第12章原子軌道の対称性と共有結合 — 点群と指標表
第11章では,2つの原子軌道 $\phi_A,\phi_B$ を基底にとって永年方程式を立て,共鳴積分 $\beta=\bra{\phi_A}\Ham\ket{\phi_B}$ の大きさが結合性軌道と反結合性軌道の分裂を決めることを見た.ところが原子が3個,4個,5個と増えると,行列の次元はあっという間に大きくなり,手で解くことは不可能になる.ここで威力を発揮するのが対称性である.分子や結晶がもつ対称性を数学的に扱う道具が群論(group theory)であり,その中心にあるのが指標表(character table)という小さな表である.驚くべきことに,この表を眺めるだけで「どの軌道とどの軌道が混ざるか」「縮退は何重か」「どの振動が赤外活性か」が,積分をひとつも計算せずに決まってしまう.本章では,群の4つの公理という最も素朴なところから出発して,点群 $C_{3v}$ を具体例に積表・クラス・既約表現・指標を順に構成し,最後に $d$ 軌道の結晶場分裂,CH$_4$ の分子軌道,O$_2$ の項記号という3つの応用に到達する.計算機を使わずに紙と鉛筆だけで結論が出る,本書のなかでも特別な章である.
- 群の4つの公理(閉性・結合律・単位元・逆元)と,点群 $C_{3v}=\{E,C_3,C_3^{-1},\sigma_1,\sigma_2,\sigma_3\}$ が実際にそれを満たすことの確認
- 点群の分類:Schoenflies記号と国際(Hermann–Mauguin)表記の対応,回反と回映の違い,中心対称性の有無から誘電性・圧電性・焦電性が読めること
- 積表・部分群・再配列定理・抽象群,そして相似変換 $R^{-1}AR=B$ が定めるクラス
- 表現行列のブロック対角化と既約表現,指標 $\chi(R)=\mathrm{Tr}\,D(R)$,$C_{3v}$ の指標表の完成とMulliken記号の読み方
- 大直交定理と指標の直交定理,既約分解の公式 $n_i=\dfrac{1}{h}\sum_R g_R\,\chi_i^*(R)\chi(R)$
- 積分が消える条件と,共鳴積分 $\bra{\phi_A}\Ham\ket{\phi_B}\neq 0$ となるための対称性の条件
- 応用:八面体配位における $d$ 軌道の分裂 $\Gamma_d=E_g\oplus T_{2g}$,CH$_4$ の $a_1+t_2$ 分子軌道,O$_2$ の基底状態 ${}^3\Sigma_g^-$
12.1 対称性はあらゆる場面に顔を出す
12.1.1 4つの場面
まず,対称性が実際の研究の現場でどこに顔を出すのかを見ておこう.以下の4つは,分野も測定手法もばらばらだが,どれも同じ「指標表」という一枚の表を土台にしている.
(1) 分子軌道ダイアグラム(NH$_3$).無機化学の教科書に載っているアンモニアの分子軌道図には,準位の横に $1a_1,\,1e,\,2a_1,\,3a_1,\,2e$ といった記号が添えられている.この $a_1$ や $e$ は,エネルギーでも電子数でもなく,その軌道がどんな対称性をもつかを表すラベルである.小文字は1電子軌道(分子軌道),大文字は多電子状態を表す,という約束になっている.$e$ とラベルされた準位が必ず二重縮退していることも,対称性だけから決まる.
(2) 赤外吸収スペクトル(H$_2$O).水蒸気の赤外スペクトルには3本の吸収帯が現れる.$3657\ \mathrm{cm^{-1}}$(対称伸縮),$1595\ \mathrm{cm^{-1}}$(変角),$3756\ \mathrm{cm^{-1}}$(逆対称伸縮)である.前の2つには $A_1$,最後の1つには $B_1$(分子面を $xz$ 面にとった場合.$yz$ 面にとれば $B_2$)というラベルがつく.3原子分子の振動の数が $3N-6=3$ 本であることも,そのうちどれが赤外活性でどれがRaman活性かも,指標表から機械的に判定できる.
(3) 電子バンド構造.固体の電子バンド図で,$\Gamma$ 点(ブリルアンゾーンの中心)の準位には $\Gamma_1^-,\ \Gamma_2^+,\ \Gamma_3^+$ のような記号が振られる.これも既約表現のラベルであり,超イオン伝導体 NaZr$_2$(PO$_4$)$_3$ の伝導機構の議論などで実際に使われている〔文献 11〕.
(4) フォノンバンド構造.Siのフォノン分散では,$X$ 点や $L$ 点の分岐に $X_1,\,X_3,\,X_4,\,L_1,\,L_3$ といったラベルがつく〔文献 12〕.どの分岐とどの分岐が交差できる(縮退できる)かは,対称性で決まっている.
なぜ?:計算しないで分かることの価値
第10章では計算機に分子軌道を解かせた.では対称性の議論は要らないのか——決してそうではない.第一に,計算結果を検算できる.「$t_2$ とラベルされる準位は必ず三重縮退するはず」と分かっていれば,3本のはずの準位が2本しか出ていない計算はどこかがおかしい,と即座に気づける.第二に,まだ作られていない物質についても議論できる.R. Hoffmann は軌道の形を睨んで分子軌道図を手描きし,遷移金属錯体の反応性を予測してノーベル化学賞を受賞した〔文献 8〕.対称性を使うと,Hoffmannの図はもっとすっきりし,しかも「なぜそうなるか」が明確になる.計算せず,分子構造だけから導出できる——これが群論のうまみである.
本章の12.2〜12.7節は群論の数学的な準備であり,12.8節からが化学である.波動関数の掛け算は既約表現の直積と同じという一点さえ押さえれば,共鳴積分がゼロになるかならないかが目で見て分かるようになる.
12.2 群の定義 — 4つの公理と点群 $C_{3v}$
12.2.1 群の4つの公理
群という言葉は物々しいが,中身は「掛け算のできる集合」にすぎない.集合の要素のことを,群論では元(げん,element)と呼ぶ.以下では群を $\mathbb{G}$,その元を $G_1,G_2,\dots,G_n$ と書く.
定義:群
$G_1,G_2,\dots,G_n$ が集合 $\mathbb{G}$ の元であり,任意の2つの元 $G_i,G_j$ の間に「積」$G_i\cdot G_j$ という演算が定義されているとする.このとき次の4つの公理を満たす集合 $\mathbb{G}$ を群(group)と呼ぶ.
- 閉性(closure):任意の元 $G_i,G_j$ の積 $G_i\cdot G_j$ が,ふたたび $\mathbb{G}$ に属する.
- 結合律(associativity):$G_k\cdot(G_i\cdot G_j)=(G_k\cdot G_i)\cdot G_j$.
- 単位元(identity):すべての $G_i$ に対して $E\cdot G_i=G_i\cdot E=G_i$ を満たす元 $E$ が存在する.
- 逆元(inverse):各 $G_i$ に対して $G_i\cdot G_i^{-1}=G_i^{-1}\cdot G_i=E$ を満たす元 $G_i^{-1}$ が $\mathbb{G}$ の中に存在する.
元の個数 $h$ を群のオーダー(order,群位数)と呼ぶ.
注意してほしいのは,公理のなかに「$G_i\cdot G_j=G_j\cdot G_i$」(交換律)が入っていないことである.積の順序を入れ替えてよい群を可換群(Abel群),そうでない群を非可換群と呼ぶ.分子の対称操作がつくる群は,たいてい非可換である.
なぜ?:分子の対称操作が「積」をもつのはなぜか
分子に対する対称操作とは,「操作したあとの分子が,操作前と見分けがつかない」ような幾何学的な操作のことである.回転・鏡映・反転などがこれにあたる.ここで,対称操作 $A$ を行い,続けて対称操作 $B$ を行うことを考えよう.$A$ を行っても分子は見分けがつかず,$B$ を行っても見分けがつかないのだから,「$A$ のあとに $B$」という一連の動作もまた対称操作である.これが積の正体であり,同時に閉性(公理1)が自動的に成り立つ理由でもある.何もしない操作(恒等操作 $E$)は当然対称操作だし,ある対称操作を「巻き戻す」操作もまた対称操作である.つまり対称操作の集合は,放っておいても群になる.群論が分子や結晶と相性がよいのは,このためである.
12.2.2 点群 $C_{3v}$ の6つの対称操作
抽象論はここまでにして,具体例に移ろう.アンモニア NH$_3$ は三角錐形で,N原子を頂点,3個のH原子を底面の正三角形の頂点にもつ.この分子がもつ対称操作を数え上げてみる.
図12.1のとおり,NH$_3$ の対称操作は次の6個である.
- $E$:恒等操作(何もしない)
- $C_3$:$z$ 軸まわりの $120^\circ$ 回転
- $C_3^{-1}$:$z$ 軸まわりの $-120^\circ$($=240^\circ$)回転.$C_3^{2}$ とも書く
- $\sigma_1,\sigma_2,\sigma_3$:$z$ 軸を含み,それぞれH$_1$, H$_2$, H$_3$ を通る鏡映面での鏡映
この集合
$$ \begin{equation} C_{3v}=\{E,\ C_3,\ C_3^{-1},\ \sigma_1,\ \sigma_2,\ \sigma_3\} \label{eq:12-c3v-set} \end{equation} $$を点群(point group)$C_{3v}$ と呼ぶ.「点」群という名は,すべての操作が空間のある1点(ここではN原子の真下,重心付近の対称中心となる点)を動かさないことに由来する.
12.2.3 対称操作を $2\times 2$ 行列で書く
群の公理を確かめるには,対称操作を数式で書かねばならない.$C_3$ 軸を $z$ 軸にとると,すべての操作は $z$ 座標を変えない.したがって $xy$ 平面内の $2\times 2$ 行列で書けば十分である.
まず一般に,原点まわりに角 $\alpha$ だけ回転する操作 $R(\alpha)$ は,点 $(x,y)$ を
$$ \begin{equation} \begin{pmatrix}x'\\ y'\end{pmatrix} =\begin{pmatrix}\cos\alpha & -\sin\alpha\\ \sin\alpha & \cos\alpha\end{pmatrix} \begin{pmatrix}x\\ y\end{pmatrix} \label{eq:12-rot2d} \end{equation} $$に移す.また,原点を通り $x$ 軸と角 $\theta$ をなす直線を鏡とする鏡映 $M(\theta)$ は
$$ \begin{equation} M(\theta)=\begin{pmatrix}\cos 2\theta & \sin 2\theta\\ \sin 2\theta & -\cos 2\theta\end{pmatrix} \label{eq:12-mirror2d} \end{equation} $$である.式 \eqref{eq:12-mirror2d} は,鏡の方向ベクトル $(\cos\theta,\sin\theta)$ が不変(固有値 $+1$),それに直交する $(-\sin\theta,\cos\theta)$ が符号反転(固有値 $-1$)となることから確かめられる.
数学ノート:式 \eqref{eq:12-mirror2d} の確認
$M(\theta)$ を $(\cos\theta,\sin\theta)^{\mathsf T}$ に作用させると,第1成分は加法定理 $\cos(A-B)=\cos A\cos B+\sin A\sin B$ より $\cos2\theta\cos\theta+\sin2\theta\sin\theta=\cos\theta$,第2成分は $\sin(A-B)=\sin A\cos B-\cos A\sin B$ より $\sin2\theta\cos\theta-\cos2\theta\sin\theta=\sin\theta$ となり,確かに不変である.同様に $(-\sin\theta,\cos\theta)^{\mathsf T}$ に作用させると $(\sin\theta,-\cos\theta)^{\mathsf T}$ となり符号が反転する.
図12.1の配置では,$\sigma_1$ は $x$ 軸($\theta=0$),$\sigma_2$ は $\theta=120^\circ$,$\sigma_3$ は $\theta=240^\circ$ の直線を鏡とする.$C_3=R(120^\circ)$,$C_3^{-1}=R(-120^\circ)$ である.$\cos120^\circ=-\tfrac12$,$\sin120^\circ=\tfrac{\sqrt3}{2}$,$\cos240^\circ=-\tfrac12$,$\sin240^\circ=-\tfrac{\sqrt3}{2}$,$\cos480^\circ=\cos120^\circ=-\tfrac12$,$\sin480^\circ=\sin120^\circ=\tfrac{\sqrt3}{2}$ を代入すると,6つの行列が次のように定まる.
12.2.4 4つの公理を確かめる
式 \eqref{eq:12-c3v-2d} の6個の行列が群をなすことを,公理の順に確かめよう.
公理2(結合律)から片付ける.積が行列の積で定義されている以上,$A(BC)=(AB)C$ は行列の積の性質としてつねに成り立つ.したがって結合律は自動的に満たされる.
公理3(単位元)も明らかで,$E$ は単位行列だから $EA=AE=A$ である.
公理4(逆元):回転については $C_3\cdot C_3^{-1}=R(120^\circ)R(-120^\circ)=R(0)=E$ である.鏡映については,同じ鏡で2回折り返せばもとに戻るから $\sigma_i\sigma_i=E$,すなわち鏡映は自分自身が逆元である.実際 $\sigma_1^2=\begin{pmatrix}1&0\\0&-1\end{pmatrix}^2=\begin{pmatrix}1&0\\0&1\end{pmatrix}=E$ となる.
公理1(閉性)だけは,$6\times 6=36$ 通りの積をすべて調べる必要がある.ひとつだけ手で計算してみよう.
例題12.1 $\sigma_1 C_3$ と $C_3\sigma_1$ を計算せよ
解答.まず $\sigma_1 C_3$($C_3$ を先に施し,続いて $\sigma_1$ を施す操作に対応する)を計算する.
$$ \sigma_1 C_3=\begin{pmatrix}1&0\\ 0&-1\end{pmatrix} \begin{pmatrix}-\tfrac12&-\tfrac{\sqrt3}{2}\\[3pt] \tfrac{\sqrt3}{2}&-\tfrac12\end{pmatrix} =\begin{pmatrix} 1\cdot(-\tfrac12)+0\cdot\tfrac{\sqrt3}{2} & 1\cdot(-\tfrac{\sqrt3}{2})+0\cdot(-\tfrac12)\\[4pt] 0\cdot(-\tfrac12)+(-1)\cdot\tfrac{\sqrt3}{2} & 0\cdot(-\tfrac{\sqrt3}{2})+(-1)\cdot(-\tfrac12) \end{pmatrix} =\begin{pmatrix}-\tfrac12&-\tfrac{\sqrt3}{2}\\[3pt] -\tfrac{\sqrt3}{2}&\tfrac12\end{pmatrix}=\sigma_2 . $$次に順序を入れ替えて $C_3\sigma_1$ を計算する.
$$ C_3\sigma_1=\begin{pmatrix}-\tfrac12&-\tfrac{\sqrt3}{2}\\[3pt] \tfrac{\sqrt3}{2}&-\tfrac12\end{pmatrix} \begin{pmatrix}1&0\\ 0&-1\end{pmatrix} =\begin{pmatrix}-\tfrac12&\tfrac{\sqrt3}{2}\\[3pt] \tfrac{\sqrt3}{2}&\tfrac12\end{pmatrix}=\sigma_3 . $$どちらも $C_{3v}$ の元になっており,閉性が確かめられた.同時に $\sigma_1C_3=\sigma_2\neq\sigma_3=C_3\sigma_1$ であるから,$C_{3v}$ は非可換群であることも分かる.
注意:$C_{3v}$ は可換ではない
例題12.1が示すとおり,$C_{3v}$ では積の順序を入れ替えると答えが変わる.回転を先にするか鏡映を先にするかで,行き着く先が別の鏡映面になるからである.手を上に挙げてから体を回るのと,体を回ってから手を挙げるのとでは,手の向く方角が違う——といえば納得できるだろう.この非可換性こそが,あとで「クラス」(12.5節)や「二次元既約表現」(12.6節)が現れる理由である.可換群では,すべての既約表現が1次元になってしまい,縮退は起こらない.縮退は非可換性の産物である.
残りの積も同様に計算でき,結果は12.4節の積表(表12.4)にまとめる.すべての積が6個のうちのどれかになり,閉性が成り立つ.以上で,$C_{3v}$ は群の定義を満たす.
数学ノート:積の順序の約束
本書では,$AB$ と書いたら「まず $B$ を施し,次に $A$ を施す」の意味とする.これは演算子の作用 $AB\ket{\psi}=A(B\ket{\psi})$ や行列の積の順序と揃えた自然な約束である.書物によっては逆の約束(左から順に施す)を採るものもあるので,積表を他書と見比べるときは注意してほしい.約束を変えると積表の非対角部分が転置される.
12.3 点群の分類 — Schoenflies記号と国際表記
12.3.1 対称操作の種類と記号
点群を分類する前に,対称操作の種類を整理しておく.すべての点群は,次の5種類の操作の組み合わせでできている.
| 操作 | Schoenflies記号 | 国際記号 | 内容 |
|---|---|---|---|
| 恒等操作 | $E$ | $1$ | 何もしない |
| 回転 | $C_n$ | $n$ | 軸まわりに $360^\circ/n$ 回転 |
| 鏡映 | $\sigma$ | $m$ | 面に関する折り返し |
| 反転 | $i$ | $\bar 1$ | $(x,y,z)\to(-x,-y,-z)$ |
| 回映(Schoenflies) | $S_n$ | — | $C_n$ 回転ののち $\sigma_h$(軸に垂直な面での鏡映) |
| 回反(国際) | — | $\bar n$ | $C_n$ 回転ののち $i$(反転) |
鏡映面には,主軸(最も回転次数の高い軸.ふつう $z$ 軸にとる)との位置関係で3種類の呼び名がある.
- $\sigma_h$(horizontal):主軸に垂直な面
- $\sigma_v$(vertical):主軸を含む面
- $\sigma_d$(dihedral):主軸を含み,かつ2本の $C_2$ 軸の間を二等分する面($\sigma_v$ の特別な場合)
注意:horizontal と vertical の紛らわしさ
$\sigma_h$ の h は horizontal(水平)だが,これは「主軸に対して垂直」という意味である.逆に $\sigma_v$ の v は vertical(垂直)だが,これは「主軸に対して平行(主軸を含む)」という意味である.日本語の「垂直・水平」と英語の horizontal・vertical が逆に対応するので,非常に混乱しやすい.面ではなく主軸を基準に考えると覚えるとよい.主軸を横倒しに寝かせて床に置いたと想像すると,それに垂直な鏡は床と平行(horizontal)になる——これが $\sigma_h$ の語源である.$C_{3v}$ の v は,3枚の鏡が主軸を含む $\sigma_v$ であることを示している.
注意:回反(国際表記)と回映(Schoenflies)は別物である
国際表記の $\bar n$ は「$C_n$ 回転ののち反転 $i$」,Schoenflies の $S_n$ は「$C_n$ 回転ののち鏡映 $\sigma_h$」であって,操作そのものが違う.たとえば $z$ 軸まわりで $(x,y,z)$ に作用させると
$$ S_4:\ (x,y,z)\ \xrightarrow{C_4}\ (-y,x,z)\ \xrightarrow{\sigma_h}\ (-y,x,-z),\qquad \bar 4:\ (x,y,z)\ \xrightarrow{C_4}\ (-y,x,z)\ \xrightarrow{i}\ (y,-x,-z) $$となり,確かに別の操作である($\bar 4=S_4^{-1}=S_4^{3}$ の関係にある).ところが生成する群としては一致するので,点群の名前としては1対1に対応する.具体的には
$$ S_1=\sigma_h=m=\bar 2,\quad S_2=i=\bar 1,\quad S_3\leftrightarrow\bar 6\ (=C_{3h}),\quad S_4\leftrightarrow\bar 4,\quad S_6\leftrightarrow\bar 3 $$である.$S_3$ が $\bar 3$ ではなく $\bar 6$ に対応する点が,とくに間違えやすい.
12.3.2 32個の結晶点群
並進対称性(結晶格子)と両立する回転は $n=1,2,3,4,6$ に限られる($n=5$ や $n=7$ の回転軸をもつ格子で空間を隙間なく埋めることはできない.正五角形のタイルで床を埋められないのと同じ理由である).この制限のもとで可能な点群はちょうど32種類あり,これを結晶点群(crystallographic point group)と呼ぶ.表12.2に主なものの対応を示す.
| 国際表記 | Schoenflies | 対称操作の内容 |
|---|---|---|
| $1$ | $C_1$ | 恒等操作のみ(対称性なし) |
| $\bar 1$ | $C_i$ | 反転中心のみ |
| $m$ | $C_s$ | 鏡映面が1枚 |
| $2,\ 3,\ 4,\ 6$ | $C_2,\ C_3,\ C_4,\ C_6$ | 2, 3, 4, 6回回転軸のみ |
| $222,\ 32,\ 422,\ 622$ | $D_2,\ D_3,\ D_4,\ D_6$ | 主軸に垂直な2回回転軸をもつ.$D_6$ なら $z$ 軸に6回,$x$ 軸と $x{+}y$ 軸に2回回転軸 |
| $2/m,\ 4/m,\ 6/m$ | $C_{2h},\ C_{4h},\ C_{6h}$ | 回転軸とそれに垂直な鏡映面 $\sigma_h$ |
| $mm2,\ 4mm,\ 6mm,\ 3m$ | $C_{2v},\ C_{4v},\ C_{6v},\ C_{3v}$ | 回転軸とそれを含む鏡映面 $\sigma_v$ |
| $mmm,\ 4/mmm,\ 6/mmm$ | $D_{2h},\ D_{4h},\ D_{6h}$ | $D_n$ に加えて主軸に垂直な鏡映面 $\sigma_h$ |
| $\bar 4 2m,\ \bar 3m$ | $D_{2d},\ D_{3d}$ | $D_n$ に加えて $C_2$ 軸を二等分する鏡映面 $\sigma_d$ |
| $\bar 4,\ \bar 3,\ \bar 6$ | $S_4,\ S_6,\ C_{3h}$ | 回反(回映)軸のみ |
| $23$ | $T$ | 4本の3回回転軸と3本の2回回転軸(立方晶のみ).$\langle100\rangle$ に2回,$\langle111\rangle$ に3回 |
| $432$ | $O$ | 4回回転軸3本,3回回転軸4本,2回回転軸6本.$\langle100\rangle$ に4回,$\langle111\rangle$ に3回,$\langle110\rangle$ に2回 |
| $m\bar 3$ | $T_h$ | $T$ に反転中心を加えたもの |
| $\bar 4 3m$ | $T_d$ | $T$ に $\{110\}$ 面の鏡映を加えたもの(正四面体の対称性) |
| $m\bar 3m$ | $O_h$ | $O$ に反転中心を加えたもの(立方体・正八面体の対称性) |
なぜ?:記号が2種類あるのはなぜか
Schoenflies記号は分子分光学の伝統から生まれ,「主軸が何回回転軸か」を最初に述べる書き方である.分子を扱う化学者に好まれる.一方,国際(Hermann–Mauguin)表記は結晶学から生まれ,「結晶の各方向にどんな対称要素があるか」を方向の順に並べる書き方である.$m\bar 3m$ の3つの記号は,それぞれ $\langle100\rangle$,$\langle111\rangle$,$\langle110\rangle$ 方向の対称要素を表している.結晶構造データベース(ICSD, Materials Project)や第一原理計算のコードはほぼ国際表記を使うので,材料研究では両方読めなければならない.本章では分子を扱うときはSchoenflies,結晶を扱うときは国際表記を併記する.
例題12.2 H$_2$O と CH$_4$ の点群を決めよ
解答.H$_2$O は折れ線形である.高次回転軸は1本もない($C_3$ 以上がない)ので立方群ではない.O原子を通り,2本のO–H結合のなす角を二等分する $C_2$ 軸が1本ある.これに垂直な $C_2$ 軸はない.$C_2$ 軸を含む鏡映面は2枚ある(分子面そのものと,それに垂直で $C_2$ 軸を含む面).よって $C_{2v}$(国際表記 $mm2$)である.
CH$_4$ は正四面体形である.4本のC–H結合それぞれが $C_3$ 軸になっており,高次回転軸が4本もあるので立方群である.反転中心はない(Hを反転させるとHのない場所へ行く)ので $T_h$ や $O_h$ ではない.$\{110\}$ に相当する鏡映面(2本のC–H結合を含む面)が6枚あるので $T_d$(国際表記 $\bar 4 3m$)である.
12.3.3 中心対称性と物性 — 誘電性・圧電性・焦電性
点群の分類は,単なる名前付けではない.その物質にどんな物性が現れうるかが,点群だけで決まる.これは対称性のもっとも実用的な帰結のひとつであり,指標表から読み取ることができる(この読み方は12.7節以降で分かるようになる).
定義:32結晶点群の3分類
(a) 中心対称性をもつ点群(centrosymmetric point group):11種類
$\bar 1,\ 2/m,\ mmm,\ 4/m,\ 4/mmm,\ \bar 3,\ \bar 3m,\ 6/m,\ 6/mmm,\ m\bar 3,\ m\bar 3m$
→ 常誘電性の起源.反転中心があるため自発分極も圧電性ももてない.
(b) 中心対称性をもたず,極性をもたない点群:11種類
$222,\ \bar 4,\ 422,\ \bar 4 2m,\ 32,\ \bar 6,\ 622,\ \bar 6m2,\ 23,\ 432,\ \bar 4 3m$
→ 圧電性(piezoelectricity)の起源.応力をかけると分極が生じる.
(c) 中心対称性をもたず,極性をもつ点群:10種類
$1,\ m,\ 2,\ mm2,\ 4,\ 4mm,\ 3,\ 3m,\ 6,\ 6mm$
→ 焦電性(pyroelectricity)の起源.温度変化で分極が変化する.極性がある=結晶構造そのものに分極があるということである.
(b) と (c) を合わせた21種類が非中心対称点群である.
ここで極性(polar)とは,その点群のすべての対称操作で不変に保たれる方向(極性軸)が存在することをいう.極性軸があれば,その方向に自発分極 $\bm{P}$ を置くことができる.逆に反転中心があると,$\bm{P}\to-\bm{P}$ となってしまい $\bm{P}=\bm{0}$ しかありえない.
物理的意味:焦電体・強誘電体・圧電体の包含関係
10種類の極性点群をもつ結晶はすべて焦電体である.そのうち,外部電場によって分極の向きを反転できるものを強誘電体(ferroelectrics)と呼ぶ.つまり
強誘電体 $\subset$ 焦電体(10点群) $\subset$ 圧電体(20点群) $\subset$ 非中心対称結晶(21点群)
という入れ子構造になっている.「強誘電体である」ことは点群だけでは決まらず,分極反転に必要なエネルギー障壁が現実的な電場で越えられるかどうかという,エネルギー的な条件が加わる.だから強誘電体かどうかは,対称性の判定に加えて第一原理計算で分極反転経路のエネルギー障壁を評価しなければ分からない.
注意:$432$ は非中心対称だが圧電性を示さない
「非中心対称の21点群がすべて圧電性をもつ」と書かれることがあるが,正確には $432$($O$)だけが例外で,圧電テンソルの独立成分がすべてゼロになってしまう.したがって圧電性を示すのは20点群である.$432$ は回転軸が多すぎて,対称性の制約で圧電テンソルが消えてしまうのである.
なぜ?:新規強誘電体の探索は新規超伝導体の探索より難しい
新しい超伝導体を探すときは,候補物質を作って電気抵抗を測ればよい.抵抗がゼロになれば超伝導体である.ところが強誘電体はそうはいかない.まず結晶が極性10点群のどれかに属していなければならず(これは全32点群の3分の1以下である),さらに分極が電場で反転しなければならない.加えて,実験で $P$–$E$ ヒステリシスループを測っても,リーク電流によって「見かけのループ」が出てしまうことが多く,本物かどうかの判定が難しい.つまり対称性という関門を通過したうえで,エネルギー的な関門も通過しなければならないのである.だからこそ,第一原理計算による事前スクリーニングが有効になる.実際,層状ペロブスカイト Li$_2$SrNb$_2$O$_7$ が新しい強誘電体であることは,計算による分極反転経路の解析と実験の組み合わせで確立された〔文献 9〕.また,反転対称性の破れと金属伝導が共存する「ポーラーメタル」のように,対称性の観点から新しい物質群が提案されることもある〔文献 10〕.
12.4 積表・部分群・再配列定理・抽象群
12.4.1 $C_{3v}$ の積表
群は積に関して必ず閉じている.分かりやすく言えば,群の任意の2つの元の積は,(多くの場合その2つとは別の)群元になり,必ず群に属する.この積の関係をすべて整理したものが積表(multiplication table,群表)である.例題12.1と同じ要領で36通りの積をすべて計算すると,表12.3が得られる.
| $A\backslash B$ | $E$ | $C_3$ | $C_3^{-1}$ | $\sigma_1$ | $\sigma_2$ | $\sigma_3$ |
|---|---|---|---|---|---|---|
| $E$ | $E$ | $C_3$ | $C_3^{-1}$ | $\sigma_1$ | $\sigma_2$ | $\sigma_3$ |
| $C_3$ | $C_3$ | $C_3^{-1}$ | $E$ | $\sigma_3$ | $\sigma_1$ | $\sigma_2$ |
| $C_3^{-1}$ | $C_3^{-1}$ | $E$ | $C_3$ | $\sigma_2$ | $\sigma_3$ | $\sigma_1$ |
| $\sigma_1$ | $\sigma_1$ | $\sigma_2$ | $\sigma_3$ | $E$ | $C_3$ | $C_3^{-1}$ |
| $\sigma_2$ | $\sigma_2$ | $\sigma_3$ | $\sigma_1$ | $C_3^{-1}$ | $E$ | $C_3$ |
| $\sigma_3$ | $\sigma_3$ | $\sigma_1$ | $\sigma_2$ | $C_3$ | $C_3^{-1}$ | $E$ |
表を作るのに便利な公式を挙げておく.式 \eqref{eq:12-rot2d},\eqref{eq:12-mirror2d} から直接計算すると
$$ \begin{equation} R(\alpha)M(\theta)=M\!\left(\theta+\tfrac{\alpha}{2}\right),\qquad M(\theta)R(\alpha)=M\!\left(\theta-\tfrac{\alpha}{2}\right),\qquad M(\theta_1)M(\theta_2)=R\bigl(2(\theta_1-\theta_2)\bigr) \label{eq:12-mirror-rules} \end{equation} $$が成り立つ($M(\theta)$ は $\theta$ の $180^\circ$ 周期であることに注意).たとえば $\sigma_1\sigma_2=M(0^\circ)M(120^\circ)=R(-240^\circ)=R(120^\circ)=C_3$,$\sigma_2\sigma_1=M(120^\circ)M(0^\circ)=R(240^\circ)=C_3^{-1}$ となり,表12.3の該当欄と一致する.この2つが異なることが,非可換性のもっとも分かりやすい現れである.
$C_{3v}$ の元の個数は6であるから,$C_{3v}$ のオーダーは $h=6$ である.これは極点図(ステレオ投影図)に現れる一般点の数でもある.
12.4.2 部分群
定義:部分群
群 $\mathbb{G}$ の部分集合 $\mathbb{H}$ が,$\mathbb{G}$ と同じ積の演算のもとでそれ自身群になっているとき,$\mathbb{H}$ を $\mathbb{G}$ の部分群(subgroup)と呼ぶ.
表12.3の左上 $3\times3$ 部分を見てほしい.$\{E,C_3,C_3^{-1}\}$ どうしの積は,この3つの中で閉じている.単位元 $E$ を含み,逆元も揃っている.つまり $\{E,C_3,C_3^{-1}\}$ は $C_{3v}$ の部分群であり,これは点群 $C_3$ にほかならない.
$C_{3v}$ の部分群をすべて挙げると次の6個である.
- $\{E\}$(オーダー1,自明な部分群)
- $\{E,\sigma_1\}$, $\{E,\sigma_2\}$, $\{E,\sigma_3\}$(オーダー2,いずれも点群 $C_s$)
- $\{E,C_3,C_3^{-1}\}$(オーダー3,点群 $C_3$)
- $C_{3v}$ 自身(オーダー6)
部分群のオーダーが $1,2,3,6$ とすべて $h=6$ の約数になっていることに気づくだろう.これは偶然ではなく,Lagrangeの定理「部分群のオーダーは,もとの群のオーダーの約数である」の帰結である.
物理的意味:部分群は「対称性が下がった状態」である
部分群は,結晶や分子の対称性が下がったときに現れる点群でもある.たとえば $C_{3v}$ の NH$_3$ の水素を1個だけ重水素に置き換えると,3枚の鏡映面のうち1枚しか残らず,点群は $C_s$ に下がる.結晶では,相転移によって高温相の点群から低温相の部分群へ落ちる(対称性の破れ)ことが日常茶飯事である.強誘電相転移はその典型で,たとえば BaTiO$_3$ は高温の $m\bar 3m$(常誘電相)から $4mm$(強誘電相)へ,つまり中心対称群から極性部分群へと落ちる.エピタキシャル歪みによって基板から対称性の制約を加え,電子状態を制御する研究も行われている〔文献 13〕.
12.4.3 再配列定理
定理:再配列定理(rearrangement theorem)
群の積表の各行・各列には,群のすべての元がちょうど1回ずつ現れる.
証明.行 $A$ の中身は $AE, AG_2, AG_3,\dots,AG_h$ である.もし2つの列 $G_i\neq G_j$ で同じ値が出たとすると $AG_i=AG_j$ である.両辺に左から $A^{-1}$ を掛けると $A^{-1}AG_i=A^{-1}AG_j$,すなわち $G_i=G_j$ となって仮定に反する.よって行 $A$ の $h$ 個の欄はすべて相異なる.一方,閉性より欄の中身は必ず群の元であり,群の元は $h$ 個しかない.$h$ 個の相異なる元が $h$ 個の欄に入るのだから,すべての元がちょうど1回ずつ現れる.列についても,右から $B^{-1}$ を掛ける同じ議論で示される.$\blacksquare$
表12.3を確かめてみよう.たとえば行 $\sigma_2$ は $(\sigma_2,\sigma_3,\sigma_1,C_3^{-1},E,C_3)$ で,6個の元が1回ずつ現れている.列 $\sigma_1$ は $(\sigma_1,\sigma_3,\sigma_2,E,C_3^{-1},C_3)$ で,これも1回ずつである.再配列定理は,群論のあらゆる証明で使われる基本道具である(12.7節の直交定理もこれに立脚している).
12.4.4 抽象群 — 型は意外に少ない
再配列定理は,積表の形をきびしく制限する.その結果,群にはオーダーごとに「型」があり,その種類はごくわずかしかない.群元を $E,A,B,C,\dots$ という無名の変数に置き換え,積表の形だけに注目したものを抽象群(abstract group)と呼ぶ.
オーダー2の抽象群 $\mathbb{G}_2$ は1種類しかない.
| $E$ | $A$ | |
|---|---|---|
| $E$ | $E$ | $A$ |
| $A$ | $A$ | $E$ |
| $E$ | $A$ | $B$ | |
|---|---|---|---|
| $E$ | $E$ | $A$ | $B$ |
| $A$ | $A$ | $B$ | $E$ |
| $B$ | $B$ | $E$ | $A$ |
例題12.3 オーダー3の群の積表が1通りしかないことを示せ
解答.元を $E,A,B$ とする.$E$ の行と列は再配列定理より自明に決まる.問題は $A\cdot A$ である.候補は $E$, $A$, $B$ の3つ.
(i) $A\cdot A=A$ とすると,両辺に $A^{-1}$ を左から掛けて $A=E$ となり,$A$ と $E$ が別の元だという仮定に反する.
(ii) $A\cdot A=E$ とすると,行 $A$ の残り1つの欄 $A\cdot B$ には,まだ使われていない $B$ しか入れられない(再配列定理).すると $A\cdot B=B$ となるが,両辺に右から $B^{-1}$ を掛けると $A=E$ となって矛盾する.
(iii) したがって $A\cdot A=B$ しかない.すると行 $A$ の残りは $A\cdot B=E$ に決まり,列の再配列定理から $B\cdot A=E$,$B\cdot B=A$ も決まる.これで表12.4(b) が一意に定まった.
この群は $A^2=B$, $A^3=A\cdot B=E$ を満たすので,$A$ が生成する位数3の巡回群である.点群でいえば $C_3=\{E,C_3,C_3^{-1}\}$ がこれにあたる($A=C_3$, $B=C_3^{-1}$).
ところがオーダー4になると,型は2種類に増える.
| $E$ | $A$ | $B$ | $C$ | |
|---|---|---|---|---|
| $E$ | $E$ | $A$ | $B$ | $C$ |
| $A$ | $A$ | $E$ | $C$ | $B$ |
| $B$ | $B$ | $C$ | $A$ | $E$ |
| $C$ | $C$ | $B$ | $E$ | $A$ |
| $E$ | $A$ | $B$ | $C$ | |
|---|---|---|---|---|
| $E$ | $E$ | $A$ | $B$ | $C$ |
| $A$ | $A$ | $E$ | $C$ | $B$ |
| $B$ | $B$ | $C$ | $E$ | $A$ |
| $C$ | $C$ | $B$ | $A$ | $E$ |
2つの表の違いは,$B\cdot B$ と $C\cdot C$ の欄だけである.$\mathbb{G}_4^{1}$ では $B^2=A$,$B^3=B\cdot A=C$,$B^4=B\cdot C=E$ となり,$B$ ひとつで4個すべての元が生成される.これが巡回群で,点群では $C_4=\{E,C_4,C_2,C_4^{-1}\}$ や $S_4$ がこの型である.一方 $\mathbb{G}_4^{2}$ では $A^2=B^2=C^2=E$ となり,どの元も2回で単位元に戻る.これが4元群(Kleinの四元群)で,点群では $D_2=\{E,C_2^{(x)},C_2^{(y)},C_2^{(z)}\}$ や $C_{2v}=\{E,C_2,\sigma_v,\sigma_v'\}$ がこの型である.
このように,再配列定理によって群はオーダーごとに「型」をもち,オーダー4の群は2つの型しか存在しない.逆にいえば,$D_2$ と $C_{2v}$ は幾何学的にはまったく違う形をしているのに,群としては同じ型(同型)なのである.だから両者の指標表は,ラベルを付け替えるだけで一致する.
12.5 相似変換とクラス
12.5.1 相似変換と共役
定義:相似変換と共役な群元
群 $\mathbb{G}$ の元 $R$ を用いて,$\mathbb{G}$ の元 $A$ を
$$ \begin{equation} R^{-1}AR=B \label{eq:12-similarity} \end{equation} $$のように $\mathbb{G}$ の元 $B$ に変換することを相似変換(similarity transformation)と呼ぶ.$R$, $A$, $B$ がすべて同じ群に属するとき,$B$ は $A$ と共役(conjugate)であるという.
なぜ?:相似変換は「見る立場を変える」ことである
式 \eqref{eq:12-similarity} を右から読むと,「まず $R$ を施し,次に $A$ を施し,最後に $R$ を巻き戻す」という手順である.これは日常語でいえば,座標系を $R$ で取り替えてから $A$ を見るということである.たとえば $A$ が「$x$ 軸まわりの回転」だとして,座標系を $90^\circ$ 回してから同じ操作を見れば,それは「$y$ 軸まわりの回転」に見える.つまり共役な元どうしは,本質的に同じ種類の操作を,違う向きから見たものである.線形代数で行列 $A$ と $P^{-1}AP$ が同じ線形変換の別基底表示であったのと,まったく同じ発想である(付録A.2節).
$C_{3v}$ について,表12.3を使って相似変換を全部計算してみよう.鏡映は自分自身が逆元($\sigma_i^{-1}=\sigma_i$)であることに注意する.まず $C_3$ に対して:
$$ \sigma_1^{-1}C_3\sigma_1=\sigma_1(C_3\sigma_1)=\sigma_1\sigma_3=C_3^{-1},\qquad \sigma_2^{-1}C_3\sigma_2=\sigma_2(C_3\sigma_2)=\sigma_2\sigma_1=C_3^{-1},\qquad \sigma_3^{-1}C_3\sigma_3=\sigma_3(C_3\sigma_3)=\sigma_3\sigma_2=C_3^{-1}. $$いずれも $C_3^{-1}$ になる.逆に $C_3^{-1}$ を相似変換すると $C_3$ になる:
$$ \sigma_1^{-1}C_3^{-1}\sigma_1=\sigma_1\sigma_2=C_3,\qquad \sigma_2^{-1}C_3^{-1}\sigma_2=\sigma_2\sigma_3=C_3,\qquad \sigma_3^{-1}C_3^{-1}\sigma_3=\sigma_3\sigma_1=C_3 . $$次に鏡映どうしでは:
$$ \begin{aligned} &\sigma_1^{-1}\sigma_1\sigma_1=\sigma_1, &&\sigma_2^{-1}\sigma_1\sigma_2=\sigma_2 C_3=\sigma_3, &&\sigma_3^{-1}\sigma_1\sigma_3=\sigma_3 C_3^{-1}=\sigma_2,\\ &\sigma_1^{-1}\sigma_2\sigma_1=\sigma_1 C_3^{-1}=\sigma_3, &&\sigma_2^{-1}\sigma_2\sigma_2=\sigma_2, &&\sigma_3^{-1}\sigma_2\sigma_3=\sigma_3 C_3=\sigma_1,\\ &\sigma_1^{-1}\sigma_3\sigma_1=\sigma_1 C_3=\sigma_2, &&\sigma_2^{-1}\sigma_3\sigma_2=\sigma_2 C_3^{-1}=\sigma_1, &&\sigma_3^{-1}\sigma_3\sigma_3=\sigma_3 . \end{aligned} $$すなわち,3枚の鏡映は互いに移り合う.回転 $C_3$ と $C_3^{-1}$ も互いに移り合う.しかし,回転が鏡映に化けることは決してない.
12.5.2 クラス
定義:クラス
群 $\mathbb{G}$ の元のうち,互いに共役なものだけを集めた部分集合をクラス(class,共役類)と呼ぶ.
注意:クラスは部分群ではない
クラスは部分「集合」であって部分「群」ではない.実際 $C_{3v}$ のクラス $\{C_3,C_3^{-1}\}$ は単位元 $E$ を含まないから,群の公理3を満たさない.また $C_3\cdot C_3=C_3^{-1}$ は同じクラスに入るが $C_3\cdot C_3^{-1}=E$ はクラスの外に出る.クラスは群を「操作の種類」で仕分けした引き出しにすぎないと考えればよい.
上の計算から,$C_{3v}$ の6つの元は3つのクラスに分かれる.
この3つのクラスを,それぞれ $E$, $2C_3$, $3\sigma_v$ と略記する.数字はそのクラスに属する元の個数で,$g_R$ と書くことにする($g_E=1$, $g_{C_3}=2$, $g_{\sigma_v}=3$).合計 $1+2+3=6=h$ である.
例題12.4 $C_{2v}$ のクラスを求めよ
解答.$C_{2v}=\{E,C_2,\sigma_v(xz),\sigma_v'(yz)\}$ は表12.5(b) の型の可換群である.可換群では,任意の $R$, $A$ について
$$ R^{-1}AR=R^{-1}RA=EA=A $$となり,相似変換をしても元が変わらない.したがって可換群ではすべての元が独立したクラスをなす.$C_{2v}$ のクラスは $\{E\}$, $\{C_2\}$, $\{\sigma_v\}$, $\{\sigma_v'\}$ の4つである.
これは重要な帰結を含んでいる.12.7節で見るように「既約表現の個数=クラスの個数」であり,また「既約表現の次元の2乗和=群のオーダー」である.$C_{2v}$ ではクラスが4個,$h=4$ なので $\sum_i l_i^2=4$ を満たす4個の次元は $1^2+1^2+1^2+1^2$ しかありえない.つまり$C_{2v}$ の既約表現はすべて1次元で,縮退は絶対に起こらない.H$_2$O の分子軌道に縮退した準位がひとつも現れないのは,このためである.
物理的意味:同じクラスの操作は「同じ強さの制約」を課す
$C_{3v}$ の3枚の鏡映面 $\sigma_1,\sigma_2,\sigma_3$ は,幾何学的にはH$_1$, H$_2$, H$_3$ のどれを通るかで区別できるが,分子を回してしまえば区別がつかない.物理量(エネルギー準位,振動数,選択則)は「どのHを1番と呼ぶか」に依存してはならないから,これら3つの操作は物理的にまったく同等な制約を課す.だから指標表では3枚をまとめて $3\sigma_v$ と1列で書けば十分なのである.クラスにまとめることで,$6\times6$ の情報が $3\times3$ に圧縮される——これが指標表の小ささの秘密である.
12.6 表現・既約表現・指標 — 指標表をつくる
12.6.1 表現とは何か
定義:群の表現
群 $\mathbb{G}$ の各元 $R$ に対して,$l\times l$ の正方行列 $D(R)$ を対応させ,群の積の関係がそのまま行列の積の関係になっている,すなわち
$$ \begin{equation} D(A)D(B)=D(AB)\qquad(\text{すべての } A,B\in\mathbb{G}) \label{eq:12-rep-def} \end{equation} $$が成り立つとき,行列の組 $\{D(R)\}$ を群 $\mathbb{G}$ の表現(representation)と呼び,$l$ をその表現の次元と呼ぶ.
表現は,$l$ 個の関数(あるいはベクトル)の組を用意し,それが対称操作でどう混ざるかを書き下せば作れる.この $l$ 個の関数の組を基底(basis)と呼ぶ.式 \eqref{eq:12-c3v-2d} は,基底として $(x,y)$ をとったときの2次元表現である.
今度は基底を4つに増やし,$(z,\ R_z,\ x,\ y)$ をとってみよう.ここで $z$, $x$, $y$ は座標($p_z$, $p_x$, $p_y$ 軌道と思ってよい),$R_z$ は $z$ 軸まわりの回転を表す量(軸性ベクトル,角運動量 $L_z$ と同じ変換をする)である.それぞれが対称操作でどう変わるかを考える.
- $z$:$C_3$ 軸方向なので,$C_3$ でも $\sigma_v$ でも不変.すべての操作で係数 $+1$.
- $R_z$:回転 $C_3$ では回転の向きが変わらないので $+1$.しかし $z$ 軸を含む鏡 $\sigma_v$ で映すと,時計回りが反時計回りに見えるので $-1$.
- $(x,y)$:式 \eqref{eq:12-c3v-2d} の $2\times2$ 行列で混ざる.
したがって $4\times4$ の表現行列は次のようになる.
$$ \begin{equation} \begin{aligned} D(E)&=\begin{pmatrix}1&0&0&0\\ 0&1&0&0\\ 0&0&1&0\\ 0&0&0&1\end{pmatrix},& D(C_3)&=\begin{pmatrix}1&0&0&0\\ 0&1&0&0\\ 0&0&-\tfrac12&-\tfrac{\sqrt3}{2}\\[3pt] 0&0&\tfrac{\sqrt3}{2}&-\tfrac12\end{pmatrix},& D(C_3^{-1})&=\begin{pmatrix}1&0&0&0\\ 0&1&0&0\\ 0&0&-\tfrac12&\tfrac{\sqrt3}{2}\\[3pt] 0&0&-\tfrac{\sqrt3}{2}&-\tfrac12\end{pmatrix},\\[8pt] D(\sigma_1)&=\begin{pmatrix}1&0&0&0\\ 0&-1&0&0\\ 0&0&1&0\\ 0&0&0&-1\end{pmatrix},& D(\sigma_2)&=\begin{pmatrix}1&0&0&0\\ 0&-1&0&0\\ 0&0&-\tfrac12&-\tfrac{\sqrt3}{2}\\[3pt] 0&0&-\tfrac{\sqrt3}{2}&\tfrac12\end{pmatrix},& D(\sigma_3)&=\begin{pmatrix}1&0&0&0\\ 0&-1&0&0\\ 0&0&-\tfrac12&\tfrac{\sqrt3}{2}\\[3pt] 0&0&\tfrac{\sqrt3}{2}&\tfrac12\end{pmatrix}. \end{aligned} \label{eq:12-c3v-4d} \end{equation} $$12.6.2 ブロック対角化と既約表現
式 \eqref{eq:12-c3v-4d} を眺めると,6個の行列がすべて同じ形にブロック分けされていることに気づく.$1\times1$,$1\times1$,$2\times2$ の3つのブロックが対角線上に並び,ブロックの外はすべてゼロである.これは基底 $z$,$R_z$,$(x,y)$ の3つのグループが,どの対称操作によっても互いに混ざらないことを意味している.
定義:可約表現と既約表現
ある表現 $\{D(R)\}$ に対し,すべての $R$ に共通のひとつの行列 $P$ を選んで $P^{-1}D(R)P$ を同じ形にブロック対角化できるとき,その表現は可約(reducible)であるという.どんな $P$ を選んでもそれ以上ブロック分けできない表現を既約表現(irreducible representation, irrep)と呼ぶ.可約表現 $\Gamma$ が既約表現 $\Gamma_i$ の組に分かれることを
$$ \Gamma=\Gamma_1\oplus\Gamma_2\oplus\cdots $$と書き,直和(direct sum)と呼ぶ.普通の足し算ではないので,足し算の記号に丸をつけて区別する.
$C_{3v}$ の場合,式 \eqref{eq:12-c3v-4d} の3つのブロックがそれぞれ既約表現であり,慣習にしたがって $A_1$(基底 $z$),$A_2$(基底 $R_z$),$E$(基底 $x,y$)と名づける.すなわち
$$ \begin{equation} \Gamma_{(z,R_z,x,y)}=A_1\oplus A_2\oplus E . \label{eq:12-c3v-directsum} \end{equation} $$具体的に $C_3$ に対する $A_1$ と $E$ の直和を書けば
$$ A_1\oplus E= \begin{pmatrix} 1 & 0 & 0\\ 0 & -\tfrac12 & -\tfrac{\sqrt3}{2}\\[3pt] 0 & \tfrac{\sqrt3}{2} & -\tfrac12 \end{pmatrix} $$となり,恒等操作 $E$ については $A_1\oplus A_2\oplus E$ が $4\times4$ の単位行列になる.既約表現の直和をとることで,ブロック対角化された行列が組み上がるのである.
注意:記号 $E$ の二重の意味
群論では $E$ という文字が2つの意味で使われる.ひとつは恒等操作(identity),もうひとつは2次元既約表現の名前(ドイツ語 entartet「縮退した」に由来)である.文脈で判断するしかない.指標表では,列の見出しに現れる $E$ が恒等操作,行の見出しに現れる $E$ が2次元既約表現である.
12.6.3 指標 — 表現行列を1個の数に圧縮する
ブロック対角化ができれば話は済むが,行列を全部書き並べるのは大変である.しかも表現行列は基底の取り方によって変わってしまう($P^{-1}D(R)P$).そこで,基底の取り方に依存しない量を取り出す.それがトレース(対角和)である.
定義:指標
表現行列 $D(R)$ の対角和を,その表現の元 $R$ に対する指標(character, キャラクター)と呼び,$\chi(R)$ と書く.
$$ \begin{equation} \chi(R)=\mathrm{Tr}\,D(R)=\sum_{m=1}^{l}D_{mm}(R) \label{eq:12-character-def} \end{equation} $$トレースには $\mathrm{Tr}(P^{-1}DP)=\mathrm{Tr}(DPP^{-1})=\mathrm{Tr}\,D$ という性質があるので,指標は基底の取り方によらない.さらに,同じクラスに属する元は互いに相似変換で移り合うので,同じクラスの元は同じ指標をもつ.だから指標は「クラスごとに1個の数」で済む.$6\times6$ の情報が $3\times3$ に圧縮されるというのは,このことである.
式 \eqref{eq:12-c3v-4d} の各ブロックのトレースを取ろう.$A_1$ ブロックはすべて $(1)$ なので $\chi=1$.$A_2$ ブロックは $E,C_3,C_3^{-1}$ で $1$,$\sigma_i$ で $-1$.$E$ ブロックは
$$ \chi_E(E)=1+1=2,\qquad \chi_E(C_3)=-\tfrac12-\tfrac12=-1,\qquad \chi_E(\sigma_1)=1+(-1)=0, $$ $$ \chi_E(\sigma_2)=-\tfrac12+\tfrac12=0,\qquad \chi_E(\sigma_3)=-\tfrac12+\tfrac12=0 . $$これらをクラスごとにまとめると,$C_{3v}$ の指標表が完成する.
| $C_{3v}$ | $E$ | $2C_3$ | $3\sigma_v$ | 1次の基底 | 2次の基底 |
|---|---|---|---|---|---|
| $A_1$ | $1$ | $1$ | $1$ | $z$ | $x^2+y^2,\ z^2$ |
| $A_2$ | $1$ | $1$ | $-1$ | $R_z$ | — |
| $E$ | $2$ | $-1$ | $0$ | $(x,y),\ (R_x,R_y)$ | $(x^2-y^2,\ xy),\ (xz,\ yz)$ |
この小さな表が,これから本章の残りすべてを支える道具になる.これを使うことで,結晶場分裂,分子軌道法での電子準位の分裂,分子振動の赤外活性・Raman活性の判定など,およそ対称性が関わるあらゆる解析ができる.
同様にして,H$_2$O の点群 $C_{2v}$ の指標表も作れる.例題12.4で見たとおり既約表現は4個ともすべて1次元である.
| $C_{2v}$ | $E$ | $C_2$ | $\sigma_v(xz)$ | $\sigma_v'(yz)$ | 1次の基底 | 2次の基底 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| $A_1$ | $1$ | $1$ | $1$ | $1$ | $z$ | $x^2,\ y^2,\ z^2$ |
| $A_2$ | $1$ | $1$ | $-1$ | $-1$ | $R_z$ | $xy$ |
| $B_1$ | $1$ | $-1$ | $1$ | $-1$ | $x,\ R_y$ | $xz$ |
| $B_2$ | $1$ | $-1$ | $-1$ | $1$ | $y,\ R_x$ | $yz$ |
12.6.4 Mulliken記号の読み方
既約表現の名前 $A_1$, $B_2$, $E_g$, $T_{2u}$ などはMulliken記号(Mulliken notation)と呼ばれ,次の規則で付けられている.一般形は
$$ \begin{equation} X^{\,s}_{\alpha\beta} \label{eq:12-mulliken} \end{equation} $$である(分子,および固体では $\Gamma$ 点にのみ適用できる).
定義:Mulliken記号の規則
- $X$(主記号):既約表現の次元で決まる.1次元なら $A$ または $B$,2次元なら $E$,3次元なら $T$(分光学では $F$ とも書く),4次元なら $F$(二重群でのみ現れる).
- $A$ か $B$ か:主軸の回転 $C_n$ に対する指標が $+1$ なら $A$(対称),$-1$ なら $B$(反対称).
- 下付き $\alpha$(1 か 2 か):主軸に直交する $C_2$ 軸(なければ $\sigma_v$)に対する指標が $+1$ なら $\alpha=1$,$-1$ なら $\alpha=2$.
- 下付き $\beta$(g か u か):反転操作 $i$ に対する指標が $+1$ なら $\beta=\mathrm{g}$(gerade, ゲラーデ=偶),$-1$ なら $\beta=\mathrm{u}$(ungerade, ウンゲラーデ=奇).反転中心がない点群では付かない.
- 上付き $s$(プライム):$\sigma_h$ に対する指標が $+1$ なら $s=\prime$,$-1$ なら $s=\prime\prime$.$\sigma_h$ がない点群では付かない.
表12.6で確かめてみよう.$A_1$ と $A_2$ はともに $\chi(C_3)=1$ だから $A$ である.両者の区別は $\sigma_v$ の指標で,$+1$ が $A_1$,$-1$ が $A_2$ である.2次元表現なので $E$.$C_{3v}$ には反転中心も $\sigma_h$ もないので g/u もプライムも付かない.表12.7では $\chi(C_2)=+1$ が $A$,$-1$ が $B$ になっていることを確認してほしい.
例題12.5 $C_{3v}$ の $A_2$ 表現をもつ関数はあるか
解答.表12.6によれば $A_2$ の基底は $R_z$ である.すなわち $z$ 軸まわりの回転(角運動量 $L_z$,あるいは磁気モーメントの $z$ 成分)が $A_2$ に属する.座標の1次関数 $x,y,z$ の中には $A_2$ に属するものはなく,2次関数の中にもない.実は $A_2$ に属する最も低次の座標の多項式は $y(3x^2-y^2)$(3次)である.これを確かめよう.$\sigma_1$($y\to-y$)で $y(3x^2-y^2)\to -y(3x^2-y^2)$ となり符号が反転する($\chi=-1$).$C_3$ による変換は少し面倒だが,極座標で $x=r\cos\varphi$, $y=r\sin\varphi$ とおくと $y(3x^2-y^2)=r^3\sin3\varphi$ となり,$\varphi\to\varphi+120^\circ$ で $\sin(3\varphi+360^\circ)=\sin3\varphi$,つまり不変($\chi=+1$)である.確かに $(1,1,-1)$ となり $A_2$ に一致する.$f$ 軌道のひとつがこの形をもつため,NH$_3$ 型の配位子場では $f$ 軌道の分裂に $a_2$ が現れる.
12.7 大直交定理と既約分解
12.7.1 大直交定理と指標の直交定理
指標表がここまで強力な道具になるのは,既約表現の指標が「互いに直交するベクトル」をなしているからである.その根拠が大直交定理(Great Orthogonality Theorem, Wonderful Orthogonality Theorem)である.
定理:大直交定理
群 $\mathbb{G}$(オーダー $h$)の既約表現 $\Gamma_i$(次元 $l_i$)の表現行列の成分について,
$$ \begin{equation} \sum_{R\in\mathbb{G}} D^{(i)}_{mn}(R)^{*}\,D^{(j)}_{m'n'}(R) =\frac{h}{l_i}\,\delta_{ij}\,\delta_{mm'}\,\delta_{nn'} \label{eq:12-got} \end{equation} $$が成り立つ.ここで和は群のすべての元にわたる.
証明は長いので本書では割愛する(文献 3, 4 を参照).骨格だけ述べておくと,任意の行列 $X$ から $M=\sum_R D^{(i)}(R)^{-1}XD^{(j)}(R)$ という量を作ると,再配列定理(12.4.3項)によって $M$ が $D^{(i)}(S)M=MD^{(j)}(S)$ を満たすことが示せる.ここへSchurの補題(既約表現と可換な行列は単位行列の定数倍に限る)を適用すると,式 \eqref{eq:12-got} が出てくる.
式 \eqref{eq:12-got} は行列の成分ごとの関係であるが,化学で実際に使うのはそのトレースを取った形である.$m=n$,$m'=n'$ とおいて $m$ と $m'$ について和をとると,左辺は
$$ \sum_{m}\sum_{m'}\sum_{R}D^{(i)}_{mm}(R)^{*}D^{(j)}_{m'm'}(R) =\sum_R\left(\sum_m D^{(i)}_{mm}(R)\right)^{*}\left(\sum_{m'} D^{(j)}_{m'm'}(R)\right) =\sum_R \chi_i^{*}(R)\,\chi_j(R), $$右辺は $\delta_{mm'}$ のせいで $m=m'$ の項だけが残り,$m$ について $l_i$ 個の和になるから $\dfrac{h}{l_i}\delta_{ij}\cdot l_i=h\,\delta_{ij}$ となる.すなわち
これを指標の直交定理と呼ぶ.$h$ は群のオーダー(対称要素の数),$\delta_{ij}$ はKroneckerのデルタである.同じクラスの元は同じ指標をもつので,クラスごとにまとめて
$$ \begin{equation} \sum_{k}g_k\,\chi_i^{*}(C_k)\,\chi_j(C_k)=h\,\delta_{ij} \label{eq:12-char-orth-class} \end{equation} $$と書くこともできる($k$ はクラスの番号,$g_k$ はクラス $C_k$ に含まれる元の個数).
数学ノート:「大直交定理」と「指標の直交定理」は厳密には別物である
講義では両方まとめて「大直交定理」と呼ぶことが多いが,厳密には別の主張である.大直交定理 \eqref{eq:12-got} は表現行列の各成分 $D^{(i)}_{mn}(R)$ を $R$ の関数と見たとき,それらが $h$ 次元空間の直交ベクトルをなすという,より強い主張である(成分の総数 $\sum_i l_i^2$ が $h$ を超えられないことから,後述の次元定理 \eqref{eq:12-dim-sum} も導かれる).一方,指標の直交定理 \eqref{eq:12-char-orth} は,そのトレースを取って得られる弱い(しかし実用的な)系である.「大直交定理 $\Rightarrow$ 指標の直交定理」の向きにのみ矢印が引ける.以後,既約分解の計算で使うのはもっぱら \eqref{eq:12-char-orth} のほうである.本書では,講義の呼び名を尊重して両方を「大直交定理を用いる」と述べる場面があるが,実際に使っているのは指標の直交定理だと理解しておいてほしい.
例題12.6 $C_{3v}$ で指標の直交定理を確かめよ
解答.$\Gamma_1=A_1$, $\Gamma_2=A_2$, $\Gamma_3=E$ とし,$R=E,C_3,C_3^{-1},\sigma_1,\sigma_2,\sigma_3$ の6個すべてについて和をとる.指標はすべて実数なので複素共役は気にしなくてよい.
$\Gamma_i=\Gamma_j=E$ の場合:
$$ 2\cdot 2+(-1)\cdot(-1)+(-1)\cdot(-1)+0\cdot0+0\cdot0+0\cdot0=4+1+1=6=h\quad(\text{成立}) $$$\Gamma_i=A_1$, $\Gamma_j=E$ の場合:
$$ 1\cdot 2+1\cdot(-1)+1\cdot(-1)+1\cdot0+1\cdot0+1\cdot0=2-1-1=0\quad(\text{成立}) $$$\Gamma_i=A_1$, $\Gamma_j=A_2$ の場合:
$$ 1\cdot1+1\cdot1+1\cdot1+1\cdot(-1)+1\cdot(-1)+1\cdot(-1)=3-3=0\quad(\text{成立}) $$きちんと成立している.異なる既約表現の指標の積の和は $0$ になる——つまり互いに直交することが確かめられた.
指標の直交定理からは,指標表の形をきびしく縛る2つの規則が導かれる.
定理:指標表の2つの規則
(1) 次元定理:既約表現の次元の2乗和は群のオーダーに等しい.
$$ \begin{equation} \sum_i l_i^2=h \label{eq:12-dim-sum} \end{equation} $$(2) 既約表現の個数=クラスの個数.
$C_{3v}$ では $1^2+1^2+2^2=6=h$ ✓,既約表現3個・クラス3個 ✓.$C_{2v}$ では $1^2+1^2+1^2+1^2=4=h$ ✓,既約表現4個・クラス4個 ✓.この2つの規則を使えば,指標表を自力で組み立てることさえできる.
12.7.2 既約分解の公式
実際の応用でやりたいのは逆の操作である.分子軌道や振動モードから作った大きな可約表現 $\Gamma$(指標 $\chi(R)$)が与えられたとき,それが既約表現をいくつずつ含んでいるかを知りたい.$\Gamma$ が既約表現 $\Gamma_i$ を $n_i$ 個含むとすると,ブロック対角化された行列のトレースは各ブロックのトレースの和だから
$$ \begin{equation} \chi(R)=\sum_i n_i\,\chi_i(R) \label{eq:12-chi-expand} \end{equation} $$が成り立つ.両辺に $\chi_j^{*}(R)$ を掛けて $R$ について和をとると,右辺は式 \eqref{eq:12-char-orth} より
$$ \sum_R \chi_j^{*}(R)\chi(R)=\sum_i n_i\sum_R\chi_j^{*}(R)\chi_i(R)=\sum_i n_i\,h\,\delta_{ij}=h\,n_j $$となる.よって $n_j$ が求まる.
これが既約分解(reduction)の公式である.$g_k$ はクラスに属する対称要素の個数,$h$ は群のオーダー,$\chi_i$ は指標表から読む既約表現の指標,$\chi$ は自分で作った可約表現の指標である.本章の残りでは,この式を何度も使うことになる.
12.7.3 直積
2つの既約表現 $\Gamma_a$(次元 $l_a$)と $\Gamma_b$(次元 $l_b$)から,$l_a l_b$ 次元の新しい表現を作ることができる.基底として,$\Gamma_a$ の基底関数と $\Gamma_b$ の基底関数の積をすべて並べればよい.対応する表現行列はKronecker積
$$ \begin{equation} \bigl[D^{(a\otimes b)}(R)\bigr]_{(mm'),(nn')}=D^{(a)}_{mn}(R)\,D^{(b)}_{m'n'}(R) \label{eq:12-kron} \end{equation} $$で与えられ,これを直積(direct product)$\Gamma_a\otimes\Gamma_b$ と呼ぶ.
実例で見よう.$C_{3v}$ の $E$ 表現どうしの直積を,$\sigma_1$ について計算する.$D^{(E)}(\sigma_1)=\begin{pmatrix}1&0\\0&-1\end{pmatrix}$ だから
$$ D^{(E)}(\sigma_1)\otimes D^{(E)}(\sigma_1)= \begin{pmatrix} 1\cdot D^{(E)}(\sigma_1) & 0\cdot D^{(E)}(\sigma_1)\\ 0\cdot D^{(E)}(\sigma_1) & -1\cdot D^{(E)}(\sigma_1) \end{pmatrix} =\begin{pmatrix} 1&0&0&0\\ 0&-1&0&0\\ 0&0&-1&0\\ 0&0&0&1 \end{pmatrix} $$となる.同様に $C_3$ については,$D^{(E)}(C_3)=\begin{pmatrix}-\frac12&-\frac{\sqrt3}{2}\\ \frac{\sqrt3}{2}&-\frac12\end{pmatrix}$ の各成分に同じ行列を掛けて
$$ D^{(E)}(C_3)\otimes D^{(E)}(C_3)= \begin{pmatrix} \ \ \tfrac14 & \ \ \tfrac{\sqrt3}{4} & \ \ \tfrac{\sqrt3}{4} & \ \ \tfrac34\\[3pt] -\tfrac{\sqrt3}{4} & \ \ \tfrac14 & -\tfrac34 & \ \ \tfrac{\sqrt3}{4}\\[3pt] -\tfrac{\sqrt3}{4} & -\tfrac34 & \ \ \tfrac14 & \ \ \tfrac{\sqrt3}{4}\\[3pt] \ \ \tfrac34 & -\tfrac{\sqrt3}{4} & -\tfrac{\sqrt3}{4} & \ \ \tfrac14 \end{pmatrix} $$を得る.
ここで大事なのは,こんな $4\times4$ 行列をわざわざ書かなくても,直積表現の指標は元の指標の積で得られることである.実際,式 \eqref{eq:12-kron} で $m=n$, $m'=n'$ とおいて和をとれば
$$ \begin{equation} \chi_{a\otimes b}(R)=\chi_a(R)\,\chi_b(R) \label{eq:12-direct-product-char} \end{equation} $$である.上の2つの行列のトレースを取って確かめよう.$\sigma_1$ の場合は $1-1-1+1=0=0\times0$ ✓,$C_3$ の場合は $\tfrac14\times4=1=(-1)\times(-1)$ ✓.
例題12.7 $C_{3v}$ で $E\otimes E$ を既約分解せよ
解答.まず式 \eqref{eq:12-direct-product-char} で直積表現の指標を求める.表12.6の $E$ の行 $(2,-1,0)$ を2乗して
$$ \chi_{E\otimes E}=(2^2,\ (-1)^2,\ 0^2)=(4,\ 1,\ 0). $$次元は $2\times2=4$ で,$\chi(E)=4$ と一致している ✓.次に式 \eqref{eq:12-reduction} を使う.$h=6$,クラスの元の個数は $g_E=1$, $g_{C_3}=2$, $g_{\sigma_v}=3$ である.
$$ \begin{aligned} n(A_1)&=\frac16\bigl(1\cdot1\cdot4+2\cdot1\cdot1+3\cdot1\cdot0\bigr)=\frac16(4+2+0)=1,\\ n(A_2)&=\frac16\bigl(1\cdot1\cdot4+2\cdot1\cdot1+3\cdot(-1)\cdot0\bigr)=\frac16(4+2+0)=1,\\ n(E)&=\frac16\bigl(1\cdot2\cdot4+2\cdot(-1)\cdot1+3\cdot0\cdot0\bigr)=\frac16(8-2+0)=1 . \end{aligned} $$したがって
$$ \begin{equation} E\otimes E=A_1\oplus A_2\oplus E \label{eq:12-ee-decomp} \end{equation} $$である.次元も $1+1+2=4$ で合っている ✓.上に書いた $4\times4$ の直積行列は,基底をうまく取り替えれば $1+1+2$ のブロックに分かれる,ということである.
実物を見る:CrystOD で $E\otimes E$ の分解を確かめる
いまやったのは,指標を2乗して式 \eqref{eq:12-reduction} に放り込むだけの単純作業である.こういう作業こそ機械にやらせたい.CrystOD の crystod-group は,構造ファイルを一切必要とせず,点群の名前と既約表現の名前だけで直積分解を返してくれる.
$ crystod-group --product E E --pg 3m
--pg に渡した 3m は国際表記で,表12.2のとおり Schoenflies 記号の $C_{3v}$ にあたる.出力は次のとおりである.
* Point group * 3m * Direct product * E*E * Result * 1(A1) + 1(A2) + 1(E)
A1, A2, E はそれぞれ $A_1$, $A_2$, $E$ の ASCII 表記で,頭に付いた数字は何個含まれるかを表す.すなわち $E\otimes E=A_1\oplus A_2\oplus E$——式 \eqref{eq:12-ee-decomp} と完全に一致した ✓.
手計算は2段階に分かれていた.(i) 指標を掛け算して $\chi_{E\otimes E}=(4,1,0)$ を作る,(ii) 還元公式 \eqref{eq:12-reduction} でそれを既約表現に分ける,である.CrystOD は (ii) だけを単独で走らせることもできるので,つまずいたときにどちらの段階で間違えたのかを切り分けられる.
$ crystod-group --decompose --pg 3m --characters 4 1 0
* Point group * 3m * Reducible representation * 1E: 4 2C3: 1 3sgv: 0 * Result * 1(A1) + 1(A2) + 1(E)
クラスの見出し 1E, 2C3, 3sgv は「$E$ が1個」「$C_3$ が2個」「$\sigma_v$ が3個」の意味で,例題で使った $g_E=1$, $g_{C_3}=2$, $g_{\sigma_v}=3$ そのものである.したがってここで答えが合えば,還元公式の適用は正しかったことになる.
ついでに,指標表そのものも出せる.
$ crystod-group --table --pg 3m
* Point group *
3m
* IrRep Table *
table:
irrep E(1) C3(2) sgv(3)
A1 1 1 1
A2 1 1 -1
E 2 -1 0
表12.6の指標の部分がそのまま出てきた.なお --product は3個以上の既約表現も受け付ける.たとえば crystod-group --product E E E --pg 3m とすれば $E\otimes E\otimes E=A_1\oplus A_2\oplus 3E$(次元は $1+1+6=8=2^3$ ✓)が得られる.3つの直積は,次の12.8節で式 \eqref{eq:12-triple-product} として現れる形そのもので,「結合するかしないか」の判定にそのまま使う.
とはいえ,直積の既約分解は指標表さえあれば紙と鉛筆で必ずできる.一度は手で回してから機械に確かめさせるという順序は守りたい.機械は答えを返してくれるが,答えの意味までは返してくれないからである.
「これが何の役に立つのか」は,次節でいよいよ明らかになる.
定理:直積が全対称表現を含む条件
実表現の場合,直積 $\Gamma_a\otimes\Gamma_b$ が全対称表現($A_1$ や $A_{1g}$.すべての指標が $1$ の既約表現)を含むのは,$\Gamma_a$ と $\Gamma_b$ が同じ既約表現のときに限られ,そのとき含まれる個数はちょうど1個である.
証明.式 \eqref{eq:12-reduction} で $\Gamma_i$ を全対称表現($\chi_i(R)=1$)にとると
$$ n(A_1)=\frac1h\sum_R 1\cdot\chi_a(R)\chi_b(R)=\frac1h\sum_R\chi_a^{*}(R)\chi_b(R)=\delta_{ab} $$となる(実表現では $\chi_a^{*}=\chi_a$.最後の等号は指標の直交定理 \eqref{eq:12-char-orth}).$\blacksquare$
式 \eqref{eq:12-ee-decomp} を見返すと,確かに $E\otimes E$ には $A_1$ が1個だけ含まれている.一方,たとえば $A_1\otimes E$ の指標は $(1\cdot2,\ 1\cdot(-1),\ 1\cdot0)=(2,-1,0)$ で,これは $E$ そのものだから $A_1$ を含まない.この単純な事実が,次節で「結合するかしないか」の判定条件になる.
12.8 なぜ対称性で結合の有無が分かるのか
12.8.1 関数の内積が消える条件 — sin と cos の例
群論は本当に抽象的になりがちなので,まず誰もが知っている積分で「対称性が積分を殺す」しくみを見ておこう.関数 $f(x)=\sin x$,$g(x)=\cos x$ を,$-\pi\le x\le\pi$ の区間で積分(=関数の内積)してみる.
$$ \begin{align} \braket{f|g}&=\int_{-\pi}^{\pi}f\cdot g\,\dd x=\int_{-\pi}^{\pi}\sin x\cos x\,\dd x =\left[\frac12\sin^2 x\right]_{-\pi}^{\pi}=\frac12\bigl(\sin^2\pi-\sin^2(-\pi)\bigr)=0, \label{eq:12-sincos-fg}\\[4pt] \braket{f|f}&=\int_{-\pi}^{\pi}\sin^2 x\,\dd x=\int_{-\pi}^{\pi}\frac{1-\cos 2x}{2}\,\dd x =\frac12\left[x-\frac{\sin 2x}{2}\right]_{-\pi}^{\pi}=\frac12\cdot 2\pi=\pi, \label{eq:12-sincos-ff}\\[4pt] \braket{g|g}&=\int_{-\pi}^{\pi}\cos^2 x\,\dd x=\int_{-\pi}^{\pi}\frac{1+\cos 2x}{2}\,\dd x =\frac12\left[x+\frac{\sin 2x}{2}\right]_{-\pi}^{\pi}=\frac12\cdot 2\pi=\pi . \label{eq:12-sincos-gg} \end{align} $$ここでは倍角の公式 $\sin^2x=\frac{1-\cos2x}{2}$,$\cos^2x=\frac{1+\cos2x}{2}$ を使い,$\sin(\pm2\pi)=0$ を用いた.$\braket{f|g}$ だけがゼロになる.
この結果を,いちいち積分せずに予言できないだろうか.ここで1次元の「反転」$x\to-x$ だけからなる群 $\bar 1$($=C_i=\{E,i\}$)を考える.この群の指標表はごく単純である.
| $\bar 1$ | $E$ | $i$ | 基底の例 |
|---|---|---|---|
| $A_\mathrm{g}$ | $1$ | $1$ | $\cos x$(偶関数) |
| $A_\mathrm{u}$ | $1$ | $-1$ | $\sin x$(奇関数) |
| $A_\mathrm{g}\otimes A_\mathrm{u}$ | $1$ | $-1$ | $=A_\mathrm{u}$ |
グラフの形($F(x)\to F(-x)$)から,それぞれの関数の対称性が読める.
- $\cos(-x)=\cos x$:偶関数.反転操作で符号が変わらない=反転対称性あり.指標は $(1,1)$ で既約表現 $A_\mathrm{g}$(gerade).
- $\sin(-x)=-\sin x$:奇関数.反転操作で符号が反転する=反転対称性なし.指標は $(1,-1)$ で既約表現 $A_\mathrm{u}$(ungerade).
注意:gerade と ungerade の対応を取り違えないこと
gerade(ゲラーデ)はドイツ語で「偶数の」,ungerade(ウンゲラーデ)は「奇数の」という意味である.したがって偶関数の $\cos$ が $A_\mathrm{g}$,奇関数の $\sin$ が $A_\mathrm{u}$ である.
さて,内積の被積分関数 $f\cdot g$ の対称性は,直積 \eqref{eq:12-direct-product-char} で決まる.表12.8の3行目に書いたとおり
$$ A_\mathrm{g}\otimes A_\mathrm{u}=A_\mathrm{u}\ (\text{内積 zero}),\qquad A_\mathrm{u}\otimes A_\mathrm{u}=A_\mathrm{g}\ (\text{内積 non-zero}),\qquad A_\mathrm{g}\otimes A_\mathrm{g}=A_\mathrm{g}\ (\text{内積 non-zero}) $$である.これが式 \eqref{eq:12-sincos-fg}〜\eqref{eq:12-sincos-gg} の結果と完璧に一致している.違う既約表現をもつ関数の内積は0になるのである.
定理:積分が消えるための対称性条件
対称操作の群 $\mathbb{G}$ で不変な領域にわたる積分 $\displaystyle\int F(\bm{r})\,\dd^3r$ は,被積分関数 $F$ の属する表現 $\Gamma_F$ が全対称表現を含まないかぎり,必ずゼロになる.
証明の考え方.積分の値は座標系の取り替えで変わらないから,$\int F\,\dd^3r=\int (\hat R F)\,\dd^3r$ がすべての $R\in\mathbb{G}$ について成り立つ.したがって
$$ \int F\,\dd^3 r=\frac1h\sum_{R}\int (\hat R F)\,\dd^3 r=\int \left(\frac1h\sum_R \hat R F\right)\dd^3 r $$と書ける.丸括弧の中は $F$ の「全対称成分だけを取り出す射影演算子」であり,$F$ が全対称成分をもたなければこれはゼロになる.$\blacksquare$
12.8.2 ハミルトニアンは全対称表現に属する
いよいよ化学の話に入る.第11章で見たとおり,原子A・原子Bの原子軌道を $\phi_A$, $\phi_B$ とすると,両者が共有結合をつくるかどうかは共鳴積分
$$ \begin{equation} \beta=\bra{\phi_A}\Ham\ket{\phi_B}=\int \phi_A^{*}(\bm{r})\,\Ham\,\phi_B(\bm{r})\,\dd^3 r \label{eq:12-resonance} \end{equation} $$がゼロかどうかで決まる.第11章の結果を復習すると
- $\bra{\phi_A}\Ham\ket{\phi_B}\lt 0$:結合性軌道が形成される(エネルギーが下がる)
- $\bra{\phi_A}\Ham\ket{\phi_B}\gt 0$:反結合性軌道が形成される
- $\bra{\phi_A}\Ham\ket{\phi_B}=0$:共有結合が形成されない(非結合性軌道)
である.この共鳴積分がゼロになるか,ゼロにならないかは,実は積分を1回も実行せずに対称性だけから判断できる.
式 \eqref{eq:12-resonance} の被積分関数は3つの部品の積である.したがってその対称性は
$$ \begin{equation} \Gamma_{\phi_A}\otimes\Gamma_{\Ham}\otimes\Gamma_{\phi_B} \label{eq:12-triple-product} \end{equation} $$で与えられる.ここで真ん中の $\Gamma_{\Ham}$ が問題になるが,これはすぐに決まる.
物理的意味:$\Ham$ はどんな対称操作でも変わってはならない
ハミルトニアン $\Ham$ は,分子の全エネルギーを与える演算子である.対称操作 $\hat R$ とは「操作したあとの分子が操作前と見分けがつかない」ような操作だったのだから,操作の前後で全エネルギーが変わっては困る.つまり
$$ \begin{equation} \hat R\,\Ham\,\hat R^{-1}=\Ham\qquad\text{すなわち}\qquad [\hat R,\Ham]=0 \label{eq:12-ham-invariance} \end{equation} $$である.どんな対称操作でも $\Ham$ は不変であるから,$\Ham$ は全対称表現($A_1$,反転中心があれば $A_{1g}$)に属する.指標はすべての操作について $1$ である.
全対称表現との直積は相手を変えない($\chi_{A_1}(R)\chi_a(R)=1\cdot\chi_a(R)=\chi_a(R)$)ので,式 \eqref{eq:12-triple-product} は
$$ \begin{equation} \Gamma_{\phi_A}\otimes\Gamma_{\Ham}\otimes\Gamma_{\phi_B}=\Gamma_{\phi_A}\otimes\Gamma_{\phi_B} \label{eq:12-triple-reduce} \end{equation} $$と簡単になる.あとは12.8.1項の定理を適用すればよい.
$\Gamma_{\phi_A}\otimes\Gamma_{\phi_B}$ に全対称表現が含まれれば,$\bra{\phi_A}\Ham\ket{\phi_B}\neq 0$ となる!
$$ \begin{equation} \bra{\phi_A}\Ham\ket{\phi_B}\neq 0 \iff \Gamma_{\phi_A}\otimes\Gamma_{\phi_B}\supset A_1 \iff \Gamma_{\phi_A}=\Gamma_{\phi_B} \label{eq:12-selection} \end{equation} $$最後の同値は12.7.3項の定理による.結論はきわめて単純である.
定理:軌道が混成する条件
同じ既約表現に属する軌道どうしだけが混成する.違う既約表現に属する軌道は,たとえ空間的に重なっていても,共鳴積分がぴったりゼロになり,まったく相互作用しない.
なぜ?:重なっているのに結合しない,ということが起こるのか
起こる.典型例は,第11章でも触れた「$s$ 軌道と $p_x$ 軌道が $x$ 軸に垂直な方向で向かい合う」配置である.$p_x$ 軌道は左右で符号が逆なので,$s$ 軌道との重なり積分は左半分と右半分でちょうど打ち消し合ってゼロになる.群論の言葉では「$s$ は $A_1$,$p_x$ は $B_1$(あるいは $E$)で,既約表現が違うから混ざらない」と言えばそれで終わりである.符号の打ち消しを毎回積分で確かめる必要がなくなる——これが群論の実用的なご利益である.
12.8.3 例:NH$_3$ の分子軌道ダイアグラム
12.1節の冒頭に出したNH$_3$の分子軌道図を,ここで実際に作ってみよう.NH$_3$ は $C_{3v}$ なので,表12.6を使う.
手順1:中心原子Nの原子軌道を分類する.表12.6の基底の欄を読むだけでよい.
- N $2s$:球対称なのですべての操作で不変 → $A_1$
- N $2p_z$:$z$ が基底の $A_1$
- N $2p_x$, N $2p_y$:$(x,y)$ が基底の $E$(2重縮退)
手順2:3個のH $1s$ 軌道からなる可約表現を作る.3個の水素の $1s$ 軌道 $\phi_{\mathrm{H}1},\phi_{\mathrm{H}2},\phi_{\mathrm{H}3}$ を基底にとる.対称操作を施すと,これらは互いに入れ替わる.入れ替えを表す行列(置換行列)の対角成分は,「その原子が動かなかったとき $1$,動いたとき $0$」である.したがって
数学ノート:置換行列のトレースは「動かない原子の数」
$n$ 個の等価な原子上の軌道を基底にとると,対称操作 $R$ の表現行列は各行・各列にちょうど1個の $1$ をもつ置換行列になる.対角成分 $D_{jj}(R)$ が $1$ になるのは,$j$ 番目の原子が $R$ で自分自身に移るときだけである.よって
$$ \begin{equation} \chi(R)=(\text{操作 } R \text{ で動かない原子の個数}) \label{eq:12-unmoved} \end{equation} $$となる.可約表現の指標を求めるのに,行列を書く必要すらない.ただ動かない原子を数えればよい.
数えてみよう.$E$ ではもちろん3個すべて動かない.$C_3$ では3個のHがぐるりと入れ替わるので,動かないHは0個.$\sigma_v$ はそれぞれ1個のHを通る面なので,動かないHは1個.よって
$$ \Gamma_{\mathrm{H}_3}=(3,\ 0,\ 1)\qquad (E,\ 2C_3,\ 3\sigma_v) $$である.
例題12.8 $\Gamma_{\mathrm{H}_3}$ を既約分解せよ
解答.式 \eqref{eq:12-reduction} に $h=6$,$(g_E,g_{C_3},g_{\sigma_v})=(1,2,3)$,$\chi=(3,0,1)$ を代入する.
$$ \begin{aligned} n(A_1)&=\frac16\bigl(1\cdot1\cdot3+2\cdot1\cdot0+3\cdot1\cdot1\bigr)=\frac16(3+0+3)=1,\\ n(A_2)&=\frac16\bigl(1\cdot1\cdot3+2\cdot1\cdot0+3\cdot(-1)\cdot1\bigr)=\frac16(3+0-3)=0,\\ n(E)&=\frac16\bigl(1\cdot2\cdot3+2\cdot(-1)\cdot0+3\cdot0\cdot1\bigr)=\frac16(6+0+0)=1 . \end{aligned} $$よって $\Gamma_{\mathrm{H}_3}=A_1\oplus E$(次元 $1+2=3$ ✓)である.3個のH $1s$ 軌道は,対称性の目で見ると「全部同符号の $a_1$ 型が1個」と「二重縮退した $e$ 型が2個」に組み替えられる.この組み合わせを対称適合線形結合(symmetry-adapted linear combination, SALC)あるいは群軌道と呼ぶ.
手順3:同じ既約表現どうしを結ぶ.式 \eqref{eq:12-selection} により,混ざるのは同じラベルの相手だけである.
- $a_1$ 系列:N $2s$,N $2p_z$,H$_3$ の $a_1$ SALC の3つが混ざり,3本の $a_1$ 分子軌道($1a_1$, $2a_1$, $3a_1$)ができる.
- $e$ 系列:N $(2p_x,2p_y)$ と H$_3$ の $e$ SALC が混ざり,結合性の $1e$ と反結合性の $2e$(それぞれ2重縮退)ができる.
- $a_1$ と $e$ の間には相互作用がない($A_1\otimes E=E$ で全対称表現を含まない).
価電子は N から5個,H から3個の計8個.エネルギーの低い順に $1a_1^2\,1e^4\,2a_1^2$ と詰まり,$2a_1$ が窒素の孤立電子対(lone pair)に対応する.これは12.1節で紹介した無機化学の教科書の分子軌道図とぴたり一致する.計算を1回もせずに,分子の形だけからここまで導けたのである.
12.9 応用1:$d$ 軌道の結晶場分裂
12.9.1 問題設定
八面体配位の遷移金属錯体を考える.中心に $d$ 電子をもつ遷移金属イオンがあり,その周りの $x,y,z$ 軸の正負6方向に配位子(酸素イオンなど)が並んでいる.ペロブスカイト型酸化物の BO$_6$ 八面体もこの形である.孤立した原子では $d$ 軌道は5重に縮退しているが,八面体場に置かれると縮退が解ける.どのように5重縮退が外れるかを,群論だけで導こう.
12.9.2 $d$ 軌道の可約表現をつくる
八面体配位の点群は $m\bar 3m$($O_h$)である.$O_h$ は $O$($432$)に反転操作を付け加えたもの($O_h=O\otimes\{E,i\}$)なので,まず反転を考えずに $O$ で計算し,あとから g/u を付け足すのが手軽である.$O$ の指標表を表12.9に示す.
| $O$ | $E$ | $8C_3$ | $3C_2$ | $6C_4$ | $6C_2'$ | 基底関数 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| $A_1$ | $1$ | $1$ | $1$ | $1$ | $1$ | $x^2+y^2+z^2\ (=r^2)$ |
| $A_2$ | $1$ | $1$ | $1$ | $-1$ | $-1$ | — |
| $E$ | $2$ | $-1$ | $2$ | $0$ | $0$ | $(3z^2-r^2,\ x^2-y^2)$ |
| $T_1$ | $3$ | $0$ | $-1$ | $1$ | $-1$ | $(x,y,z),\ (R_x,R_y,R_z)$ |
| $T_2$ | $3$ | $0$ | $-1$ | $-1$ | $1$ | $(xy,\ yz,\ zx)$ |
| $\Gamma_d$ | $5$ | $-1$ | $1$ | $-1$ | $1$ | $d$ 軌道5個(可約) |
$\Gamma_d$ の行はどうやって求めたのか.5個の $d$ 軌道($l=2$)を基底にとったときの,回転操作の指標を計算すればよい.
導出:角運動量 $l$ の軌道に対する回転の指標
球面調和関数 $Y_l^m(\theta,\varphi)$ は $\varphi$ 依存性が $e^{im\varphi}$ である.$z$ 軸まわりに角 $\alpha$ だけ回転する操作 $\hat R(\alpha)$ を施すと $\varphi\to\varphi-\alpha$ となるので
$$ \hat R(\alpha)\,Y_l^m=e^{-im\alpha}\,Y_l^m $$である.つまり基底 $\{Y_l^{-l},\dots,Y_l^{l}\}$ に対する表現行列は対角行列 $\mathrm{diag}(e^{il\alpha},\dots,e^{-il\alpha})$ となり,その指標は等比数列の和
$$ \begin{equation} \chi_l(\alpha)=\sum_{m=-l}^{l}e^{-im\alpha} =\frac{\sin\left[\left(l+\tfrac12\right)\alpha\right]}{\sin(\alpha/2)} \label{eq:12-chi-l} \end{equation} $$になる.実際,初項 $e^{il\alpha}$,公比 $e^{-i\alpha}$,項数 $2l+1$ の等比数列の和は $\dfrac{e^{il\alpha}-e^{-i(l+1)\alpha}}{1-e^{-i\alpha}}$ であり,分子分母を $e^{-i\alpha/2}$ で割ると $\dfrac{e^{i(l+1/2)\alpha}-e^{-i(l+1/2)\alpha}}{e^{i\alpha/2}-e^{-i\alpha/2}}=\dfrac{\sin[(l+\frac12)\alpha]}{\sin(\alpha/2)}$ を得る.
$l=2$ の場合は,$e^{-im\alpha}$ と $e^{+im\alpha}$ をペアにして $2\cos m\alpha$ とまとめると,もっと簡単に
$$ \begin{equation} \chi_d(\alpha)=1+2\cos\alpha+2\cos 2\alpha \label{eq:12-chi-d} \end{equation} $$と書ける.これを使えば暗算できる.
式 \eqref{eq:12-chi-d} に各回転角を代入しよう.
$$ \begin{aligned} \chi_d(E)&=\chi_d(0^\circ)=1+2+2=5,\\ \chi_d(C_3)&=\chi_d(120^\circ)=1+2\left(-\tfrac12\right)+2\left(-\tfrac12\right)=1-1-1=-1,\\ \chi_d(C_2)&=\chi_d(180^\circ)=1+2(-1)+2(1)=1-2+2=1,\\ \chi_d(C_4)&=\chi_d(90^\circ)=1+2(0)+2(-1)=1+0-2=-1,\\ \chi_d(C_2')&=\chi_d(180^\circ)=1 . \end{aligned} $$ここで $\cos120^\circ=-\frac12$, $\cos240^\circ=-\frac12$, $\cos180^\circ=-1$, $\cos360^\circ=1$, $\cos90^\circ=0$, $\cos180^\circ=-1$ を用いた.よって表12.9の最下行 $\Gamma_d=(5,-1,1,-1,1)$ が得られる.
12.9.3 既約分解 — $\Gamma_d=E_g\oplus T_{2g}$
式 \eqref{eq:12-reduction} に $h=24$,$(g_k)=(1,8,3,6,6)$,$\chi=(5,-1,1,-1,1)$ を代入する.途中を省かずに書く.
$$ \begin{aligned} n(A_1)&=\frac{1}{24}\bigl(1\cdot1\cdot5+8\cdot1\cdot(-1)+3\cdot1\cdot1+6\cdot1\cdot(-1)+6\cdot1\cdot1\bigr)\\ &=\frac{1}{24}(5-8+3-6+6)=\frac{0}{24}=0,\\[4pt] n(A_2)&=\frac{1}{24}\bigl(5+8\cdot1\cdot(-1)+3\cdot1\cdot1+6\cdot(-1)\cdot(-1)+6\cdot(-1)\cdot1\bigr)\\ &=\frac{1}{24}(5-8+3+6-6)=\frac{0}{24}=0,\\[4pt] n(E)&=\frac{1}{24}\bigl(1\cdot2\cdot5+8\cdot(-1)\cdot(-1)+3\cdot2\cdot1+6\cdot0\cdot(-1)+6\cdot0\cdot1\bigr)\\ &=\frac{1}{24}(10+8+6-0+0)=\frac{24}{24}=1,\\[4pt] n(T_1)&=\frac{1}{24}\bigl(1\cdot3\cdot5+8\cdot0\cdot(-1)+3\cdot(-1)\cdot1+6\cdot1\cdot(-1)+6\cdot(-1)\cdot1\bigr)\\ &=\frac{1}{24}(15+0-3-6-6)=\frac{0}{24}=0,\\[4pt] n(T_2)&=\frac{1}{24}\bigl(1\cdot3\cdot5+8\cdot0\cdot(-1)+3\cdot(-1)\cdot1+6\cdot(-1)\cdot(-1)+6\cdot1\cdot1\bigr)\\ &=\frac{1}{24}(15+0-3+6+6)=\frac{24}{24}=1 . \end{aligned} $$したがって $\Gamma_d=E\oplus T_2$(次元 $2+3=5$ ✓)である.ここまでは反転対称性を考えずに計算したが,$d$ 軌道は $l=2$ の偶パリティ($Y_2^m(-\bm{r})=Y_2^m(\bm{r})$)なので,反転操作の指標は $+1$,すなわち gerade である.したがって $O_h$ の記号では
と分解できる.これが $d$ 軌道の結晶場分裂である.5重縮退が,2重縮退の $e_g$ と3重縮退の $t_{2g}$ に分かれた.
12.9.4 なぜ $e_g$ のほうが高いのか
群論は「5重縮退が $2+3$ に分かれる」ところまでしか教えてくれない.どちらが上でどちらが下かは,軌道の形と静電相互作用から判断する.表12.9の基底関数の欄を見ると
- $e_g$:$(3z^2-r^2,\ x^2-y^2)$ すなわち $d_{z^2}$ と $d_{x^2-y^2}$
- $t_{2g}$:$(xy,\ yz,\ zx)$ すなわち $d_{xy}$, $d_{yz}$, $d_{zx}$
である.図12.5をもう一度見てほしい.$e_g$ の2つの軌道は座標軸上にローブが伸びており,そこにはちょうど配位子の負電荷(酸化物イオンなど)が座っている.電子と配位子の負電荷どうしは強く反発するので,$e_g$ 軌道に入った電子はエネルギーが高くなる.一方,$t_{2g}$ の3つの軌道は座標軸の間にローブが伸びており,配位子を避けている.だからエネルギーが低い.
数学ノート:重心の保存(barycentre rule)
結晶場は電子と配位子の静電相互作用の「向きによる偏り」だけを表すので,5つの準位のエネルギーの平均(重心)は変わらない.$e_g$ が $+x$,$t_{2g}$ が $-y$ だけずれるとすると,$2x-3y=0$ かつ $x+y=\Delta_o$ である.第1式より $y=\frac23 x$,これを第2式に入れて $x+\frac23x=\frac53x=\Delta_o$,すなわち $x=\frac35\Delta_o$,$y=\frac25\Delta_o$ を得る.配位子場理論や分光学では $\Delta_o=10Dq$ と書く習慣があり,そのとき $e_g$ は $+6Dq$,$t_{2g}$ は $-4Dq$ である.
例題12.9 $d^6$ イオンの高スピン配置と低スピン配置
解答.Fe$^{2+}$($d^6$)を例にとる.第9章で学んだとおり,平行スピンの電子どうしには交換エネルギーによる安定化が働き(Hundの規則),同じ軌道に2個詰めるにはクーロン反発(対形成エネルギー $P$)を払わねばならない.
高スピン($\Delta_o\lt P$,弱い配位子場):$t_{2g}^4 e_g^2$ となり,$S=2$(不対電子4個).配位子場安定化エネルギー(CFSE)は $4\times(-\tfrac25\Delta_o)+2\times(+\tfrac35\Delta_o)=-\tfrac85\Delta_o+\tfrac65\Delta_o=-\tfrac25\Delta_o$.
低スピン($\Delta_o\gt P$,強い配位子場):$t_{2g}^6 e_g^0$ となり,$S=0$(不対電子0個).CFSE は $6\times(-\tfrac25\Delta_o)=-\tfrac{12}{5}\Delta_o$ で,これに対形成のコスト $2P$ が加わる.
どちらになるかは $\Delta_o$ と $P$ の大小で決まる.配位子が I$^-$ や Br$^-$ のように弱い場合は高スピン,CN$^-$ や CO のように強い場合は低スピンになる.スピン状態が変わると磁性も色も変わる——結晶場分裂という一枚の図から,磁化率測定や吸収スペクトルの結果が説明できるのである.
物理的意味:正四面体場では上下が逆転する
同じ計算を正四面体配位($T_d$)で行うと,$\Gamma_d=E\oplus T_2$ という分解自体は変わらないが($T_d$ と $O$ は同じ型の群である),準位の上下が逆転して $t_2$ が上,$e$ が下になる.正四面体では配位子が座標軸の間の方向(立方体の頂点方向)にあるため,軸間を向く $t_2$ 軌道のほうが配位子に近づくからである.また,配位子の数が6個から4個に減り距離も変わるため,分裂幅は小さく $\Delta_t\approx\frac49\Delta_o$ となる.$\Delta_t$ が小さいので,四面体錯体はほとんどつねに高スピンである.$T_d$ には反転中心がないので g/u の添字は付かない($e$, $t_2$ と書く)ことにも注意してほしい.
12.10 応用2:CH$_4$ の分子軌道
12.10.1 中心炭素の軌道の分類
例題12.2で見たとおり,メタン CH$_4$ は点群 $T_d$($\bar 4 3m$)に支配されている.$T_d$ の指標表を表12.10に示す.$O$ と同じく $h=24$ で,既約表現の顔ぶれ($A_1,A_2,E,T_1,T_2$)も同じである.違うのは,$O$ の $6C_4$ と $6C_2'$ の位置に $T_d$ では $6S_4$ と $6\sigma_d$ が入っている点である.
| $T_d$ | $E$ | $8C_3$ $3_{\langle111\rangle}$ | $3C_2$ $2_{\langle100\rangle}$ | $6S_4$ $\bar4_{\langle100\rangle}$ | $6\sigma_d$ $m_{\{110\}}$ | 基底関数 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| $A_1$ | $1$ | $1$ | $1$ | $1$ | $1$ | $x^2+y^2+z^2$ |
| $A_2$ | $1$ | $1$ | $1$ | $-1$ | $-1$ | — |
| $E$ | $2$ | $-1$ | $2$ | $0$ | $0$ | $(3z^2-r^2,\ x^2-y^2)$ |
| $T_1$ | $3$ | $0$ | $-1$ | $1$ | $-1$ | $(R_x,R_y,R_z)$ |
| $T_2$ | $3$ | $0$ | $-1$ | $-1$ | $1$ | $(x,y,z),\ (xy,yz,zx)$ |
| $\Gamma_{\mathrm{H}_4}$ | $4$ | $1$ | $0$ | $0$ | $2$ | H $1s$ 4個(可約) |
まず,化学結合が形成される前の中心炭素の価電子軌道を分類する.表12.10の基底関数の欄を読むだけでよい.
- C $2s$:球対称なのですべての操作で不変 → 既約表現 $A_1$
- C $2p_x$, $2p_y$, $2p_z$:$(x,y,z)$ が基底の → 既約表現 $T_2$(3重縮退のまま)
ならば,化学結合が形成される前の H$_4$「分子」の $1s$ 状態($1s$ 軌道が4つ)はどのような状態になるのか? 可約表現を $\Gamma_{\mathrm{H}_4}$ と置いて,本質を抜き出してみよう.
12.10.2 H$_4$ の可約表現 — 各操作でどのHが動かないか
4個の水素の $1s$ 軌道 $(\phi_{\mathrm{H}1},\phi_{\mathrm{H}2},\phi_{\mathrm{H}3},\phi_{\mathrm{H}4})$ を基底にとり,対称操作を施したときの入れ替わりを追う.水素の位置は,立方体の頂点を1つおきに取ったもの,すなわち $\mathrm{H}_1(1,1,1)$, $\mathrm{H}_2(1,-1,-1)$, $\mathrm{H}_3(-1,1,-1)$, $\mathrm{H}_4(-1,-1,1)$ にとる(炭素は原点).
恒等操作 $E$,回転操作 $C_3$, $C_2$.$C_3$ は $\mathrm{H}_1$ を通る $\langle111\rangle$ 軸まわりの $120^\circ$ 回転,$C_2$ は $z$ 軸まわりの $180^\circ$ 回転とする.
$$ \begin{pmatrix}\phi_{\mathrm{H}1}\\ \phi_{\mathrm{H}2}\\ \phi_{\mathrm{H}3}\\ \phi_{\mathrm{H}4}\end{pmatrix} \ \xrightarrow{\ E\ }\ \begin{pmatrix}\phi_{\mathrm{H}1}\\ \phi_{\mathrm{H}2}\\ \phi_{\mathrm{H}3}\\ \phi_{\mathrm{H}4}\end{pmatrix}, \qquad \begin{pmatrix}\phi_{\mathrm{H}1}\\ \phi_{\mathrm{H}2}\\ \phi_{\mathrm{H}3}\\ \phi_{\mathrm{H}4}\end{pmatrix} \ \xrightarrow{\ C_3\ }\ \begin{pmatrix}\phi_{\mathrm{H}1}\\ \phi_{\mathrm{H}4}\\ \phi_{\mathrm{H}2}\\ \phi_{\mathrm{H}3}\end{pmatrix}, \qquad \begin{pmatrix}\phi_{\mathrm{H}1}\\ \phi_{\mathrm{H}2}\\ \phi_{\mathrm{H}3}\\ \phi_{\mathrm{H}4}\end{pmatrix} \ \xrightarrow{\ C_2\ }\ \begin{pmatrix}\phi_{\mathrm{H}4}\\ \phi_{\mathrm{H}3}\\ \phi_{\mathrm{H}2}\\ \phi_{\mathrm{H}1}\end{pmatrix} $$と変換される.この波動関数(ベクトル)を変換させる行列を書き下すと
$$ D(E)=\begin{pmatrix}1&0&0&0\\ 0&1&0&0\\ 0&0&1&0\\ 0&0&0&1\end{pmatrix},\quad D(C_3)=\begin{pmatrix}1&0&0&0\\ 0&0&0&1\\ 0&1&0&0\\ 0&0&1&0\end{pmatrix},\quad D(C_2)=\begin{pmatrix}0&0&0&1\\ 0&0&1&0\\ 0&1&0&0\\ 1&0&0&0\end{pmatrix} $$となる.対角成分を拾うと $\chi(E)=1+1+1+1=4$,$\chi(C_3)=1+0+0+0=1$,$\chi(C_2)=0+0+0+0=0$ である.式 \eqref{eq:12-unmoved} のとおり,動かない原子の数を数えただけの結果になっている.$C_3$ 軸は $\mathrm{H}_1$ を貫いているので $\mathrm{H}_1$ だけが動かず $\chi=1$,$C_2$ 軸($z$ 軸)はどのHも貫いていないので $\chi=0$ である.
回映操作 $S_4$,鏡映操作 $\sigma_d$.$S_4$ は $z$ 軸まわりに $90^\circ$ 回転したのち $xy$ 面で鏡映する操作,$\sigma_d$ は $\{110\}$ 面(ここでは $\mathrm{H}_1$ と $\mathrm{H}_2$ を含む面)での鏡映である.
$$ \begin{pmatrix}\phi_{\mathrm{H}1}\\ \phi_{\mathrm{H}2}\\ \phi_{\mathrm{H}3}\\ \phi_{\mathrm{H}4}\end{pmatrix} \ \xrightarrow{\ S_4\ }\ \begin{pmatrix}\phi_{\mathrm{H}2}\\ \phi_{\mathrm{H}4}\\ \phi_{\mathrm{H}1}\\ \phi_{\mathrm{H}3}\end{pmatrix}, \qquad \begin{pmatrix}\phi_{\mathrm{H}1}\\ \phi_{\mathrm{H}2}\\ \phi_{\mathrm{H}3}\\ \phi_{\mathrm{H}4}\end{pmatrix} \ \xrightarrow{\ \sigma_d\ }\ \begin{pmatrix}\phi_{\mathrm{H}1}\\ \phi_{\mathrm{H}2}\\ \phi_{\mathrm{H}4}\\ \phi_{\mathrm{H}3}\end{pmatrix} $$ $$ D(S_4)=\begin{pmatrix}0&1&0&0\\ 0&0&0&1\\ 1&0&0&0\\ 0&0&1&0\end{pmatrix},\qquad D(\sigma_d)=\begin{pmatrix}1&0&0&0\\ 0&1&0&0\\ 0&0&0&1\\ 0&0&1&0\end{pmatrix} $$トレースは $\chi(S_4)=0$(どのHも動かないままではいられない),$\chi(\sigma_d)=1+1+0+0=2$(鏡映面に乗っている2個のHは動かない)である.
これでようやく,化学結合が形成される前の H$_4$ の $1s$ 状態の可約表現の指標がすべて揃った.
$$ \begin{equation} \Gamma_{\mathrm{H}_4}=(4,\ 1,\ 0,\ 0,\ 2)\qquad (E,\ 8C_3,\ 3C_2,\ 6S_4,\ 6\sigma_d) \label{eq:12-gamma-h4-char} \end{equation} $$12.10.3 既約分解
式 \eqref{eq:12-reduction} に $h=24$,$(g_k)=(1,8,3,6,6)$,$\chi=(4,1,0,0,2)$ を代入する.$3C_2$ と $6S_4$ の項は $\chi=0$ なので消える.
$$ \begin{aligned} n(A_1)&=\frac{1}{24}\bigl(1\cdot1\cdot4+8\cdot1\cdot1+0+0+6\cdot1\cdot2\bigr)=\frac{1}{24}(4+8+12)=\frac{24}{24}=1,\\[3pt] n(A_2)&=\frac{1}{24}\bigl(1\cdot1\cdot4+8\cdot1\cdot1+0+0+6\cdot(-1)\cdot2\bigr)=\frac{1}{24}(4+8-12)=\frac{0}{24}=0,\\[3pt] n(E)&=\frac{1}{24}\bigl(1\cdot2\cdot4+8\cdot(-1)\cdot1+0+0+6\cdot0\cdot2\bigr)=\frac{1}{24}(8-8+0)=\frac{0}{24}=0,\\[3pt] n(T_1)&=\frac{1}{24}\bigl(1\cdot3\cdot4+8\cdot0\cdot1+0+0+6\cdot(-1)\cdot2\bigr)=\frac{1}{24}(12+0-12)=\frac{0}{24}=0,\\[3pt] n(T_2)&=\frac{1}{24}\bigl(1\cdot3\cdot4+8\cdot0\cdot1+0+0+6\cdot1\cdot2\bigr)=\frac{1}{24}(12+0+12)=\frac{24}{24}=1 . \end{aligned} $$次元も $1+3=4$ で合っている.4個のH $1s$ 軌道は,対称性の目で見ると「全部同符号の $a_1$ 型が1個」と「三重縮退した $t_2$ 型が3個」に組み替えられる.具体的な形は
$$ \begin{equation} \begin{aligned} a_1&=\tfrac12(\phi_{\mathrm{H}1}+\phi_{\mathrm{H}2}+\phi_{\mathrm{H}3}+\phi_{\mathrm{H}4}),\\ t_2(x)&=\tfrac12(\phi_{\mathrm{H}1}+\phi_{\mathrm{H}2}-\phi_{\mathrm{H}3}-\phi_{\mathrm{H}4}),\\ t_2(y)&=\tfrac12(\phi_{\mathrm{H}1}-\phi_{\mathrm{H}2}+\phi_{\mathrm{H}3}-\phi_{\mathrm{H}4}),\\ t_2(z)&=\tfrac12(\phi_{\mathrm{H}1}-\phi_{\mathrm{H}2}-\phi_{\mathrm{H}3}+\phi_{\mathrm{H}4}) \end{aligned} \label{eq:12-h4-salc} \end{equation} $$である.符号の並びが,それぞれの水素の $x$ 座標,$y$ 座標,$z$ 座標の符号とぴったり一致していることに注目してほしい($\mathrm{H}_1(+,+,+)$, $\mathrm{H}_2(+,-,-)$, $\mathrm{H}_3(-,+,-)$, $\mathrm{H}_4(-,-,+)$).だからこそ,これらは炭素の $p_x,p_y,p_z$ とうまく重なることができるのである.
導出:射影演算子で式 \eqref{eq:12-h4-salc} を作る
式 \eqref{eq:12-h4-salc} は結果だけを書いたが,これは射影演算子を使えば機械的に導ける.初学者にとってはここが第一の関門で,記号の見た目に圧倒されやすい.しかし一度やり方が飲み込めれば,あとはどんな分子でも同じ手順で押し切れるようになる.遠回りに見えても,ここは丁寧にやっておく価値がある.
道具.既約表現 $\Gamma_n$ への射影演算子は
$$ \hat P^{(\Gamma_n)} \;=\; \frac{\ell_n}{h}\sum_{R}\chi^{(\Gamma_n)}(R)^{*}\,\hat P_R $$である($\ell_n$ は $\Gamma_n$ の次元,$h$ は群の位数,和は群のすべての元 $R$ にわたる).ここで $\hat P_R$ は関数に対称操作 $R$ を作用させる演算子で,$\hat P_R f(\bm r)=f(R^{-1}\bm r)$ と定める(この式のかたちが大直交定理からどう決まるかは,姉妹編『固体物理学入門』の第9章 9.3節にある).いま必要なのは指標だけであって,表現行列を書き下す必要はない.ここが実務上いちばんありがたい点である.
手順1:どの操作が H$_1$ をどこへ送るかを数える.射影演算子を使うのに要るのは $\hat P_R\phi_{\mathrm{H}1}$ が何になるか,ただそれだけである.$\phi$ は $s$ 軌道で向きを持たないから,$\hat P_R$ は軌道を別の水素の位置へ移すだけで,$\hat P_R\phi_{\mathrm{H}1}=\phi_{\mathrm{H}j}$ という形にしかならない.つまり「$R$ が H$_1$ をどの水素へ送るか」を24個の操作すべてについて数えれば,準備は終わりである.
$T_d$ の位数は $h=24$,そして4個の水素は互いに等価である.実は $T_d$ は4個のものを並べ替える群($4!=24$ 通り)とちょうど同じ構造をしていて,24個の操作は4個の水素のあらゆる並べ替えを1回ずつ実現する.数え上げた結果が表12.11 である.
| 類 | 操作の個数 | H$_1\to$H$_1$ | H$_1\to$H$_2$ | H$_1\to$H$_3$ | H$_1\to$H$_4$ |
|---|---|---|---|---|---|
| $E$ | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 |
| $8C_3$ | 8 | 2 | 2 | 2 | 2 |
| $3C_2$ | 3 | 0 | 1 | 1 | 1 |
| $6S_4$ | 6 | 0 | 2 | 2 | 2 |
| $6\sigma_d$ | 6 | 3 | 1 | 1 | 1 |
| 合計 | 24 | 6 | 6 | 6 | 6 |
読み方の例を1行だけ挙げる.$8C_3$ の8個のうち,H$_1$ と炭素を通る $C_3$ 軸まわりの2個($C_3$ と $C_3^2$)は H$_1$ を動かさない.残る6個は H$_2$, H$_3$, H$_4$ を通る軸まわりの回転で,H$_1$ を他の3個へ2回ずつ送る.どの列も合計が $6$ で等しくなるのは,4個の水素が等価で特別扱いされないからである.
手順2:$A_1$ に射影する.$A_1$ は $\ell=1$ で,指標はどの類でも $1$ である.したがって表の各列をそのまま足すだけでよい:
$$ \hat P^{(A_1)}\phi_{\mathrm{H}1} =\frac{1}{24}\bigl(6\phi_{\mathrm{H}1}+6\phi_{\mathrm{H}2}+6\phi_{\mathrm{H}3}+6\phi_{\mathrm{H}4}\bigr) =\frac14\bigl(\phi_{\mathrm{H}1}+\phi_{\mathrm{H}2}+\phi_{\mathrm{H}3}+\phi_{\mathrm{H}4}\bigr) $$規格化すれば式 \eqref{eq:12-h4-salc} の $a_1$ そのものである.全部同符号で足すという直感的な答えが,計算からも出てきた.
手順3:$T_2$ に射影する.$T_2$ は $\ell=3$,指標は $(E,8C_3,3C_2,6S_4,6\sigma_d)=(3,0,-1,-1,1)$ である.$\phi_{\mathrm{H}1}$ の係数は,表12.11 の「H$_1\to$H$_1$」列と指標を掛けて足す:
$$ \frac{3}{24}\Bigl[\,3\cdot1+0\cdot2+(-1)\cdot0+(-1)\cdot0+1\cdot3\,\Bigr] =\frac18(3+3)=\frac34 $$$\phi_{\mathrm{H}2}$ の係数は表12.11 の「H$_1\to$H$_2$」列を使って($\phi_{\mathrm{H}3},\phi_{\mathrm{H}4}$ も対称性から同じ値になる)
$$ \frac{3}{24}\Bigl[\,3\cdot0+0\cdot2+(-1)\cdot1+(-1)\cdot2+1\cdot1\,\Bigr] =\frac18(-1-2+1)=-\frac14 $$である.まとめると
$$ \hat P^{(T_2)}\phi_{\mathrm{H}1} =\frac14\bigl(3\phi_{\mathrm{H}1}-\phi_{\mathrm{H}2}-\phi_{\mathrm{H}3}-\phi_{\mathrm{H}4}\bigr) $$手順4:3本そろえる —— そして「4本出てくる」ことに戸惑わない.$T_2$ は3重縮退だから3本必要なのに,いま得られたのは1本だけである.そこで出発点を変えて $\phi_{\mathrm{H}2},\phi_{\mathrm{H}3},\phi_{\mathrm{H}4}$ にも同じ操作をすると,同じ形の式が4本できる:
$$ \hat P^{(T_2)}\phi_{\mathrm{H}i}=\frac14\Bigl(4\phi_{\mathrm{H}i}-\sum_{j}\phi_{\mathrm{H}j}\Bigr) $$ところがこの4本は独立ではない.4本すべてを足すと
$$ \sum_i\Bigl(4\phi_{\mathrm{H}i}-\sum_j\phi_{\mathrm{H}j}\Bigr)=4\sum_i\phi_{\mathrm{H}i}-4\sum_j\phi_{\mathrm{H}j}=0 $$と恒等的にゼロになるので,独立なのは3本であり,$T_2$ の次元 $3$ とちょうど合う.ここは初学者が「4本も出てしまった,どこかで間違えたのだろうか」と不安になる場所だが,そうではない.射影演算子は必要な本数より多く作ってしまうのが普通で,従属な分を捨てればよいだけである.出てきた本数が次元と合わないときは,まず従属関係を疑うとよい.
手順5:$x,y,z$ の向きに揃える.3本取れば $T_2$ の空間は張れるが,そのままでは式 \eqref{eq:12-h4-salc} のきれいな形にならない.炭素の $p_x,p_y,p_z$ と組ませたいのだから,$x,y,z$ と同じ変換をする組み合わせを選びたい.$t_2(x)$ は $x$ 座標が正の水素(H$_1$, H$_2$)と負の水素(H$_3$, H$_4$)で符号が逆になるはずである.そこでその符号で射影を足し合わせると
$$ \hat P^{(T_2)}\phi_{\mathrm{H}1}+\hat P^{(T_2)}\phi_{\mathrm{H}2}-\hat P^{(T_2)}\phi_{\mathrm{H}3}-\hat P^{(T_2)}\phi_{\mathrm{H}4} =\phi_{\mathrm{H}1}+\phi_{\mathrm{H}2}-\phi_{\mathrm{H}3}-\phi_{\mathrm{H}4} $$となり,規格化すれば $t_2(x)=\tfrac12(\phi_{\mathrm{H}1}+\phi_{\mathrm{H}2}-\phi_{\mathrm{H}3}-\phi_{\mathrm{H}4})$ が得られる.$y$ と $z$ も符号の付け方を変えるだけで同様である.これで式 \eqref{eq:12-h4-salc} の4本がすべて出た.∎
検算:射影演算子を行列で書いてみる.ここまでの結果は,$4$ 個の水素軌道を並べた基底
$$ \left[\,\phi_{\mathrm{H}1},\ \phi_{\mathrm{H}2},\ \phi_{\mathrm{H}3},\ \phi_{\mathrm{H}4}\,\right] $$のうえで $4\times4$ 行列にまとめると,いっそう見通しがよくなる.$\hat P\phi_{\mathrm{H}j}=\sum_i P_{ij}\,\phi_{\mathrm{H}i}$ と書くことにすれば,行列の第 $j$ 列が「$\phi_{\mathrm{H}j}$ に射影演算子を作用させた結果の係数」である.手順2と手順3で求めたのは,ちょうどこの第1列にあたる.
$$ \begin{equation} \hat P^{(A_1)}=\frac14 \begin{pmatrix} 1&1&1&1\\ 1&1&1&1\\ 1&1&1&1\\ 1&1&1&1 \end{pmatrix}, \qquad \hat P^{(T_2)}=\frac14 \begin{pmatrix} \phantom{-}3&-1&-1&-1\\ -1&\phantom{-}3&-1&-1\\ -1&-1&\phantom{-}3&-1\\ -1&-1&-1&\phantom{-}3 \end{pmatrix} \label{eq:12-proj-matrices} \end{equation} $$$\hat P^{(T_2)}$ の第1列 $\tfrac14(3,-1,-1,-1)$ が,手順3で計算した $\tfrac14(3\phi_{\mathrm{H}1}-\phi_{\mathrm{H}2}-\phi_{\mathrm{H}3}-\phi_{\mathrm{H}4})$ そのものであることを確かめてほしい.第2列以降は,水素の番号を付け替えただけなので $3$ の位置がずれていくだけである.
この2つの行列を眺めると,いくつものことが一目で分かる.
- 足すと単位行列になる.対角成分は $\tfrac14(1+3)=1$,非対角成分は $\tfrac14(1-1)=0$ だから $\hat P^{(A_1)}+\hat P^{(T_2)}=\hat 1$ である.これは偶然ではない.いまの問題では $\Gamma_{\mathrm{H}_4}=A_1\oplus T_2$ が4次元の空間を余すところなく分け合っているので,両方に射影して足せば元に戻るのは当然なのである.逆にいえば,もし第3の既約表現が混じっていたら,この和は単位行列にならない.よい検算になる.
- 対角和が次元を与える.$\operatorname{tr}\hat P^{(A_1)}=4\times\tfrac14=1$,$\operatorname{tr}\hat P^{(T_2)}=4\times\tfrac34=3$ である.これはそれぞれ $A_1$ が1次元・$T_2$ が3次元であることに対応している.射影演算子の対角和はその既約表現が何次元ぶん含まれているかを数えており,$1+3=4$ で全体の次元と合う.
- 実際に SALC に作用させてみる.$a_1$ の係数ベクトル $(1,1,1,1)$ に $\hat P^{(A_1)}$ を掛けるとそのまま $(1,1,1,1)$ に戻り,$\hat P^{(T_2)}$ を掛けると $(0,0,0,0)$ になる.$t_2(x)$ の係数ベクトル $(1,1,-1,-1)$ では逆で,$\hat P^{(A_1)}$ で消え,$\hat P^{(T_2)}$ では変わらない.$t_2(y)$,$t_2(z)$ も同様である.「自分の既約表現の射影演算子では変わらず,他の既約表現の射影演算子では消える」——これが射影演算子という名前の意味そのものである.
- 係数の和がゼロかどうかが分かれ目.$\hat P^{(A_1)}$ は全成分が $\tfrac14$ なので,どのベクトルに作用させても「係数の総和」しか拾わない.したがって係数の和がゼロのベクトルは $\hat P^{(A_1)}$ で必ず消え,$\hat P^{(T_2)}$ では変わらない.式 \eqref{eq:12-h4-salc} の $t_2$ 3本はいずれも係数の和が $0$,$a_1$ だけが和が $0$ でない——4本の SALC を見分ける印は,実はそれだけだったのである.
なお $\hat P^{(A_1)}\hat P^{(A_1)}=\hat P^{(A_1)}$,$\hat P^{(T_2)}\hat P^{(T_2)}=\hat P^{(T_2)}$,そして $\hat P^{(A_1)}\hat P^{(T_2)}=0$ も,式 \eqref{eq:12-proj-matrices} を実際に掛け算すれば確かめられる.「2度射影しても1度と同じ」「違う既約表現へ続けて射影すると消える」という,射影演算子が満たすべき性質である.手を動かして確認しておくと,射影演算子への苦手意識はかなり薄れるはずである.
射影演算子が大直交定理からどう導かれるのか,そしてもっと易しい題材(正三角形に並んだ3原子)での練習は,姉妹編『固体物理学入門』の第9章 9.3節「射影演算子 — 大直交定理からの導出」と9.4節「例題:正三角形の3原子から SALC を作る」にある.3原子のほうが操作の数が少なく($C_{3v}$ は位数 $6$),手を動かして確かめるにはうってつけである.先にそちらを済ませてから本項に戻ってくる,という読み方でもよい.なお別の発展教材だが,閲覧パスワードは4冊で共通なので,この教材を開いているあいだは改めて入力する必要はない.
実物を見る:CrystOD で式 \eqref{eq:12-h4-salc} を検証する
この SALC は多くの教科書に載っている有名な式である.手で射影演算子を回して導くこともできるが,せっかくなので CrystOD に独立に計算させて答え合わせをしておこう.CrystOD は,選んだ元素のサイトがつくる置換表現の指標に原子軌道の指標を掛け,それを点群の既約表現へ分解して,SALC を明示的に書き下してくれる.本文でやったことと同じ手続きを,機械にやらせるわけである.
式 \eqref{eq:12-h4-salc} が前提としている配置,すなわち水素を $(+,+,+)$, $(+,-,-)$, $(-,+,-)$, $(-,-,+)$ の向きに置いた $\mathrm{CH_4}$ の XYZ ファイルを与える.
$ crystod-mol --xyz XYZ_CH4.xyz --element H --orbital s
出力は次のとおりである(抜粋).
* Point group * Td (Hermann-Mauguin: -43m) * Reducible representation (H sites x s orbital) * class: E 8C3 3C2 6S4 6sgd chi(perm): 4 1 0 0 2 chi(s): 1 1 1 1 1 chi(total): 4 1 0 0 2 * Decomposition * Gamma = 1(A1) + 1(T2) * SALCs (orbital axes = input Cartesian axes) * A1: [s(H1) + s(H2) + s(H3) + s(H4)] T2: [s(H1) - s(H4), s(H1) - 2 s(H2) + s(H4), s(H1) + s(H2) - 3 s(H3) + s(H4)]
点群は $T_d$,指標は $(4,1,0,0,2)$,分解は $\Gamma_{\mathrm{H}_4}=A_1\oplus T_2$——本文で手で求めたものと完全に一致している.$A_1$ の SALC も式 \eqref{eq:12-h4-salc} の $a_1$ とそのまま同じである(規格化因子 $\tfrac12$ を除く).
ところが $T_2$ のほうは,見た目が本文とまったく違う.これは誤りではなく,同じ3次元空間の別の基底である.$T_2$ は3重縮退なので,その3次元部分空間の中でどう基底を取るかには任意性があり,CrystOD が印字したのは,射影で得た3次元空間を機械的に正準化した基底(内部では掃き出し法と Gram–Schmidt の直交化を通している.どちらもこのあとの数学ノートで復習する),本文が採ったのは $x,y,z$ の軸に揃えて規格化した基底なのである.実際に確かめると:
- CrystOD の3本も本文の3本も,すべて $A_1=(1,1,1,1)$ と直交している($T_2$ 成分しか含まない).
- 6本を並べた行列の階数はちょうど $3$ である.つまり両者は同じ3次元空間を張っている.
- 本文の $t_2(x),t_2(y),t_2(z)$ は CrystOD の3本の線形結合として厳密に書ける(数値的な残差は $10^{-16}$ 程度).
- CrystOD の3本も互いに直交している(Gram 行列は $\mathrm{diag}(2,6,12)$.Gram 行列そのものは直後の数学ノートで復習する).ただし規格化はされていない.一方,本文の3本は係数 $\tfrac12$ を込みにすると Gram 行列が単位行列になり,正規直交基底である.
したがって式 \eqref{eq:12-h4-salc} は正しい.両者の本質的な違いは直交しているかどうかではなく,$x,y,z$ と同じ変換をするように軸へ揃えてあるかどうかである.その意味で本文の3本は,$T_2$ の取りうる基底のなかで最も見通しのよいものになっている.係数の符号が $x,y,z$ 座標の符号と一致するように取ってあるからこそ,炭素の $p_x,p_y,p_z$ とどう重なるかが一目で読めるのである.計算機は「正しい答えのひとつ」を返してくれるが,どの基底が人間にとって読みやすいかまでは決めてくれない.そこは我々の仕事である.
なお crystod --diagram が内部で何を計算しているのかは,付録C「CrystOD 徹底解説」で詳しく扱う.
数学ノート:Gram 行列とは何か
$\mathrm{diag}(2,6,12)$ という言い方をしたので,Gram 行列(Gram matrix)を復習しておこう.$n$ 本のベクトル $\bm v_1,\dots,\bm v_n$ が与えられたとき,あらゆる組の内積を一枚の表にまとめたもの
$$ G_{ij}=\bm v_i\cdot\bm v_j $$を Gram 行列という.$n\times n$ の対称行列である(複素数や波動関数の場合は $G_{ij}=\braket{v_i|v_j}$ とし,Hermite 行列になる).長さと角度の情報をこれ1つで持ち運べるのが便利なところである.
読み方は単純である.
- 対角成分は長さの2乗.$G_{ii}=\bm v_i\cdot\bm v_i=\abs{\bm v_i}^2$ である.
- 非対角成分は重なり具合.$G_{ij}=\abs{\bm v_i}\abs{\bm v_j}\cos\theta_{ij}$ であるから,$G_{ij}=0$ は「$\bm v_i$ と $\bm v_j$ が直交する」と同じことである.
- したがって,非対角成分がすべて $0$ なら互いに直交,そのうえ対角成分がすべて $1$ なら正規直交基底で,$G=\hat 1$(単位行列)になる.
この目で $\mathrm{diag}(2,6,12)$ を見れば,読み取れることは2つである.非対角がすべて $0$ だから3本は互いに直交している.そして対角が $1$ ではなく $2,6,12$ だから,長さは $\sqrt2,\sqrt6,\sqrt{12}$ で規格化されていない.実際に成分を2乗して足せば
$$ \abs{(1,0,0,-1)}^2=2,\qquad \abs{(1,-2,0,1)}^2=6,\qquad \abs{(1,1,-3,1)}^2=12 $$である.各ベクトルを自分の長さで割れば,Gram 行列は単位行列になる.つまり「直交してはいるが,長さがばらばら」——それが $\mathrm{diag}(2,6,12)$ という表示の意味である.
もうひとつ,Gram 行列には大事な使い道がある.一次独立かどうかを測ることである.$\det G>0$ なら $\bm v_1,\dots,\bm v_n$ は一次独立,$\det G=0$ なら一次従属で,より一般に $G$ の階数はベクトルの組の階数に一致する.$\sqrt{\det G}$ が $n$ 本の張る平行体の体積にあたる,と思えば納得しやすい——つぶれて体積が $0$ になる状況が一次従属なのである.前の box で「6本を並べた行列の階数はちょうど $3$」と述べたのも,この方法で確かめられる.
実はこの行列は,本書ではすでに顔を出している.第11章の重なり積分 $S=\braket{\phi_A|\phi_B}$ である.規格化された2つの原子軌道 $\phi_A,\phi_B$ の Gram 行列は
$$ G=\begin{pmatrix}1&S\\S&1\end{pmatrix},\qquad \det G=1-S^2 $$にほかならない.永年方程式を展開したときに $\varepsilon^2$ の係数として現れたあの $1-S^2$ は,まさにこの $\det G$ だったのである.$S\to1$,すなわち2つの軌道が完全に重なってしまう極限では $\det G\to0$ となり,$\varepsilon^2$ の係数が消えて2次方程式が1次方程式に退化する.解が1本失われるわけだが,基底が一次従属になって2次元でなくなったのだから当然である.Gram 行列の行列式は「基底がどれだけ健全か」を測る量だといえる.
ひとつ注意しておく.いま計算した $\mathrm{diag}(2,6,12)$ は,$(1,0,0,-1)$ のような係数ベクトルどうしの素朴な内積であって,$\phi_{\mathrm{H}_1},\dots,\phi_{\mathrm{H}_4}$ を正規直交とみなしている.ところが実際には別のHの $1s$ 軌道どうしにも重なりがあり,$\braket{\phi_{\mathrm{H}_1}|\phi_{\mathrm{H}_2}}=s\neq0$ である.それでよいのだろうか.
結論からいえば,直交しているかどうかの判定はこれで変わらない.$T_d$ では4個のHが完全に対等で,H–H 間距離もすべて等しいから,原子軌道の真の Gram 行列は
$$ G=(1-s)\hat 1+s\,\mathsf J,\qquad \mathsf J=\begin{pmatrix}1&1&1&1\\1&1&1&1\\1&1&1&1\\1&1&1&1\end{pmatrix} $$という形しかとりえない($\mathsf J$ は全成分が $1$ の行列).この $G$ を挟んだ内積は,係数ベクトル $\bm a,\bm b$ に対して
$$ \bm a^{\mathsf T}G\,\bm b=(1-s)\,\bm a\cdot\bm b+s\Bigl(\textstyle\sum_i a_i\Bigr)\Bigl(\textstyle\sum_i b_i\Bigr) $$となる.$T_2$ の3本はいずれも係数の和が $0$ だったから右辺の第2項は消え,$\bm a^{\mathsf T}G\bm b=(1-s)\,\bm a\cdot\bm b$——全体に $(1-s)$ が掛かるだけである.真の Gram 行列は $(1-s)\,\mathrm{diag}(2,6,12)$ になり,互いに直交するという結論はそのまま残る.$a_1$ と $t_2$ が直交することも,係数の和が $0$ という同じ理由から従う.対称性の議論で係数ベクトルの素朴な内積を使ってよいのは,このためである.
数学ノート:掃き出し法と Gram–Schmidt の直交化(線形代数の復習)
「掃き出し法」「Gram–Schmidt の直交化」という言葉が出てきたので,ここで復習しておこう.どちらも線形代数の標準的な道具で,与えられたベクトルの組から,同じ空間を張る別の組を機械的に作り直す手続きである.CrystOD が印字した $T_2$ の3本は,この2つを順に通した結果そのものなので,実際に手で追いかけてみよう.
(1) 掃き出し法.ベクトルを行に並べて行列を作り,「ある行を定数倍する」「ある行に別の行の定数倍を足す」「2つの行を入れ替える」という3種類の行基本変形(elementary row operation)だけで形を整える手続きを掃き出し法(Gauss–Jordan elimination)という.ここで効いてくる事実は2つある.
- 行基本変形は行空間(行の張る空間)を変えない.新しい行は古い行の線形結合であり,逆向きの変形で元に戻せるからである.
- 各行の先頭の非ゼロ成分(枢軸,pivot)が $1$ で,枢軸のある列は枢軸以外すべて $0$——そこまで整えた形を行簡約階段形(reduced row echelon form, RREF)という.RREF は行空間だけで一意に決まる.最初にどんなベクトルを何本並べたかにはよらない.
2番目の性質が肝心である.「同じ空間を張る組み合わせは無数にある」という任意性を,RREF はただ1つの標準形に潰してくれる.計算機に「$T_2$ の基底を出せ」と命じたとき,まずこれを取るのは自然な選択なのである.
実際にやってみよう.$T_2$ の空間は $\hat P^{(T_2)}$ の像であるから,式 \eqref{eq:12-proj-matrices} の $\hat P^{(T_2)}$ の4つの行を並べればよい(共通因子 $\tfrac14$ は落としてよい).
$$ \begin{pmatrix}\phantom{-}3&-1&-1&-1\\-1&\phantom{-}3&-1&-1\\-1&-1&\phantom{-}3&-1\\-1&-1&-1&\phantom{-}3\end{pmatrix} \quad\xrightarrow{\ \text{掃き出し}\ }\quad \begin{pmatrix}1&0&0&-1\\0&1&0&-1\\0&0&1&-1\\0&0&0&\phantom{-}0\end{pmatrix} $$最後の行が消えて階数はちょうど $3$——$T_2$ が3次元であることが,ここでも確かめられた.残った3行
$$ \bm v_1=(1,0,0,-1),\qquad \bm v_2=(0,1,0,-1),\qquad \bm v_3=(0,0,1,-1) $$が RREF の基底である.3本とも成分の和が $0$ になっており,先ほど述べた「$T_2$ の目印は係数の和がゼロ」ときちんと合っている.
(2) Gram–Schmidt の直交化.ところがこの3本は,互いに直交していない.実際 $\bm v_1\cdot\bm v_2=1\neq0$ である(Gram 行列は対角が $2$,非対角がすべて $1$).直交していない基底は,あるベクトルの成分を取り出すのにいちいち逆行列が要るので扱いにくい.そこで直交する組に組み替える.
Gram–Schmidt の直交化(Gram–Schmidt orthogonalization)は,ベクトルを1本ずつ足していき,そのつどすでに確定した方向の成分を引き算する手続きである.
$$ \bm u_k=\bm v_k-\sum_{j<k}\frac{\bm v_k\cdot\bm u_j}{\bm u_j\cdot\bm u_j}\,\bm u_j $$引いている項は $\bm v_k$ の $\bm u_j$ 方向への射影にほかならない.だから残った $\bm u_k$ は $\bm u_1,\dots,\bm u_{k-1}$ のすべてと直交する——これもまた射影演算子の一種である.上の3本に順に適用すると
- $\bm u_1=(1,0,0,-1)$(1本目はそのまま)
- $\bm u_2=(0,1,0,-1)-\dfrac12(1,0,0,-1)=\left(-\tfrac12,\ 1,\ 0,\ -\tfrac12\right)$
- $\bm u_3=(0,0,1,-1)-\dfrac12(1,0,0,-1)-\dfrac13\left(-\tfrac12,1,0,-\tfrac12\right)=\left(-\tfrac13,\ -\tfrac13,\ 1,\ -\tfrac13\right)$
となる.分母を払って整数に直し,先頭の非ゼロ成分が正になるよう符号を揃えれば
$$ (1,\ 0,\ 0,\ -1),\qquad (1,\ -2,\ 0,\ 1),\qquad (1,\ 1,\ -3,\ 1) $$——CrystOD が印字した3本と,符号まで含めて完全に一致した.Gram 行列は $\mathrm{diag}(2,6,12)$ で,たしかに互いに直交している.長さが揃っていないのは,成分を整数のまま表示するために規格化をあえて省いているからである.
最後に,この3本がなぜいかにも不揃いに見えるのかを押さえておきたい.掃き出し法も Gram–Schmidt も,並べた順番に強く依存する手続きだからである.1本目は無傷で残り,2本目は1本目の成分を抜かれ,3本目はさらに2本ぶん抜かれる——だから後ろほど成分が込み入る.H$_1$, H$_2$, H$_3$, H$_4$ という番号は人間が勝手に付けたものにすぎないのに,この手続きはその恣意的な順番を答えのほうに刻み込んでしまう.4個のHが対等であるという $T_d$ の対称性は,出てきた3本を眺めても見えなくなってしまうのである.
本文が採った $t_2(x),t_2(y),t_2(z)$ は逆に,並べた順番ではなく $x,y,z$ という物理的な軸に合わせて取ったものである.だからこそ炭素の $p_x,p_y,p_z$ との対応が一目で読めるし,3本が $C_3$ 回転で互いに移り合うという対称性もそのまま目に見える形で残る.同じ3次元空間の基底でありながら,前者は機械にとっての標準形,後者は人間にとっての標準形なのである.
12.10.4 どれとどれが相互作用するか
ここで式 \eqref{eq:12-selection} の出番である.炭素側は $\Gamma_{\mathrm{C}}=A_1\oplus T_2$(C $2s$ が $A_1$,C $2p$ が $T_2$),水素側は式 \eqref{eq:12-gamma-h4} により $\Gamma_{\mathrm{H}_4}=A_1\oplus T_2$.ハミルトニアンは全対称表現 $A_1$ なので
$$ \Gamma_{\mathrm{C}}\otimes\Gamma_{\Ham}\otimes\Gamma_{\mathrm{H}_4} =(A_1\oplus T_2)\otimes A_1\otimes(A_1\oplus T_2) =(A_1\oplus T_2)\otimes(A_1\oplus T_2) $$を調べればよい.展開して4つの組み合わせを1つずつ見る.
| 組み合わせ | 直積の既約分解 | $A_1$ を含むか | 結論 |
|---|---|---|---|
| C $2s$ ($A_1$) × H$_4$ $a_1$ ($A_1$) | $A_1\otimes A_1=A_1$ | 含む | 相互作用する! |
| C $2p$ ($T_2$) × H$_4$ $t_2$ ($T_2$) | $T_2\otimes T_2=A_1\oplus E\oplus T_1\oplus T_2$ | 含む | 相互作用する! |
| C $2s$ ($A_1$) × H$_4$ $t_2$ ($T_2$) | $A_1\otimes T_2=T_2$ | 含まない | 相互作用しない |
| C $2p$ ($T_2$) × H$_4$ $a_1$ ($A_1$) | $T_2\otimes A_1=T_2$ | 含まない | 相互作用しない |
例題12.10 $T_2\otimes T_2$ を既約分解せよ
解答.式 \eqref{eq:12-direct-product-char} より,直積の指標は $T_2$ の指標 $(3,0,-1,-1,1)$ の2乗である.
$$ \chi_{T_2\otimes T_2}=(9,\ 0,\ 1,\ 1,\ 1) $$次元は $3\times3=9$ で $\chi(E)=9$ と一致 ✓.式 \eqref{eq:12-reduction} に代入する.
$$ \begin{aligned} n(A_1)&=\tfrac{1}{24}\bigl(1\cdot1\cdot9+8\cdot1\cdot0+3\cdot1\cdot1+6\cdot1\cdot1+6\cdot1\cdot1\bigr)=\tfrac{1}{24}(9+0+3+6+6)=1,\\ n(A_2)&=\tfrac{1}{24}\bigl(9+0+3+6\cdot(-1)\cdot1+6\cdot(-1)\cdot1\bigr)=\tfrac{1}{24}(9+3-6-6)=0,\\ n(E)&=\tfrac{1}{24}\bigl(2\cdot9+8\cdot(-1)\cdot0+3\cdot2\cdot1+0+0\bigr)=\tfrac{1}{24}(18+0+6)=1,\\ n(T_1)&=\tfrac{1}{24}\bigl(3\cdot9+0+3\cdot(-1)\cdot1+6\cdot1\cdot1+6\cdot(-1)\cdot1\bigr)=\tfrac{1}{24}(27-3+6-6)=1,\\ n(T_2)&=\tfrac{1}{24}\bigl(3\cdot9+0+3\cdot(-1)\cdot1+6\cdot(-1)\cdot1+6\cdot1\cdot1\bigr)=\tfrac{1}{24}(27-3-6+6)=1 . \end{aligned} $$よって $T_2\otimes T_2=A_1\oplus E\oplus T_1\oplus T_2$(次元 $1+2+3+3=9$ ✓).全対称表現 $A_1$ をちょうど1個含んでいる.
12.10.5 CH$_4$ の分子軌道ダイアグラム
表12.12の結論から,CH$_4$ の分子軌道は次のように組み上がる.
- $a_1$ 系列:C $2s$ と H$_4$ の $a_1$ が混ざり,結合性の $2a_1$ と反結合性の $3a_1$ ができる($1a_1$ は炭素の $1s$ 内殻軌道).
- $t_2$ 系列:C $2p$ と H$_4$ の $t_2$ が混ざり,結合性の $1t_2$(3重縮退)と反結合性の $2t_2$(3重縮退)ができる.
価電子は炭素から4個,水素から4個の計8個.低い順に $2a_1^2\,1t_2^6$ と詰まる.
物理的意味:第10章の計算結果と一致する
第10章では Molcalc / PySCF を使って CH$_4$ の分子軌道を実際に計算した.得られた価電子準位は「低いほうに非縮退の準位が1本,そのすぐ上に三重縮退した準位が1本(電子6個)」という構造をしていたはずである.これはいま群論だけで導いた $2a_1^2\,1t_2^6$ とぴたり一致する.実験でも,CH$_4$ の光電子スペクトルには約 $12.7\ \mathrm{eV}$($1t_2$ 由来)と約 $23\ \mathrm{eV}$($2a_1$ 由来)の2本のバンドが観測され,強度比はおよそ $3:1$(軌道の縮退度の比)である.「$sp^3$ 混成軌道が4本あって等価だから準位も4本が縮退している」という高校〜大学初年度の説明は,実は正しくない.正しくは $1+3$ に分かれるのであり,これは対称性から必然的に導かれる.$sp^3$ 混成の描像は結合の向きを理解するのには便利だが,軌道エネルギーの議論には使えないのである.
注意:LUMO が $2t_2$ か $3a_1$ かは基底関数に依存する
図12.8では $2t_2$ を $3a_1$ より低く描いたが,この順序は基底関数の選び方や計算手法によって入れ替わりうる.群論が保証するのは「$a_1$ 系列が2本,$t_2$ 系列が2組(各3重縮退)できる」ことと「$a_1$ と $t_2$ が混ざらない」ことまでで,準位の絶対的な高さは計算しなければ分からない.対称性は縮退と選択則を決めるが,エネルギーの値は決めない——この境界線をつねに意識してほしい.
実物を見る:CrystOD が描いた CH$_4$ の分子軌道ダイアグラム
図12.8 は群論だけを頼りに手で描いた「骨格」である.同じものを CrystOD に実際に計算させると次のようになる.下の図は対話的に動かせるので,準位をクリックして軌道の形を確かめてみてほしい.
見比べてほしいのは次の3点である.第一に,左側の水素4個の SALC が $a_1$ 1本と $t_2$ 3本(三重縮退)に分かれていること——これが式 \eqref{eq:12-h4-salc} そのものである.第二に,相関線が $a_1$ どうし・$t_2$ どうしの間にしか引かれていないこと——$a_1$ と $t_2$ を結ぶ線は1本もない.これは $A_1\otimes T_2=T_2$ が全対称表現を含まないという,ただそれだけの理由による.第三に,価電子8個が $2a_1^2\,1t_2^6$ と詰まり,HOMO が三重縮退していること.いずれも本文で群論だけから導いた結論である.
そのうえで,図12.8 とわざと見比べてほしい食い違いが1つある.図12.8 では $2t_2$ を $3a_1$ より低く描いたので LUMO は $2t_2$ になっていたが,上の実計算では順序が逆で,LUMO は $3a_1$,$2t_2$ はさらにその上にある.これは間違いではなく,直前の注意ボックスで述べた「$a_1$ 系列と $t_2$ 系列の相対的な高さは群論では決まらない」という一点が,実際の計算で目に見える形で現れたものである.占有側($2a_1^2\,1t_2^6$ と HOMO の三重縮退)は群論が決めているので図12.8 と完全に一致し,空側の順序だけが計算手法に委ねられている——対称性が決めることと決めないことの境界が,この1枚に同時に写っているわけである.なお上の計算は Hartree–Fock 法・def2-svp 基底によるもので,表示されている HOMO–LUMO ギャップ約 $19.9\ \mathrm{eV}$ が実測よりはるかに大きいのは,Hartree–Fock がギャップを過大評価するためである(この点は密度汎関数理論のテキストで詳しく扱う).
CrystOD は分子の対称性を検出し,配位子の SALC を作り,既約表現ごとに中心原子の軌道と組ませて図を描いている.つまり図12.8 を手で描いたときの手続きを,そのまま機械が実行しているにすぎない.紙の上でやったことと計算機の中で起きていることが同じだと確かめられるのは,群論という道具がそのまま計算手順になっていることの現れである.
12.11 応用3:分子の項記号と三重項酸素
12.11.1 原子の項記号から分子の項記号へ
第7章で,多電子原子の状態を表す項記号(term symbol)
$$ {}^{2S+1}L_J $$を学んだ.$2S+1$ はスピン多重度,$L$ は総軌道角運動量量子数($L=0,1,2,3,\dots$ を $\mathrm{S,P,D,F},\dots$ で表す),$J$ は総角運動量量子数である.原子は球対称なので,角運動量の大きさ $L$ そのものが良い量子数になる.
ところが分子は球対称ではない.二原子分子(や直線分子)では,結合軸のまわりの回転対称性しか残っていないので,良い量子数になるのは結合軸方向の軌道角運動量成分だけである.そこで分子の項記号は次のように書く.
定義:直線分子の項記号
$$ \begin{equation} {}^{2S+1}\Lambda^{\pm}_{\mathrm{g/u}} \label{eq:12-term-symbol} \end{equation} $$- $\Lambda$:全電子の軌道角運動量の結合軸成分の量子数 $|M_L|=|\sum_i \lambda_i|$ を,ギリシャ文字で表したもの. $|M_L|=0$ なら $\Lambda=\Sigma$(“S”igma),$1$ なら $\Pi$(“P”i),$2$ なら $\Delta$(“D”elta),$3$ なら $\Phi$(“Ph(F)”i),$4$ なら $\Gamma$(“G”amma).
- $2S+1$:スピン多重度.
- 上付きの $\pm$:$\Lambda=\Sigma$ のときのみ書く.分子の結合軸を含む鏡映面に対して,波動関数の位相が変わらないなら $+$,$180^\circ$ 反転するなら $-$.
- 下付きの g/u:分子の重心を原点に置いて反転操作を施したとき,波動関数の位相が変わらないなら g(gerade),$180^\circ$ 反転するなら u(ungerade).反転中心をもつ分子(等核二原子分子など)でのみ書く.
注意:どこを原点に置くかが決定的に重要
g/u を判定するには,必ず分子の重心(対称中心)を原点に置かなければならない.原点を片方の原子の上に置いてしまうと,そもそも反転操作が対称操作でなくなり,g/u の判定ができない.「どこを原点にするか」は,対称性の議論ではつねに最初に決めるべき事柄である.
12.11.2 酸素分子の基底状態はなぜ ${}^3\Sigma_g^-$ なのか
第8章でBorn–Oppenheimer近似のもとに分子の全エネルギーを扱い,第9章では交換エネルギーが平行スピン配置を安定化する(Hundの規則)ことを見た.その典型例が酸素分子である.O$_2$ の基底状態が三重項(不対電子2個)であることは,液体酸素が磁石に引き寄せられるという有名な実験で確かめられる.ここではその項記号を,対称性の議論から一歩ずつ導く.
O$_2$ の分子軌道は,下から $\sigma_g(2s)$, $\sigma_u^*(2s)$, $\sigma_g(2p_z)$, $\pi_u(2p_x,2p_y)$, $\pi_g^*(2p_x,2p_y)$, $\sigma_u^*(2p_z)$ の順に並ぶ.価電子は $6+6=12$ 個であり,下から詰めていくと $\pi_g^*$ に2個の電子が残る.$\pi_g^*$ は二重縮退しているので,2個の電子は2本の軌道に1個ずつ,Hundの規則にしたがって平行スピンで入る.これが HOMO(最高被占分子軌道)である.
それでは,項記号の4つの要素を順に決めていこう.
① $\Lambda$ を決める.$\pi$ 軌道は結合軸まわりの角運動量成分が $\lambda=\pm1$ である.複素表示の $\pi_{+1}^*$ と $\pi_{-1}^*$ に1個ずつ電子が入っているので
$$ M_L=(+1)+(-1)=0\quad\Longrightarrow\quad \Lambda=\Sigma . $$② スピン多重度を決める.2個の電子はどちらも up spin なので $S=\tfrac12+\tfrac12=1$,したがって
$$ 2S+1=2\cdot1+1=3\quad(\text{三重項}) . $$③ g か u かを決める.$\pi_g^*$ の添字が示すとおり,$\pi^*$ 軌道は反転操作 $(x,y,z)\to(-x,-y,-z)$ で符号が変わらない.図12.9の左を見てほしい:反転すると,O$_A$ の上のローブ(緑)はO$_B$ の下のローブ(緑)に重なり,符号が一致する.1電子軌道が g なので,2電子状態も $\mathrm{g}\times\mathrm{g}=\mathrm{g}$ で g である.
④ $\pm$ を決める.$\Lambda=\Sigma$ なので上付き記号が必要になる.ここは少し丁寧に見る.結合軸($z$ 軸)を含む鏡映面として $xz$ 面をとると,$\pi_x^*$ は不変,$\pi_y^*$ は符号反転する($y\to-y$).2個の電子は平行スピンなので,Pauliの原理(第7章)により空間部分は反対称でなければならない.すなわち2電子波動関数の空間部分は
$$ \Psi_{\text{空間}}=\frac{1}{\sqrt2}\Bigl[\pi_x^*(1)\pi_y^*(2)-\pi_y^*(1)\pi_x^*(2)\Bigr] $$である.ここに $\sigma_v(xz)$ を作用させると,$\pi_x^*\to\pi_x^*$,$\pi_y^*\to-\pi_y^*$ だから
$$ \hat\sigma_v\Psi_{\text{空間}} =\frac{1}{\sqrt2}\Bigl[\pi_x^*(1)\bigl(-\pi_y^*(2)\bigr)-\bigl(-\pi_y^*(1)\bigr)\pi_x^*(2)\Bigr] =-\frac{1}{\sqrt2}\Bigl[\pi_x^*(1)\pi_y^*(2)-\pi_y^*(1)\pi_x^*(2)\Bigr] =-\Psi_{\text{空間}} . $$鏡映操作 $(x,y,z)\to(x,y,-z)$ に相当する面での鏡映で波動関数の符号が反転する($=\Sigma^-$).よって上付きは $-$ である.
以上をまとめると,酸素分子の基底状態の項記号は
となる.
物理的意味:三重項酸素と一重項酸素
$(\pi_g^*)^2$ という配置からは,${}^3\Sigma_g^-$ のほかに ${}^1\Delta_g$ と ${}^1\Sigma_g^+$ という2つの状態も作れる(演習12.6).第9章で学んだとおり,平行スピンの電子どうしには交換エネルギーによる安定化が働くため,三重項の ${}^3\Sigma_g^-$ が最も低い.実験値では ${}^1\Delta_g$ が $0.98\ \mathrm{eV}$,${}^1\Sigma_g^+$ が $1.63\ \mathrm{eV}$ だけ高い.この ${}^1\Delta_g$ が有名な一重項酸素であり,きわめて反応性が高く,光線力学療法や光触媒による抗菌・抗ウイルス作用の主役として働く〔文献 14〕.空気中の酸素が三重項であるおかげで,我々の身体は室温で自然発火せずに済んでいる——スピン選択則によって,三重項の O$_2$ が一重項の有機分子と反応するのが遅くなっているからである.対称性が生命を守っているといってもよい.
例題12.11 N$_2$ の基底状態の項記号を求めよ
解答.N$_2$ の価電子は $5+5=10$ 個.$\sigma_g(2s)^2\,\sigma_u^*(2s)^2\,\pi_u^4\,\sigma_g(2p)^2$ と詰まり,すべての軌道が閉殻(電子が2個ずつ)である.閉殻では
- 各軌道で $\lambda$ が打ち消し合うので $M_L=0$ → $\Lambda=\Sigma$
- 各軌道で up と down が対になるので $S=0$ → $2S+1=1$(一重項)
- すべての軌道が2個ずつ埋まっているので,どの対称操作でも波動関数の符号は $(\pm1)^2=+1$ → g かつ $+$
したがって ${}^1\Sigma_g^+$ である.閉殻分子の基底状態はつねに ${}^1\Sigma_g^+$(または ${}^1A_1$,${}^1A_{1g}$)になる——これは一般則として覚えておくとよい.
12.12 まとめと演習
12.12.1 この章のまとめ
- 群は,閉性・結合律・単位元・逆元という4つの公理を満たす集合である.分子や結晶の対称操作の集合は,放っておいても群になる.点群 $C_{3v}=\{E,C_3,C_3^{-1},\sigma_1,\sigma_2,\sigma_3\}$ は $2\times2$ 行列で書くことができ,公理をすべて満たす(式 \eqref{eq:12-c3v-2d}).ただし非可換である.
- 結晶と両立する点群は32種類で,Schoenflies記号と国際(Hermann–Mauguin)表記の2通りの書き方がある.国際表記の回反 $\bar n$(回転+反転)とSchoenfliesの回映 $S_n$(回転+鏡映)は操作としては別物だが,生成する群は $S_3\leftrightarrow\bar6$, $S_4\leftrightarrow\bar4$, $S_6\leftrightarrow\bar3$ のように対応する.
- 32点群は中心対称11種(常誘電性),非中心対称・非極性11種(圧電性),非中心対称・極性10種(焦電性)に分けられる.電場で分極が反転できる焦電体が強誘電体である.$432$ だけは非中心対称でも圧電性を示さない.
- 群の内部構造は積表にまとめられる.$C_{3v}$ のオーダーは $h=6$,部分群として $C_3$ をもつ.再配列定理により積表の各行・各列には各群元が1回ずつしか現れない.この制約のおかげで,群にはオーダーごとに少数の「型」しかない(オーダー4は2種類).
- 相似変換 $R^{-1}AR=B$ で移り合う元を共役といい,共役な元の集まりがクラスである.$C_{3v}$ のクラスは $\{E\}$, $\{C_3,C_3^{-1}\}$, $\{\sigma_1,\sigma_2,\sigma_3\}$ の3つ.クラスは部分群ではない.
- 群元を行列で表したものが表現で,基底をうまく選ぶとブロック対角化できる.それ以上分けられないブロックが既約表現である.行列のトレースが指標で,基底の取り方によらず,同じクラスの元では同じ値をとる.$C_{3v}$ の指標表は $3\times3$ の小さな表にまとまる(表12.6).
- 大直交定理(表現行列の成分についての直交性)から指標の直交定理 $\sum_R\chi_i^*(R)\chi_j(R)=h\delta_{ij}$ が導かれ,そこから既約分解の公式 $n_i=\frac1h\sum_k g_k\chi_i^*\chi$ が得られる.直積表現の指標は指標の積である.$C_{3v}$ では $E\otimes E=A_1\oplus A_2\oplus E$.
- ハミルトニアンは全対称表現に属する.したがって共鳴積分は $\Gamma_{\phi_A}\otimes\Gamma_{\phi_B}$ が全対称表現を含むときにのみゼロでない.すなわち同じ既約表現の軌道どうしだけが混成する.
- 八面体場では $\Gamma_d=E_g\oplus T_{2g}$ と分裂し,配位子を向いた $e_g$ が高く,配位子を避ける $t_{2g}$ が低い.重心保存から $e_g$ は $+\frac35\Delta_o$,$t_{2g}$ は $-\frac25\Delta_o$.$\Delta_o$ と対形成エネルギー $P$ の大小で高スピン/低スピンが決まる.
- CH$_4$($T_d$)では,C $2s$ が $A_1$,C $2p$ が $T_2$,4個のH $1s$ が $\Gamma_{\mathrm{H}_4}=A_1\oplus T_2$.$A_1\otimes A_1$ と $T_2\otimes T_2$ は全対称表現を含むので相互作用し,$A_1\otimes T_2=T_2$ は含まないので相互作用しない.結果として $2a_1^2\,1t_2^6$,HOMO は三重縮退した $1t_2$(電子6個)となり,第10章の計算と一致する.
- 直線分子の項記号は ${}^{2S+1}\Lambda^{\pm}_{\mathrm{g/u}}$.O$_2$ の基底状態は $\pi_g^*$ の2電子から $\Lambda=\Sigma$,$2S+1=3$,反転で不変なので g,$\sigma_v$ 鏡映で符号反転するので $-$,すなわち ${}^3\Sigma_g^-$ である.
12.12.2 演習問題
演習12.1 $C_{3v}$ の積表を使う
表12.3を用いて次を計算せよ.(a) $\sigma_2\sigma_3$ と $\sigma_3\sigma_2$.(b) $(\sigma_1\sigma_2)\sigma_3$ と $\sigma_1(\sigma_2\sigma_3)$ を別々に計算し,結合律が成り立つことを確かめよ.(c) $C_{3v}$ の部分群をすべて列挙し,それぞれのオーダーが $h=6$ の約数になっていることを確かめよ.
ヒント:(a) は式 \eqref{eq:12-mirror-rules} の $M(\theta_1)M(\theta_2)=R(2(\theta_1-\theta_2))$ を使っても検算できる($\sigma_1=M(0^\circ)$, $\sigma_2=M(120^\circ)$, $\sigma_3=M(240^\circ)$).(c) では,部分群は必ず $E$ を含み,含まれる各元の逆元も含まねばならないことを使う.オーダー2の部分群は「2乗して $E$ になる元」からできる.
演習12.2 H$_2$O の振動モードを既約分解する
H$_2$O(点群 $C_{2v}$,表12.7)の3個の原子それぞれに $x,y,z$ の変位ベクトルを置き,$3N=9$ 次元の可約表現 $\Gamma_{\text{全}}$ を作れ.分子面を $xz$ 面,$C_2$ 軸を $z$ 軸にとる.
(a) 各対称操作について $\Gamma_{\text{全}}$ の指標を求めよ.(b) $\Gamma_{\text{全}}$ を既約分解せよ.(c) 並進($x,y,z$)と回転($R_x,R_y,R_z$)に対応する既約表現を差し引いて,振動の表現 $\Gamma_{\text{vib}}$ を求めよ.(d) 双極子モーメント($x,y,z$)と同じ既約表現をもつ振動が赤外活性である.3つの振動モードはすべて赤外活性か.
ヒント:(a) では「動かない原子の数 $\times$ 1原子あたりの寄与」で計算する.1原子あたりの寄与は,回転 $C_n$ なら $1+2\cos\alpha$,鏡映 $\sigma$ なら $1$,恒等操作なら $3$ である($C_2$ なら $1+2\cos180^\circ=-1$).答えは $\Gamma_{\text{全}}=(9,-1,3,1)$.(b) の答えは $3A_1\oplus A_2\oplus 3B_1\oplus 2B_2$.(c) 並進は $A_1(z)+B_1(x)+B_2(y)$,回転は $A_2(R_z)+B_1(R_y)+B_2(R_x)$.差し引くと $\Gamma_{\text{vib}}=2A_1\oplus B_1$ となり,12.1節で紹介した実測のモード帰属と一致する.
演習12.3 $p$ 軌道と $f$ 軌道の結晶場分裂
点群 $O$(表12.9)において,次を求めよ.
(a) $p$ 軌道($l=1$)の可約表現の指標を式 \eqref{eq:12-chi-l} から求め,既約分解せよ.$O_h$ ではパリティを考えるとどうなるか.(b) $f$ 軌道($l=3$)についても同様に既約分解せよ.
ヒント:(a) $\chi_p(\alpha)=1+2\cos\alpha$ なので $\Gamma_p=(3,0,-1,1,-1)$.これは $T_1$ そのものである.$p$ 軌道は奇パリティなので $O_h$ では $T_{1u}$.分裂しない(3重縮退のまま).(b) $\chi_f(\alpha)=1+2\cos\alpha+2\cos2\alpha+2\cos3\alpha$ から $\Gamma_f=(7,1,-1,-1,-1)$.既約分解すると $A_2\oplus T_1\oplus T_2$($1+3+3=7$)となる.$O_h$ では $A_{2u}\oplus T_{1u}\oplus T_{2u}$.ランタノイドの $f$ 電子系の議論の出発点である.
演習12.4 平面四角形錯体($D_{4h}$)の $d$ 軌道分裂
平面四角形錯体(点群 $D_{4h}$)における $d$ 軌道の分裂を考える.$D_{4h}$ の指標表を調べ,$d$ 軌道5個が $a_{1g}(d_{z^2})$, $b_{1g}(d_{x^2-y^2})$, $b_{2g}(d_{xy})$, $e_g(d_{xz},d_{yz})$ に分裂することを確かめよ.また,なぜ $b_{1g}$ が最も高いエネルギーになるのかを,軌道の形と配位子の位置から説明せよ.この結果は,$d^8$ イオン(Ni$^{2+}$, Pd$^{2+}$, Pt$^{2+}$)がしばしば反磁性の平面四角形錯体をつくることとどう関係するか.
ヒント:$D_{4h}$ では $z^2$ が $a_{1g}$,$x^2-y^2$ が $b_{1g}$,$xy$ が $b_{2g}$,$(xz,yz)$ が $e_g$ の基底になっている(縮退があるのは $e_g$ だけ).配位子は $\pm x$, $\pm y$ 方向にあり,$d_{x^2-y^2}$ はまさにその方向にローブを伸ばしている.$d^8$ では最も高い $b_{1g}$ だけが空になり,残り4本に8個の電子が対を作って入るので不対電子がゼロになる.
演習12.5 $C_{3v}$ における直積
表12.6を用いて,次の直積を既約分解せよ.(a) $A_2\otimes E$ (b) $A_2\otimes A_2$ (c) $E\otimes E$(例題12.7の再確認).また,NH$_3$ において N の $2p_z$ 軌道($A_1$)と H$_3$ の $e$ 群軌道の間に共鳴積分は存在するか.存在しないなら,その理由を「軌道の重なりの符号」の言葉でも説明せよ.
ヒント:直積の指標は指標の積である(式 \eqref{eq:12-direct-product-char}).(a) $(1\cdot2,\ 1\cdot(-1),\ (-1)\cdot0)=(2,-1,0)=E$.(b) $(1,1,1)=A_1$.$A_1\otimes E=E$ には全対称表現が含まれないので,$2p_z$ と $e$ 群軌道の共鳴積分はゼロである.図で描くと,$e$ 群軌道は3個のHのうち2個が $+$,1個が $-$(あるいはそれと直交する組み合わせ)になっており,$2p_z$ との重なりが打ち消し合う.
演習12.6 O$_2$ の励起状態の項記号
O$_2$ の $(\pi_g^*)^2$ 配置から作れる状態は,基底状態の ${}^3\Sigma_g^-$ のほかに2つある.
(a) 2個の電子が同じ複素軌道 $\pi_{+1}^*$(あるいは $\pi_{-1}^*$)に対をなして入る場合,$M_L$ と $S$ はいくつになるか.項記号を求めよ.(b) $\pi_{+1}^*$ と $\pi_{-1}^*$ に1個ずつ,反平行スピンで入る場合の項記号を求めよ.(c) Hundの規則により3つのうちどれが最も低いか.第9章の交換エネルギーの議論と結びつけて説明せよ.
ヒント:(a) $M_L=(+1)+(+1)=2$ なので $\Lambda=\Delta$,$S=0$ なので一重項,パリティは g.$\Lambda\neq\Sigma$ なので $\pm$ は書かない.答えは ${}^1\Delta_g$.(b) $M_L=0$ で $\Lambda=\Sigma$,$S=0$.スピン部分が反対称なので空間部分は対称になり,$\sigma_v$ 鏡映で符号が変わらない.答えは ${}^1\Sigma_g^+$.(c) 平行スピンの2電子は互いを避けるため(Fermi孔)クーロン反発が減り,交換エネルギーだけ安定化する.実測では ${}^1\Delta_g$ が $0.98\ \mathrm{eV}$,${}^1\Sigma_g^+$ が $1.63\ \mathrm{eV}$ 上にある.
12.12.3 参考文献
- 今野 豊彦『物質の対称性と群論』共立出版(2001). — 本章の内容を結晶学の立場から詳述した日本語の定番書.Mulliken記号,32点群,空間群まで扱う.
- 原田 義也『量子化学(上巻)』裳華房(1978). — 分子軌道法と対称性の関係,項記号の丁寧な解説がある.
- F. A. Cotton, Chemical Applications of Group Theory, 3rd ed., Wiley (1990). — 化学者向け群論の古典.大直交定理の証明,射影演算子によるSALCの構成法が詳しい.
- M. Tinkham, Group Theory and Quantum Mechanics, Dover (2003). — 大直交定理とSchurの補題の証明,固体物理への応用.
- シュライバー・アトキンス『無機化学(上)』第6版,東京化学同人(2016). — NH$_3$ や CH$_4$ の分子軌道ダイアグラム,結晶場理論,高スピン/低スピンの実例.
- P. Atkins, J. de Paula, Atkins' Physical Chemistry, 11th ed., Oxford University Press (2018). — 分子の項記号,振動モードの対称性と赤外・Raman選択則.
- P. A. Cox『固体の電子構造と化学』技報堂出版. — 固体のバンド構造における対称性ラベルの使い方.
- R. Hoffmann, "Building Bridges Between Inorganic and Organic Chemistry (Nobel Lecture)", Angew. Chem. Int. Ed. Engl. 26, 846 (1987). — 軌道の形から分子軌道ダイアグラムを描く手法.
- Y. Mochizuki et al., "Ferroelectricity in Li$_2$SrNb$_2$O$_7$", Chem. Mater. 33, 1257 (2021). — 新規強誘電体の第一原理計算と実験による確立.
- Y. Mochizuki et al., Phys. Rev. Materials 2, 125004 (2018). — 反転対称性の破れと金属伝導が共存するポーラーメタル.
- Y. Mochizuki et al., J. Am. Chem. Soc. 145, 8090 (2023). — 超イオン伝導体の電子バンド構造と $\Gamma$ 点の対称性ラベル.
- Y. Mochizuki et al., J. Phys. Chem. C 128, 525 (2024). — Si のフォノンバンドとモードGrüneisenパラメータ.
- Y. Mochizuki et al., Phys. Rev. Materials 2, 125001 (2018). — エピタキシャル歪みによる対称性低下と金属絶縁体転移.
- R. Kiribayashi, Y. Mochizuki, A. Nakajima et al., ACS Appl. Mater. Interfaces 17, 61872 (2025). — 一重項酸素が関与する抗ウイルス活性.
- Q. Sun et al., "PySCF: the Python-based simulations of chemistry framework", WIREs Comput. Mol. Sci. 8, e1340 (2018). — 第10章・付録Bで用いる量子化学計算パッケージ.分子の点群を自動判定し,対称性を使った計算ができる.