スピンの置き方でエネルギーが変わる理由

講義第 7 回(Slater 行列式とスピン)・第 9 回(クーロン積分と交換積分)の導出を,順を追って書き下したものです. Slater 行列式の期待値 → U と J → 詰め方の会計ルール → Hund 則と高スピン/低スピン → 配位子場(点電荷モデル)→ 多重項(CrystOD)という一本道です.

0. 何が問題か ― 炭素原子の 2.46 eV

C 原子の 2p² には,同じ軌道にペアで入る(low spin)か,別の軌道に平行スピンで入る(high spin)かの 選択肢があります.PySCF で計算すると(第 7 回 p.23), high spin(2p↑2p↑)のほうが 2.459 eV も安定です. 一電子準位はどちらも同じなのに,です. この差を作っているのが電子間反発の中の交換積分 J—— このページの主役です.

1. まず結論(30 秒版)

  1. 反対称化した波動関数(Slater 行列式)で電子間反発 1/r12 の期待値を取ると, クーロン積分 U − 交換積分 J の形になる.
  2. 交換積分は同じスピンの電子対にだけ残る(逆スピンではスピンの直交性 ⟨α|β⟩ = 0 で消える). J > 0 なので,同スピン対 1 組につき −J だけ安定化.
  3. だから縮退した軌道には「別々の軌道に・同じスピンで」入るのが得——Hund 則.
  4. 配位子場 Δ がかかると,−J の得と Δ の損が競合して高スピン ⇔ 低スピンが切り替わる.
  5. 分裂のパターン(どの軌道が縮退のまま残るか)は対称性=群論で決まり (crystod-group --ligand-field),上下と大きさは物理(点電荷モデルなど)が決める.
  6. 1 つの行列式を超えた本当の固有状態が多重項(項記号). 配置ごとの分解は crystod-group --multiplet で計算できる.

2. Slater 行列式の期待値 ― U と J はどこから来るか

2.1 スピン軌道と 3 つの配置(第 9 回)

空間軌道 φ1(1s), φ2(2s)とスピン α, β から, スピン軌道 χ1 = φ1α,χ̄1 = φ1β … を作り, 2 電子の反対称波動関数を Slater 行列式で書きます. ハミルトニアンは Ĥ = h1 + h2 + 1/r12 (h は 1 電子部分).期待値を取ると,2 電子積分は必ず

⟨ψ| 1r12 |ψ⟩ = ⟨χaχb| 1r12 |χaχb⟩ クーロン積分 U − ⟨χaχb| 1r12 |χbχa⟩ 交換積分 J … ①

の形になります(行列式の展開で出る 2 項.座標の並びは ⟨x1x2|…|x1x2⟩ の順). 第 2 項が交換項:ブラとケットで電子 1・2 の乗る軌道が入れ替わっています. ここにスピンの直交性が効きます.χa と χb のスピンが逆なら, 交換項のスピン部分に ⟨α|β⟩ = 0 が現れて丸ごと消えます. 同じスピンなら ⟨α|α⟩ = 1 で生き残る.結果(第 9 回 スライド 17):

配置全エネルギーひとこと
1s↑1s↓(基底)2h₁₁ + U₁₁同一軌道なら Pauli でスピンが逆.交換項は ⟨α|β⟩ = 0 で消えて U だけ
1s↑2s↓(励起・反平行)h₁₁ + h₂₂ + U₁₂スピン直交で J が消える
1s↑2s↑(励起・平行)h₁₁ + h₂₂ + U₁₂ − J₁₂−J₁₂ だけ低い=三重項が得
J は「同スピン電子の避け合い」の得です 同じスピンの 2 電子は反対称性のせいで同じ場所に来られません(Fermi ホール). 物理的に離れて動くぶん,クーロン反発の払いが −J だけ安く済む——それが交換積分の実体です. J12 = ∬φ1*(r₁)φ2(r₁)·(1/r12)·φ2*(r₂)φ1(r₂)dV₁dV₂ は 「重なり密度 φ1φ2 の自己反発」の形をしていて,必ず正です.

2.2 PySCF で U と J を実測する(第 9 回 スライド 21–22)

6-31G 基底 [eV]Total運動核引力Hartree(U)交換(J)
H 原子(電子 1 個)−13.55813.874−27.4328.554−8.554
He 原子(電子 2 個)−77.69377.697−183.33455.887−27.944

見どころは H 原子:電子 1 個なのに Hartree 項と交換項が両方出て,きっかり打ち消していることです(表の「交換(J)」欄は交換エネルギー,つまり本文の −J にあたる負の値です). Hartree 項は「自分の作る雲との反発」まで数えてしまう会計なので, 自己分の反発は交換項が正確に返金します(自己相互作用の相殺). He では U − J = 55.89 − 27.94 = 27.94 eV が Hartree–Fock での正味の電子間反発です. 比べる基準をそろえて,電子間反発を切ったとき(水素様 He の 2 × (−Z²/2) = −4 ハートリー = −108.85 eV)からの全エネルギーの上がり分で見ると, Hartree–Fock 31.16 eV・厳密値 29.84 eV・変分 31.36 eV・1 次摂動 34.02 eV と並びます(第 9 回 スライド 22).

3. 詰め方の会計ルール

①を全部の電子対に適用すると,任意の配置のエネルギーが読めます. スピン軌道 i の 1 電子項を εi(=配位子場の準位)として

E= ∑i εi + ∑i<j ( Uij − Jij δσiσj ) … ②

演習(第 9 回,Szabo–Ostlund 問題 2.23)の 7 つの配置で確かめられます.図 1 で答え合わせをどうぞ.

図 1|7 つの配置の全エネルギー(Szabo–Ostlund 2.23). 準位 1・2 への詰め方 (a)〜(g) を選ぶと,配置の絵と会計②の各項が出ます. 同スピン対の数だけ −J₁₂ が付くことを確かめてください.

縮退殻では U を 2 種類に粗視化する 同じ殻(2p, 3d, 4f)の中では②の Uij を 2 つにまとめます. 同じ軌道に ↑↓ で入る対は U0,別々の軌道に入る対は U′ = U0 − 2J, そのうち同スピンの対だけさらに −J——この 3 行で全部の配置のエネルギーが書けます. U′ = U0 − 2J は「殻の中で軌道を取り直しても値が変わらない」という要請から出る関係で, ②を U0 と J の 2 つだけで動かせる形(Hubbard–Kanamori 型)にしたものです. 次の図 2 とシミュレーターのタブ①は,この 3 行で全エネルギーを組み立てています.

4. Hund 則と,高スピン・低スピンの綱引き

縮退した殻(自由イオンの 2p, 3d, 4f)では②の 1 電子項が全部同じなので, 同スピン対の数を最大にする詰め方= S 最大が勝ちます(Hund 第 1 則). 炭素の 2.46 eV は,この −J が効いていることを PySCF で確かめた値です(比べている 2 配置は「同じ軌道のペア」と「別軌道の平行スピン」なので,差は J 1 個分ちょうどではなく,同じ軌道と別軌道でクーロン反発が違う分も入ります).

配位子場 Δ がかかると話が変わります.八面体の 3d⁴〜3d⁷ では 「eg に上がって同スピンを保つ(高スピン)」か 「Δ を払わず t2g でペアを組む(低スピン)」かの競合になり, Δ とペア形成コスト(U, J)の大小で基底状態が切り替わります.図 2 でどうぞ.

図 2|高スピン ⇔ 低スピンの切り替わり(八面体の 3dN). S 最大の配置(高スピン)と,t₂g をできるだけ埋めた配置(低スピン)それぞれの最安定エネルギーを Δ の関数で比較. 交わる Δc がスピンクロスオーバーの起きる場所です(U₀ = 4 eV,J = 0.8 eV,t2g = −0.4Δ/eg = +0.6Δ).

5. 配位子場 ― 点電荷モデルで分裂を出す

中心カチオンの軌道が感じる配位子(アニオン)の静電ポテンシャルを,多重極展開します.

1|r−R| = ∑k rkRk+1 Pk (cos⁡γ) (r<R)

同じ l の中の行列要素には偶数の k ≤ 2l しか効きません(パリティと三角条件). つまり p は k = 2 だけ,d は k = 2, 4,f は k = 2, 4, 6. 立方対称(m-3m, -43m)では k = 2 の項も消えて,d の分裂は k = 4 の 1 項で決まります. 八面体(6 配位)で行列要素を評価すると

Dq= qe02 ⟨r4⟩ 24πε0R5 , Et2g=−4Dq , Eeg=+6Dq

重心(3 × (−4Dq) + 2 × 6Dq = 0)は保存します.覚え方は 「アニオンを向いた軌道が損」:軸上の配位子を向く eg(z², x²−y²)が上がり, 軸を避ける t2g(xy, yz, zx)が下がる. 四面体では配位子が軸を外れるので上下が逆転し,同じ配位子・同じ距離 R なら点電荷モデルで Δt = (4/9)Δo. f 軌道なら 8 方向の葉をもつ xyz(a2u)が最安定で,a2u < t2u < t1u. 4/mmm(伸長・圧縮)では k = 2 の項が復活して 4 準位(f は 5 準位)に割れます—— eg 縮退が割れることが Jahn–Teller 効果の入り口です. 数値実験はシミュレーターのタブ②でどうぞ (このページと同じ点電荷モデルが動いています).

⚠ 点電荷は「向きの模型」,大きさは共有結合性が主役 実測の 10Dq(3d 酸化物で 1〜3 eV)は配位子軌道との混成の寄与が大きく, 点電荷の静電気だけでは過小に出ます.パターンは対称性が守るので信用できますが,4/9 という比は同じ配位子・同じ距離 R を仮定した点電荷モデルの値です(実際の錯体では R も共有結合性も配位によって違うのでずれます). 大きさの定量は分光データか第一原理計算に任せるのが実務です.

6. 多重項 ― 1 つの行列式では終わらない

②の会計は「1 つの Slater 行列式」のエネルギーです. しかし縮退殻に電子を置く置き方は 1 つではありません—— p² なら 6C2 = 15 通り(第 7 回 p.25). 本当の固有状態はこの 15 個の行列式の重ね合わせで, 自由イオンでは ³P(9 状態)+ ¹D(5 状態)+ ¹S(1 状態)の 3 つの多重項に分かれ, Hund 則の順 ³P < ¹D < ¹S に並びます. 配位子場の中でも同じことが起き,たとえば八面体の (t2g)² は

(T2g)2 = 3T1g + 1A1g + 1Eg + 1T2g (15 状態)

と分解されます.CrystOD はこの分解と,多重項のエネルギー(Racah パラメーター A, B, C)まで返します:

(T2g)² の多重項エネルギー(Coulomb 部分)
³T1g(基底)A − 5B
¹Eg,¹T2gA + B + 2C
¹A1gA + 10B + 5C

基底が三重項 ³T1g——Hund 則がここでも生きています. ②の一律 U・J 会計は,この多重項構造を「平均」した粗視化にあたります (三重項と一重項の差は出るが,¹Eg と ¹A1g の差のような B, C の構造は出ない). Δ と B の比で多重項の準位図がどう変わるかを整理したのが Tanabe–Sugano ダイアグラムで,遷移金属化合物の光吸収の読み解きに使われます.

7. CrystOD で計算するには

このページとシミュレーターの群論データはすべて CrystOD で作りました.手元で再現できます:

8. 講義との対応

参考:講義「マテリアル計算科学」第 7 回・第 9 回/A. Szabo and N. S. Ostlund,『新しい量子化学』問題 2.23/ 今野豊彦『物質の対称性と群論』/S. Sugano, Y. Tanabe, and H. Kamimura, Multiplets of Transition-Metal Ions in Crystals/群論計算は CrystOD(crystod-group v0.3.7). 数式はブラウザ標準の MathML で組んでいます(外部ライブラリ不使用).