrm{GeV^{-1}}$ である.ADMX の実機に近いパラメータ($B_0=7.6$ T,$V=136$ L,$C=0.69$,$Q_L\sim10^5$)を入れると,$P\approx1\times10^{-21}$ W(KSVZ),$P\approx1.5\times10^{-22}$ W(DFSZ)となる.以下は厳しいほうの DFSZ で見積もる.
例:$10^{-22}$ W をどうやって測るのか
(1) 周波数.$m_ac^2=3\ \mu$eV の axion に対応する周波数は
$$ \nu = \frac{m_ac^2}{h} = \frac{3\times10^{-6}\ \mathrm{eV}}{4.136\times10^{-15}\ \mathrm{eV\,s}} = 7.25\times10^{8}\ \mathrm{Hz} = 725\ \mathrm{MHz} $$ちょうど携帯電話の帯域である.だから実験は電波暗室級のシールドの中で行われる.
(2) 信号の線幅.暗黒物質 axion の速度分散 $\Delta v/c\sim10^{-3}$ により,エネルギー幅は $\Delta E/E\sim(\Delta v/c)^2\sim10^{-6}$.したがって信号の品質係数は $Q_a\sim10^6$,線幅は
$$ \Delta\nu_a = \frac{\nu}{Q_a} = \frac{7.25\times10^8}{10^6} = 725\ \mathrm{Hz} $$(3) 雑音電力.系雑音温度 $T_{\rm sys}=0.5$ K(希釈冷凍機 $+$ 量子限界近傍のジョセフソンパラメトリック増幅器)とすると,この帯域での雑音電力は
$$ P_N = k_BT_{\rm sys}\Delta\nu_a = 1.381\times10^{-23}\times0.5\times725 = 5.0\times10^{-21}\ \mathrm{W} $$信号 $1.5\times10^{-22}$ W は,雑音の $1/33$ しかない.
(4) 積分時間(Dicke の放射計方程式).時間 $t$ 積分すると信号対雑音比は
$$ \mathrm{SNR} = \frac{P_s}{k_BT_{\rm sys}}\sqrt{\frac{t}{\Delta\nu_a}} $$$\mathrm{SNR}=5$ を要求すると
$$ \frac{1.5\times10^{-22}}{1.381\times10^{-23}\times0.5}\sqrt{\frac{t}{725}} = 5 \;\Longrightarrow\; 21.7\sqrt{\frac{t}{725}} = 5 \;\Longrightarrow\; t = 725\times\left(\frac{5}{21.7}\right)^2 = 38\ \mathrm{s} $$1 周波数点あたり 約 40 秒.そして空洞の帯域 $\nu/Q_L=7.25$ kHz ごとに同調をずらして走査するので,$100$ MHz を掃くには $1.4\times10^4$ 点,すなわち $5\times10^5$ s $\approx6$ 日という計算になる.
ただしこれは雑音だけで決まる下限である.実際の ADMX は同調ロッドのために形状因子が $C\approx0.4$ に落ち,$Q_L$ も $5\times10^4$ 程度で,較正・候補信号の再走査・冷凍機の運転といった諸経費も入るため,同じ $100$ MHz に数ヶ月から 1 年をかけている.axion の質量が $\mu$eV から meV まで 3 桁不明であることを思うと,気の遠くなる作業である.
(5) だから材料が効く.式 \eqref{eq:15-haloscope} と上の関係から
$$ t_{\text{1 点あたり}} \;\propto\; \frac{T_{\rm sys}^2}{P_s^2}\;\propto\; \frac{T_{\rm sys}^2}{B_0^4\,V^2\,C^2\,Q_L^2} $$である.ここで 1 周波数点あたりと断ったことが大切である.$Q_L$ を 10 倍にすると 1 点あたりの時間は 100 分の 1 になるが,同時に空洞帯域 $\nu/Q_L$ が 10 分の 1 に狭まって走査点数が 10 倍に増えるので,全走査にかかる時間は $10^2/10=10$ 分の 1,すなわち走査速度は $Q_L$ の 1 乗に比例して 10 倍速くなるだけである(Sikivie 以来の標準結果 $\dd\nu/\dd t\propto Q_L$).しかも $Q_L$ が axion の線幅に対応する $Q_a\sim10^6$ を超えると,空洞は信号の線幅より細くなってしまい,それ以上の利得はない.いまの例は $Q_L=10^5$ なので,10 倍にするとちょうどその限界に達する.一方 $B_0$ は点数に影響しないので,2 倍にすれば素直に $16$ 倍速くなる.どちらも材料の問題である.
材料科学との接点:強磁場中で使える超伝導空洞という難題
通常の銅空洞の $Q$ は $4$ K で $10^5$ 程度である.超伝導空洞なら $10^{10}$ に届く——のだが,ハロスコープでは空洞そのものが $8$ T の磁場の中にある.超伝導体は臨界磁場を超えれば常伝導に戻るので,Nb($B_{c1}=170$ mT)は使えない.
解決の方向は三つある.
- 第二種超伝導体の混合状態を使う:$\mathrm{Nb_3Sn}$ や NbTi は $B_{c2}$ が高いが,磁束線のピン止めが不十分だと磁束フロー損失で $Q$ が落ちる.ピン止め点の設計(不純物・欠陥の導入)が鍵になる.これは臨界電流密度 $J_c$ を上げるのと同じ材料工学である.
- REBCO テープを内壁に貼る:$\mathrm{YBa_2Cu_3O_{7-\delta}}$ の $c$ 軸を磁場に平行にすれば,$8$ T 中でも表面抵抗を低く保てる.CAPP(韓国)と INFN のグループが $Q\sim10^6$ を達成した.異方性を活かした,きわめて物性物理的な設計である.
- 誘電体を入れる:低損失セラミクス(サファイア,$\mathrm{TiO_2}$,$\mathrm{Ba_{1-x}Sr_{x}TiO_{3}}$)を空洞内に配置し,磁場に影響されない誘電体共振モードを使う.$\tan\delta<10^{-6}$ 級の材料が要る.
いずれも「強磁場・極低温・低損失・低放射能」を同時に満たす材料を探す作業であり,物質探索そのものである.
(b) トポロジカル絶縁体の軸性電磁応答
ここからが,本章で最も驚くべき対応である.時間反転対称なトポロジカル絶縁体($\mathrm{Bi_2Se_3}$,$\mathrm{Bi_2Te_3}$ など)の電磁応答は,Maxwell 方程式に次の項を加えたもので記述される:
これを軸性電磁力学(axion electrodynamics,Wilczek 1987)という.式 \eqref{eq:15-ti-theta} と式 \eqref{eq:15-axion-photon} を見比べてほしい.同じ $\bm E\cdot\bm B$ である.素粒子物理の axion 場 $a$ と,トポロジカル絶縁体の $\theta$ 角は
$$ \theta(\bm x,t) \;\longleftrightarrow\; \frac{a(\bm x,t)}{f_a} $$という対応で結ばれる.比喩ではない.同じ Lagrangian の項である.
材料科学との接点:物質中の axion と,磁気電気効果の量子化
式 \eqref{eq:15-ti-theta} を $\bm D=\partial\Lag/\partial\bm E$,$\bm H=-\partial\Lag/\partial\bm B$ として展開すると,$\theta$ 項が生む効果は
$$ \bm P_{\rm ind} = \frac{\theta}{4\pi^2}\frac{e^2}{\hbar c}\,\bm B, \qquad \bm M_{\rm ind} = \frac{\theta}{4\pi^2}\frac{e^2}{\hbar c}\,\bm E $$すなわち磁場が分極を,電場が磁化を生む.これは磁気電気効果($\mathrm{Cr_2O_3}$ などで古くから知られる)そのものだが,トポロジカル絶縁体では係数が
$$ \alpha_{\rm ME} = \frac{\theta}{\pi}\cdot\frac{e^2}{2hc}\qquad(\theta=\pi\ \text{なら微細構造定数で表される定数}) $$と量子化される点が決定的に違う.材料の詳細(バンド構造,格子定数,不純物)に一切依存しない.量子化の理由は,$\theta$ が Chern–Simons 形式の積分(Berry 位相と Chern 数.本シリーズには該当章がないので Xiao–Chang–Niu, Rev. Mod. Phys. 82, 1959 (2010) を参照)であり,時間反転対称性が $\theta$ を $0$ か $\pi$ に固定するからである.
さらに面白いのは,$\theta$ を動的にできることである.反強磁性トポロジカル絶縁体(Fe をドープした $\mathrm{Bi_2Se_3}$,$\mathrm{Mn_2Bi_2Te_5}$,$\mathrm{MnBi_2Te_4}$ 族)では,反強磁性秩序変数の揺らぎ $\delta m$ に $\theta$ が線形に応答する:
$$ \delta\theta \propto \delta m $$この $\delta\theta$ は質量をもつ動的場,すなわち物質中の axion 準粒子である(Li–Wang–Qi–Zhang, 2010).磁場をかけると光(電磁ポラリトン)と混成し,「軸性ポラリトン」という新しい素励起になる.予想される質量は meV 級で,THz 分光で見える範囲である.
そして応用が逆向きに戻ってくる.Marsh らは 2019 年に,この物質中の axion 準粒子を,本物の暗黒物質 axion の検出器として使うことを提案した.暗黒物質 axion が物質中の axion 準粒子と共鳴すれば,THz 光子に変換される.共鳴周波数は磁性の交換相互作用で決まるので,材料の組成を変えれば同調できる——空洞の代わりに結晶を調律するのである.meV 領域(空洞では周波数が高すぎて体積が取れず,従来手法が苦手な領域)を狙う手段として注目されている.
ここには,本書全体を貫くメッセージが凝縮されている.素粒子物理の道具($\theta F\tilde F$ 項,トポロジカル項,指数定理)は,材料の中で実現され,さらにその材料が素粒子を測る道具として戻ってくる.両者は比喩でつながっているのではなく,同じ方程式でつながっている.
15.6.4 加速器の超伝導材料と検出器結晶
最後に,加速器そのものを見よう.素粒子物理は,超伝導材料の世界最大級の需要家である.
(a) 超伝導高周波空洞(SRF)
粒子を加速するには高周波電場が要る.常伝導の銅空洞では表皮抵抗による損失が大きく,連続運転ができない.超伝導 Nb の空洞なら,表面抵抗が桁違いに小さい.どれくらい小さいかを見よう.
導出:Nb 空洞は銅より $10^6$ 倍損失が少ない
ステップ1:常伝導金属の表面抵抗.古典的な表皮効果から
$$ R_s^{\rm Cu} = \sqrt{\frac{\pi f\mu_0}{\sigma}} = \sqrt{\pi f\mu_0\rho} $$$f=1.3$ GHz,$\mu_0=4\pi\times10^{-7}$ H/m,$\rho=1.7\times10^{-8}\ \Omega$m(室温 Cu)とすると
$$ R_s^{\rm Cu} = \sqrt{\pi\times1.3\times10^{9}\times1.2566\times10^{-6}\times1.7\times10^{-8}} = \sqrt{8.72\times10^{-5}} = 9.3\times10^{-3}\ \Omega = 9.3\ \mathrm{m\Omega} $$ステップ2:超伝導体の表面抵抗.BCS 理論から
$$ R_{\rm BCS}(T) = A\,\frac{f^2}{T}\exp\!\left(-\frac{\Delta}{k_BT}\right) + R_{\rm res} $$となる.指数関数の肩に超伝導ギャップ $\Delta$ が入るのが要点である.BCS の弱結合極限では $\Delta=1.76k_BT_c$ だが,Nb は強結合超伝導体で $\Delta\approx1.9k_BT_c$ である.Nb($T_c=9.25$ K,$\Delta=1.52$ meV すなわち $\Delta/k_B=17.6$ K)を $T=2$ K で使うと $\ee^{-17.6/2}=\ee^{-8.8}=1.5\times10^{-4}$ と激減する.
ステップ3:実測値から逆算.実際の TESLA 型空洞では $Q_0=2\times10^{10}$,形状因子 $G=270\ \Omega$ なので
$$ R_s^{\rm Nb} = \frac{G}{Q_0} = \frac{270}{2\times10^{10}} = 1.35\times10^{-8}\ \Omega = 13.5\ \mathrm{n\Omega} $$ステップ4:比を取る.
$$ \frac{R_s^{\rm Cu}}{R_s^{\rm Nb}} = \frac{9.3\times10^{-3}}{1.35\times10^{-8}} = 6.9\times10^{5} $$約 70 万倍.損失は $R_s$ に比例するので,同じ加速電場を維持するのに要る高周波電力が 70 万分の 1 で済む.冷凍にかかる電力($2$ K では Carnot 限界でも $1$ W の除熱に $149$ W,実機では $700$–$1000$ W の電力を要する)を差し引いても,圧倒的に有利である.European XFEL の $800$ 台,LCLS-II の $280$ 台の空洞は,この原理で連続運転している.
ステップ5:性能を決めているのは何か.$R_{\rm res}$(残留抵抗)である.これは BCS 項ではなく,材料と表面処理で決まる:捕捉磁束(地磁気の遮蔽が必須.$1\ \mu$T の残留磁場で $R_{\rm res}$ が数 n$\Omega$ 増える),水素化物($100$ K 付近での「Q 病」),表面の酸化物・粒界・粗さ.電解研磨(EP),$800\ ^\circ$C 真空焼鈍,低温焼鈍($120\ ^\circ$C・48 h),そして窒素ドープ(LCLS-II で採用,$Q_0$ を $2.7\times10^{10}$ に向上)——SRF 技術のほとんどすべては表面材料科学である.
加速電場の上限も材料が決める.Nb の超熱磁場(superheating field)は $B_{\rm sh}\approx240$ mT.TESLA 型空洞では表面磁場と加速電場の比が $B_{\rm pk}/E_{\rm acc}=4.26\ \mathrm{mT/(MV/m)}$ なので
$$ E_{\rm acc}^{\max} = \frac{240\ \mathrm{mT}}{4.26\ \mathrm{mT/(MV/m)}} = 56\ \mathrm{MV/m} $$が理論限界であり,実測の記録は $49$ MV/m と,すでに $88\ \%$ に達している.これ以上は Nb では原理的に伸びない.そこで $\mathrm{Nb_3Sn}$($T_c=18.3$ K)の薄膜コーティングが研究されている.$T_c$ が 2 倍なので $4.2$ K での運転が可能になり(冷凍コストが 1 桁下がる),理論的な $B_{\rm sh}$ も $400$ mT と高い.しかし A15 相の化学量論比の制御,Sn 欠乏領域,粒界での磁束侵入が壁になっており,実効性能は $24$ MV/m 程度にとどまる.典型的な,未解決の材料問題である.
(b) 超伝導磁石
| 材料 | $T_c$ | $B_{c2}$(4.2 K) | 使用例 | 材料上の課題 |
|---|---|---|---|---|
| NbTi | $9.2$ K | $11.5$ T | LHC 主双極子($8.33$ T,$1.9$ K,$1232$ 台,$11850$ A) | 延性があり加工容易.$\alpha$-Ti 析出物によるピン止め設計.$8$ T が実用上限 |
| $\mathrm{Nb_3Sn}$ | $18.3$ K | $\sim28$ T | HL-LHC 四極子($11.4$ T),ITER,FCC-hh 構想($16$ T) | A15 相は脆く歪みに弱い($\varepsilon_{\rm irr}\approx0.3\ \%$).巻いてから反応させる wind-and-react |
| REBCO($\mathrm{YBa_2Cu_3O_{7-\delta}}$) | $92$ K | $>100$ T | $20$ T 級高磁場磁石,核融合トカマク(SPARC の TF コイル),axion ハロスコープ | 粒界弱結合のため二軸配向テープが必須.高価.遮蔽電流と機械応力 |
| Nb(バルク) | $9.25$ K | — | SRF 空洞($E_{\rm acc}=25$–$45$ MV/m) | RRR $>300$ の高純度材,表面処理がすべて |
材料科学との接点:素粒子物理と核融合は同じ材料を奪い合っている
表15.9 の最終行にある REBCO テープは,いま世界で最も需要が逼迫している超伝導材料である.理由は二つあり,一つは加速器(FCC や $\mu$ 粒子コライダーの構想),もう一つは核融合である.Commonwealth Fusion Systems の SPARC トカマクは REBCO のトロイダル磁場コイルで $20$ T を狙っており,そのために年間数千 km のテープを必要とする.
この二つの分野が求める性能はほぼ同じである.(i) 高磁場($20$ T 超)での高い $J_c$,(ii) 大きな機械応力($20$ T では Lorentz 力によるフープ応力が数百 MPa)への耐性,(iii) クエンチ保護のための高い熱的安定性,(iv) 中性子照射に対する耐性(核融合では $10^{22}\ \mathrm{n/m^2}$ 級,加速器では検出器近傍のビームロス).
言い換えれば,「素粒子物理を勉強すると核融合技術につながる」というのは,理論の話としてだけでなく,材料調達と工学のレベルで文字通りそうなっている.高磁場超伝導線材の $J_c$ を上げる研究,人工ピン止め点($\mathrm{BaZrO_3}$ ナノロッドの導入など)の設計,フラックスジャンプの抑制——これらの成果は,そのまま両方の分野に流れ込む.
(c) 検出器結晶の育成
最後に,検出器そのものを作る結晶育成について.素粒子実験は,しばしば人類が作った最大級の単結晶群を要求する.
| 結晶 | 実験・規模 | 物性上の要点 | 育成上の課題 |
|---|---|---|---|
| $\mathrm{PbWO_4}$ | CMS 電磁カロリメータ:$75\,848$ 本,$2.2\times2.2\times23\ \mathrm{cm^3}$ | 密度 $8.28\ \mathrm{g/cm^3}$,放射長 $X_0=0.89$ cm,減衰時間 $10$ ns | 発光量が小さい($4.5$ 光電子/MeV),温度係数 $-2.2\ \%/$K のため $\pm0.05$ K の温度安定化が必要,耐放射線性のための Y・Nb ドープ |
| $\mathrm{CsI(Tl)}$ | Belle II カロリメータ:$8736$ 本 | 発光量が大きい($54\,000$ 光子/MeV) | 潮解性,減衰時間が長い($1\ \mu$s)ため高輝度環境で山積み |
| $\mathrm{TeO_2}$ | CUORE:$988$ 本,各 $750$ g,計 $742$ kg,$10$ mK | $\Theta_D=232$ K と高く極低温で比熱が小さい,$^{130}$Te の天然存在比 $34\ \%$ | $^{238}$U/$^{232}$Th を $<10^{-13}$ g/g に抑えた原料,表面の $^{210}$Pb 除去,$10$ mK での熱接触 |
| $\mathrm{CaWO_4}$ | CRESST-III:$24$ g 級素子,閾値 $30$ eV | シンチレーティングボロメータ.軽い O と重い W を同居 | 放射能清浄度(自製結晶で改善),発光の再現性 |
| NaI(Tl) | DAMA/LIBRA:$250$ kg,ANAIS-112,COSINE-100 | 年周変調探索の標準材料 | K を $<20$ ppb に落とした粉末の入手が最大の障壁.潮解性のため乾燥環境で加工 |
| 高純度 Ge | LEGEND-200,MAJORANA | 正味不純物 $<10^{10}\ \mathrm{cm^{-3}}$(相対 $2.3\times10^{-13}$),分解能 $0.1\ \%$ FWHM @ 2 MeV | ゾーン精製と Czochralski 育成,$^{76}$Ge への $88\ \%$ 濃縮(遠心分離),地上滞在中の宇宙線による $^{68}$Ge 生成を避ける輸送 |
材料科学との接点:素粒子実験は,材料科学に「極限の仕様」を書かせる装置である
表15.10 を通して眺めると,共通する構造が見える.素粒子実験は,材料に対して互いに両立しにくい要求を同時に突きつける.
- 大量($10^5$ 本,$100$ トン級)でありながら,一本ごとに $10^{-13}$ の純度
- 高密度・高原子番号(相互作用を増やす)でありながら,低放射能(重い元素ほど U・Th を含みやすい)
- 極低温で使う(比熱を下げる)でありながら,熱伝導と機械支持は確保する
- 耐放射線でありながら,光学的に透明
こういう仕様は,通常の産業からは出てこない.そして,それを満たすために開発された技術は,しばしば別の分野へ流れ出る.シリコン飛跡検出器の技術は医療用 PET と X 線イメージングへ,SRF 空洞は自由電子レーザーと ADS(加速器駆動未臨界炉)へ,TES と SNSPD は天文観測と量子情報へ,超高真空技術($10^{-11}$ mbar,NEG コーティング $\mathrm{TiZrV}$)は半導体製造装置へ.
素粒子物理と材料科学の関係は,一方通行ではない.材料科学が素粒子実験を可能にし,素粒子実験の極限的な要求が材料科学に新しい問題を与える.本書の企図はここにある.第16章では,この往復をさらに広く(電子・正孔と粒子・反粒子,超伝導と $U(1)$ の破れ,Majorana 準粒子,核融合材料)見渡す.
15.7 まとめと演習
15.7.1 まとめ
- Higgs は見つかったが,Higgs 機構が説明するのは質量と結合の比だけである.$m_H=125.25$ GeV,$\Gamma_H=4.07$ MeV,$v=(\sqrt2G_F)^{-1/2}=246.22$ GeV.結合の質量比例性 $g=m/v$ は $\mu$ から $t$ まで 3 桁($y_t/y_\mu=1.6\times10^3$)にわたって確認された(図15.2).しかし $y_t/y_e=3.4\times10^5$ という階層の理由は,標準模型の外にある.
- ミュオンの $a_\mu$ の食い違いは,実験と理論の間ではなく,理論側の二つの評価法の間にある.Fermilab の Muon $g-2$ 実験(E989)が 2025 年に最終結果を出し,BNL と合わせた世界平均 $a_\mu^{\rm exp}=116\,592\,071.5\,(14.5)\times10^{-11}$ は相対精度 $0.12$ ppm に達した.標準模型予言の不定性はハドロン真空偏極(HVP)が握っており,$R$ 比に基づくデータ駆動の評価(2020 年の理論白書)を採れば実験との差は $5.8\sigma$,格子 QCD の評価(2025 年の理論白書)を採れば $0.6\sigma$ で一致する.新物理の兆候かどうかは,理論側の決着まで保留すべきである.
- 階層性問題は,量的に評価できる問題である.$\delta m_H^2=-(3y_t^2/8\pi^2)\Lambda^2$ の係数は $0.0374$.$\Lambda=M_{\rm Pl}$ なら $10^{32}$ 分の 1 の微調整を要し,逆に微調整を 10 分の 1 以内に収めるなら新物理は $\Lambda\lesssim2$ TeV になければならない.LHC はそこを探して,見つけていない.
- 大統一の最大の成果は電荷の量子化である.$SU(5)$ の $\bar{\bm5}$ にトレースレス条件を課すだけで $3Q_{d^c}+Q_{e^-}=0$,すなわち $Q_d=-1/3$ が出る.係数 3 は色の数である.一方,最小 $SU(5)$ は結合定数が一点で交わらないこと($10^{13}$,$2.4\times10^{14}$,$9.6\times10^{16}$ GeV)と陽子崩壊の非観測($\tau_p>2.4\times10^{34}$ 年 $\Rightarrow M_X>4.8\times10^{15}$ GeV)で棄却された.
- バリオン非対称 $\eta=6.1\times10^{-10}$ は,$10^9$ 対のうち 1 個の生き残りである.Sakharov の3条件のうち,標準模型は $CP$ の破れが 10 桁足りず,かつ $m_H=125$ GeV では電弱相転移がクロスオーバーになるため非平衡が作れない.レプトジェネシスは,第14章の右巻き Majorana ニュートリノをそのまま使ってこれを解決しうる.
- 超対称性は,二次発散の相殺・結合定数の収束・暗黒物質候補という三つを同時に説明する仮説であり,実験的支持は現時点で一つもない.グルイーノ $>2.3$ TeV,ストップ $>1.3$ TeV という下限は,自然さの要求をすでに超えている.弦理論と余剰次元についても本書は同じ態度を取る.検証されていない,というのが正確な記述である.
- 宇宙のエネルギー収支は,標準模型が $4.9\ \%$ しか記述していないことを示す.回転曲線・重力レンズ・弾丸銀河団・CMB の四つが,独立に暗黒物質を要求する.WIMP の奇跡($\langle\sigma v\rangle\sim\alpha_w^2/m_\chi^2\approx3\times10^{-26}\ \mathrm{cm^3/s}$)は美しいが,直接探索は 25 年で 6 桁感度を上げてなお空振りであり,ニュートリノ・フォグに接しつつある.
- 宇宙定数問題は $10^{122}$ 倍という,物理学最悪の不一致である.観測値は $\rho_\Lambda^{1/4}=2.24$ meV.カットオフを QCD スケールまで下げても 44 桁ずれる.物性で零点エネルギーが問題にならないのは,測るのが常に「差」だからであり,重力だけが絶対値に結合する.
- 検出器材料は,感度を決める律速段階である.放射能清浄度 $^{238}\mathrm{U}<8\times10^{-14}$ g/g,カロリメータの熱力学的分解能 $\Delta E=\sqrt{k_BT^2C}$($\mathrm{TeO_2}$ $750$ g,$10$ mK で $26$ eV FWHM,実測はその 270 倍),標的核の運動学 $E_R^{\max}=2\mu^2v^2/m_N$($M_\chi\approx m_N$ で最大),TES の $\alpha=T_c/\Delta T_c\sim10^3$,SRF 空洞の $R_s$ が銅の $10^{-6}$.どれも材料と界面の問題である.
- axion の $\theta F\tilde F$ 項は,トポロジカル絶縁体の軸性電磁応答と同じ Lagrangian である.$\theta\leftrightarrow a/f_a$.反強磁性トポロジカル絶縁体では $\theta$ が動的自由度になり,「物質中の axion」が本物の axion の検出器になりうる.素粒子物理の道具が材料の中で実現され,その材料が再び素粒子を測る道具になる.
15.7.2 演習問題
演習15.1 Higgs 湯川結合と崩壊幅
真空期待値は $v=(\sqrt2G_F)^{-1/2}$,湯川結合は $y_f=\sqrt2m_f/v$ で与えられる.フェルミオン対への崩壊幅は
$$ \Gamma(H\to f\bar f) = \frac{N_c\,m_H\,y_f^2}{16\pi}\left(1-\frac{4m_f^2}{m_H^2}\right)^{3/2} $$である($N_c$ は色の数.クォークは 3,レプトンは 1).$m_H=125.25$ GeV,$\Gamma_H=4.07$ MeV とする.
(1) $G_F=1.1664\times10^{-5}\ \mathrm{GeV^{-2}}$ から $v$ を求めよ.
(2) $m_t=172.69$,$m_b^{\rm pole}=4.18$,$m_\tau=1.77686$,$m_e=5.11\times10^{-4}$(いずれも GeV)に対する湯川結合 $y_f$ を求めよ.$y_t/y_e$ はいくらか.
(3) $\Gamma(H\to\tau^+\tau^-)$ を計算し,表15.2 の分岐比 $6.27\ \%$ から得られる値と比べよ.
(4) $m_b$ に極質量 $4.18$ GeV を使って $\Gamma(H\to b\bar b)$ を計算すると何が起きるか.$m_H$ スケールでの走る質量 $\overline{m}_b(m_H)=2.79$ GeV を使うとどうなるか.さらに QCD 補正因子 $1+5.67\alpha_s/\pi$($\alpha_s(m_H)=0.113$)を掛けた結果を,実測の分岐比と比べよ.
ヒント:(1) $\sqrt2G_F=1.6495\times10^{-5}$,$v=(6.0624\times10^4)^{1/2}=246.22$ GeV.(2) $y_t=0.992$,$y_b=0.0240$,$y_\tau=0.01021$,$y_e=2.94\times10^{-6}$,$y_t/y_e=3.4\times10^5$.(3) $y_\tau^2=1.042\times10^{-4}$,$\Gamma=125.25\times1.042\times10^{-4}/50.27=2.596\times10^{-4}$ GeV $=0.2596$ MeV.位相空間因子 $\beta^3=0.9988$ を掛けて $0.2593$ MeV.実測から $0.0627\times4.07=0.2552$ MeV.$1.6\ \%$ の一致.(4) 極質量では $\Gamma=4.28$ MeV(位相空間因子を落とせば $4.31$ MeV)となり,全崩壊幅 $4.07$ MeV を超えてしまう(明らかな矛盾).走る質量では $\Gamma=1.92$ MeV,QCD 補正 $\times1.203$ で $2.31$ MeV,さらに高次を含めると $2.37$ MeV.実測は $0.582\times4.07=2.37$ MeV でぴたりと合う.クォーク質量は,どのスケールで測ったものかを指定しないと意味を持たないという第11章の教訓が,ここで数値として効く.
演習15.2 階層性問題の定量化と「自然さ」が要求するスケール
トップループによる Higgs 質量二乗への補正は式 \eqref{eq:15-hierarchy},$\delta m_H^2=-(3y_t^2/8\pi^2)\Lambda^2$ である.微調整の度合いを $\Delta\equiv\abs{\delta m_H^2}/m_H^2$ と定義する.
(1) 係数 $3y_t^2/8\pi^2$ を数値で求めよ($y_t=0.992$).
(2) $\Lambda=10$ TeV,$2\times10^{16}$ GeV,$M_{\rm Pl}=1.22\times10^{19}$ GeV のそれぞれについて $\Delta$ を求めよ.
(3) $\Delta<10$(すなわち $10\ \%$ 以上の微調整をしない)ことを要求すると,$\Lambda$ の上限はいくらか.
(4) (3) の結果と表15.4 の実験下限を比べ,「自然さ」という基準の現状について論じよ.また,電子質量への補正が $\delta m_e/m_e=(3\alpha/4\pi)\ln(\Lambda^2/m_e^2)$ で $\Lambda=M_{\rm Pl}$ でも $18\ \%$ にしかならないのはなぜかを,カイラル対称性の言葉で説明せよ.
ヒント:(1) $3\times0.984/78.96=0.0374$.(2) $m_H^2=1.569\times10^4\ \mathrm{GeV^2}$.$\Lambda=10^4$ GeV:$\delta m_H^2=3.74\times10^6$,$\Delta=238$.$\Lambda=2\times10^{16}$:$\Delta=9.5\times10^{26}$.$\Lambda=M_{\rm Pl}$:$\Delta=3.5\times10^{32}$(本文 15.1.6 項と同じ値).(3) $\Lambda^2=10\times1.569\times10^4/0.0374=4.20\times10^6$,$\Lambda=2.05\times10^3$ GeV $\approx2.0$ TeV.(4) グルイーノの下限 $2.3$ TeV,ストップ $1.3$ TeV はすでに $2$ TeV 近傍かそれ以上であり,最小限の自然さすら怪しい.電子の場合は $m_e\to0$ でカイラル対称性 $\psi_{L,R}\to\ee^{\ii\theta_{L,R}}\psi_{L,R}$ が回復するため,量子補正は必ず $m_e$ に比例する形(乗法的くりこみ)でしか現れず,$\Lambda$ には対数でしか依存しない.スカラーにはこれに相当する対称性がない.
演習15.3 走る結合定数の交点を自分で求める
1ループのくりこみ群方程式 \eqref{eq:15-rge} と,$m_Z$ での出発値 $\alpha_1^{-1}=59.02$,$\alpha_2^{-1}=29.58$,$\alpha_3^{-1}=8.48$ を用いる.$t\equiv\ln(\mu/m_Z)$ とする.
(1) 標準模型の係数 $(b_1,b_2,b_3)=(41/10,\,-19/6,\,-7)$ を用いて,$\alpha_1=\alpha_3$ と $\alpha_2=\alpha_3$ の交点のスケールをそれぞれ求めよ.
(2) MSSM の係数 $(b_1,b_2,b_3)=(33/5,\,1,\,-3)$ を用い(超対称粒子の閾値を簡単のため $m_Z$ に置く),$\alpha_1=\alpha_2$ の交点 $M_X$ と,そこでの $\alpha_G^{-1}$ を求めよ.
(3) (2) で求めた $t$ を $\alpha_3^{-1}$ の式に入れ,三本が本当に一点に集まっているかを確かめよ(一致の程度を $\%$ で述べよ).
(4) 大統一点では $\alpha_1=\alpha_2$ である.$\alpha_1=(5/3)\alpha_Y$ という規格化を使って,このとき $\sin^2\theta_W=3/8$ になることを示せ.測定値 $0.2312$ との差はどこから来るか.
ヒント:(1) $\alpha_1=\alpha_3$:$50.54=(11.10/6.2832)t\Rightarrow t=28.61\Rightarrow\mu=2.4\times10^{14}$ GeV.$\alpha_2=\alpha_3$:$21.10=(3.833/6.2832)t\Rightarrow t=34.59\Rightarrow\mu=9.6\times10^{16}$ GeV.(2) $29.44=(5.6/6.2832)t=0.8913t\Rightarrow t=33.03$,$M_X=91.19\,\ee^{33.03}=2.0\times10^{16}$ GeV.$\alpha_G^{-1}=29.58-0.15915\times33.03=24.32$,すなわち $\alpha_G=1/24.3$.(3) $\alpha_3^{-1}=8.48+0.47746\times33.03=24.25$,$\alpha_1^{-1}=59.02-1.05042\times33.03=24.33$.三者は $24.25$–$24.33$ の範囲,すなわち $0.3\ \%$ 以内で一致する.(4) $\sin^2\theta_W=\alpha_Y/(\alpha_2+\alpha_Y)$ に $\alpha_Y=(3/5)\alpha_G$,$\alpha_2=\alpha_G$ を入れると $(3/5)/(1+3/5)=3/8=0.375$.$m_Z$ での $0.2312$ との差は,$M_X$ から $m_Z$ まで走り下がる間の量子補正(式 \eqref{eq:15-rge})そのものである.$3/8$ という統一点での「きれいな数」が,実測の中途半端な数 $0.2312$ に化けること自体が,くりこみ群の予言力の実例である.
演習15.4 陽子崩壊寿命と Super-Kamiokande
陽子崩壊の幅は式 \eqref{eq:15-proton},$\Gamma\sim\alpha_G^2m_p^5/M_X^4$ で見積もられる.$m_p=0.9383$ GeV,$\hbar=6.582\times10^{-25}\ \mathrm{GeV\,s}$,1 年 $=3.156\times10^7$ s とする.
(1) $M_X=10^{15}$ GeV,$\alpha_G=1/40$ のときの $\tau_p$ を年単位で求めよ.
(2) Super-Kamiokande の 2017 年の解析による下限 $\tau_p>1.6\times10^{34}$ 年から,$M_X$ の下限を求めよ.2020 年の解析の $2.4\times10^{34}$ 年ではどうなるか.
(3) Super-Kamiokande の有効体積は超純水 $22.5$ kton である.水分子 1 個には陽子が 10 個($^{16}$O の 8 個と H の 2 個)含まれる.標的陽子の総数を求めよ.
(4) 検出効率を $\varepsilon=0.4$,背景ゼロとする.20 年の観測で 0 事象なら,$90\ \%$ 信頼度の上限は 2.3 事象である.このとき得られる $\tau_p$ の下限を求め,(2) の値と整合するか確かめよ.また,もし $\tau_p=10^{33}$ 年だったら何事象観測されたはずかを述べよ.
ヒント:(1) $m_p^5=0.727\ \mathrm{GeV^5}$.$\Gamma=(1/1600)\times0.727/10^{60}=4.55\times10^{-64}$ GeV.$\tau=6.582\times10^{-25}/4.55\times10^{-64}=1.45\times10^{39}$ s $=4.6\times10^{31}$ 年.(2) $\tau\propto M_X^4$ より $M_X>10^{15}\times(1.6\times10^{34}/4.6\times10^{31})^{1/4}=10^{15}\times348^{1/4}=4.3\times10^{15}$ GeV.$2.4\times10^{34}$ 年なら $10^{15}\times522^{1/4}=4.8\times10^{15}$ GeV.(3) $2.25\times10^{10}\ \mathrm{g}/18.015=1.249\times10^9$ mol,$\times6.022\times10^{23}=7.52\times10^{32}$ 分子,$\times10=7.5\times10^{33}$ 個.(4) 露光量 $=7.5\times10^{33}\times20=1.50\times10^{35}$ 陽子・年.$\tau>\varepsilon N T/2.3=0.4\times1.50\times10^{35}/2.3=2.6\times10^{34}$ 年.(2) の想定と同じ桁で整合する.$\tau_p=10^{33}$ 年なら $\varepsilon NT/\tau=0.4\times1.50\times10^{35}/10^{33}=60$ 事象.背景ゼロの実験で 60 事象は見逃しようがない.実験は,理論が最も期待した領域を完全に覆って否定した.
演習15.5 バリオン数非対称の実感
$\eta=n_B/n_\gamma=6.1\times10^{-10}$,CMB 光子数密度 $n_\gamma=411\ \mathrm{cm^{-3}}$,$m_p=1.673\times10^{-24}$ g,臨界密度 $\rho_c=8.54\times10^{-27}\ \mathrm{kg/m^3}$ とする.
(1) 現在の宇宙の平均バリオン数密度 $n_B$ を求めよ.
(2) それをバリオンの質量密度に直し,$\Omega_b=\rho_b/\rho_c$ を求めて表15.5 の値と比べよ.
(3) 陽子どうしの平均間隔 $n_B^{-1/3}$ を求めよ.身近な長さと比べて述べよ.
(4) 初期宇宙にクォーク $N+\Delta N$ 個,反クォーク $N$ 個があったとして,$\Delta N/N$ を求めよ.また,もし $\Delta N=0$ だったら現在の $n_B/n_\gamma$ はどうなるか(対消滅の凍結で $\sim10^{-18}$ になる)を述べ,観測値との桁の差を言え.
ヒント:(1) $n_B=6.1\times10^{-10}\times411=2.51\times10^{-7}\ \mathrm{cm^{-3}}$.(2) $\rho_b=2.51\times10^{-7}\times1.673\times10^{-24}=4.20\times10^{-31}\ \mathrm{g/cm^3}=4.20\times10^{-28}\ \mathrm{kg/m^3}$.$\Omega_b=4.20\times10^{-28}/8.54\times10^{-27}=0.049$.表15.5 の $0.0493$ と一致する.(3) $n_B^{-1/3}=(2.51\times10^{-7})^{-1/3}=158$ cm $\approx1.6$ m.宇宙全体を均せば,一辺 $1.6$ m の立方体に陽子が 1 個という希薄さである.(4) 対消滅後に光子が $\sim2N$ 個残るので $\eta\approx\Delta N/2N$,したがって $\Delta N/N=2\eta=1.2\times10^{-9}$(ここではクォーク 3 個で 1 バリオンという因子 3 を落とした.この因子を入れると本文 15.3.1 項の $\Delta N/N\approx6\eta=3.7\times10^{-9}$ になり,どちらも「10 億分の数」の桁である).$\Delta N=0$ なら $10^{-18}$ で,観測値より 8 桁小さい.非対称は初期条件ではなく,物理過程で作られねばならない.
演習15.6 回転曲線から暗黒物質量を求める
式 \eqref{eq:15-rotation} を用いる.$1\ \mathrm{kpc}=3.086\times10^{19}$ m,$G=6.674\times10^{-11}\ \mathrm{m^3kg^{-1}s^{-2}}$,$M_\odot=1.989\times10^{30}$ kg,$1\ \mathrm{kg}=5.610\times10^{26}\ \mathrm{GeV}/c^2$ とする.天の川銀河の回転速度は $r=8$ kpc から $50$ kpc まで $v=220$ km/s で平坦であるとする.
(1) $r=8$ kpc(太陽の位置)の内側の全質量 $M(<8\ \mathrm{kpc})$ を $M_\odot$ 単位で求めよ.
(2) $M(<50\ \mathrm{kpc})$ を求めよ.光っている物質の総量は約 $6\times10^{10}M_\odot$ である.暗黒物質は光る物質の何倍か.
(3) $v$ が一定なら $\rho(r)=v^2/(4\pi Gr^2)$ である.$r=8$ kpc での $\rho$ を $\mathrm{GeV/cm^3}$ 単位で求めよ.直接探索実験が標準的に用いる $0.3$–$0.4\ \mathrm{GeV/cm^3}$ と比べ,差が出る理由を述べよ.
(4) 局所密度を $0.4\ \mathrm{GeV/cm^3}$,$M_\chi=100$ GeV,相対速度 $220$ km/s とする.手のひら大($100\ \mathrm{cm^2}$)の面を毎秒何個の WIMP が通過するか.それでも検出されないのはなぜか.
ヒント:(1) $r=2.469\times10^{20}$ m,$v^2=4.84\times10^{10}\ \mathrm{m^2/s^2}$.$M=v^2r/G=1.790\times10^{41}$ kg $=9.0\times10^{10}M_\odot$.(2) $M\propto r$ なので $9.0\times10^{10}\times50/8=5.6\times10^{11}M_\odot$.丸めずに $5.625\times10^{11}M_\odot$ とすれば,全質量は光る物質($6\times10^{10}M_\odot$)の $9.4$ 倍で,暗黒成分だけを取り出せば $(5.625-0.6)/0.6=8.4$ 倍である(図15.5 のキャプションの「約 9 倍」は前者を指す).(3) $\rho=4.84\times10^{10}/(4\pi\times6.674\times10^{-11}\times6.094\times10^{40})=9.47\times10^{-22}\ \mathrm{kg/m^3}$.$\times5.610\times10^{26}=5.31\times10^{5}\ \mathrm{GeV/m^3}=0.53\ \mathrm{GeV/cm^3}$.やや大きく出るのは,$\rho\propto r^{-2}$ の等温球という単純化で,実際は円盤と膨らみ(バルジ)が $v$ の相当部分を担っており,ハローだけの寄与はより小さいからである.(4) $n_\chi=0.4/100=4\times10^{-3}\ \mathrm{cm^{-3}}$,流束 $=n_\chi v=4\times10^{-3}\times2.2\times10^7=8.8\times10^4\ \mathrm{cm^{-2}s^{-1}}$.$100\ \mathrm{cm^2}$ なら毎秒 $8.8\times10^6$ 個.検出されない理由は断面積で,$\sigma<10^{-47}\ \mathrm{cm^2}$ は核子の核反応断面積($\sim10^{-24}\ \mathrm{cm^2}$)の $10^{-23}$ 倍しかない.平均自由行程は光年の単位を軽く超え,地球はほぼ完全に透明である.
演習15.7 標的核の選び方 —— 反跳エネルギーとコヒーレンス
式 \eqref{eq:15-recoil},$E_R^{\max}=2\mu^2v^2/m_N$($\mu=M_\chi m_N/(M_\chi+m_N)$)を用いる.$v=220$ km/s($v^2=5.386\times10^{-7}c^2$),核質量は $m_N=A\times0.9315$ GeV とする.
(1) 式 \eqref{eq:15-recoil} を $m_N$ の関数と見て極大を与える $m_N$ を求めよ.結果を言葉で述べよ.
(2) $M_\chi=5$ GeV に対して,Si($A=28.1$),Ge($A=72.6$),Xe($A=131.3$)の $E_R^{\max}$ をそれぞれ keV 単位で求めよ.
(3) (1) の結果から,$M_\chi=5$ GeV に最適な標的の質量数 $A$ を求めよ.どんな元素が該当するか.
(4) スピン非依存散乱では $\sigma_N\propto A^2\mu_N^2$ である.重い核が断面積で有利であるにもかかわらず,$M_\chi\lesssim10$ GeV の探索で Si や超流動 $^4$He が使われる理由を,(2)(3) と表15.8 を踏まえて説明せよ.
ヒント:(1) $E_R^{\max}=2M_\chi^2m_Nv^2/(M_\chi+m_N)^2$ を $m_N$ で微分すると $m_N=M_\chi$ で極大.WIMP の質量と標的核の質量が等しいとき,エネルギー移行が最大になる(ビリヤードで同じ質量の球を撞くと運動量を完全に渡せるのと同じ).(2) Si:$m_N=26.17$ GeV,$\mu=4.198$,$E_R^{\max}=2\times17.62\times5.386\times10^{-7}/26.17=7.25\times10^{-7}$ GeV $=0.725$ keV.Ge:$\mu=4.656$,$0.345$ keV.Xe:$\mu=4.804$,$0.203$ keV.Si は Xe の $3.6$ 倍.(3) $m_N=5$ GeV $\Rightarrow A=5/0.9315=5.4$.リチウム($A=7$)やヘリウム($A=4$)が近い.実際 HeRALD などの超流動 $^4$He 検出器や,$\mathrm{Li_2MoO_4}$,$\mathrm{Al_2O_3}$(軽い O を含む)が軽い暗黒物質探索に用いられている.(4) 断面積は $A^2$ で有利でも,反跳エネルギーが検出器の閾値を下回れば事象は一つも見えない.Xe の閾値は $\sim1\ \mathrm{keV_{nr}}$ 程度なので,(2) の $0.203$ keV は閾値以下である.軽い標的なら同じ WIMP がより大きな反跳を与え,さらに Si スキッパー CCD のように単一電子($\sim1.2$ eV)まで読める検出器と組み合わせれば,$A^2$ の損を桁で取り返せる.標的材料の選択は,そのまま探索する暗黒物質の質量領域の選択である.
演習15.8 宇宙定数問題 —— 120 桁を自分で出す
$H_0=67.4\ \mathrm{km\,s^{-1}Mpc^{-1}}$,$1\ \mathrm{Mpc}=3.086\times10^{22}$ m,$G=6.674\times10^{-11}$,$\Omega_\Lambda=0.685$,$\hbar c=1.973\times10^{-16}\ \mathrm{GeV\,m}$,$1\ \mathrm{GeV}=1.602\times10^{-10}$ J とする.
(1) $\rho_c=3H_0^2/8\pi G$ を $\mathrm{kg/m^3}$ 単位で求め,$\rho_\Lambda$ を求めよ.
(2) $\rho_\Lambda c^2$ を $\mathrm{J/m^3}$ で表し,さらに $\mathrm{GeV^4}$ 単位に直せ($1\ \mathrm{GeV^4}=2.086\times10^{37}\ \mathrm{J/m^3}$).
(3) $\rho_\Lambda^{1/4}$ を meV 単位で求めよ.CMB の温度に対応する $k_BT_0$($T_0=2.7255$ K)と比べよ.
(4) 場の理論の素朴な予言 $\rho_{\rm vac}\sim\Lambda^4$ について,$\Lambda=M_{\rm Pl}=1.22\times10^{19}$ GeV と $\Lambda=\Lambda_{\rm QCD}=0.2$ GeV のそれぞれで $\rho_{\rm vac}/\rho_\Lambda$ を求めよ.また $\rho_\Lambda c^2$ を「1 立方メートルあたり何個の陽子の静止エネルギーに相当するか」で言い換えよ.
ヒント:(1) $H_0=2.184\times10^{-18}\ \mathrm{s^{-1}}$,$\rho_c=8.54\times10^{-27}\ \mathrm{kg/m^3}$,$\rho_\Lambda=5.85\times10^{-27}\ \mathrm{kg/m^3}$.(2) $\rho_\Lambda c^2=5.26\times10^{-10}\ \mathrm{J/m^3}=2.52\times10^{-47}\ \mathrm{GeV^4}$.(3) $\rho_\Lambda^{1/4}=2.24\times10^{-12}$ GeV $=2.24$ meV.$k_BT_0=8.617\times10^{-5}\times2.7255=2.35\times10^{-4}$ eV $=0.235$ meV なので,ちょうど $10$ 倍程度.素粒子物理の他のどのスケールとも似ていない値であることが要点である.(4) $M_{\rm Pl}^4=2.22\times10^{76}\ \mathrm{GeV^4}$ より比は $8.8\times10^{122}$.$\Lambda_{\rm QCD}^4=1.6\times10^{-3}\ \mathrm{GeV^4}$ でも比は $6.3\times10^{43}$.陽子換算では $5.26\times10^{-10}/1.602\times10^{-10}=3.28\ \mathrm{GeV/m^3}$,$m_p=0.938$ GeV で割って $1\ \mathrm{m^3}$ あたり陽子 $3.5$ 個分.宇宙で最も豊富なエネルギー成分の密度が,たったこれだけである.
参考文献
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- R. Li, J. Wang, X.-L. Qi, S.-C. Zhang, "Dynamical axion field in topological magnetic insulators", Nature Physics 6, 284 (2010); D. J. E. Marsh et al., "Proposal to Detect Dark Matter using Axionic Topological Antiferromagnets", Phys. Rev. Lett. 123, 121601 (2019) ——物質中の axion と,それを暗黒物質検出器に使う提案.
- K. D. Irwin, G. C. Hilton, "Transition-Edge Sensors", in Cryogenic Particle Detection, Topics in Applied Physics 99, Springer (2005) ——15.6.2 項の TES の標準的な解説.$\Delta E=\sqrt{k_BT^2C}$ からの設計論がまとまっている.
- H. Padamsee, RF Superconductivity: Science, Technology, and Applications, Wiley-VCH (2009) ——15.6.4 項の超伝導高周波空洞.表面処理と $R_{\rm res}$ の材料科学が主題.
- 『線形応答理論入門』第9章「密度応答関数と誘電関数」・第10章「遮蔽 —— Thomas–Fermi と Lindhard 関数」(誘電関数と遮蔽),第8章「応答関数の一般的性質」(揺動散逸定理),付録B「第二量子化の要点」——15.2.3 項,15.6.2 項の物性側の下地.
- D. Xiao, M.-C. Chang, Q. Niu, "Berry phase effects on electronic properties", Rev. Mod. Phys. 82, 1959 (2010) ——Berry 位相と Chern 数.本シリーズには該当する章がないので,15.6.3 項 (b) の下地はこの総説で補う.