距離 R だけ離れた 2 つの原子に軌道を 1 つずつ置いたときの 重なり積分 S = ∫φAφB dV を, 講義第 5 回の道筋どおりに計算します. 楕円座標の導入 → 1s–1s の解析解 → σπδ の分類(対称性)→ 一般の軌道の数値計算という一本道です. シミュレーターの中で動いているのは,最後の節の計算そのものです.
原子 A(原点)と原子 B(z 軸上,距離 R)に,規格化された軌道 φA, φB を 1 つずつ置きます.重なり積分は
で定義されます(講義では第 3 回 p.7 で定義だけ先に出てきて,第 5 回で計算します). これは関数の内積です.ベクトルの内積 a·b = |a||b|cosθ の cosθ にあたるのが S で,Cauchy–Schwarz の不等式から必ず |S| ≤ 1.「2 つの軌道がどれだけ同じ形か」を測る数です.
A を原点に置いた球座標 (r, θ, φ) で書くと,φA = φA(r) は簡単ですが, B から測った距離が余弦定理で
と 2 変数の関数になり,e−rB/a0 の積分はそのままでは進みません. そこで座標のほうを問題に合わせます.
空間の各点で,2 つの核からの距離 rA, rB を測り,
と置きます(φ は結合軸まわりの回転角のまま). 「2 点からの距離の和が一定」の面は焦点 A, B の楕円(回転楕円体), 「差が一定」の面は双曲面です.つまり①は,空間を楕円と双曲線の網の目で 張り替える座標変換です(図 1).式を軽くするため
も使います.①を逆に解くと,2 つの距離はどちらも 1 次式になります.
ヤコビアンを計算すると(講義第 5 回では (μ, ν) のまま |J| = (R/2)³ sinhμ sinν (sinh²μ + sin²ν) の形), (ξ, η) では dξ = sinhμ dμ,dη = −sinν dν, sinh²μ + sin²ν = ξ² − η² なので,すっきりした形になります.
図 1|楕円座標の網の目.実線の楕円が ξ 一定(距離の和が一定), 破線の双曲線が η 一定(距離の差が一定).スライダーで点 (ξ, η) を動かして, rA, rB との関係②を確かめてください.
水素の 1s 軌道(Z′ = 1)を A と B に置きます.
積は e−(rA+rB)/a0. ①②③を代入し,ρ = R/a0 と書くと rA + rB = Rξ なので
φ 積分は 2π を出すだけ.η 積分も多項式なので手で済みます (∫ξ²dη = 2ξ²,∫η²dη = 2/3).残るのは ξ 積分だけです.
④に出てくる「多項式 × 指数関数」の積分には名前が付いています.
漸化式は部分積分 1 回です.A0 = e−ρ/ρ から順に上げると
④に A0 と A2 を入れて整理すると,ρ の負べきがすべて消えて
検算:ρ → 0 で S → 1(規格化),ρ → ∞ で S → 0.どちらも合格です. 値の感覚をつかむために,いくつか並べておきます.
| R / a0 | 0 | 1 | 1.4 | 2 | 4 | 6 | 8 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| S(1s–1s) | 1 | 0.858 | 0.753 | 0.586 | 0.189 | 0.047 | 0.010 |
一般の軌道 φ = Rnl(r)Ylm(θ,φ) では, 結合軸(z 軸)まわりの角度 φ への依存性が cos(mφ) または sin(mφ)(実軌道)です. A の軌道が mA,B の軌道が mB なら,重なり積分の φ 部分は
という三角関数の直交性そのものになります(Fourier 級数のページで やった内積です.cos 型と sin 型の組も 0).つまり m が一致しない組の S は,動径部分を見るまでもなく厳密に 0 です. 一致した組だけが生き残り,その m の値で結合を呼び分けます.
| 型 | m | 重なれる組の例 | 節面(結合軸を含む面) |
|---|---|---|---|
| σ | 0 | s–s,s–pz,pz–pz,s–dz²,… | 0 枚 |
| π | ±1 | px–px,px–dxz,dxz–dxz,… | 1 枚 |
| δ | ±2 | dxy–dxy,dx²−y²–dx²−y²,… | 2 枚 |
| φ | ±3 | f–f の一部(4fx(x²−3y²) どうしなど) | 3 枚 |
S の符号は,2 つの軌道をどの座標系で書くかという約束に依存します. このシミュレーターでは,A と B の軌道を同じグローバル座標 (z 軸は A → B の向き)で定義しています.このとき:
量子力学では軌道を −1 倍しても同じ状態なので,符号そのものに物理はありません. 物理があるのは「約束を固定したうえでの相対符号」です.教科書の表 (たとえば Slater–Koster の表や Mulliken の S の一覧表)と比べるときは, まずどちら向きの p 軌道を正としているかを確認してください. 結合性・反結合性(φA ± φB のどちらが下がるか)を決めるのは 共鳴積分 β の符号との組み合わせで,これは第 11 回の永年方程式で扱います.
有効核電荷 Z′ の水素様軌道の動径部分は,どれも Rnl(r) = e−Z′r/n ×(r の多項式)です. A の減衰率を αA = Z′A/nA, B を αB = Z′B/nB と書くと,②から指数部分は
一方,多項式部分(rk や cosθA = (1 + ξη)/(ξ + η) を含む角度因子)は, ②を入れるとすべて ξ, η の多項式になります(分母の ξ ± η は rl の因子と約分されます).つまりどの軌道の組でも
という有限和に落とせます(Bk にも部分積分の漸化式があります). Mulliken らはこの方法で 1s〜3d の主な組の S を式と数表にまとめました(1949 年).
係数 cjk を組ごとに手で整理する代わりに,シミュレーターは ③の 2 重積分を Gauss–Legendre 求積で数値計算しています. 被積分関数が ξ 方向に e−p(ξ−1) で減衰するので, u = p(ξ − 1) に変数変換して 3 区間(0–5, 5–15, 15–45)に分け, 各区間・各方向 24 点で足します.被積分関数は「多項式 × 指数」という 求積に最適な形なので,これだけで解析解⑤と機械精度(15 桁)で一致します. 図 2 で確かめられます.
図 2|数値計算した S(R) と解析解の照合.実線が数値計算(シミュレーターと同じコード), 橙の破線が 1s–1s の解析解⑤です.組を切り替えると,1s–2s の「直交から出発する山」や 2p–2p σ の符号反転も見えます.
LCAO の試行関数 Ψ = cAψA + cBψB に 変分原理(Lagrange の未定乗数法)を使うと, H₂ 型(αA = αB = α)の結合性・反結合性軌道のエネルギーは
と,S が分母に入ります(クーロン積分 α,共鳴積分 β. 講義第 11 回は ⟨Ψ|Ψ⟩ = 2 と規格化する流儀なので未定乗数 ε はこの半分, 全エネルギー E = 2ε は同じです). S ≠ 0 のせいで反結合性軌道の上がり幅は結合性軌道の下がり幅より大きくなります (1 − S < 1 + S).閉殻どうしを近づけると必ず損(Pauli 反発)になるのは, この非対称のためです.
ここまで見たとおり,Slater 型(e−ζr)の 2 中心積分は 楕円座標という「重い道具」が要ります.ところが Gauss 型 e−αr² なら, 2 つの Gauss 関数の積が別の 1 つの Gauss 関数になる(Gauss 積の定理)ので, 重なり積分が座標変換なしの初等積分で閉じます. だからこそ量子化学ソフトは 1s を 3 つの Gauss 関数で真似る STO-3G のような基底を使うのでした. 「正しい形(Slater)を,計算しやすい形(Gauss)の和で近似する」—— 第 5 回の STO-3G の導出は,この積分の重さを知ってはじめて動機が分かります.
原子を鎖に並べると,隣どうしの S と β が準位を帯(バンド)に広げます. S(R) の指数減衰は「最近接だけ考える」タイトバインディング近似の根拠であり, σ と π で S や β の大きさ・符号が違うことが σ バンドと π バンドの幅・向きの違いになります. つづきは「分子軌道からバンドへ」のページでどうぞ.
参考:講義「マテリアル計算科学」第 5 回(1s 軌道の重なり積分と STO-3G)/ R. S. Mulliken, C. A. Rieke, D. Orloff, and H. Orloff, J. Chem. Phys. 17, 1248 (1949) (Slater 軌道の重なり積分の式と数表の古典)/ A. Szabo and N. S. Ostlund,『新しい量子化学』(STO-nG と分子積分). 数式はブラウザ標準の MathML で組んでいます(外部ライブラリ不使用).