マテリアル計算科学入門 — 目次 第IV部 化学結合の理論 / 第11章

第11章永年方程式と共有結合

第10章までで,われわれは「分子の全エネルギーを数値的に求める」という作業を一通り体験した.Molcalc や PySCF に分子を放り込めば,軌道エネルギーも波動関数も振動数も出てくる.しかしそこで得られた数字の羅列を眺めていても,なぜ二つの原子が結びつくのかという問いには答えられない.本章では逆の方向に進む.原子軌道をたった二つだけ用意し,変分原理(第3章)と Lagrange の未定乗数法(付録A)だけを使って,鉛筆と紙で解ける最小の模型をつくる.その帰結として現れるのが永年方程式(secular equation)であり,そこから結合性軌道と反結合性軌道,そして共有結合とイオン結合の連続的なつながりが,驚くほど素直に導かれる.本章で導く $\varepsilon_{\pm}=(\alpha\pm\beta)/(1\pm S)$ という二つの式は,以降の第12章(対称性),第13章(Madelung エネルギー),第14章(イオン結晶のバンド)すべての土台になる.共有結合が「電子の出身地が分からない」という量子力学的な事情から生まれるという事実も,ここで数式として確認する.

この章で学ぶこと
  • 粒子の同等性(同種粒子は原理的に区別できない)が共有結合の起源であること
  • 三つの積分:重なり積分 $S$,Coulomb積分 $\alpha_A,\alpha_B$,共鳴積分 $\beta$ の定義と符号
  • LCAO 試行関数 $\Psi=c_A\phi_A+c_B\phi_B$ に対するエネルギー期待値の分子・分母の計算
  • 規格化条件のもとでの最小化 → Lagrange の未定乗数法 → 行列形の連立方程式 → 永年方程式
  • 等核二原子分子の解 $\varepsilon_{\pm}=\dfrac{\alpha\pm\beta}{1\pm S}$ と,反結合性軌道の上がり幅のほうが結合性軌道の下がり幅より大きいという重要事実(比は $(1+S)/(1-S)$)
  • He$_2$ 分子が存在しない理由,エネルギーギャップ $\Delta\varepsilon=2(S\alpha-\beta)/(1-S^2)$ から読み取れること
  • 異核二原子分子における共有結合エネルギー $V_2$,極性エネルギー $V_3$,共有結合度 $\alpha_c$ とイオン結合度 $\alpha_p$(Harrison の定義)
  • 100 %イオン結合が原理的に存在しないこと,100 %共有結合は等核二原子分子に限られること
前提:変分原理(第3章),1s 軌道の重なり積分 $S(R)$ の計算(第5章),Born–Oppenheimer 近似(第8章),Pauli の排他律と電子配置(第7章).Lagrange の未定乗数法は付録A「数学の道具箱」A.4 節に自己完結した解説がある.2 次方程式の解の公式と $2\times2$ 行列式が使えれば,本章の計算はすべて手で追える.

11.1 共有結合は量子力学的効果である

11.1.1 二度も出てきたあの図

本書ではすでに二度,同じ図を見ている.二つの水素原子を近づけると,1s 軌道が二つのぶんだけ混ざり合い,結合性軌道(bonding orbital)と反結合性軌道(antibonding orbital)という二本の分子軌道ができる,という図である.第2章では周期表の話の枕として,第10章では Molcalc の計算結果を読むときに登場した.同じ図が繰り返し現れるのは,それが共有結合の本質をそのまま絵にしたものだからである.

これまでは「そういうものだ」として受け入れてもらった.本章の目的は,この図を数式から導くことである.必要な道具はすでに全部そろっている.第3章の変分原理,第5章の重なり積分,そして付録A の Lagrange の未定乗数法.この三つを組み合わせるだけで,結合性軌道と反結合性軌道が自動的に出てくる.

xz核A核BR電子(位置 r)rArB破線は原子軌道 φA, φB の広がりの目安.重なっている領域が共有結合を生む
図11.1 二原子分子の座標系.原子核 A, B は距離 $R$ 離れて $z$ 軸上に置き,電子 1 個の位置を $\bm{r}$,各核からの距離を $r_A$, $r_B$ と書く.Born–Oppenheimer 近似(第8章)により核は固定されているとみなす.

11.1.2 粒子の同等性

共有結合が形成されるとき,2 個の電子が結合性軌道に入る.ではこの 2 個のうち,どちらが原子 A から来た電子で,どちらが原子 B から来た電子だろうか.

答えは「その問いは意味をなさない」である.

原理:粒子の同等性(identity of particles)

ミクロな系では,2 個の同種粒子は本質的に区別できない.電子に番号を書き込んでおいて後から追跡する,ということは原理的に不可能である.したがって「1 番の電子は A 由来,2 番は B 由来」という言明は,物理的に検証しうる意味をもたない.

第7章で Slater 行列式を導入したときにも同じ原理を使った.あのときは「2 電子を入れ替えると波動関数の符号が変わる」という反対称性として現れた.本章では,もっと素朴な形で効いてくる.すなわち,電子の存在確率が A 側と B 側の両方にまたがって広がってよい,ということである.

なぜ?:区別できないと,なぜ得をするのか

古典的な粒子であれば,電子 1 は核 A のまわりを回り,電子 2 は核 B のまわりを回る,という描像に固定される.このとき電子 1 は核 A の Coulomb 引力しか十分には感じない.ところが電子が区別できず,A の近くにも B の近くにも同時に「いる」ことが許されるなら,同じ 1 個の電子が二つの核の引力を同時に受け取れる.原子核が 2 個あるところに電子が広がれば,引力ポテンシャルの井戸が深くなる.エネルギーが下がる.これが共有結合である.

望月先生の言い方を借りれば,粒子は“かくれんぼ”が大好きらしい.どこにいるか分からないでいてくれるほうが,系は安定するのである.この一見不思議な事情を,本章では数式で確かめる.

11.1.3 「出身地が分かってしまう」と結合できない

逆を考えてみよう.もし何らかの事情で「この電子は間違いなく原子 B のものだ」と確定してしまったら,どうなるか.電子は B のまわりにしか存在しないから,核 A の引力は受け取れない.エネルギーは下がらない.すなわち共有結合は形成されない.

これがイオン結合(ionic bond)の極限である.11.9 節で見るように,この極限では分子軌道のエネルギーは原子軌道のエネルギーとまったく同じままで,1 eV も安定化しない.「電子の出身地が分かる」ことと「共有結合ができない」ことは,同じ事態の表と裏なのである.

もっとも,現実の物質では純粋な共有結合も純粋なイオン結合も存在せず,両者は連続的につながっている.その「つながり具合」を定量化する道具が,11.8 節で導入する共有結合度 $\alpha_c$ とイオン結合度 $\alpha_p$ である.言葉だけでは納得しがたい話なので,以下では最初から数式で追いかけていく.

11.2 三つの積分 — 重なり積分・Coulomb積分・共鳴積分

11.2.1 設定とハミルトニアン

図11.1 のように,原子核 A と原子核 B が距離 $R$ だけ離れて固定されている系を考える.Born–Oppenheimer 近似(第8章)により,核の運動は電子の運動から切り離してよく,核間距離 $R$ は単なるパラメータとして扱える.この核の作る場のなかを動く電子 1 個のハミルトニアンは,SI 単位系で

$$ \begin{equation} \Ham = -\frac{\hbar^2}{2m}\nabla^2 \;-\; \frac{\ee^2}{4\pi\eps r_A} \;-\; \frac{\ee^2}{4\pi\eps r_B} \label{eq:11-hamiltonian} \end{equation} $$

である.第 1 項が運動エネルギー,第 2 項が核 A からの Coulomb 引力,第 3 項が核 B からの Coulomb 引力である.核どうしの反発 $\ee^2/(4\pi\eps R)$ は電子座標に依らない定数なので,いまは省いておき,全エネルギーを議論するときに足し戻す.

原子 A の 1 個の原子軌道を $\phi_A(\bm{r})$,原子 B のそれを $\phi_B(\bm{r})$ と書く.水素分子なら両方とも 1s 軌道

$$ \phi_{1s}(r)=\frac{1}{\sqrt{\pi a_0^3}}\,e^{-r/a_0},\qquad a_0=\frac{\eps h^2}{\pi m \ee^2}=0.529\times10^{-10}\ \mathrm{m} $$

である.$\phi_A$, $\phi_B$ はそれぞれ単独では規格化されている($\int\abs{\phi_A}^2\dd^3r=1$)としてよい.以下,これらは実関数とする(1s 軌道は実関数である).

11.2.2 重なり積分 $S$

定義:重なり積分(overlap integral)

二つの原子軌道 $\phi_A$, $\phi_B$ の重なり積分を

$$ \begin{equation} S \;=\; \braket{\phi_A|\phi_B} \;=\; \iiint \phi_A^{*}(\bm{r})\,\phi_B(\bm{r})\,\dd x\,\dd y\,\dd z \label{eq:11-overlap-def} \end{equation} $$

で定義する.$S$ は二つの軌道がどれだけ空間的に重なっているかを表す無次元量である.

$S$ の値の範囲は,Schwarz の不等式(付録A)から直ちに分かる.$\abs{\braket{\phi_A|\phi_B}}^2 \le \braket{\phi_A|\phi_A}\braket{\phi_B|\phi_B} = 1$ であるから $\abs{S}\le 1$ である.同符号の 1s 軌道どうしなら被積分関数はいたるところ正なので $S\gt 0$,すなわち

$$ 0 \le S \le 1 $$

である.$R\to\infty$ では $S\to0$(軌道はまったく重ならない),$R\to0$ では $S\to1$(二つの軌道が完全に一致する).

第5章で,1s 軌道どうしの重なり積分を楕円座標を使って解析的に計算し,

$$ \begin{equation} S(R)=\left(1+\frac{R}{a_0}+\frac{1}{3}\frac{R^2}{a_0^2}\right)e^{-R/a_0} \label{eq:11-overlap-1s} \end{equation} $$

という結果を得た.この式は本章でも数値例として何度も使う.

例題11.1 水素分子の重なり積分

水素分子 H$_2$ の平衡核間距離は $R=1.40\,a_0=0.741\times10^{-10}\ \mathrm{m}$ である.式\eqref{eq:11-overlap-1s} から $S$ を求めよ.

解答:$x\equiv R/a_0=1.40$ を代入する.まず括弧の中を計算すると

$$ 1+x+\frac{x^2}{3}=1+1.40+\frac{1.96}{3}=1+1.40+0.65333=3.05333 . $$

次に指数関数は $e^{-1.40}=0.246597$.したがって

$$ S=3.05333\times0.246597=0.75294\simeq 0.753 . $$

これはかなり大きな重なりである.1 に近い値なので,$1-S=0.247$ という小さな数が後の式の分母に現れることになる.この事実が 11.6 節の「反結合性軌道が大きく上がる」という結論を生む.

11.2.3 Coulomb 積分 $\alpha$(原子の準位)

定義:Coulomb 積分(Coulomb integral)

各原子軌道について,ハミルトニアン\eqref{eq:11-hamiltonian} の期待値

$$ \begin{equation} \alpha_A=\braket{\phi_A|\Ham|\phi_A}=\iiint \phi_A^{*}\,\Ham\,\phi_A\,\dd x\,\dd y\,\dd z,\qquad \alpha_B=\braket{\phi_B|\Ham|\phi_B} \label{eq:11-alpha-def} \end{equation} $$

をCoulomb 積分と呼ぶ.$\alpha_A$ は「原子 A に電子がとどまっているときのエネルギー」であり,化学結合が形成される前の電子準位にほぼ等しい.エネルギーの次元をもつ.

「ほぼ等しい」と書いたのは,$\alpha_A$ が孤立原子の準位 $\epsilon_{1s}$ とわずかに違うからである.その中身を確かめておこう.

導出:$\alpha_A$ の中身を分解する

孤立した原子 A のハミルトニアンを $\Ham_A=-\dfrac{\hbar^2}{2m}\nabla^2-\dfrac{\ee^2}{4\pi\eps r_A}$ と書くと,定義により $\Ham_A\phi_A=\epsilon_{1s}\phi_A$ である($\epsilon_{1s}=-13.606\ \mathrm{eV}$,第2章).全ハミルトニアン\eqref{eq:11-hamiltonian} はこれに核 B からの引力を足したものだから,

$$ \Ham=\Ham_A-\frac{\ee^2}{4\pi\eps r_B}. $$

したがって

$$ \begin{align} \alpha_A &= \braket{\phi_A|\Ham_A|\phi_A}-\frac{\ee^2}{4\pi\eps}\braket{\phi_A\Big|\frac{1}{r_B}\Big|\phi_A}\nonumber\\ &= \epsilon_{1s}\braket{\phi_A|\phi_A}-\frac{\ee^2}{4\pi\eps}\iiint\frac{\abs{\phi_A(\bm{r})}^2}{r_B}\dd^3r = \epsilon_{1s}-j \label{eq:11-alpha-decomp} \end{align} $$

ここで $j\equiv\dfrac{\ee^2}{4\pi\eps}\displaystyle\iiint\frac{\abs{\phi_A}^2}{r_B}\dd^3r\;\gt\;0$ である.被積分関数は正なので $j\gt0$,すなわち

$$ \alpha_A=\epsilon_{1s}-j\;\lt\;\epsilon_{1s}\;\lt\;0 . $$

$j$ は「原子 A に居座っている電子雲が,もう一方の核 B から受け取る引力エネルギー」である.相手の核が近づいてくるだけで準位はわずかに下がる.ただしこの下がりは結合をつくるほど大きくはなく,共有結合の主役はあくまで次に述べる $\beta$ である.

11.2.4 共鳴積分 $\beta$

定義:共鳴積分(resonance integral)

異なる原子軌道どうしをハミルトニアンで結んだ行列要素

$$ \begin{equation} \beta=\braket{\phi_A|\Ham|\phi_B}=\iiint \phi_A^{*}\,\Ham\,\phi_B\,\dd x\,\dd y\,\dd z \label{eq:11-beta-def} \end{equation} $$

を共鳴積分(または移動積分,hopping integral)と呼ぶ.$\Ham$ がエルミートで $\phi_A,\phi_B$ が実関数なら $\braket{\phi_B|\Ham|\phi_A}=\beta$ でもある.

この積分こそが本章の主役である.$\beta$ は「電子が A から B へ乗り移る振幅」に対応する量で,$\beta=0$ なら電子は A に居るか B に居るかのどちらかに固定され,共有結合は生じない.11.9 節でこの点を厳密に確認する.

導出:$\beta$ の中身と符号

今度は $\Ham=\Ham_B-\dfrac{\ee^2}{4\pi\eps r_A}$ と分解する($\Ham_B\phi_B=\epsilon_{1s}\phi_B$).すると

$$ \begin{align} \beta &= \braket{\phi_A|\Ham_B|\phi_B}-\frac{\ee^2}{4\pi\eps}\braket{\phi_A\Big|\frac{1}{r_A}\Big|\phi_B}\nonumber\\ &= \epsilon_{1s}\braket{\phi_A|\phi_B}-\frac{\ee^2}{4\pi\eps}\iiint\frac{\phi_A(\bm{r})\phi_B(\bm{r})}{r_A}\dd^3r = \epsilon_{1s}S-k \label{eq:11-beta-decomp} \end{align} $$

ここで $k\equiv\dfrac{\ee^2}{4\pi\eps}\displaystyle\iiint\frac{\phi_A\phi_B}{r_A}\dd^3r$ である.同符号の 1s 軌道どうしなら $\phi_A\phi_B\gt0$ なので $k\gt0$.また $\epsilon_{1s}\lt0$,$S\gt0$ だから $\epsilon_{1s}S\lt0$.両項とも負であり,

$$ \beta=\epsilon_{1s}S-k\;\lt\;0 $$

が結論される.$k$ は「A と B の重なり領域にある電子密度 $\phi_A\phi_B$ が核 A から受ける引力」を表し,共有結合のエネルギー利得の源泉である.$j$ も $k$ も 1 電子積分であり,第9章で登場した多電子系の Coulomb 積分 $U$・交換積分 $J$ とは別物である点に注意してほしい(記号の衝突を避けるため小文字にした).

物理的意味:三つの積分の役割分担

一般に $\alpha\lt0$,$\beta\lt0$,$0\le S\le1$ である.ただし軌道の対称性によっては $\beta$ の符号が反転することがある(例:$p$ 軌道どうしの $\sigma$ 型の重なりでは位相の取り方で符号が変わる).この符号の問題は第12章で対称性の言葉を使って整理する.

注意:$\alpha$ を「Coulomb 積分」と呼ぶ流儀について

本章の $\alpha=\braket{\phi_A|\Ham|\phi_A}$ を「Coulomb 積分」と呼ぶのは Hückel 法以来の慣習であり,講義でもこの呼び方を採用している.しかし第9章で扱った多電子系の Coulomb 積分 $U_{ij}=\braket{ij|ij}$(2 電子積分)とはまったく別の量である.混乱を避けたい場合は,$\alpha$ を単に「原子の準位」あるいは「対角行列要素」,$\beta$ を「非対角行列要素」と読み替えてもよい.実際,第14章でバンド計算に進むときはこの読み替えのほうが自然になる.

11.3 LCAO 近似とエネルギー期待値

11.3.1 試行関数の設定

三つの積分がそろったので,変分原理(第3章)の出番である.分子の 1 電子波動関数(分子軌道)を,二つの原子軌道の一次結合として書く.

定義:LCAO 近似

分子軌道を原子軌道の一次結合で近似する方法をLCAO 近似(Linear Combination of Atomic Orbitals)という.二原子分子 AB の場合は

$$ \begin{equation} \Psi(\bm{r})=c_A\phi_A(\bm{r})+c_B\phi_B(\bm{r}) \label{eq:11-lcao} \end{equation} $$

と書く.$c_A$, $c_B$ が変分パラメータであり,これを動かしてエネルギーを最小にする.以下,$c_A$, $c_B$ は実数とする($\phi_A$, $\phi_B$ が実関数で,$\Ham$ が実演算子ならこれで一般性を失わない).

なぜ?:なぜ「足し算」でよいのか

核 A のすぐそばでは,電子は核 B の存在をほとんど感じない.したがってそこでの波動関数は $\phi_A$ にほぼ等しいはずである.核 B のそばでは逆に $\phi_B$ に近い.この二つの要請を同時に満たす最も簡単な関数形が,両者の一次結合\eqref{eq:11-lcao} である.第3章の言葉でいえば,これは2 個のパラメータをもつ試行関数であり,変分原理により「この形の中でいちばん良いもの」が選ばれる.

もちろんこれは近似である.真の分子軌道は 1s 軌道 2 個の一次結合では書けない.第6章で見たように,基底関数を増やせば精度は上がる(STO-3G → 6-31G* → …).しかし2 個で止めるからこそ手で解けるのであり,そこから読み取れる物理は基底関数を増やしても変わらない.

変分原理により,われわれが最小化すべき量は Rayleigh 商

$$ \begin{equation} E=\frac{\braket{\Psi|\Ham|\Psi}}{\braket{\Psi|\Psi}} \label{eq:11-rayleigh} \end{equation} $$

である.分子と分母をそれぞれ $c_A$, $c_B$ で書き下すことから始めよう.

11.3.2 分子 $\braket{\Psi|\Ham|\Psi}$ の計算

式\eqref{eq:11-lcao} を代入して,$\Ham$ の線形性を使って展開する.途中を省かずに書くと

$$ \begin{align} \braket{\Psi|\Ham|\Psi} &=\iiint \Psi^{*}\Ham\Psi\,\dd x\dd y\dd z \nonumber\\ &=\iiint \bigl(c_A\phi_A^{*}+c_B\phi_B^{*}\bigr)\,\Ham\,\bigl(c_A\phi_A+c_B\phi_B\bigr)\,\dd x\dd y\dd z \nonumber\\ &=\iiint\Bigl( c_Ac_A\,\phi_A^{*}\Ham\phi_A +c_Bc_B\,\phi_B^{*}\Ham\phi_B +c_Ac_B\,\phi_A^{*}\Ham\phi_B +c_Bc_A\,\phi_B^{*}\Ham\phi_A \Bigr)\dd x\dd y\dd z . \label{eq:11-numer-expand} \end{align} $$

4 個の積分はそれぞれ 11.2 節で定義した量にほかならない.第 1 項が $\alpha_A$,第 2 項が $\alpha_B$,第 3 項と第 4 項がともに $\beta$ である.したがって

$$ \begin{equation} \braket{\Psi|\Ham|\Psi}=c_A^2\alpha_A+c_B^2\alpha_B+c_Ac_B\beta+c_Bc_A\beta =c_A^2\alpha_A+c_B^2\alpha_B+2c_Ac_B\beta . \label{eq:11-numer} \end{equation} $$

11.3.3 分母 $\braket{\Psi|\Psi}$ の計算

まったく同じ手順を,$\Ham$ を単位演算子に置き換えて実行する.

$$ \begin{align} \braket{\Psi|\Psi} &=\iiint\bigl(c_A\phi_A^{*}+c_B\phi_B^{*}\bigr)\bigl(c_A\phi_A+c_B\phi_B\bigr)\dd x\dd y\dd z\nonumber\\ &=\iiint\Bigl(c_A^2\phi_A^{*}\phi_A+c_B^2\phi_B^{*}\phi_B+c_Ac_B\phi_A^{*}\phi_B+c_Bc_A\phi_B^{*}\phi_A\Bigr)\dd x\dd y\dd z\nonumber\\ &=c_A^2\cdot 1+c_B^2\cdot 1+c_Ac_B S+c_Bc_A S =c_A^2+c_B^2+2c_Ac_BS . \label{eq:11-denom} \end{align} $$

ここで $\phi_A$, $\phi_B$ がそれぞれ規格化されていること($\braket{\phi_A|\phi_A}=\braket{\phi_B|\phi_B}=1$)と,重なり積分の定義\eqref{eq:11-overlap-def} を使った.

まとめると,LCAO 試行関数に対するエネルギー期待値は

$$ \begin{equation} E(c_A,c_B)=\frac{c_A^2\alpha_A+c_B^2\alpha_B+2c_Ac_B\beta}{c_A^2+c_B^2+2c_Ac_BS} \label{eq:11-energy-ratio} \end{equation} $$

となる.あとはこれを $c_A$, $c_B$ について最小化するだけである.

数学ノート:分母に $S$ があることの意味

もし $S=0$ なら分母は $c_A^2+c_B^2$ という素直なピタゴラス型になる.$S\ne0$ のとき分母に交差項 $2c_Ac_BS$ が現れるのは,$\phi_A$ と $\phi_B$ が直交していないからである.線形代数の言葉でいえば,$\{\phi_A,\phi_B\}$ は基底ではあるが正規直交基底ではなく,計量(内積の行列)が

$$ \bm{S}=\begin{pmatrix}1 & S\\ S & 1\end{pmatrix} $$

という単位行列でない行列になっている.このため次節で得られる固有値問題は,通常の $\bm{H}\bm{c}=\varepsilon\bm{c}$ ではなく一般化固有値問題 $\bm{H}\bm{c}=\varepsilon\bm{S}\bm{c}$ になる.量子化学の計算プログラム(第10章の PySCF など)が内部で必ず重なり行列 $\bm{S}$ を作っているのは,このためである.

11.4 Lagrange の未定乗数法

11.4.1 拘束条件つき最小化として定式化する

式\eqref{eq:11-energy-ratio} をそのまま $c_A$, $c_B$ で偏微分してもよいが,分数の微分は煩雑である.そこで発想を変える.$\Psi$ の全体倍は物理的に同じ状態を表すのだから,あらかじめ規格化されているものだけを考えればよい.すなわち

$$ \begin{equation} \braket{\Psi|\Psi}=c_A^2+c_B^2+2c_Ac_BS=1 \label{eq:11-constraint} \end{equation} $$

という拘束条件のもとで,分子 $\braket{\Psi|\Ham|\Psi}$ だけを最小化すればよい.分母が 1 に固定されるので,分子の最小化が $E$ の最小化と同じになる.

注意:規格化を「電子 2 個分」でとる流儀について

教科書や講義資料によっては,水素分子には電子が 2 個あることを反映させて $\braket{\Psi|\Psi}=2$(総電子数)と規格化する流儀がある.この場合,Lagrange 乗数 $\varepsilon$ は本書の値のちょうど半分になり,結果は $\varepsilon_b=\dfrac{\alpha+\beta}{2(1+S)}$ の形で書かれる.得られる係数の比や波動関数の形は同じであり,物理的な内容は変わらない.しかしこの流儀では「$\varepsilon$ は 1 電子あたりのエネルギーの半分」という中途半端な量になってしまい,$2\varepsilon$ や $4\varepsilon$ といった因子の管理を間違えやすい.

本書では,現代の量子化学・固体物理の標準に従って1 電子分子軌道を $\braket{\Psi|\Psi}=1$ で規格化し,$\varepsilon$ をそのまま軌道エネルギーとする.したがって本書では $\varepsilon_{\pm}=\dfrac{\alpha\pm\beta}{1\pm S}$ となり,そこに 2 個の電子を入れたときの全エネルギーは $E=2\varepsilon_{+}$ である.他書と数式を見比べるときは,まず規格化の約束を確認する習慣をつけてほしい.

11.4.2 Lagrange 関数をつくる

拘束条件つきの極値問題は,Lagrange の未定乗数法(付録A の A.4 節)で扱うのが定石である.乗数を $\varepsilon$ と書き,

$$ \begin{equation} F(c_A,c_B,\varepsilon)=\underbrace{c_A^2\alpha_A+c_B^2\alpha_B+2c_Ac_B\beta}_{\braket{\Psi|\Ham|\Psi}} -\varepsilon\Bigl(\underbrace{c_A^2+c_B^2+2c_Ac_BS}_{\braket{\Psi|\Psi}}-1\Bigr) \label{eq:11-lagrangian} \end{equation} $$

という関数 $F$ を作る.極値の必要条件は

$$ \frac{\partial F}{\partial c_A}=\frac{\partial F}{\partial c_B}=\frac{\partial F}{\partial \varepsilon}=0 $$

である.順に計算しよう.$c_A$ で偏微分すると($c_B$ と $\varepsilon$ は定数扱い),

$$ \begin{align} \frac{\partial F}{\partial c_A} &=2c_A\alpha_A+2c_B\beta-\varepsilon\bigl(2c_A+2c_BS\bigr)=0 . \label{eq:11-partial-ca} \end{align} $$

両辺を 2 で割って整理すると

$$ \begin{equation} (\alpha_A-\varepsilon)\,c_A+(\beta-\varepsilon S)\,c_B=0 . \label{eq:11-lin1} \end{equation} $$

同様に $c_B$ で偏微分すると

$$ \frac{\partial F}{\partial c_B}=2c_B\alpha_B+2c_A\beta-\varepsilon\bigl(2c_B+2c_AS\bigr)=0 $$

すなわち

$$ \begin{equation} (\beta-\varepsilon S)\,c_A+(\alpha_B-\varepsilon)\,c_B=0 . \label{eq:11-lin2} \end{equation} $$

最後に $\varepsilon$ で偏微分すると

$$ \frac{\partial F}{\partial \varepsilon}=-\bigl(c_A^2+c_B^2+2c_Ac_BS-1\bigr)=0 $$

となり,これは拘束条件\eqref{eq:11-constraint} そのものである.未定乗数法では,乗数についての偏微分が拘束条件を再現する.これは常に成り立つ一般的な性質であり,計算が正しいことの良い確認になる.

11.4.3 行列形にまとめる

式\eqref{eq:11-lin1}, \eqref{eq:11-lin2} は $c_A$, $c_B$ についての連立 1 次方程式である.行列で書くと

$$ \begin{equation} \begin{pmatrix} \alpha_A-\varepsilon & \beta-\varepsilon S\\[2pt] \beta-\varepsilon S & \alpha_B-\varepsilon \end{pmatrix} \begin{pmatrix}c_A\\[2pt] c_B\end{pmatrix} = \begin{pmatrix}0\\[2pt] 0\end{pmatrix} \label{eq:11-matrix} \end{equation} $$

となる.これは 11.3.3 節の数学ノートで予告した一般化固有値問題 $\bm{H}\bm{c}=\varepsilon\bm{S}\bm{c}$ を,右辺を移項して書いたものにほかならない.実際,

$$ \bm{H}=\begin{pmatrix}\alpha_A & \beta\\ \beta & \alpha_B\end{pmatrix},\qquad \bm{S}=\begin{pmatrix}1 & S\\ S & 1\end{pmatrix},\qquad \bm{c}=\begin{pmatrix}c_A\\ c_B\end{pmatrix} $$

と置けば,式\eqref{eq:11-matrix} は $(\bm{H}-\varepsilon\bm{S})\bm{c}=\bm{0}$ である.

物理的意味:Lagrange 乗数 $\varepsilon$ の正体は軌道エネルギーである

「未定乗数」という名前は便宜的な補助変数を思わせるが,ここでの $\varepsilon$ は明確な物理的意味をもつ.それを確かめよう.式\eqref{eq:11-lin1} の両辺に $c_A$ を,式\eqref{eq:11-lin2} の両辺に $c_B$ を掛けて足し合わせる:

$$ \begin{align} &c_A^2(\alpha_A-\varepsilon)+c_Ac_B(\beta-\varepsilon S)+c_Ac_B(\beta-\varepsilon S)+c_B^2(\alpha_B-\varepsilon)=0\nonumber\\ \Longrightarrow\;&\bigl(c_A^2\alpha_A+c_B^2\alpha_B+2c_Ac_B\beta\bigr)-\varepsilon\bigl(c_A^2+c_B^2+2c_Ac_BS\bigr)=0\nonumber\\ \Longrightarrow\;&\braket{\Psi|\Ham|\Psi}-\varepsilon\braket{\Psi|\Psi}=0 .\nonumber \end{align} $$

すなわち

$$ \varepsilon=\frac{\braket{\Psi|\Ham|\Psi}}{\braket{\Psi|\Psi}}=E . $$

Lagrange 乗数 $\varepsilon$ は,その解に対応するエネルギー期待値そのものである.これは偶然ではなく,規格化拘束つきの変分問題に共通する構造である.第10章の Kohn–Sham 方程式や Hartree–Fock 方程式で軌道エネルギーが「規格直交拘束の Lagrange 乗数」として現れたのと,まったく同じ事情である.

11.5 永年方程式

11.5.1 自明でない解が存在する条件

式\eqref{eq:11-matrix} は右辺が零ベクトルの連立 1 次方程式(同次連立方程式)である.$c_A=c_B=0$ は必ず解になるが,これでは $\Psi\equiv0$ となり波動関数として意味をなさない.これを自明な解(trivial solution)と呼ぶ.

われわれが欲しいのは自明でない解である.ここで線形代数の基本定理を思い出そう.

数学ノート:同次連立方程式が自明でない解をもつ条件

$\bm{M}\bm{c}=\bm{0}$ において,行列 $\bm{M}$ に逆行列 $\bm{M}^{-1}$ が存在すれば,両辺に左から掛けて $\bm{c}=\bm{M}^{-1}\bm{0}=\bm{0}$ となり,解は自明なものだけになってしまう.したがって自明でない解が存在するためには $\bm{M}$ が逆行列をもたないこと,すなわち

$$ \det \bm{M}=0 $$

が必要十分である.$2\times2$ 行列なら $\det\begin{pmatrix}a&b\\c&d\end{pmatrix}=ad-bc$ である.

定義:永年方程式(secular equation)

式\eqref{eq:11-matrix} が自明でない解をもつ条件

$$ \begin{equation} \begin{vmatrix} \alpha_A-\varepsilon & \beta-\varepsilon S\\[2pt] \beta-\varepsilon S & \alpha_B-\varepsilon \end{vmatrix}=0 \label{eq:11-secular-det} \end{equation} $$

を永年方程式という.「永年」は英語 secular の訳で,もともとは天体力学で惑星軌道の長期(世紀=ラテン語 saeculum スケール)変動を扱う方程式を指した言葉である.同じ形の固有値問題が量子化学に現れたため,名前だけが受け継がれた.

11.5.2 展開して $\varepsilon$ の 2 次方程式にする

行列式を展開する.

$$ \begin{equation} (\alpha_A-\varepsilon)(\alpha_B-\varepsilon)-(\beta-\varepsilon S)^2=0 . \label{eq:11-secular-expanded} \end{equation} $$

これを $\varepsilon$ について整理しよう.第 1 項は

$$ (\alpha_A-\varepsilon)(\alpha_B-\varepsilon)=\alpha_A\alpha_B-(\alpha_A+\alpha_B)\varepsilon+\varepsilon^2, $$

第 2 項は

$$ (\beta-\varepsilon S)^2=\beta^2-2\beta S\varepsilon+S^2\varepsilon^2 . $$

両者の差をとって $\varepsilon$ の次数ごとにまとめると,

$$ \begin{align} &\bigl(\varepsilon^2-S^2\varepsilon^2\bigr) +\bigl(-(\alpha_A+\alpha_B)\varepsilon+2\beta S\varepsilon\bigr) +\bigl(\alpha_A\alpha_B-\beta^2\bigr)=0\nonumber\\ \Longrightarrow\;& \bigl(1-S^2\bigr)\varepsilon^2-\bigl(\alpha_A+\alpha_B-2\beta S\bigr)\varepsilon+\bigl(\alpha_A\alpha_B-\beta^2\bigr)=0 . \label{eq:11-quadratic} \end{align} $$

$\varepsilon$ についての 2 次方程式が得られた.$S\ne1$ である限り 2 次の係数は 0 でないので,解は 2 個ある.原子軌道を 2 個用意したら,分子軌道も 2 個できる.これは一般に成り立つ規則で,$N$ 個の原子軌道からは $N$ 個の分子軌道ができる.

11.5.3 解の公式を適用する

2 次方程式 $a\varepsilon^2+b\varepsilon+c=0$ の解 $\varepsilon=\bigl(-b\pm\sqrt{b^2-4ac}\bigr)/(2a)$ に

$$ a=1-S^2,\qquad b=-(\alpha_A+\alpha_B-2\beta S),\qquad c=\alpha_A\alpha_B-\beta^2 $$

を代入すると,

$$ \begin{equation} \varepsilon=\frac{\bigl(\alpha_A+\alpha_B-2\beta S\bigr)\pm\sqrt{\bigl(\alpha_A+\alpha_B-2\beta S\bigr)^2-4\bigl(1-S^2\bigr)\bigl(\alpha_A\alpha_B-\beta^2\bigr)}}{2\bigl(1-S^2\bigr)} \label{eq:11-general-solution} \end{equation} $$

を得る.これが二原子分子の分子軌道エネルギーを与える一般式である.以下,まず等核($\alpha_A=\alpha_B$)の場合を詳しく調べ(11.6, 11.7 節),次に異核の場合に進む(11.8 節).

数学ノート:$b$ が偶数の場合の解の公式

講義スライドでは $a x^2+2bx+c=0$ に対する簡略形 $x=\bigl(-b\pm\sqrt{b^2-ac}\bigr)/a$ が使われている.1 次の係数を $2b$ と書けるときは,通常の公式の 2 が約分されてこの形になる.実際,$x=\dfrac{-2b\pm\sqrt{4b^2-4ac}}{2a}=\dfrac{-2b\pm2\sqrt{b^2-ac}}{2a}=\dfrac{-b\pm\sqrt{b^2-ac}}{a}$ である.式\eqref{eq:11-quadratic} でも 1 次の係数は 2 で割り切れるので,この形を使うと計算がやや軽くなる.どちらを使っても結果は同じである.

例題11.2 $S=0$ のときの永年方程式

重なり積分を無視する($S=0$)近似のもとで,式\eqref{eq:11-quadratic} を解き,$\alpha_A=\alpha_B=\alpha$ の場合の解を求めよ.

解答:$S=0$ を式\eqref{eq:11-quadratic} に代入すると

$$ \varepsilon^2-(\alpha_A+\alpha_B)\varepsilon+(\alpha_A\alpha_B-\beta^2)=0 . $$

$\alpha_A=\alpha_B=\alpha$ とすると

$$ \varepsilon^2-2\alpha\varepsilon+(\alpha^2-\beta^2)=0 \;\Longleftrightarrow\; (\varepsilon-\alpha)^2=\beta^2 \;\Longleftrightarrow\; \varepsilon=\alpha\pm\beta . $$

$\beta\lt0$ なので,$\varepsilon=\alpha+\beta$ が下の準位(結合性),$\varepsilon=\alpha-\beta$ が上の準位(反結合性)である.両者は $\alpha$ を中心に完全に対称に $\abs{\beta}$ ずつ上下している.これが $S=0$ のときの姿であり,Hückel 法の出発点でもある.次節では $S\ne0$ にすることでこの対称性が破れる様子を見る.

11.6 等核二原子分子

水素分子 H$_2$ のように,同じ元素の原子が 2 個結びついた分子を等核二原子分子(homonuclear diatomic molecule)という.このとき対称性から $\alpha_A=\alpha_B\equiv\alpha$ である.この場合の永年方程式を最後まで解ききろう.

11.6.1 判別式が完全平方になる

式\eqref{eq:11-general-solution} に $\alpha_A=\alpha_B=\alpha$ を代入する.

$$ \varepsilon=\frac{\bigl(2\alpha-2\beta S\bigr)\pm\sqrt{\bigl(2\alpha-2\beta S\bigr)^2-4\bigl(1-S^2\bigr)\bigl(\alpha^2-\beta^2\bigr)}}{2\bigl(1-S^2\bigr)} . $$

根号の中身を展開しよう.

$$ \begin{align} &\bigl(2\alpha-2\beta S\bigr)^2-4\bigl(1-S^2\bigr)\bigl(\alpha^2-\beta^2\bigr)\nonumber\\ &=4\bigl(\alpha^2-2\alpha\beta S+\beta^2S^2\bigr)-4\bigl(\alpha^2-\beta^2-\alpha^2S^2+\beta^2S^2\bigr)\nonumber\\ &=4\bigl(\alpha^2-2\alpha\beta S+\beta^2S^2-\alpha^2+\beta^2+\alpha^2S^2-\beta^2S^2\bigr)\nonumber\\ &=4\bigl(\alpha^2S^2-2\alpha\beta S+\beta^2\bigr)\nonumber\\ &=4\bigl(\alpha S-\beta\bigr)^2 . \label{eq:11-discriminant} \end{align} $$

見事に完全平方になった.したがって根号がはずれて

$$ \varepsilon=\frac{2\bigl(\alpha-\beta S\bigr)\pm2\bigl(\alpha S-\beta\bigr)}{2\bigl(1-S^2\bigr)} =\frac{\bigl(\alpha-\beta S\bigr)\pm\bigl(\alpha S-\beta\bigr)}{1-S^2} $$

となる($\beta\lt\alpha S\lt0$ のとき $\alpha S-\beta\gt0$ なので,この符号のとり方でよい).

11.6.2 二つの根を整理する

複号が $+$ の場合:

$$ \begin{align} \varepsilon_{-}&=\frac{\alpha-\beta S+\alpha S-\beta}{1-S^2} =\frac{\alpha(1+S)-\beta(1+S)}{(1+S)(1-S)} =\frac{(1+S)(\alpha-\beta)}{(1+S)(1-S)} =\frac{\alpha-\beta}{1-S} .\nonumber \end{align} $$

複号が $-$ の場合:

$$ \begin{align} \varepsilon_{+}&=\frac{\alpha-\beta S-\alpha S+\beta}{1-S^2} =\frac{\alpha(1-S)+\beta(1-S)}{(1+S)(1-S)} =\frac{(1-S)(\alpha+\beta)}{(1+S)(1-S)} =\frac{\alpha+\beta}{1+S} .\nonumber \end{align} $$

因数分解して約分するのがコツである.以上をまとめる.

$$ \begin{equation} \varepsilon_{+}=\frac{\alpha+\beta}{1+S}\quad(\text{結合性軌道}),\qquad \varepsilon_{-}=\frac{\alpha-\beta}{1-S}\quad(\text{反結合性軌道}) \label{eq:11-eps-homonuclear} \end{equation} $$

$\alpha\lt0$, $\beta\lt0$, $0\lt S\lt1$ であることを思い出すと,$\varepsilon_{+}$ の分子 $\alpha+\beta$ は $\alpha$ より深い負の値,$\varepsilon_{-}$ の分子 $\alpha-\beta$ は $\alpha$ より浅い値である.すなわち $\varepsilon_{+}\lt\alpha\lt\varepsilon_{-}$ が期待される.この直感は 11.6.4 節で厳密に確かめる.

注意:添字 $+$/$-$ と $b$/$a$ の対応

本書では分子に現れる符号にそろえて $\varepsilon_{+}$(bonding),$\varepsilon_{-}$(antibonding)と書く.講義スライドや多くの化学の教科書では bonding の b,antibonding の a をとって $\varepsilon_b$, $\varepsilon_a$ と書く.下付きの $+$ が下の準位であることに注意してほしい($\varepsilon_{+}\lt\varepsilon_{-}$).分子軌道そのものは $\Psi_b$(結合性),$\Psi_a$(反結合性)と書く.

11.6.3 係数と波動関数を求める

エネルギーが求まったので,それを連立方程式\eqref{eq:11-lin1}, \eqref{eq:11-lin2} に戻して係数を決める.$\alpha_A=\alpha_B=\alpha$ とした式\eqref{eq:11-lin1} は

$$ \begin{equation} (\alpha-\varepsilon)c_A+(\beta-\varepsilon S)c_B=0 \label{eq:11-lin1-homo} \end{equation} $$

である.

[1]結合性軌道 $\varepsilon=\varepsilon_{+}=\dfrac{\alpha+\beta}{1+S}$ の場合.まず二つの係数を計算する.

$$ \begin{align} \alpha-\varepsilon_{+}&=\alpha-\frac{\alpha+\beta}{1+S} =\frac{\alpha(1+S)-(\alpha+\beta)}{1+S} =\frac{\alpha+\alpha S-\alpha-\beta}{1+S} =\frac{\alpha S-\beta}{1+S},\nonumber\\[6pt] \beta-\varepsilon_{+}S&=\beta-S\,\frac{\alpha+\beta}{1+S} =\frac{\beta(1+S)-S(\alpha+\beta)}{1+S} =\frac{\beta+\beta S-\alpha S-\beta S}{1+S} =\frac{\beta-\alpha S}{1+S} =-\frac{\alpha S-\beta}{1+S}.\nonumber \end{align} $$

これらを式\eqref{eq:11-lin1-homo} に入れると

$$ \frac{\alpha S-\beta}{1+S}\bigl(c_A-c_B\bigr)=0 . $$

$\alpha S-\beta\ne0$($\ne0$ でなければ結合が生じない)なので

$$ c_A=c_B . $$

あとは規格化条件\eqref{eq:11-constraint} で大きさを決める.$c_B=c_A$ を代入すると

$$ c_A^2+c_A^2+2c_A^2S=1 \;\Longleftrightarrow\; 2c_A^2(1+S)=1 \;\Longleftrightarrow\; c_A=\frac{1}{\sqrt{2(1+S)}} . $$

(符号の任意性があるが,正にとる.)したがって結合性分子軌道は

$$ \begin{equation} \Psi_b=\frac{1}{\sqrt{2(1+S)}}\bigl(\phi_A+\phi_B\bigr) \label{eq:11-psi-b} \end{equation} $$

である.$c_A=c_B$ という結果は,電子が原子 A と B にまったく等しく分配されていることを意味する.どちらの原子から来たのか区別がつかない——11.1 節で予告した状況が,そのまま数式に現れた.

[2]反結合性軌道 $\varepsilon=\varepsilon_{-}=\dfrac{\alpha-\beta}{1-S}$ の場合.同様に

$$ \begin{align} \alpha-\varepsilon_{-}&=\alpha-\frac{\alpha-\beta}{1-S} =\frac{\alpha(1-S)-(\alpha-\beta)}{1-S} =\frac{\alpha-\alpha S-\alpha+\beta}{1-S} =\frac{\beta-\alpha S}{1-S},\nonumber\\[6pt] \beta-\varepsilon_{-}S&=\beta-S\,\frac{\alpha-\beta}{1-S} =\frac{\beta(1-S)-S(\alpha-\beta)}{1-S} =\frac{\beta-\beta S-\alpha S+\beta S}{1-S} =\frac{\beta-\alpha S}{1-S}.\nonumber \end{align} $$

両者が同じ値になるので,式\eqref{eq:11-lin1-homo} は

$$ \frac{\beta-\alpha S}{1-S}\bigl(c_A+c_B\bigr)=0 \;\Longrightarrow\; c_A=-c_B . $$

規格化条件に代入すると

$$ c_A^2+c_A^2-2c_A^2S=1 \;\Longleftrightarrow\; 2c_A^2(1-S)=1 \;\Longleftrightarrow\; c_A=\frac{1}{\sqrt{2(1-S)}}, $$

したがって反結合性分子軌道は

$$ \begin{equation} \Psi_a=\frac{1}{\sqrt{2(1-S)}}\bigl(\phi_A-\phi_B\bigr) \label{eq:11-psi-a} \end{equation} $$

である.$S\to1$ で規格化因子が発散することに注意してほしい.$\phi_A$ と $\phi_B$ が一致してしまうと差はゼロになり,そもそも独立な軌道を 2 本作れない.

S=0.753 における結合性軌道 Ψb と反結合性軌道 Ψa の核間軸上の断面.左列が波動関数,右列が電子密度.上段の反結合性軌道は中点に節をもち,核間の密度がゼロで,核の外側で振幅が大きい.下段の結合性軌道は節がなく,核間に電子が溜まる.
図11.2 $S=0.753$(H$_2$ の平衡距離)における結合性軌道 $\Psi_b$ と反結合性軌道 $\Psi_a$ の断面.左が波動関数,右が電子密度 $\abs{\Psi}^2$.縦軸のスケールは左右それぞれ 2 段で共通にとってある.結合性軌道では二つの核の中間に電子が溜まり,二つの核を同時に引き寄せる「のり」の役目を果たす.反結合性軌道は中点に節をもち,核間の電子密度がゼロになる.そのぶん核の外側に電子が押しやられて振幅が高くなっている点にも注目してほしい.

11.6.4 準位図 — 上がり幅のほうが大きい

ここからが本章でもっとも重要な議論である.二つの分子軌道の準位が,もとの原子準位 $\alpha$ からどれだけずれるかを正確に計算しよう.

結合性軌道について:

$$ \begin{align} \varepsilon_{+}-\alpha &=\frac{\alpha+\beta}{1+S}-\alpha =\frac{\alpha+\beta-\alpha(1+S)}{1+S} =\frac{\alpha+\beta-\alpha-\alpha S}{1+S} =\frac{\beta-\alpha S}{1+S} . \label{eq:11-shift-plus} \end{align} $$

反結合性軌道について:

$$ \begin{align} \varepsilon_{-}-\alpha &=\frac{\alpha-\beta}{1-S}-\alpha =\frac{\alpha-\beta-\alpha(1-S)}{1-S} =\frac{\alpha-\beta-\alpha+\alpha S}{1-S} =\frac{\alpha S-\beta}{1-S} =-\frac{\beta-\alpha S}{1-S} . \label{eq:11-shift-minus} \end{align} $$

ここで $D\equiv\beta-\alpha S$ と置く.結合が生じる($\varepsilon_{+}\lt\alpha$)ためには $D\lt0$,すなわち $\beta\lt\alpha S$ が必要である.このとき

$$ \varepsilon_{+}-\alpha=\frac{D}{1+S}\lt0 \quad(\text{下がる}),\qquad \varepsilon_{-}-\alpha=-\frac{D}{1-S}\gt0 \quad(\text{上がる}) $$

となり,結合性軌道は下がり,反結合性軌道は上がる.ここまでは予想どおりである.しかし両者の大きさを比べると,驚くべきことが起こる.

$$ \begin{equation} \frac{\abs{\varepsilon_{-}-\alpha}}{\abs{\varepsilon_{+}-\alpha}} =\frac{\abs{D}/(1-S)}{\abs{D}/(1+S)} =\frac{1+S}{1-S}\;\gt\;1\qquad(S\gt0) \label{eq:11-asymmetry} \end{equation} $$

物理的意味:反結合性軌道は「上がりすぎる」

重なり積分 $S$ が正である限り,反結合性軌道が上がる幅は,結合性軌道が下がる幅より必ず大きい.しかもその比は $\alpha$ にも $\beta$ にもよらず,$(1+S)/(1-S)$ という重なり積分だけで決まる普遍的な値である.

$S=0$ ならこの比は 1 で,上下対称(例題11.2 の結果).$S=0.2$ なら $1.2/0.8=1.5$ 倍.H$_2$ の $S=0.753$ では $1.753/0.247=7.10$ 倍にもなる.

この非対称性はしばしば「重なりに起因する反結合の不安定化」(overlap repulsion)と呼ばれ,結合の飽和性,閉殻分子どうしの反発,He$_2$ が存在しないこと,そして第13章で扱う原子間の斥力芯(Born–Mayer 型の反発項)のすべての根源になっている.これは覚える価値のある一行である.

(a) H₂:2 電子とも結合性軌道へααφA(原子A)φB(原子B)上がり幅 +7.12 eV下がり幅 −1.00 eVΨa :ε− = (α−β)/(1−S)Ψb :ε+ = (α+β)/(1+S)全エネルギー E = 2ε+ = 2α − 2.01 eV→ 安定化する(結合する)α = −13.6 eV, β = −12.0 eV, S = 0.753 とした場合(b) He₂:反結合性軌道まで埋まるHe (1s²)He (1s²)反結合性軌道にも 2 個入る結合性軌道は満席E = 2ε+ + 2ε− = 4α + 12.2 eV→ 不安定化する(結合しない)上がり幅 > 下がり幅 が効いて差し引き損をする
図11.3 等核二原子分子のエネルギー準位図.(a) H$_2$ では 2 個の電子がともに結合性軌道に入るので,下がり幅の分だけ得をして結合する.(b) He$_2$ では 4 個の電子が結合性・反結合性の両方を埋めるため,式\eqref{eq:11-asymmetry} の非対称性がそのまま損失になり,正味では不安定化する.数値は $\alpha=-13.6\ \mathrm{eV}$, $\beta=-12.0\ \mathrm{eV}$, $S=0.753$ とした模型計算値.

11.6.5 電子を詰めて全エネルギーを求める

ここまでは 1 電子の問題を解いていた.実際の水素分子には電子が 2 個ある.Pauli の排他律(第7章)により,1 本の空間軌道にはスピン $\bm{\alpha}$ と $\bm{\beta}$ の電子が 1 個ずつ,合計 2 個まで入れる.エネルギーの低い順に詰めるので,2 個とも結合性軌道 $\Psi_b$ に入る.したがって全エネルギー(電子部分)は

$$ \begin{equation} E=2\varepsilon_{+}=\frac{2(\alpha+\beta)}{1+S} \label{eq:11-total-h2} \end{equation} $$

である.結合前の状態(水素原子 2 個がばらばらに存在し,それぞれ電子を 1 個ずつもつ)のエネルギーは $2\alpha$ であるから,結合によるエネルギー利得は

$$ \begin{equation} \Delta E=2\varepsilon_{+}-2\alpha=\frac{2D}{1+S}=\frac{2(\beta-\alpha S)}{1+S}\;\lt\;0 \label{eq:11-bond-energy} \end{equation} $$

となる.負なので確かに安定化する.これが共有結合の正体である.

例題11.3 水素分子の数値評価

$\alpha=-13.6\ \mathrm{eV}$, $\beta=-12.0\ \mathrm{eV}$, $S=0.753$ として,$\varepsilon_{+}$, $\varepsilon_{-}$,それぞれの $\alpha$ からのずれ,係数 $c_A$,および 2 電子の全エネルギー利得を求めよ.

解答:まず $1+S=1.753$, $1-S=0.247$ である.

$$ \varepsilon_{+}=\frac{-13.6-12.0}{1.753}=\frac{-25.6}{1.753}=-14.604\ \mathrm{eV},\qquad \varepsilon_{-}=\frac{-13.6+12.0}{0.247}=\frac{-1.6}{0.247}=-6.478\ \mathrm{eV}. $$

$\alpha$ からのずれは

$$ \varepsilon_{+}-\alpha=-14.604+13.6=-1.004\ \mathrm{eV},\qquad \varepsilon_{-}-\alpha=-6.478+13.6=+7.122\ \mathrm{eV}. $$

比をとると $7.122/1.004=7.10$ であり,式\eqref{eq:11-asymmetry} の $(1+S)/(1-S)=1.753/0.247=7.097$ と一致する(検算になる).係数は

$$ c_A=c_B=\frac{1}{\sqrt{2\times1.753}}=\frac{1}{1.8724}=0.534 \quad(\Psi_b),\qquad c_A=-c_B=\frac{1}{\sqrt{2\times0.247}}=\frac{1}{0.7029}=1.423 \quad(\Psi_a). $$

全エネルギー利得は式\eqref{eq:11-bond-energy} から $\Delta E=2\times(-1.004)=-2.01\ \mathrm{eV}$ である.

考察:実験値の H$_2$ 解離エネルギーは $4.52\ \mathrm{eV}$($436\ \mathrm{kJ/mol}$)だから,この最小基底の LCAO 模型は結合エネルギーを半分弱しか再現できていない.第6章で「基底関数を増やさないと精度が出ない」と学んだことが,ここでも同じ形で現れている.それでも符号と桁は正しく,非対称性という定性的構造は正確に捉えている.手で解ける模型に期待できるのはこのレベルであり,それで十分に有用なのである.

例題11.4 He$_2$ 分子はなぜできないか

ヘリウム原子は 1s 軌道に 2 個の電子をもつ.He$_2$ を作ろうとすると 4 個の電子を詰めることになる.全エネルギーを求め,He$_2$ が安定に存在しないことを示せ.

解答:4 個の電子は結合性軌道に 2 個,反結合性軌道に 2 個入る.よって

$$ E=2\varepsilon_{+}+2\varepsilon_{-} . $$

結合前(He 原子 2 個)のエネルギーは $4\alpha$ である.差を計算する.式\eqref{eq:11-shift-plus}, \eqref{eq:11-shift-minus} を使うと

$$ \begin{align} \Delta E&=2(\varepsilon_{+}-\alpha)+2(\varepsilon_{-}-\alpha) =2\left(\frac{D}{1+S}-\frac{D}{1-S}\right)\nonumber\\ &=2D\cdot\frac{(1-S)-(1+S)}{(1+S)(1-S)} =2D\cdot\frac{-2S}{1-S^2} =\frac{-4SD}{1-S^2}.\nonumber \end{align} $$

ここで $D=\beta-\alpha S\lt0$,$S\gt0$,$1-S^2\gt0$ であるから

$$ \Delta E=\frac{-4SD}{1-S^2}\;\gt\;0 . $$

$\alpha$ や $\beta$ の具体値によらず,必ず正である.すなわち He$_2$ は結合前よりエネルギーが高く,安定に存在できない.数値を入れると,$\alpha=-13.6$, $\beta=-12.0$, $S=0.753$ の場合 $D=-12.0-(-13.6)(0.753)=-1.759\ \mathrm{eV}$ で

$$ \Delta E=\frac{-4\times0.753\times(-1.759)}{1-0.753^2}=\frac{5.299}{0.4330}=+12.2\ \mathrm{eV}. $$

考察:$S\to0$ の極限では $\Delta E\to0$ となり,上下の準位移動がちょうど打ち消し合う.He$_2$ が「できない」のではなく「わずかに反発する」のは,$S\gt0$ による非対称性のおかげである.この反発が,閉殻原子(希ガス)どうしを近づけたときの斥力の起源であり,第13章で扱う van der Waals 相互作用の斥力項に相当する.なお実際の He$_2$ は分散力によって $10^{-3}\ \mathrm{eV}$ 程度のきわめて弱い結合をもつことが知られているが,それは本章の 1 電子模型の外にある効果である.

11.6.6 第 2 周期の等核二原子分子

同じ考え方は,価電子として 2s, 2p 軌道をもつ第 2 周期元素にもそのまま拡張できる.原子軌道が $2\times4=8$ 本になるので永年方程式は $8\times8$ になるが,対称性を使えば小さなブロックに分解できる(第12章の主題である).結果として得られる分子軌道の並びを図11.4 に示す.

σ*(2p)π*(2p)σ*(2s)σ(2s)N₂σ(2p)π(2p)結合次数 3D = 9.79 eV (945 kJ/mol)d = 1.098 Å反結合性軌道は空O₂π(2p)σ(2p)結合次数 2D = 5.16 eV (498 kJ/mol)d = 1.208 Åπ* に不対電子 2 個 → 常磁性F₂結合次数 1D = 1.65 eV (159 kJ/mol)d = 1.412 Åπ* が満席 → 結合が弱い
図11.4 N$_2$, O$_2$, F$_2$ の価電子分子軌道ダイアグラム(内殻 1s は省略).緑が結合性軌道,灰色と赤が反結合性軌道である.N$_2$ までは 2s–2p 混成の効果で $\sigma(2p)$ が $\pi(2p)$ より上に来る.結合次数は(結合性電子数 − 反結合性電子数)/2 で定義され,これが大きいほど結合は短く強い.O$_2$ の $\pi^*$ に不対電子が 2 個入ることは Hund 則(第7章)の帰結であり,酸素分子が常磁性であるという実験事実を分子軌道法が説明した最初の成功例として知られる.

物理的意味:結合次数と結合の強さ

結合性軌道に入った電子は式\eqref{eq:11-shift-plus} の分だけ系を安定化し,反結合性軌道に入った電子は式\eqref{eq:11-shift-minus} の分だけ不安定化する.しかも後者のほうが 1 電子あたりの影響が大きい(式\eqref{eq:11-asymmetry}).したがって反結合性軌道に電子を入れることは,結合性軌道の電子を 1 個抜くより結合に悪い.N$_2$(結合次数 3,$\pi^*$ 空)→ O$_2$(結合次数 2,$\pi^*$ に 2 個)→ F$_2$(結合次数 1,$\pi^*$ 満席)と反結合性軌道が埋まるにつれ,結合エネルギーが 9.79 → 5.16 → 1.65 eV と急落し,結合長が 1.098 → 1.208 → 1.412 Å と伸びていくのは,この規則がそのまま現れたものである.

11.7 エネルギーギャップから読み取れること

11.7.1 ギャップの表式

結合性軌道と反結合性軌道のエネルギー差

$$ \Delta\varepsilon\equiv\varepsilon_{-}-\varepsilon_{+} $$

を計算しよう.多くの分子ではこれが最高被占軌道と最低空軌道の差,すなわちHOMO–LUMO ギャップになる.通分して

$$ \begin{align} \Delta\varepsilon &=\frac{\alpha-\beta}{1-S}-\frac{\alpha+\beta}{1+S} =\frac{(\alpha-\beta)(1+S)-(\alpha+\beta)(1-S)}{(1-S)(1+S)}\nonumber\\ &=\frac{\bigl(\alpha+\alpha S-\beta-\beta S\bigr)-\bigl(\alpha-\alpha S+\beta-\beta S\bigr)}{1-S^2}\nonumber\\ &=\frac{2\alpha S-2\beta}{1-S^2} \label{eq:11-gap-derive} \end{align} $$

すなわち

$$ \begin{equation} \Delta\varepsilon=\frac{2\bigl(S\alpha-\beta\bigr)}{1-S^2}=\frac{2\abs{D}}{1-S^2} \label{eq:11-gap} \end{equation} $$

である($D=\beta-\alpha S\lt0$ を使った).分母 $1-S^2\gt0$,分子 $2\abs{D}\gt0$ なので $\Delta\varepsilon\gt0$,確かに反結合性軌道のほうが上にある.

11.7.2 読み取れること (1):$\abs{\beta}$ が大きいほどギャップが大きい

まず重なりの小さい極限 $S\to0$ を考える.式\eqref{eq:11-gap} で $S=0$ と置くと

$$ \begin{equation} \Delta\varepsilon\;\xrightarrow[S\to0]{}\;-2\beta=2\abs{\beta} \label{eq:11-gap-limit} \end{equation} $$

となる.ギャップは共鳴積分の絶対値の 2 倍である.これは例題11.2 で見た $\varepsilon=\alpha\pm\beta$ とも整合する.

$\beta=\braket{\phi_A|\Ham|\phi_B}$ の絶対値が大きいということは,二つの原子軌道がハミルトニアンを介して強く結ばれている,すなわち原子間距離が近く,軌道の重なりが大きいということである.したがって

物理的意味:ギャップは結合の強さの目安

原子を近づけると $\abs{\beta}$ が増大し,結合性軌道と反結合性軌道の分裂 $\Delta\varepsilon$ が広がる.分裂が広がれば,結合性軌道に入った 2 個の電子の安定化も大きくなり,結合は強くなる.逆に原子を引き離すと $\beta\to0$, $S\to0$ となり,二つの準位は元の $\alpha$ に縮退して,結合は解ける.

この描像は分子だけの話ではない.固体では原子が $10^{23}$ 個並ぶため,準位は 2 本ではなく無数に分裂してバンドになる.バンド幅は $\abs{\beta}$(固体物理では移動積分 $t$ と書くことが多い)に比例し,結晶を圧縮してバンド幅が広がると金属化する,といった現象が起こる.担当教員のグループでも,エピタキシャル歪みによってバンド幅を制御し金属–絶縁体転移を誘起する研究を行っている[文献 10].本章の $\beta$ は,その最小単位なのである.第14章で再登場する.

11.7.3 読み取れること (2):内殻電子は結合に寄与しない

次に $\alpha$ が非常に深い(大きな負の値をとる)準位,すなわち内殻軌道を考えよう.内殻電子は原子核に強く束縛されているので,その軌道は核のごく近傍に押し込められて空間的な広がりが小さい.したがって隣の原子まで届かず,$S$ も $\beta$ もほとんどゼロになる.

これを数値で確かめてみよう.ダイヤモンド中の炭素原子を例にとる.C の 1s 軌道は Slater 則により有効核電荷 $Z_{\mathrm{eff}}=6-0.30=5.70$ をもち,$\phi_{1s}\propto e^{-Z_{\mathrm{eff}}r/a_0}$ とみなせる.C–C 結合距離は $d=1.54\ \text{Å}=2.911\,a_0$ だから,式\eqref{eq:11-overlap-1s} の $R/a_0$ を $Z_{\mathrm{eff}}R/a_0$ に置き換えて

$$ x=Z_{\mathrm{eff}}\frac{d}{a_0}=5.70\times2.911=16.59, $$ $$ S=\left(1+16.59+\frac{16.59^2}{3}\right)e^{-16.59} =109.3\times6.25\times10^{-8} =6.8\times10^{-6}. $$

一方,水素分子の 1s どうしの重なりは $S=0.753$ であった.その差は 5 桁である.$\beta$ も式\eqref{eq:11-beta-decomp} からわかるように $S$ と同程度に小さくなるので,内殻どうしが結合性・反結合性軌道を組んでもエネルギー利得はほとんどない.

物理的意味:なぜ「価電子」だけを考えればよいのか

化学結合を論じるとき,内殻電子を無視して価電子だけを扱うのは単なる手抜きではなく,上の見積もりに裏づけられた正当な近似である.内殻軌道は結合の前後でほとんど変化せず,$\alpha_{\text{内殻}}$ という深い準位にそのまま留まる.

この事実は第一原理計算の実務でも決定的に重要である.擬ポテンシャル法(pseudopotential)や PAW 法は,まさに「内殻電子は結合に関与しない」という本節の結論を利用して,扱う電子数を大幅に減らす技術である.第14章でこの点に触れる.

α=−13.6 eV, β=−12.0 eV を固定して重なり積分 S を 0 から 0.85 まで変えたときの,反結合性軌道の ε₋=(α−β)/(1−S)(赤)と結合性軌道の ε₊=(α+β)/(1+S)(緑)のグラフ.藍の破線は原子準位 α.H₂(S=0.753)で ε₋=−6.478 eV,ε₊=−14.604 eV であり,α からのずれは +7.12 eV と −1.00 eV.
図11.5 $\alpha=-13.6\ \mathrm{eV}$, $\beta=-12.0\ \mathrm{eV}$ を固定して重なり積分 $S$ だけを変化させたときの $\varepsilon_{\pm}$.$S=0$ では原子準位 $\alpha$(破線)を中心に上下対称に $\abs{\beta}$ ずつ分裂するが,$S$ が大きくなるにつれ結合性軌道は $\alpha$ に向かって急速に押し戻される一方,反結合性軌道はゆっくりとしか下がらない.両者の $\alpha$ からのずれの比は常に $(1+S)/(1-S)$ である.なお現実の分子では $S$ と $\abs{\beta}$ はともに核間距離 $R$ の関数であり独立には動かせないので,この図は数式の構造を見るためのものである.

例題11.5 ギャップの数値と検算

$\alpha=-13.6\ \mathrm{eV}$, $\beta=-12.0\ \mathrm{eV}$, $S=0.753$ のとき,$\Delta\varepsilon$ を (i) 例題11.3 の $\varepsilon_{\pm}$ の差として,(ii) 公式\eqref{eq:11-gap} から,の 2 通りで求め,一致することを確かめよ.また $S\to0$ の値と比較せよ.

解答:(i) $\Delta\varepsilon=\varepsilon_{-}-\varepsilon_{+}=-6.478-(-14.604)=8.126\ \mathrm{eV}$.

(ii) $S\alpha-\beta=0.753\times(-13.6)-(-12.0)=-10.241+12.0=1.759\ \mathrm{eV}$,$1-S^2=1-0.5670=0.4330$.よって

$$ \Delta\varepsilon=\frac{2\times1.759}{0.4330}=\frac{3.518}{0.4330}=8.126\ \mathrm{eV}. $$

一致した.$S\to0$ の極限値は $2\abs{\beta}=24.0\ \mathrm{eV}$ であり,実際のギャップはその 1/3 程度に縮んでいる.大きな重なりはギャップを狭める向きに働くという,直感に反するかもしれない結論である.これは $S$ が大きいと結合性軌道が $\alpha$ の側に押し戻される(図11.5 の緑の曲線)ためで,$\alpha$ と $\beta$ を独立に固定したときの数式上の性質である.現実には $R$ を縮めると $S$ と $\abs{\beta}$ が同時に増大し,後者の効果が勝ってギャップは広がる.

11.8 異核二原子分子 — 共有結合度とイオン結合度

ここまでは $\alpha_A=\alpha_B$ の等核分子を扱ってきた.実際の物質のほとんどは異なる元素の組み合わせであり,$\alpha_A\ne\alpha_B$ である.この場合に何が起こるかを調べよう.式が見やすくなるよう,本節では$S=0$ と置く.11.7 節で見たように $S$ は非対称性の大きさを変えるが,以下で述べる共有結合とイオン結合の競合という構造そのものは変えない.

11.8.1 一般解を書き下す

式\eqref{eq:11-general-solution} に $S=0$ を代入すると

$$ \varepsilon=\frac{\bigl(\alpha_A+\alpha_B\bigr)\pm\sqrt{\bigl(\alpha_A+\alpha_B\bigr)^2-4\bigl(\alpha_A\alpha_B-\beta^2\bigr)}}{2} $$

である.根号の中を整理する.

$$ \begin{align} \bigl(\alpha_A+\alpha_B\bigr)^2-4\alpha_A\alpha_B+4\beta^2 &=\alpha_A^2+2\alpha_A\alpha_B+\alpha_B^2-4\alpha_A\alpha_B+4\beta^2\nonumber\\ &=\alpha_A^2-2\alpha_A\alpha_B+\alpha_B^2+4\beta^2\nonumber\\ &=\bigl(\alpha_A-\alpha_B\bigr)^2+4\beta^2 .\nonumber \end{align} $$

したがって

$$ \varepsilon=\frac{\alpha_A+\alpha_B}{2}\pm\frac{1}{2}\sqrt{\bigl(\alpha_A-\alpha_B\bigr)^2+4\beta^2} $$

となる.根号の前の $1/2$ を中に入れると($\tfrac12\sqrt{X}=\sqrt{X/4}$),

$$ \begin{equation} \varepsilon_{\pm}=\frac{\alpha_A+\alpha_B}{2}\;\mp\;\sqrt{\left(\frac{\alpha_A-\alpha_B}{2}\right)^2+\beta^2} \label{eq:11-hetero-eps} \end{equation} $$

ここでも $\varepsilon_{+}$ を下の準位(結合性),$\varepsilon_{-}$ を上の準位(反結合性)とした(複号の対応に注意).二つの準位は原子準位の平均値 $\bar{\alpha}=(\alpha_A+\alpha_B)/2$ を中心に対称に分裂する.

11.8.2 二つのエネルギースケール

式\eqref{eq:11-hetero-eps} の根号の中には,性格のまったく異なる二つの量が足し合わされている.W. A. Harrison はこれらに名前を与えた[文献 3].

定義:共有結合エネルギーと極性エネルギー(Harrison)

異核二原子分子について

$$ \begin{equation} V_2\equiv\abs{\beta}\quad(\text{共有結合エネルギー, covalent energy}),\qquad V_3\equiv\frac{\abs{\alpha_A-\alpha_B}}{2}\quad(\text{極性エネルギー, polar energy}) \label{eq:11-v2v3} \end{equation} $$

と定義する.$V_2$ は「電子が A と B を行き来する能力」,$V_3$ は「二つの原子の電気陰性度の違い」を表す.両者ともエネルギーの次元をもち,正の値である.

この記号を使うと,式\eqref{eq:11-hetero-eps} は

$$ \begin{equation} \varepsilon_{\pm}=\bar{\alpha}\mp\sqrt{V_2^2+V_3^2},\qquad \bar{\alpha}=\frac{\alpha_A+\alpha_B}{2} \label{eq:11-hetero-eps-v} \end{equation} $$

と簡潔に書ける.エネルギーギャップは

$$ \begin{equation} \Delta\varepsilon=\varepsilon_{-}-\varepsilon_{+}=2\sqrt{V_2^2+V_3^2} \label{eq:11-hetero-gap} \end{equation} $$

である.ピタゴラスの定理そのものの形をしていることに注目してほしい.$V_2$ と $V_3$ を直角三角形の二辺とすると,$\Delta\varepsilon/2$ がその斜辺になる.

11.8.3 共有結合度とイオン結合度

斜辺に対する各辺の比をとれば,結合の「性格」を数値化できる.

定義:共有結合度とイオン結合度(Harrison)

$$ \begin{equation} \alpha_c=\frac{V_2}{\sqrt{V_2^2+V_3^2}}\quad(\text{共有結合度, covalency}),\qquad \alpha_p=\frac{V_3}{\sqrt{V_2^2+V_3^2}}\quad(\text{イオン結合度・極性, polarity}) \label{eq:11-covalency} \end{equation} $$

と定義する.定義から直ちに

$$ \begin{equation} \alpha_c^2+\alpha_p^2=\frac{V_2^2}{V_2^2+V_3^2}+\frac{V_3^2}{V_2^2+V_3^2}=\frac{V_2^2+V_3^2}{V_2^2+V_3^2}=1 \label{eq:11-pythagoras} \end{equation} $$

が成り立つ.$0\le\alpha_c\le1$, $0\le\alpha_p\le1$ である.

注意:$\alpha_c$, $\alpha_p$ の $\alpha$ は Coulomb 積分の $\alpha$ ではない

Harrison の記法では共有結合度・イオン結合度に $\alpha$ という文字を使う.本章の Coulomb 積分 $\alpha_A$, $\alpha_B$ とはまったく無関係である.添字が元素名(A, B)なら Coulomb 積分,添字が c(covalent)または p(polar)なら結合性の指標,と読み分けてほしい.混乱を避けたければ,共有結合度を $f_c$,イオン結合度を $f_i$ と書き換えて読んでもよい.

式\eqref{eq:11-pythagoras} は,$\alpha_c$ と $\alpha_p$ が単位円上の点の座標であることを意味する.$\theta$ を $\tan\theta=V_3/V_2$ で定義すれば $\alpha_c=\cos\theta$, $\alpha_p=\sin\theta$ である.すなわち共有結合とイオン結合は排他的な二者択一ではなく,一本の角度パラメータでつながった連続体である.

(a) 共有結合エネルギー V₂=6.0 eV を底辺,極性エネルギー V₃ を垂直な辺とする直角三角形.HF(V₃=1.91 eV,斜辺 6.30 eV)と LiF(V₃=6.02 eV,斜辺 8.50 eV)を比べる.(b) 共有結合度 α_c と イオン結合度 α_p を単位円の第 1 象限に表したもの.HF は (0.953, 0.303),LiF は (0.706, 0.708),H₂ は (1, 0).
図11.6 (a) 共有結合エネルギー $V_2$ と極性エネルギー $V_3$ を直交する二辺とする直角三角形.斜辺の長さがギャップの半分 $\Delta\varepsilon/2=\sqrt{V_2^2+V_3^2}$ を与える.図では $V_2=6.0\ \mathrm{eV}$ を共通にとり,HF と LiF を比べた.(b) 同じ情報を単位円上に写したもの.$\alpha_c=\cos\theta$, $\alpha_p=\sin\theta$ であり,$\theta$ が 0 に近いほど共有結合的,$90^\circ$ に近いほどイオン結合的である.

11.8.4 係数はどうなるか — 電荷移動の正体

$\alpha_A\gt\alpha_B$(すなわち B のほうが準位が深く,電気陰性度が高い)とする.このとき $V_3=(\alpha_A-\alpha_B)/2$ である.式\eqref{eq:11-lin1} に $S=0$,$\varepsilon=\varepsilon_{+}$ を代入すると

$$ (\alpha_A-\varepsilon_{+})c_A+\beta c_B=0 \;\Longrightarrow\; \frac{c_B}{c_A}=-\frac{\alpha_A-\varepsilon_{+}}{\beta}=\frac{\varepsilon_{+}-\alpha_A}{\beta} . $$

ここで $W\equiv\sqrt{V_2^2+V_3^2}$ と書くと,$\varepsilon_{+}-\alpha_A=\bar{\alpha}-W-\alpha_A=-V_3-W$ である($\bar{\alpha}-\alpha_A=(\alpha_B-\alpha_A)/2=-V_3$ を使った).$\beta=-V_2$ だから

$$ \frac{c_B}{c_A}=\frac{-V_3-W}{-V_2}=\frac{V_3+W}{V_2}\;\gt\;1 . $$

両辺を 2 乗し,$V_2^2=W^2-V_3^2=(W-V_3)(W+V_3)$ を使うと

$$ \frac{c_B^2}{c_A^2}=\frac{(V_3+W)^2}{(W-V_3)(W+V_3)}=\frac{W+V_3}{W-V_3}. $$

$S=0$ での規格化条件 $c_A^2+c_B^2=1$ と組み合わせれば

$$ \begin{equation} c_A=\sqrt{\frac{1-\alpha_p}{2}},\qquad c_B=\sqrt{\frac{1+\alpha_p}{2}}\qquad(\text{結合性軌道 }\Psi_b) \label{eq:11-hetero-coeff} \end{equation} $$

を得る($V_3/W=\alpha_p$ を使った).反結合性軌道はこれと直交するので $c_A=\sqrt{(1+\alpha_p)/2}$, $c_B=-\sqrt{(1-\alpha_p)/2}$ である.

物理的意味:$\alpha_p$ は移動した電子の個数である

結合性軌道に 2 個の電子が入っているとき,原子 B の上に見出される電子数は $2c_B^2=1+\alpha_p$,原子 A の上では $2c_A^2=1-\alpha_p$ である.もともとそれぞれ 1 個ずつ電子をもっていたのだから,差し引き $\alpha_p$ 個の電子が A から B へ移動したことになる.イオン結合度 $\alpha_p$ は,まさに「電子が何個 B 側に偏ったか」という具体的な量なのである.

$\alpha_p=0$(等核)なら $c_A=c_B=1/\sqrt{2}$ で電子は完全に等分され,電荷移動はゼロ.$\alpha_p=1$ なら $c_A=0$, $c_B=1$ で,電子は完全に B に移る.この極限が次節の主題である.

異核二原子分子(HF を模した例:V₂ = 6.0 eV, V₃ = 1.91 eV)αA = −13.60 eV (H 1s)αB = −17.42 eV (F 2p)平均 α = −15.51 eV+6.30 eV−6.30 eVε− = −9.21 eV:Ψa = 0.807 φA − 0.590 φB(H 側に偏る)ε+ = −21.81 eV:Ψb = 0.590 φA + 0.807 φB(F 側に偏る)結合性軌道の電子分布:A に 2cA² = 0.697 個,B に 2cB² = 1.303 個→ 正味 αp = 0.303 個の電子が A から B へ移る準位の深いほうの原子(電気陰性度の高い B)に結合電子が引き寄せられる
図11.7 異核二原子分子のエネルギー準位図.結合性軌道は準位の深い原子 B(ここでは F)に,反結合性軌道は浅い原子 A(H)に偏る.分裂の大きさは原子準位の平均 $\bar{\alpha}$ を中心に $\pm\sqrt{V_2^2+V_3^2}$ である.$\alpha_A$ と $\alpha_B$ の差が広がるほど,結合性軌道は $\alpha_B$ に,反結合性軌道は $\alpha_A$ に近づき,それぞれ純粋な原子軌道に戻っていく.

11.8.5 具体例で比べる

原子準位 $\alpha$ の目安として,各原子の第一イオン化エネルギー $I$ を用いて $\alpha\simeq-I$ とする(Koopmans の定理的な見積もり).共有結合エネルギー $V_2$ は本来は結合ごとに違うが,ここでは極性の効果だけを取り出すために $V_2=6.0\ \mathrm{eV}$ に固定して比較する.

表11.1 いくつかの二原子分子における共有結合度とイオン結合度の見積もり.$\alpha\simeq-I$($I$ は第一イオン化エネルギー),$V_2=6.0\ \mathrm{eV}$ 固定という粗い模型である.
分子$\alpha_A$ [eV]$\alpha_B$ [eV]$V_3$ [eV]$\Delta\varepsilon$ [eV]共有結合度 $\alpha_c$イオン結合度 $\alpha_p$
H$_2$$-13.60$$-13.60$0.0012.001.0000.000
HF$-13.60$$-17.42$1.9112.590.9530.303
NaCl$-5.14$$-12.97$3.9214.330.8380.547
LiF$-5.39$$-17.42$6.0217.000.7060.708

N$_2$, O$_2$, F$_2$ はいずれも等核なので $V_3=0$,$\alpha_c=1$,$\alpha_p=0$ である.すなわち100 %共有結合.H$_2$ も同様である.一方 HF では 3 割ほど,LiF では 7 割ほどイオン結合性を帯びる.

例題11.6 HF と LiF の電荷移動を実験値と比べる

表11.1 の $\alpha_p$ から予想される電荷移動量を,実測の双極子モーメントから求めた値と比較せよ.HF は $\mu=1.826\ \mathrm{D}$, 結合長 $d=0.917\ \text{Å}$,LiF は $\mu=6.33\ \mathrm{D}$, $d=1.564\ \text{Å}$ である($1\ \mathrm{D}=3.336\times10^{-30}\ \mathrm{C\,m}$).

解答:点電荷 $\pm q e_0$ が距離 $d$ 離れているとすると $\mu=q\,e_0\,d$ だから,実効電荷は $q=\mu/(e_0 d)$ である.HF について

$$ q=\frac{1.826\times3.336\times10^{-30}}{1.602\times10^{-19}\times0.917\times10^{-10}} =\frac{6.091\times10^{-30}}{1.469\times10^{-29}}=0.41 . $$

LiF について

$$ q=\frac{6.33\times3.336\times10^{-30}}{1.602\times10^{-19}\times1.564\times10^{-10}} =\frac{2.112\times10^{-29}}{2.506\times10^{-29}}=0.84 . $$

模型の予測は HF が 0.30,LiF が 0.71 であり,実験値 0.41,0.84 に対してやや小さめだが,大小関係と桁は正しく再現している.$V_2$ を全分子共通の 6.0 eV に固定した粗い仮定であること,原子準位を単純にイオン化エネルギーで代用したこと,双極子モーメントには結合電子以外の寄与(孤立電子対の分極など)も含まれることを考えれば,これは十分に良い一致である.

考察:「イオン結合度」は連続的な量であって,0 か 1 かではない.LiF は典型的なイオン結晶を作る化合物だが,それでも分子として見れば 3 割は共有結合的である.この定量化の枠組みは第13章・第14章でイオン結晶を扱うときの土台になる.

11.9 100 %イオン結合は存在しない

11.9.1 電子を全部 B に置いてみる

11.1 節で提起した問いに戻ろう.「電子の出身地が分かってしまう」とは,数式のうえでは何を意味するか.それは係数の一方がゼロになるということである.$c_A=0$, $c_B=1$ とすれば,波動関数は $\Psi=\phi_B$,つまり電子は完全に原子 B に属している.

このときのエネルギーを計算する.式\eqref{eq:11-energy-ratio} に $c_A=0$, $c_B=1$ を代入すると

$$ \begin{equation} \varepsilon=\frac{0^2\cdot\alpha_A+1^2\cdot\alpha_B+2\cdot0\cdot1\cdot\beta}{0^2+1^2+2\cdot0\cdot1\cdot S}=\frac{\alpha_B}{1}=\alpha_B . \label{eq:11-ionic-energy} \end{equation} $$

電子 2 個を入れれば全エネルギーは $E=2\alpha_B$ である.

ここで等核の場合($\alpha_A=\alpha_B=\alpha$)を考えてみよう.$E=2\alpha$ となる.これは結合前(原子 A と原子 B にそれぞれ電子が 1 個ずついた状態)の全エネルギー $\alpha_A+\alpha_B=2\alpha$ とまったく同じである.1 eV も安定化していない.共有結合はまったく形成されていない.

11.9.2 なぜ安定化しないのか — $\beta$ が効かないから

安定化しない理由は式\eqref{eq:11-energy-ratio} の分子を見れば一目瞭然である.共鳴積分 $\beta$ は $2c_Ac_B\beta$ という形でしか現れない.したがって

$$ c_A=0\quad\text{または}\quad c_B=0 \;\Longrightarrow\; 2c_Ac_B\beta=0 \;\Longrightarrow\; \beta\text{ の寄与が消える}. $$

共有結合のエネルギー利得はすべて $\beta$ から来るのだから,$\beta$ が効かなければ結合しないのは当然である.

定理:$\beta=0$ なら準位はまったく動かない

共鳴積分が厳密にゼロ($\beta=0$)の場合,永年方程式\eqref{eq:11-secular-expanded} は $S=0$ のもとで

$$ (\alpha_A-\varepsilon)(\alpha_B-\varepsilon)=0 $$

となり,解は $\varepsilon=\alpha_A$ と $\varepsilon=\alpha_B$,すなわちもとの原子準位そのものである.対応する固有ベクトルは $(c_A,c_B)=(1,0)$ と $(0,1)$,つまり純粋な原子軌道 $\phi_A$, $\phi_B$ である.分子軌道は一つもできず,結合性軌道も反結合性軌道も存在しない.エネルギー利得はゼロである.

$\beta=0$ という条件は,Harrison の言葉では $V_2=0$,したがって $\alpha_c=0$, $\alpha_p=1$ である.すなわち100 %イオン結合の極限とは,$\beta=0$ の極限にほかならない.しかし $\beta=\braket{\phi_A|\Ham|\phi_B}$ が厳密にゼロになるのは,二つの軌道の重なりが完全に消えるとき,すなわち原子間距離が無限大のときだけである.原子が有限の距離に並んでいる限り $\beta\ne0$ であり,必ず $\alpha_c\gt0$ となる.

$$ \alpha_p=1\ (\text{100 \%イオン結合})\iff V_2=\abs{\beta}=0 \iff \text{原子が無限に離れている} $$

11.9.3 100 %共有結合はどこで実現するか

逆の極限 $\alpha_p=0$ は $V_3=\abs{\alpha_A-\alpha_B}/2=0$,すなわち $\alpha_A=\alpha_B$ を意味する.二つの原子の準位が厳密に等しくなるのは,対称性によって二つの原子が完全に等価であるとき,つまり等核二原子分子(H$_2$, N$_2$, O$_2$, F$_2$, Cl$_2$ …)に限られる.異なる元素であれば,たとえ電気陰性度が近くても $\alpha_A$ と $\alpha_B$ が厳密に一致することはない.

物理的意味:かくれんぼが上手なほど安定する

ここまでの議論を一言でまとめると,こうなる.

電子が「どちらの原子のものか分からない」状態にあるとき,系はもっとも安定化する.

等核二原子分子では $c_A=c_B$ で,電子はまったく等しく二つの原子に分配される.出身地の情報はゼロであり,安定化は最大になる.異核分子では $c_A\ne c_B$ となり,「どちらかといえば B のもの」という情報が生じる.その分だけ共有結合的な安定化は目減りする.極限まで進んで $c_A=0$ になると,電子は完全に B のものと決まり,共有結合による安定化はゼロになる.

電子が区別されない,居場所が確定しないという,古典的には「情報が足りない」としか見えない状況が,実際にはエネルギーを下げる.不思議な話である.粒子は“かくれんぼ”が大好きらしい——本章の結論は,この一言に尽きる.

100 %共有結合AB同一元素の結合でのみ実現cA = cB(電子は等分)αc = 1, αp = 0共有結合とイオン結合の共存AB現実のほとんどの結合cA ≠ cB(B 側に偏る)0 < αp < 1100 %イオン結合A(空)B準位はまったく動かない(β = 0)こんな結合は存在しないcA = 0 → E = 2αB(安定化ゼロ)αc = 0, αp = 1
図11.8 三つの極限.左:等核二原子分子でのみ実現する 100 %共有結合.中央:現実のほとんどの化学結合.右:100 %イオン結合の描像.右では $\beta=0$ のため準位がまったく分裂せず,原子準位のまま留まる.エネルギー利得はゼロであり,この意味で「100 %イオン結合」は結合と呼べる状態ではない.原子が有限距離にある限り $\beta\ne0$ なので,この極限は原理的に実現しない.

注意:「イオン結晶は安定ではないのか」という疑問について

NaCl のようなイオン結晶は明らかに安定に存在する.それは本節の結論と矛盾しないだろうか.矛盾しない.本章の 1 電子模型には,電子間の Coulomb 相互作用と,生じたイオンどうしの静電引力が含まれていないからである.イオン結晶を安定化させる主要因は,Na$^+$ と Cl$^-$ が交互に並ぶことで得られる静電エネルギー(Madelung エネルギー)であり,これは第13章で本格的に扱う.

本節が主張しているのは,あくまで「$\beta$ に由来する共有結合的な安定化」が $\alpha_p\to1$ でゼロになる,ということである.現実の物質では共有結合的な寄与と静電的な寄与が同時に働いており,そのバランスが結晶構造を決める.第14章ではイオン結晶の電子状態を,まさに本章の $\alpha$ と $\beta$ の言葉で記述する.

11.10 まとめと演習

11.10.1 この章のまとめ

本章では,原子軌道 2 個という最小の設定から出発して,共有結合の理論を最後まで手で解ききった.得られた結果を整理しておく.

  1. 共有結合の起源は粒子の同等性にある.電子がどちらの原子から来たか区別できないからこそ,電子は両方の核の引力を同時に受け取れる.「出身地が確定する」とエネルギー利得は消える.
  2. 三つの積分.重なり積分 $S=\braket{\phi_A|\phi_B}$(幾何),Coulomb 積分 $\alpha=\braket{\phi_A|\Ham|\phi_A}$(原子の素性),共鳴積分 $\beta=\braket{\phi_A|\Ham|\phi_B}$(原子間の結びつき).一般に $0\le S\le1$,$\alpha\lt0$,$\beta\lt0$ である.
  3. LCAO とエネルギー期待値.$\Psi=c_A\phi_A+c_B\phi_B$ に対し $\braket{\Psi|\Ham|\Psi}=c_A^2\alpha_A+c_B^2\alpha_B+2c_Ac_B\beta$, $\braket{\Psi|\Psi}=c_A^2+c_B^2+2c_Ac_BS$.
  4. Lagrange の未定乗数法.規格化条件のもとで最小化すると一般化固有値問題\eqref{eq:11-matrix} が得られ,乗数 $\varepsilon$ は軌道エネルギーそのものになる.
  5. 永年方程式.自明でない解をもつ条件は行列式がゼロ,すなわち $(\alpha_A-\varepsilon)(\alpha_B-\varepsilon)-(\beta-\varepsilon S)^2=0$.これは $\varepsilon$ の 2 次方程式であり,原子軌道 2 個から分子軌道が 2 個できる.
  6. 等核二原子分子.$\varepsilon_{+}=\dfrac{\alpha+\beta}{1+S}$(結合性,$\Psi_b=\dfrac{\phi_A+\phi_B}{\sqrt{2(1+S)}}$),$\varepsilon_{-}=\dfrac{\alpha-\beta}{1-S}$(反結合性,$\Psi_a=\dfrac{\phi_A-\phi_B}{\sqrt{2(1-S)}}$).2 電子の全エネルギーは $E=2\varepsilon_{+}$.
  7. 非対称性.反結合性軌道の上昇幅と結合性軌道の下降幅の比は $\dfrac{1+S}{1-S}\gt1$.$S\gt0$ である限り上がるほうが必ず大きい.これが He$_2$ の存在しない理由であり,閉殻どうしの反発の起源でもある.
  8. ギャップ.$\Delta\varepsilon=\dfrac{2(S\alpha-\beta)}{1-S^2}$,$S\to0$ で $\Delta\varepsilon\to2\abs{\beta}$.$\abs{\beta}$ が大きい(原子間距離が近く軌道の重なりが大きい)ほどギャップが大きい.深い内殻準位では $S$ も $\beta$ も指数関数的に小さく(C の 1s では $S\simeq7\times10^{-6}$),内殻電子は結合に寄与しない.
  9. 異核二原子分子.$S=0$ とすると $\varepsilon_{\pm}=\bar{\alpha}\mp\sqrt{V_2^2+V_3^2}$.ここで $V_2=\abs{\beta}$(共有結合エネルギー),$V_3=\abs{\alpha_A-\alpha_B}/2$(極性エネルギー).ギャップは $\Delta\varepsilon=2\sqrt{V_2^2+V_3^2}$,共有結合度 $\alpha_c=V_2/\sqrt{V_2^2+V_3^2}$,イオン結合度 $\alpha_p=V_3/\sqrt{V_2^2+V_3^2}$,$\alpha_c^2+\alpha_p^2=1$(Harrison の定義).$\alpha_p$ は移動した電子数そのものである.
  10. 両極限.100 %共有結合($\alpha_p=0$)は等核二原子分子でのみ実現する.100 %イオン結合($\alpha_c=0$)は $\beta=0$ を要求するので原理的に存在しない.

物理的意味:本章が次章以降にどうつながるか

11.10.2 演習問題

演習11.1 非対称性の証明と評価

(1) 等核二原子分子について,$\varepsilon_{-}-\alpha$ と $\alpha-\varepsilon_{+}$ をそれぞれ $D=\beta-\alpha S$ を使って表し,両者の比が $\alpha$, $\beta$ に依らず $(1+S)/(1-S)$ になることを示せ.

(2) $S=0.1,\;0.3,\;0.5,\;0.753$ のそれぞれについてこの比を計算し,表にせよ.

(3) (2) の結果を踏まえ,「反結合性軌道が電子で埋まったときの不安定化は,重なりが大きい結合ほど深刻になる」と言えるかどうかを論ぜよ.

ヒント:(1) は式\eqref{eq:11-shift-plus}, \eqref{eq:11-shift-minus} をそのまま使えばよい.$D$ が約分で消えるのがポイントである.(3) では図11.4 の F$_2$($\pi^{*}$ が満席で結合次数 1,解離エネルギーは 1.65 eV しかない)を具体例として引き,さらに He$_2$(例題11.4)の $\Delta E=-4SD/(1-S^2)$ が $S$ の増加関数であることと結びつけて議論するとよい.

演習11.2 異核二原子分子を最後まで解く

$S=0$,$\alpha_A=-8.0\ \mathrm{eV}$,$\alpha_B=-14.0\ \mathrm{eV}$,$\beta=-4.0\ \mathrm{eV}$ の異核二原子分子について,次を求めよ.

(1) $V_2$, $V_3$,および $\varepsilon_{+}$, $\varepsilon_{-}$.

(2) 共有結合度 $\alpha_c$,イオン結合度 $\alpha_p$,ギャップ $\Delta\varepsilon$.$\alpha_c^2+\alpha_p^2=1$ を検算せよ.

(3) 結合性軌道の係数 $c_A$, $c_B$ を式\eqref{eq:11-hetero-coeff} から求め,さらに $\varepsilon_{+}$ を式\eqref{eq:11-lin1} に直接代入しても同じ比が得られることを確かめよ.

(4) 2 個の電子を結合性軌道に入れたときの全エネルギーを求め,結合前(A に 1 個,B に 1 個)の $\alpha_A+\alpha_B$ と比較せよ.何 eV 安定化するか.また電子は何個 A から B へ移るか.

ヒント:(1) $V_2=\abs{\beta}=4.0$,$V_3=\abs{-8.0-(-14.0)}/2=3.0$.$\sqrt{V_2^2+V_3^2}=\sqrt{16+9}=5$ ときれいな数になるよう作ってある.(3) $S=0$ なので規格化条件は $c_A^2+c_B^2=1$ と単純である.(4) 移動電子数は $2c_B^2-1=\alpha_p$ で与えられる.

演習11.3 He$_2^{+}$ は存在するか

He$_2$ は存在しないが,電子を 1 個抜いたイオン He$_2^{+}$ は実験的に観測されており,解離エネルギーは約 2.4 eV である.

(1) He$_2^{+}$ の電子配置(結合性軌道と反結合性軌道に何個ずつ入るか)を書き,結合次数を求めよ.

(2) 本章の模型で全エネルギーを $\varepsilon_{\pm}$ を使って表し,結合前(He 原子 1 個と He$^{+}$ 1 個)との差 $\Delta E$ を $D=\beta-\alpha S$ と $S$ で表せ.

(3) $\Delta E\lt0$(安定)となる条件を $S$ について求め,He$_2$ の場合(例題11.4)と何が違うのかを説明せよ.

ヒント:(1) 3 電子系である.(2) $E=2\varepsilon_{+}+\varepsilon_{-}$,結合前は $3\alpha$.式\eqref{eq:11-shift-plus}, \eqref{eq:11-shift-minus} を使うと $\Delta E=D\left(\dfrac{2}{1+S}-\dfrac{1}{1-S}\right)$ となる.(3) 括弧の中は $\dfrac{2(1-S)-(1+S)}{1-S^2}=\dfrac{1-3S}{1-S^2}$ と整理できる.$D\lt0$ であることに注意して符号を調べれば,$S$ の大小で結論が変わることが分かる.

演習11.4 内殻軌道はどれくらい重ならないか

窒素分子 N$_2$(結合長 $d=1.098\ \text{Å}$)について,次を計算せよ.$a_0=0.529\ \text{Å}$ とする.

(1) N の 1s 軌道の有効核電荷を Slater 則から求めよ(1s に対しては同じ 1s のもう 1 個の電子が 0.30 だけ遮蔽する).

(2) $\phi_{1s}\propto e^{-Z_{\mathrm{eff}}r/a_0}$ とみなし,式\eqref{eq:11-overlap-1s} の $R/a_0$ を $Z_{\mathrm{eff}}R/a_0$ に置き換えて 1s どうしの重なり積分を求めよ.

(3) (2) の値と H$_2$ の $S=0.753$ を比べ,図11.4 の分子軌道ダイアグラムから 1s 由来の準位を省いてよい理由を説明せよ.

(4) 第一原理計算で擬ポテンシャルを使うと扱う電子数がどれだけ減るか,N 原子(全電子 7 個,価電子 5 個)を例に見積もれ.計算量が電子数のおよそ 3 乗で増えるとすると,計算時間はどう変わるか.

ヒント:(1) $Z_{\mathrm{eff}}=7-0.30=6.70$.(2) $x=Z_{\mathrm{eff}}d/a_0$ を先に求めること.$e^{-x}$ が非常に小さくなるので,常用対数を経由するか関数電卓で丁寧に扱う.11.7.3 節の炭素の例($S=6.8\times10^{-6}$)が計算手順の見本になる.

演習11.5 CO 分子の共有結合度

一酸化炭素 CO について,$\alpha_{\mathrm{C}}=-11.26\ \mathrm{eV}$,$\alpha_{\mathrm{O}}=-13.62\ \mathrm{eV}$(第一イオン化エネルギーの符号を反転したもの)とし,$V_2=6.0\ \mathrm{eV}$ と仮定する.

(1) $V_3$, $\alpha_c$, $\alpha_p$, $\Delta\varepsilon$ を求め,表11.1 に 1 行追加せよ.

(2) 結合性軌道における C 上と O 上の電子数を求め,どちらにどれだけ電子が偏るかを述べよ.

(3) CO の実測双極子モーメントは $0.110\ \mathrm{D}$ ときわめて小さく,しかも炭素側が負である.(2) の予想と食い違うが,この模型のどの仮定が破綻していると考えられるか.考察せよ.

ヒント:(1) $V_3=\abs{-11.26-(-13.62)}/2=1.18\ \mathrm{eV}$.(3) 本章の模型は各原子から軌道を 1 本ずつしか取っていない.CO には $\sigma$ 結合のほかに $\pi$ 結合が 2 本あり,さらに炭素側に大きく張り出した孤立電子対($5\sigma$ 軌道)がある.「$\sigma$ 系では O 側に,$\pi$ 系では逆向きに電子が偏り,加えて孤立電子対の寄与がある」という多成分の打ち消し合いを考えるとよい.1 軌道模型で何が言えて何が言えないかを見極めるのが本問の狙いである.

演習11.6 原子を 3 個に増やす(発展)

同じ原子が一直線に等間隔で 3 個並んだ系 A–A–A を考える.3 原子とも Coulomb 積分は $\alpha$,隣接原子間の共鳴積分は $\beta$,両端(1 と 3)の間の共鳴積分は距離が遠いので 0 とし,さらに $S=0$ と近似する.

(1) 永年方程式が $3\times3$ の行列式になることを示し,その行列式を書き下せ.

(2) 行列式を展開して $\varepsilon$ の 3 次方程式を作り,解が $\varepsilon=\alpha,\;\alpha\pm\sqrt{2}\,\beta$ の 3 つであることを確かめよ.

(3) 3 本の準位はどのように並ぶか.$\varepsilon=\alpha$ の準位は結合性か反結合性か,それとも別の性格をもつか.対応する固有ベクトルを求めて答えよ.

(4) 原子を $N$ 個に増やしたら準位は何本になるか.$N\to\infty$ で何が起こるか,定性的に述べよ.

ヒント:(1) 行列は $\begin{pmatrix}\alpha-\varepsilon & \beta & 0\\ \beta & \alpha-\varepsilon & \beta\\ 0 & \beta & \alpha-\varepsilon\end{pmatrix}$ である.(2) $x=\alpha-\varepsilon$ と置くと展開は $x^3-2\beta^2x=x\left(x^2-2\beta^2\right)$ ときれいになる.(3) $\varepsilon=\alpha$ に対応するベクトルは $(1,0,-1)/\sqrt{2}$.真ん中の原子の係数がゼロであることから性格を読み取る(非結合性軌道, nonbonding orbital と呼ぶ).(4) 準位は $N$ 本になり,幅 $4\abs{\beta}$ の帯に稠密に詰まっていく.第14章の予習である.

11.10.3 参考文献

  1. 原田 義也『量子化学(上巻)』裳華房(2007). 二原子分子の LCAO-MO 法と永年方程式の丁寧な導出がある.本章 11.2〜11.6 節に対応する.
  2. A. Szabo, N. S. Ostlund(大野公男・阪井健男・望月祐志 訳)『新しい量子化学 — 電子構造の理論入門(上)』東京大学出版会(1987). 原著 Modern Quantum Chemistry, Dover (1996). 一般化固有値問題 $\bm{F}\bm{C}=\bm{S}\bm{C}\bm{\varepsilon}$ と,重なり行列を用いた直交化(Löwdin 変換)について詳しい.
  3. W. A. Harrison, Electronic Structure and the Properties of Solids: The Physics of the Chemical Bond, Dover (1989). 11.8 節の $V_2$(共有結合エネルギー),$V_3$(極性エネルギー),共有結合度 $\alpha_c$,極性 $\alpha_p$ はすべて本書の定義による.分子から固体までを同じ枠組みで扱う姿勢は本書全体の手本である.
  4. P. A. Cox(魚崎浩平・松本 睦 訳)『固体の電子構造と化学』技報堂出版(1989). 原著 The Electronic Structure and Chemistry of Solids, Oxford University Press (1987). 二原子分子から固体のバンドへの橋渡しが明快である.第14章の予習に.
  5. シュライバー・アトキンス(田中勝久ほか 訳)『無機化学(上)』第 6 版, 東京化学同人(2016). 等核・異核二原子分子の分子軌道ダイアグラム(図11.4,図11.7 に対応)が豊富な実例とともに載っている.
  6. P. Atkins, J. de Paula, J. Keeler, Atkins' Physical Chemistry, 12th ed., Oxford University Press (2022). 変分法による永年方程式の導出,および結合次数と結合エネルギー・結合長の相関について.
  7. C. Kittel(宇野良清ほか 訳)『固体物理学入門(上)』第 8 版, 丸善(2005). 共有結合・イオン結合の記述と強束縛近似(tight-binding)は,本章の $\beta$ をそのまま固体に持ち込んだものである.
  8. E. Hückel, "Quantentheoretische Beiträge zum Benzolproblem", Z. Phys. 70, 204 (1931). $S=0$ と置いて永年方程式を解く「Hückel 法」の原論文.例題11.2 の枠組みの出発点である.
  9. R. Hoffmann, "How Chemistry and Physics Meet in the Solid State", Angew. Chem. Int. Ed. Engl. 26, 846 (1987). 化学者の分子軌道と物理学者のバンドが同じものであることを説いた名解説.本章と第14章をつなぐ読み物として推奨する.
  10. Y. Mochizuki et al., Phys. Rev. Materials 2, 125001 (2018). エピタキシャル歪みによってバンド幅(本章の $\abs{\beta}$ に対応する量)を制御し,金属–絶縁体転移を誘起できることを第一原理計算で示した研究.11.7.2 節で言及した.
  11. Y. Mochizuki et al., J. Phys. Chem. C 125, 7959 (2021). 結晶軌道ハミルトン占有数解析(COHP)および結合指標(COBI)を用いて,固体中の結合の共有結合性・イオン結合性を定量化した研究.本章の $\alpha_c$, $\alpha_p$ の現代的な実装例といえる.
  12. Q. Sun et al., "PySCF: the Python-based simulations of chemistry framework", WIREs Comput. Mol. Sci. 8, e1340 (2018). 付録B で使う計算環境.重なり行列や Fock 行列を直接取り出して,本章の議論を数値で確かめることができる.